各人の思惑
一目でバダックと互いに正体を認め合ったネイサンは、その斜め後ろで蒼い瞳を眇める銀髪の優美な貴公子に勘付いて、即座に動揺を押し殺した。
交流の少ない国ではあるが、留学前に、この国の重要人物のデータは一応頭に入れて来ていた。
現在のクリソプレーズ王国で、王族由来の銀髪を持つ王族の瞳ではない青年は、王妹を母に持つ宰相の一人息子の筈。今日ここへ来た目的を考えても、悪印象や余計な猜疑心を持たれて良い相手ではない。
それに、宰相公爵の息子という共通点のせいだけでは無いであろう「同類」の気配が彼からは色濃く感じられる。
ネイサンは前世で、個性の強烈な「仲間達」の中において最も常識人の仮面を被りこなしていた。腹黒系脳筋男やら天然系天才児やら直感系暴走野郎の間を調整し、奴らが「御主人様」に迷惑をかけ過ぎないよう調整し、何かと目を付けられがちな目立つ彼らと世間の間隔を調整し、一歩間違えば犯罪者集団になりかねない「犬達」が、「ただの社会的地位のある独身男性」でいられるよう根回ししていた。
そう。前世のネイサンは、今の第二王子執務室メンバーのモーリスと非常によく似た立ち位置だったのだ。
常識人の振る舞いと意識がキッチリ身に付いているからこそ、他の仲間以上に淡々と冷徹な判断を迷い無く下せるところもネイサンとモーリスは似ていた。
似ているとすれば、互いに行動は読みやすい。敵対しても想定外の脅威にはならないだろうが、面倒になることは確実だ。
元々敵対などする気は無いのだが、必要以上の警戒を持たれる猜疑心は、はっきり敵対されるよりも邪魔になるだろう。
下手な誤魔化しは得策ではない。ある程度の手の内を見せ、認めさせれば、立場上、腹の中を全公開しないことなど当然であると理解は得られる。
さて、何処まで何を公開しようか。
ネイサンが動揺を押し殺し、思考を巡らせ、次策の選択肢を頭に浮かべるまで三秒もかかっていない。
モーリスの方も、何故、接点など有り得る筈も無い者同士が、恰も「驚愕の再会」のような反応を示したのか不審を抱き、それを綺麗に隠して、第二王子執務室が「エリカが子爵令嬢を略取した本当の目的を隠すために」痛い腹を探られないよう、完璧な対応及び誠実な協力を指示している『ネイサン・フォルズ』が、王城の面会希望者待機室に訪れている現状を認識して、次の行動を決定するまでに三秒というところ。
二人は本当に、よく似ている。
「ネイサン・フォルズ殿ですね? 僕はモーリス・ヒューズと申します。こちらでお待ちと言うことは、何か困りごとでも?」
「ヒューズ公爵の御令息でしたか。お初にお目にかかります。ネイサン・フォルズです。カーネリアン王国フォルズ公爵家の三男です。少々専門の方に相談をと思いまして。相談内容については、この場ではご容赦を」
冷静でありつつ丁寧な態度のモーリスと、理知的かつ紳士的な態度のネイサン。二人の背後に、「高貴で上品だが爪と牙を隠した銀狐」と「見た目は優美で賢そうな猛禽」の幻影がチラつく。
その様子を「うわー」という目で黙って見物するバダックとジルベルト。
視界の端にチラリとその様子を見留め、前世で「仲間」だったバダックの隣にいる、目を疑うほどに異常な美しさを有した長身の騎士とバダックの距離感を認識して、ネイサンは身の内に爆発的に湧き起こった狂喜による高揚を、表面では隠し切る。
この場にハロルドが随行していなかったのは、ネイサンにとって幸いだった。ハロルドの変態的嗅覚であれば、ネイサンの感情の内なる爆発は嗅ぎ取られていた。
だが、この場に変態犬は居ない。ネイサンの内なる高揚は誰にもバレていない。
ネイサンは、バダックの前世を知っているから気がついた。
腹黒系脳筋男が、「御主人様」以外に、あの距離感を許す筈が無い。
ならば、あの、人類の想像の外側に存在するような美を体現した黒い軍服の騎士は、ネイサンにとっても前世から求め続けていた「御主人様」だ。
どうやら今度は男性に生まれたらしい。それも、実力、立場共に、かなり強そうである。あの髪と瞳の色で恐ろしく美しい若い騎士となれば、おそらく、クリソプレーズ王国の『剣聖』だ。
今度は、自分達を置いて逝く確率が低いだろう。
表面上には僅かも見せずに隠し切りながら、ネイサンの体内には細胞の一つ一つまで全身くまなく歓喜が巡る。
人間レベルの嗅覚のモーリスは、ネイサンが狂おしいまでの喜びを体内に巡らせていることには気付かないので、解明が必要と判断した疑問はバダックとネイサンの関係だけだった。
バダックもネイサンも、第二王子執務室としては、方向性が重ならなくとも重要度の高い人物である。
他国とはいえ公爵家の人間が、すぐに案内されず、長時間待つ覚悟の態勢で待機室に滞在しているということは、面会希望を出した相手は多忙かつ高い職位の者だろう。そんな相手に「相談が必要になっている」事態は看過できない。
第二王子執務室は、カーネリアン王国の子爵令嬢の件に於いて、「探られたら痛い腹」を持っているのだ。
優遇のし過ぎでも「何かを隠している」疑惑を持たれるだろうが、カーネリアン王国側の「子爵が宰相フォルズ公爵の愛人だった」という事情も合わせて考慮すれば、こちらが「完璧な対応をしよう」という姿勢を見せて、他の留学生より多少優遇することは不自然では無い。
何れにせよモーリスは、感じた疑問をそのままにしておくタイプでは無い。
第二王子アンドレアの右腕として、ネイサンを第二王子執務室へ案内すると判断を下すのは速かった。
「御相談であれば、第二王子執務室へご案内しますので、そちらでどうぞ。フォルズ殿は学院への留学生でしょう。現在休校中の学院の生徒会業務も、そちらで兼任しているんですよ。第二王子アンドレア殿下は生徒会会長、僕は副会長の役職を学院にて担っています。お話を聞いた上で、必要な専門家への紹介も可能です」
ネイサンの判断も速い。
朝から王城を訪れた目的を果たすにも、王族や宰相令息に話を通しておけるならば願ったり叶ったりであり、何よりも再会出来た「御主人様」の情報を得るためには、この一行と離れる訳にはいかない。
「それは、願ってもないことで大変に助かります。お願いしてもよろしいでしょうか」
殊勝な態度を完璧に取り繕うネイサン。
それに応じるモーリスも、「留学生を気遣う生徒会役員の先輩」として誠実な態度を完璧に取り繕っていた。
バダックとジルベルトの目線が交わる。濃紫とフローライトは語っていた。「こいつら似てるよな」、「ああ、似てる。同類だ」と。
それを見取るネイサンの内なる歓喜が更に濃度を増すが、表向きは「困りごとの解決に希望を見出した安堵で」口許が緩んだだけに見せた。
真意はともかく、今後取るべき行動についての思惑は一致したモーリスとネイサン。モーリスはジルベルトに目で合図を送る。このままバダックも第二王子執務室に連れて来るように、と。ジルベルトにモーリスの判断を否定する理由は無い。
斯くしてモーリスを先頭に、案内の体で伴われるネイサン、後ろに続くジルベルトに伴われたバダック、という一行が王城の奥へ向かう様子が、王城で働く者や出入りする者達に目撃されることになった。
目撃者達はバダックに向けたような不躾な視線をネイサンに突き付けることは無い。ネイサンはバダックと違い、服装も所作も見るからに高位の貴族青年だ。見知らぬ顔だからと、下位貴族や一般騎士が侮って良い相手ではないことが、バダックを侮った彼らにも判別出来た。
因みに、ネイサンの従者と護衛は待機室に残されている。他国の王族の執務室に、一貴族令息に過ぎない自分の供や護衛を連れて入るのは常識的では無いと判断したネイサンが、待機を命じたからだ。
その、若くとも真っ当な判断と、初めて訪れた他国にて護るべき主から離れる命令を、ずっと年上の従者や護衛に一言の文句も言わせず従わせ、引き下がらせたネイサンへの評価は高くなる。
従者も護衛も、ただ「命令だから言う通りにした」のではなく、日頃から主の判断を信頼しているが故に黙して引き下がったのだと見て取れたからだ。
尤も、「流石カーネリアン王国の宰相公爵の優秀と名高い息子」と感想を抱いたのはモーリスで、ジルベルトの内心は「中身が御堂なら、この世界で王族に近い、要職を賜る家の貴族として高等教育を受けたら、こうなるよなぁ」という納得だった。
ジルベルトは思う。
本当に、どういう環境に転生したかで、元の性格や能力に依る部分だけではどうにもならず、辿る人生は大きく分けられてしまう。
ネイサンや自分は、親が完全な敵に回る危険が産まれた時点では無く、親や生家の庇護下で一定の人生選択の自由もあったのだから、かなり運の良い転生先だったのだろう。
まあ、選べないから不運だ不幸だとは思わないが。
クリストファーは、コナー家に生まれたのだから選択の自由など最初から無かったが、前世より余程、環境が合っているようでイキイキしているし、ニコルは母親に売られそうになり、才能を発揮してしまえば自由を失い囲われる「下位貴族の令嬢」として生まれたが、本人は窮屈ささえ我慢すれば良いと、人生を楽しんでいる。
バダックへの同情心は、魔境と表現してしまえるフローライト王国の後宮を強かに生き抜いた彼への侮辱になるので、持たない。
だが、この世界で上位の身分の者達と行動を共にすることを望んだ場合、それに相応しい教養と所作が身に付いていることは必須となり、実力さえあれば免除、とはならないことは、今後彼を苦しめるだろうと憂慮する。
この世界で高い身分の血筋の人間は、ほぼ例外無く姿形が美しく、それに見合った妖精の加護を持っている。
土台がそうなのだから、あとは本人の努力次第で「世界トップレベルの実力者」までは、はっきり言って血筋にさえ恵まれれば誰でもなれるのだ。
虐待や後継争いの思惑などで、周囲が意図的に必要な教育を与えないこともあるだろうが、概ねは、高貴な血を引けば努力だけで高い実力が持ててしまう。
身分や血統に驕って努力を怠る者が少なくないだけで、この世界はそういう─高い身分の人間の子供は、必ず基本スペックが高く生まれる─世界だ。
そんな世界で、一般的に高貴な血筋と言われる貴族らからも崇められるような人間の側に在ることを望み、当人同士の了解だけでなく周囲から認められるには、実力の他に、ハイクラスな人物に侍るに相応しい教養と所作が厳しく見定められる。
身分制度のハッキリしたこの世界では、血統と身分至上主義な選民思想を持つ人間は多く、それは、行き過ぎなければ一種の常識ですらある思想だ。
実力主義を掲げていても、上流階級に仲間として入り込むことを認められる最低限のラインは上回る品格を見せられなければ、現実的に許される立場は「隣には並べない有象無象の駒」までだ。
仲間どころか従者にもなれない。
バダックは、ジルベルトと再会してしまった。既に忠誠も誓っている。
流石に、互いの生まれと立場では「友人」になることは無理だ。政治的にマズ過ぎる。友人ではなく堂々と側に居られる者として、バダックがジルベルトと対等な「仲間」という立ち位置を望むことは無くとも、個別認識される「従者」などの立場を目指したいとは考えているだろう。
だが、今のバダックのままでは、国王の信頼篤い外務大臣侯爵の令息で、強い権力を持つ王子の側近で、世界でも数少ない、国の最重要人物の一人である『剣聖』のジルベルトの側に侍ることを、本人が望んでジルベルトが許可したとしても、周囲が「ジルベルトの品位を落とす」という理由で認めない。
くだらない、面倒だと、前世の感覚が強ければ感じるだろうが、この世界の現実を私情で曲げるには、ジルベルトの持つ影響力が大きく、それは避けねばならない振る舞いだ。
ジルベルトは公人である。
今の彼の立場は、好まぬ人物を側に置かずにいられる程度には強いが、自分の一存だけで、周囲が確実に認めない人物を側に置くことは出来ないし、してはいけない。
現在は目的があるために、アンドレアの『協力者』であるバダックは、アンドレアの後ろ盾によって、排除されずにジルベルトに近づくことが出来ている。
だが、学院長の駆除にまつわる諸々が無事に終結した後は、「他の犬は要らない」と牙を剥き出すハロルドだけではなく、『剣聖』を神聖視する軍人達も、優秀で王族の覚え目出度く絶美の貴公子であるジルベルトを様々な思惑で注視する貴族達も、戦闘能力の高い美丈夫でしかないバダックが、ジルベルトに侍り、個別認識され、重用されることなど許さないだろう。
バダックが王の血を引いていることが明かされても、国の後ろ盾も無く、交流の無い遠方国の王族だ。それだけでは、クリソプレーズ王国におけるジルベルトの価値の高さに釣り合いが取れない。
一度、自分を見つけてしまった犬が、離れる未来など受け入れないことを、ジルベルトは嫌というほど理解している。
有象無象と同一視される駒の立場に甘んじる筈も無いことも、想像するまでもない。
この世界で17歳まで教育を施されず放置されていた、前世で身に付けた知識以外は「敵を殺して身を護る方法」しか知らないバダックを、この世界の一端の貴族令息にしか見えない男になるまで再教育するとなれば、容易なことではないだろう。
しかし、再会してしまったからには、ジルベルトにとってバダックは、「前世で拾った責任のある自分の犬」だ。
一度拾った犬を捨てるつもりは無い。捨てるくらいなら最初から拾わない。
前世で背筋の寒くなるような「約束」を申し出られ、今でも戦々恐々としているが、前世でも彼らを捨てて逃げたり、先に死ぬために自殺しようなどと考えたことは一度も無い。
だからこそ、「病死」という形で自然に先に人生を終えたことで「無事逃げ切れた」と安堵していたのだが、どうやら前世の自分は謀殺されたようだ。
その真相を調べて自分の犬が殺されたのならば、飼い主としては再会を喜んでいる犬から逃げたり捨てるような真似はしたくない。
再会した上での逃げや捨ては、彼らにとって死を意味するのだから。
バダックとネイサンを伴って戻った第二王子執務室の中、余計な口を差し挟むことなくアンドレアの護衛として控えながら、ジルベルトは思案していた。
手元に戻って来た飼い犬の、穏便で無難な飼い方を。
室内では、相変わらずバダックを視界に入れると面白くなさそうな顔をするハロルドを背に従えて、アンドレアがモーリスに紹介されたネイサンと貴族的な遣り取りをしている。
ネイサンはハロルドとは面識があるので挨拶を交わしていたが、バダックほどでは無いものの、どうやらハロルドはネイサンのことも気に入らないらしい。おそらく、敵の臭いはしなくとも、何か自分にとって嫌な気配の匂いでも嗅ぎ取っているのだろう。
ネイサンもジルベルトの前世の犬の一人だ。「御主人様の共有」が許せないタイプの犬であるハロルドにとっては、好ましい存在ではないことは明らかだ。
何故かネイサンと同席させられているバダックは、この場面に相応しい困惑と警戒の表情を浮かべている。
この場面では、そう感じなければおかしいから、その表情を選んで浮かべているのだが、困惑は別として警戒は実際に感じているので、ハロルドに感情を嗅ぎ取られても齟齬は生じない。
ネイサンの方も、いざ「相談内容」に言及されると、バダックへチラリと視線を滑らせてから、モーリスとアンドレアへ困惑の視線を向ける。
第二王子執務室のメンバーは、全員が生徒会執行部の役員や補佐であり、軍服の二人はアンドレアの専属護衛でもあることが紹介されていたが、バダックは名前すら紹介されていないので、ネイサンにとっては謎の人物であり、とても「専門家」への相談が必要な内容を話す場に同席を認める判断は下せない、というのが常識的見解だ。
ネイサン自身は、前世で仲間であり、今生で既に「御主人様」と再会して側に従っているバダックが敵対しないことは分かっていても、それを態度に表せば確実に不審を抱かれる。
この場で最も受け入れられ易い表情は「困惑」だ。「不信」や「怒り」でも不自然では無いが、ネイサンの目的や築いてきた人物像と合致しないので選択から外した。
という訳で、ネイサンは「困惑」を選択して表現している。
アンドレアやモーリスも、ネイサンが本気で心の底から困惑してなどいないことは分かり切っている。
短時間の遣り取りでも、ネイサンが貴族として非常に優秀で頭が回る人物だと、事前の調査書以上の評価を持ったのだから。
だが、そこは貴族的様式美というか慣習というか、観客が居るわけでも無いのに、互いに本当は困惑などしていないことが分かっていても、必要な過程とポーズなのだ。
モーリスが抱いていた疑問を質問としてぶつけるには、ネイサンが困惑を表現するという切っ掛けが必要で、疑いを晴らすために説明がしたければ、ネイサンはそれに乗ることを選ぶ必要がある。
うん。まどろっこしいな。流石貴族。
傍観者気分のジルベルトは、職務はキッチリ遂行しながらも暢気な感想を内心で洩らしていた。
ネイサンと違って、帰る所も恒久的な後ろ盾も無いバダックを捨て犬にせずに済む穏便で無難な方法を思案していたが、「穏便」や「無難」が己の周辺にまるで見当たらないことに気づいて思案に疲れて来たのだ。
ジルベルトが傍観する先では、モーリスにバダックを見た時の反応を指摘され、バダックとの接点を訊ねられたネイサンが、シレッと嘘ではない回答をしている。
「ずっと昔から、この世界では会ったことの無い人物が、夢のようなものでしょうか。瞼を閉じると幾度も姿を現し、懐かしくも感じられていたのです。とても不思議なことですが、まさか、実在していて、相見えることになるなんて、驚きました。荒唐無稽な話であると私自身でも思いますし、信じてもらえないかもしれませんが。初めて会う人物が旧知の友のように感じられて、驚愕により表情を崩してしまいました。己の未熟さを恥ずかしく思います」
やや困ったように、少しばかり気まずげに恥じ入るように、言葉を選んで語るネイサンは一言も嘘を口にしていない。
よって、ハロルドもネイサンがアンドレア達を騙す意思が無いと判断してハンドサインを送った。
弁護士になってなければ口先と法知識を活かして詐欺師になっていた、と笑っていた前世の彼をジルベルトは思い出し、そっと記憶に蓋をした。
今生で犯罪者を選ぶ必要の無い人間に転生して良かったんだろうな、と、ネイサン本人のためと言うより、この世界の人々の安寧のために思ってしまったのだ。
この世界の法整備の厳格さは、前世より「使いようによっての危険度」が高まる国がほとんどだ。法を自在に利用する人間の遣り様によっては、単に戦闘能力の高い殺し屋などより、余程危険な攻撃力を発揮できることだろう。
ネイサンが、比較的ヌルい立場に転生していて良かった。
ジルベルトが気を取り直して眺める先では、バダックの方も、ネイサンの言葉に乗って、嘘と断定しづらくなる彼の「不幸な過去」で彩った話を披露している。
「俺は、何度も死を覚悟しなければならない状況に陥りました。絶望も、何度もしかけました。死にかけて意識を失う度に、頭の中で俺に『諦めるのか』と叱咤する男がいて、それが、目が合った瞬間に、この男だと気が付き、驚愕しました。実際には完全に初対面です」
バダックが、将軍の娘である寵姫の奴隷となってフローライト王国の後宮から出るようになってからも、許された行動範囲は王城の一部のみであったことは、既に裏も取れている。
ネイサンは行動の制限をされる人生は送っていないが、カーネリアン王国とフローライト王国に国交は無く、フォルズ公爵家としても交流は無い。他国へ旅行に出たことはあるようだが、調査の限りでは周辺の友好国の王都か観光地に家族で訪れたことがある程度。
国を出て、ネイサンが自分で計画して自由に行動しているのは、クリソプレーズ王国へ留学してきた今回が初めてだ。
それに、バダックは17歳でネイサンは16歳と両名とも年若い。国同士や親同士の接点も無い二人が、人知れず何かを共謀出来るほど密接に関係を築いていたとは考え難かった。
となれば、どちらからも嘘や騙そうという意思を、嗅ぎ取ることも読み取ることも出来なかったのだから、双方の話を受け入れて、「不思議なこともあるものだ」と納得を示した形で収めるしかない。
バダックはアンドレアの専属護衛であるジルベルトに忠誠まで誓った『協力者』であり、ネイサンにも当方への敵対意思は無いことが、今日の訪城目的からもハッキリしている。
子爵令嬢の件で隠し事のある第二王子執務室にとっては、ネイサンに「貸し」を作れる今回の「相談」は、渡りに船だった。
現時点でネイサンは、こちらの対応の完璧さを認め、カーネリアン王国側の対応を見直してカーネリアン王国側に警戒を強め、「相談」と言う名の根回しに訪れたのだ。
自分達より年少の、王族でもない一令息が、そこまで頭を回して自国の上層部を憂慮し、これほど早い対応に動くとは思っていなかったアンドレアは、爽やか王子様スマイルの下で驚嘆し感心していた。
対応も早いが、必要な場面を見極めて、己の切り札を出し惜しみせずに初手から切って来た勝負勘も素晴らしい。
カーネリアン王国よりも「大人」として扱われる年齢が高く設定されている現代のクリソプレーズ王国で、16歳のネイサンの「相談」の信頼性を高め、「相談相手」に彼の真剣さを理解させるためには何が必要かを、ネイサンはよく分かっている。
この有能な若者を、我が国に取り込むのは難しいだろうか。
アンドレアは、ネイサンから確認のためにと渡された、カーネリアン王国の本当の重鎮らがネイサンの身分と言動を保証する、人物証明書を眺めて思う。
調査書でも、ネイサンが自国に於いて、高位の文官らと親しく交流があることは記されていたが、ここまで中枢に食い込める人物達に「人物証明書」まで持たされるほどに認められているとまでは、想像していなかった。
ただの「紹介状」ならともかく、身分と責任のある者が、「人物証明書」など簡単に書きはしない。それも、目の届かない異国へ出立する人間に対してなど、相当の信用と、最悪の場合は心中になっても構わないという覚悟が無ければ、書けないものだ。
考えの至らない愚か者であれば書くかもしれないが、並ぶ名前を見れば、国有の諜報員からの全報告書に目を通す権限を持つアンドレアだからこそ、「彼ら」にここまで見込まれているネイサンを、軽視など出来ない。
ネイサンに人物証明書を持たせた「高位の文官」達は、表向きは「それなりの爵位と職位を持つ社会的地位の高い人物」達に見える。
しかし、その実態は、カーネリアン王国の暗部の予算と人事を預かっていると見られる事務官の長(=王宮近衛隊付き筆頭事務官)だったり、外国人犯罪者の出身国と交渉する専門部署のトップ(=外交部第四渉外事務局長)だったり、隠蔽された国内権力者の犯罪を調査する分室の主任(=カーネリアン王国歴史編纂研究室主任)だったりするのだ。
とんでもないラインナップに虚ろになりそうな目を、王族の矜持で外面用の輝く王子様仕様に保つアンドレアである。
軽視出来ない、というレベルではなく、ネイサンは、いずれ国を預かる位置に立つ者として、絶対に敵に回られてはならない相手だ。
こんなモノを引っ提げて交渉のテーブルに着く人物が、未だ16歳の年下とは恐れ入る。
ふと、バダックを完全に堕として『協力者』に取り込むことに成功した、最も信頼する側近の一人であるジルベルトにアンドレアは視線を向ける。
アンドレアが『ネイサン・フォルズ』を我が国に欲しいと望んだら、ジルベルトは叶えてくれるだろうか。と、無茶苦茶な願望でしかない思いが、胸中を過ぎった。
流石に、頼り過ぎだな。
いつも通り、仕事用の静かな微笑を湛えて護衛の任務に当たる自分の騎士をクリソプレーズの瞳に映し、アンドレアは即座に浮かんだ思いを打ち消した。
打ち消さなくとも、その内勝手に望みが叶うことなど、この時のアンドレアには思いもよらなかった。