遭遇
書き上げた複数の書簡を全て本国へ最速で送る手配を終えて、ネイサンはホテルの部屋の机の前で眉間を揉む。
徹夜作業となったので、既に空は白んでいる。
重い溜息を吐きつつ立ち上がって浴室へ向かうネイサンは、本日の今後の行動予定を頭の中で数パターン組み上げて行く。
前から準備をしていた予定で動く訳ではないのだから、こちらの希望通りに物事が進むばかりでは無いと予想される。希望が通った場合と通らなかった場合で、どう事が動いても出来得る限りの最善を行えるよう、先に幾筋もの予測を立てて考えておかねばならない。
敵国ではなくとも友好国でもなく、外交では帝国を自称する国を共に包囲する同盟国を最も重要視するクリソプレーズ王国とは、これまでカーネリアン王国民は国家としての交流もあまり無かった。
ミレット商会やニコット商会の商品がクリソプレーズ王国外でも評判を呼び、近年は国家としての交流が然程持たれていない諸外国からも観光客が多数訪れる国となっているが、ネイサンにとっては、コネも拠点も大した情報も持てていない、初めて来る国だ。
ポロック子爵令嬢の件への対応を見れば、クリソプレーズ王国には、高位貴族や国軍を動かせる立場に相当な切れ者が、そしてその「切れ者」の指示を的確に遂行する有能な複数の部下が居るだろうとネイサンは考えた。
あまりにも隙の無い完璧で迅速な対応は、指示を出す者の頭だけが良く回っても実現されるものではないし、必要になる仕事の分野が畑違いに多岐に渡ることを考えれば、動いた配下が一人や二人とは思えない。
こちらも、下手な動きをする訳にはいかない。
シャワーで幾分スッキリした頭を振って、ネイサンは危機感を強める。
父親の失態に巻き込まれたネイサンの現在の立場が、嫌な偶然の重なった状況的に、非常に危ういものであると想像出来てしまうのだ。
折角クリソプレーズ王国に来たと言うのに、ミレット商会やニコット商会に、他意無く普通に買い物に訪れることすら憚られる。
ネイサン自身が己の言動に細心の注意を払って気を付けることが出来ていても、祖国で野放しになっているポロック子爵の考え無しな言動を、愛人可愛さと罪悪感で思考の鈍った権力者が、抑えて手綱を取れる保証は何処にも無い。
ポロック子爵の言動の内容何如では、ニコル・ミレットの夫候補に名前が挙がっていた側室の末王子が便乗暴走する可能性もゼロではない。
事実無根の流言でさえ、「カーネリアン王国がニコル・ミレット獲得のために、ポロック子爵令嬢をわざとクリソプレーズ王国内で犯罪被害者として死ぬように仕向けた」などという話を広められれば、大打撃になりかねない『状況証拠』が拾える状態だ。
そこに、考え無しのポロック子爵の私欲に走った言葉や、王族の責務への意識は低いくせに権力を振るうことは大好きな幼稚王子の暴言が、「公人の言葉」として言質を取られでもすれば、流言は事実に生まれ変わって定着してしまう。
ネイサンは頭を抱えて掻き毟りたい衝動を飲み込んで、生真面目な紳士の表情で仮面を被り直す。
そろそろ、この国の王城の文官達の勤務開始の定刻になる。
祖国の方で馬鹿どもが阿呆な世迷い言を吐き散らかしたとしても、責任能力を問えないほどに重い病に罹っているので取り合わないでもらえるよう、関わる可能性のある各部署に、事前の報告とお願いの形で、挨拶及び交渉に出向かなければならない。
クリソプレーズ王国の常識を考えれば、親の不注意で犯罪被害に遭った下位貴族の令嬢についてなど、カーネリアン王国で阿呆共が非常識な世迷い言を口に上らせたとて「お互い様」と言える程度の冷血な対応が為されると考えていた、出国前の自分の甘さを、今のネイサンは呪っている。
事後承諾だが、宰相公爵の実子の立場を最大限に利用し、祖国の友人達の名前も使わせてもらうことにしよう。
カーネリアン王国では16歳のネイサンは、若僧と侮られつつも完全に成人の扱いをされるが、クリソプレーズ王国では、帝国を自称する国への対抗同盟を締結した時代から、王侯貴族が完全に成人として扱われる年齢が上がっているので、学院卒業後までは「大人だが学生」という見られ方をしてしまう。
いくらネイサンが自分の裁量で行った言動の責任を負えると説明したところで、役職や肩書きを持たない16歳の学生では、この国では「大人」がまともに話を聞いてくれるかも疑わしい。
交渉のテーブルに着いてもらうためにも、役職や肩書きを持つ人間の名前を出すことが許されている人脈の披露は必要だ。
ネイサンは国を出立する際に、友人達が好意で持たせてくれた証明書をカードのように手の中で広げる。
「こんなに早く使うことになるとは思いませんでしたよ」
いざという時のために。不測の事態が起きたら。何か困った時の足しに。
そう言って渡された奥の手の武器を、初手から隠せず使う羽目になった。この苛立ちと苦労の報復は、しっかり祖国で受けてもらおうと、紳士的な表情を胡散臭い笑顔で歪める。
「先触れは?」
「ネイサン様のご指示通りに」
従者に問えば想定内の返答がある。
今回の留学に当たって、ネイサンは祖国で自分に与えられていた護衛や使用人の中から、特に優秀で忠誠心の高い者を連れて来た。
大勢をぞろぞろ引き連れて来ることは避けたかったので、自然と少数精鋭となった。
この事態を見れば、使者として動ける人間をもう少し連れて来ていればと思わなくも無いが、ホテル暮らしを前提として留学計画を立てたので、これが上限だろう。
王城の御膝元の最上級のホテルは、暗黙の了解で他国の要人が宿泊先に選び、警護を受ける代わりに監視を受け入れる。ネイサン自身が、勝手な行動をさせないように把握しきれる人数の手の者となれば、不自由な他国で監視されつつなのだから、これで精一杯だった。
無いものを嘆いても非生産的だ。
気持ちを切り替え、ネイサンは護衛に目配せしてから従者に一言発した。
「出る」
「ご用意出来ております」
ホテルの下に馬車の手配が済んでいることを主に告げ、従者が部屋の扉を開ければ、目配せのあった三人の護衛が各配置に付きながら扉へ向かい、外へ出る。
護衛一人と老爺は部屋で待機だ。
先触れを出したのは、王城にて各方面への面会申込みを一括して受け付けている部署だった。イメージとしては、役所の総合案内窓口を一つの部署にして、それなりの数の人員が配置されているような感じだ。
他国人とは言っても公爵家の人間であることを伝えているので、この部署の対応までは先触れさえ出しておけば待たずに優先してもらえる。
面会の申込み先は、宰相補佐官と外務副大臣だ。クリソプレーズ王国にとって同盟国の貴族でもなく、公爵家の人間と言っても当主でもなく、「大人だが学生」のネイサンが希望可能な面会相手としては最上位の職分の人物となる。
出し惜しみをしていられる猶予は無いと判断し、持てるカードを存分に切ったので、断られるということは無いだろうが、本日中の面会が叶ったとしても、長時間待たされるであろうことは覚悟の上だ。
むしろ、長時間待たされることで、事態の重要性と緊急性を鑑みた他国の宰相公爵の令息が、文句も言わず真摯な態度で粛々と順番を待っていた事実を、多くの人に目撃してもらう処にメリットが生じる。
それに、無為に待つしか無いように見えても、何も時間を無駄にはしていない。そう見えるポーズを取っている間も頭は動かせる。
現在、クリソプレーズ王国は、由緒正しい公爵家の起こした不祥事で、留学する予定だった貴族学院が休校中であることは不幸中の幸いだった。
こうして父親の尻拭いの更なる対策を取らなければならなくなるなら、のんびり学生気分で、学院内が過ごしやすくなるために地盤固めなどしている暇は無かっただろう。
ネイサンは、「若者」が「大人達」から望まれる、けれど侮られるほどではない、絶妙な塩梅の緊張感を滲ませた表情を器用に顔面に被せながら、貴人待機用の小ホールの一人掛けソファに腰を下ろしている。
従者はネイサンの横に立ち、護衛達は背後や入り口の警戒が出来る場所に陣取って連携し、ネイサンを護る死角を補い合う。
従者が用意して毒見をした紅茶のカップを上品な仕草で持ち上げた時、ネイサンは何故か小ホールの外が気になり、本当に何となく、視線をそちらに向けた。
その少し前、昨夜は王城の客間の一つに泊まったバダックは、部屋まで迎えに来たジルベルトとモーリスに伴われて王城内を歩いていた。
いずれ『亡命者』となる協力者の身柄を保護する目的で、バダックは「怪我が治るまで」という名目で、王城の客間に滞在することになっている。勿論、コナー家の監視付きだ。
嫌がらせのように気配を一切消さずにチームで監視をされているが、ジルベルトからもクリストファーからも、見ているだけの間は殺しては駄目だと言われているので、気持ち悪いが黙って受け入れている。
確実に嫌がらせだろうが、淡々とした「監視」と言うよりも、欲を孕んだ舐めるような視線が昼夜を問わず無休で纏わり付いているが、御主人様の命令なので耐えている。耐えてはいるが、本当に気持ち悪い。
そんな寝心地の悪い夜が明け、朝になってジルベルトに会えたバダックが、見えない尻尾をブンブン振りながらご機嫌で王城を歩いている理由は、「王城内でバダックが歩いていても問題が無い場所」を覚える為である。
こういうのは、細かい規則や、貴族と王城の暗黙の了解やらローカルルール等に精通したモーリスが一番得意で抜けが無いのだが、昨日の今日でモーリス一人に「新顔」のバダックを任せるのも不安があったので、ジルベルトも同行した。
バダックの戦闘能力は、コナー家の精鋭未満レベルの配下ならば、複数を相手取って完勝可能なほどだ。バダック本人が本気で暴れることがあれば、生半可な騎士達では抑えられない。
ジルベルトの「犬」となったバダックが、御主人様に逆らってモーリスを襲うことは無いだろうが、城内でモーリスに伴われた「見知らぬ美青年」に絡んで来る慮外者が現れないとも限らない。
モーリスが王城の浅い所に顔を出せば、コアなファン(と言う名の下僕志願者)や、中性的な容貌を勝手に侮り突っかかって来る男共(全員過去にモーリスに告白して振られた経験者)や、肝試し的に予告無く手合わせを願って襲いかかって来る新米騎士とエンカウントすることがあるのだ。
モーリス一人ならば問題無く速やかに対処(の名の下に物理的撃退)が可能だが、同行者がバダックであることが被害を広げそうで、対策が必要だろうと、ジルベルトが投入された。
いくら王城の浅い所までしか出入りを許されない程度の輩でも、モーリスと顔見知りになれる身分か職位は持っているのだから、貴族か騎士である。
彼らは、モーリスの同行者が、無礼を働けば首が飛ぶような人物だと見抜けば大人しく見送る。
次期公爵で第二王子側近のモーリスに襲いかかるのは、十分物理的に首が飛ぶレベルの無礼なのだが、幼少期からアンドレアの側近だったモーリスは本格的な刺客との遭遇に慣れ過ぎてしまい、おふざけには意外と寛容だったりする。
単純に、それらを一々真面目に罪に問うている暇など無いから「現場で物理的撃退」で済ませているだけなのだが、王城内の認識はそうなっているのが、今回ジルベルトを投入する必要が生じた原因だ。
一応「構ってちゃん」達も、モーリスが第二王子執務室の他のメンバーと連れ立っていたり、他国の要人の案内中などは、決して手を出さない。
他国の要人の訪城予定は、大っぴらに城内を闊歩できるようなものならば公表もされるているし、騎士団には警備の都合上必ず通達される。
彼らも腐っても貴族や騎士なのだから、今まではモーリスの同行者が例え簡素な服装であっても、所作や醸し出す雰囲気で、相手が貴人であるかどうかの判別が出来ていた。
だが、バダックは『国の色』の瞳を持っているが、大陸の反対側という最も我が国とは離れたフローライト王国の王の血筋なので、実物を見たことがある者はほぼ居ないし、新米騎士や要職に就けない程度の貴族がパッと見て「王族かもしれない!」と警戒意識を持つことも無い。
地理的に意識の外になるくらい、フローライト王国はクリソプレーズ王国から遠いのだ。
それに、バダックは容貌こそ美しく姿勢も体格も良いが、その育ち故に貴族的な所作は身に付いていない。
足の運び方も手の上げ方も、指先への意識も視線の送り方も、良くて「裕福な平民」か「貴族と付き合いのある傭兵」の印象だ。
身分で己の取るべき態度を判断する者達から見れば、バダックは「侮って構わない下位の者」なのだ。
しかし実際バダックは、自国で奴隷以下の扱いを受けていても血筋は紛れもなく『王族』であり、実態は違えども『貴族として本物の身分証』を所持した『貴族学院への留学生』であり、絡まれて反撃すれば、下手をすれば相手を殺しかねない戦闘能力を持つ、血を見ることに躊躇の無い武闘派である。
身分も実力も、弱者などでは有り得ない。
特殊な生い立ちのせいもあるだろうが、道中で気配を察知したコナー家の者を尽く殺して排除していたバダックは、「手加減」というものが出来るのかが自分でも分からないと言う。
魔法も戦闘術も全て生きる為に独学で身に付けたバダックは、まともな教育は受けたことが無い。
殺されない為には殺すことでしか身を護れなかったのだから、初手で様子見などする悠長な技術は持っていないのだ。
全力必殺の抵抗や正当防衛をバダックがするような事態が引き起こされれば、王城内で自国民から人死が出る。
死んだ側の自業自得でも、貴族や騎士が殺害されれば問題は軽く済ませられるものではなくなる。
今は余計な面倒事が起きても対処に割ける余裕など無い。
バダックの案内にジルベルトも投入する措置が取られる際、アンドレアがモーリスに半笑いで暴言を吐いていた。
『いっそファンを下僕化して女王様として管理したらどうだ?』
と。まだ秋の朝だと言うのに執務室の窓が凍りついていたが、いい加減もう解けているだろう。
主従のじゃれ合いはさて置き、ジルベルトを伴った王城案内は滞り無くスムーズに進行している。
ジルベルトの熱狂的ファンもモーリス以上に存在はするが、『剣聖』はある意味尊すぎて、突撃の蛮行に及ぶ度胸を持てる者が居ない。
モーリスとジルベルトに挟まれたバダックに不穏で不躾な視線を叩き付ける輩が増殖しても、実際に手や口を出して来る者は未だ現れていなかった。
おかげで、王城の内部からスタートして、大分外に近い辺りまで何事も無くやって来ることが出来ている。
「ここは面会希望者の待機室です。貴族用の方ですね」
モーリスの説明に釣られるように小ホールの中を覗き込んだバダックは、ふと魂がざわめくのを感じた。
「「っ‼」」
一人用のソファで繊細なティーカップの取手を摘み上げ、従者や護衛に囲まれた、如何にも育ちの良さそうなグレーの髪の若い貴族の男。その薄紅色の涼やかな双眸がフローライトの瞳と交わった瞬間、大きく見開かれる。
「み・・・っ!」
「し・・・っ!」
訝しげに蒼眼を眇めるモーリスの影で、ジルベルトは「あー、やっぱり」と胸に呟く。
「み」は「御堂」の「み」。
「し」は「白河」の「し」。
予感めいたものはあったが、カーネリアン王国からの留学生は、ジルベルトに前世で「犬」として従っていた弁護士・御堂だった。
夏休みが全く無かったためにストックが増やせませんでした。
今後もしばらく、この更新スピードでの連載となります。