夜明け前
第二王子執務室は深夜の静寂を享受していた。
アンドレアの閃きから用意された資料は、第二王子アンドレアの名の下に最重要の極秘扱いで、宰相に提出を済ませた。
アンドレアの名で最重要極秘とした文書は、国政に於いて宰相以下の立場の者に内容を洩らすことを禁じられる。つまりは、宰相が文書の内容を共有出来るのは、現時点では国王のみだ。
資料の提出を一段落として、第二王子執務室メンバーは交代で仮眠を取っている。
今は、モーリスとハロルドが奥の仮眠室で休んでいる筈だ。
ぼんやりと夜が明けぬ窓の外を眺めていたアンドレアが、ポツリと零す。
「ロペス公爵には孫がいたな」
「アデルバード・ロペスですね。二学年Aクラスに在籍しています」
ロペス公爵には息子がいなかった。
ロペス公爵の二人の娘の内、長女はベケット侯爵家へ嫁ぎ、次女が婿を取ってアデルバードという息子を産んだ。ロペス公爵家はアデルバードが継ぐことになっている。
「アデルバードは俺の側近候補に名が上がっていた。Aクラスだから成績は悪くないが、学院の成績が良いだけでは俺の側近は務まらん。それに、俺がロペス公爵と縁が繋がることを嫌った」
「貴方の立場上、ロペス公爵を警戒するのは当然です」
ジルベルトが返す言葉は、アンドレアも理解している。
学院長に庇われ、持てる知識や情報を悪用することで尻尾を掴ませなかったが、現ロペス公爵には黒い疑惑がチラついていたのだから。
アンドレアのように、国内貴族の調査、監視、粛清を主な職務とする王族が、懐に入れて良い人物ではない。
「アデルバードは、祖父に反発していたな」
「反発だけでは不足でした」
クリストファーからの報告では、仕掛けは上々とのことだった。
城下の酒場で燻るシモンズ侯爵の息子に、「ロペス公爵が人身売買に関与しているかもしれない」噂を吹き込ませた。
噂を吹き込まれたジョシュア・シモンズは、意気揚々とソレを持ち帰り、父親のシモンズ侯爵に報告した。
シモンズ侯爵は爵位に見合った実績が欲しいものの、自身に才は無い。『次期国王側近』という輝かしい地位に潜り込ませた息子が解任され、彼は焦っていた。
学院長は、多くの貴族と上から関わることの出来るその立場と、『元王族』のブランドで、才能も実力も無いが金や名誉は欲しい貴族達の希望を叶える救世主だった。
シモンズ侯爵は若い時分から学院長に摺り寄って生きていたが、学院長に重用されるロペス公爵をライバル視していたことは、社交界でも知られていた。
シモンズ侯爵の耳にロペス公爵を追い落とせる噂を入れれば、自然に学院長の耳まで届く。
学院長の耳に入ったのが、単にロペス公爵が人身売買に関わっているという話だけなら相手にされないだろう。
おそらく、ロペス公爵が人身売買に関与している事実など以前から知っていただろうし、その利益で甘い汁を共に吸っていたと考えるのが妥当だ。
何故、そのようなネタをシモンズ侯爵程度の人間が掴んでいるのかは不審がるだろうが、それだけだ。
だが、学院長は、古狸と呼ばれる人物だ。
だから、アンドレアは『最重要極秘』とアンドレアの名の下に記した文書を宰相に提出した。
最重要極秘扱いの文書の中身まで知ることは不可能でも、そういう書類が提出された情報を手に入れる伝手を、学院長は確実に持っている。モーリスが「要注意」と示した宰相室の新顔は、学院長の子飼の一人だ。
アンドレアの名の最重要極秘文書が提出された。
そう報告を受ければ、「誰かが粛清される」。学院長は、そう睨むだろう。
そこに、「ロペス公爵が人身売買に関与」の噂が、シモンズ侯爵程度の人間にまで流出している事実が重なれば、学院長の危機感を煽る。
僅かな隙を突かれて恥をかかされた記憶も新しい学院長は、今なら、ロペス公爵を切るだろう。
フローラ妃の息子である学院長は、『当事者』としての証言を残されることを王家から警戒されているが、ロペス公爵の扱いは『当事者』からは外されている。
微罪で拘束することを回避されている学院長の『一蓮托生範囲』から切り離されて見捨てられれば、人身売買は、高位貴族でも家を取り潰される重罪だ。
しかも今回は念を入れて、より悪質な人身売買であったとする高い可能性を、アンドレア達が資料として提出している。
その資料は、ロペス公爵の後継者となるアデルバードを、当主の罪に連座させて命まで奪う結果を生むだろう。
アデルバード・ロペスは、祖父に反発していた。
だが、それだけでは彼の命を救うには足りなかった。
まだ15歳の彼に、反発するだけではなく、自力で、当主であり祖父のロペス公爵を、完全勝利でもって断罪を成功させて、こちら側にやって来いと言うのは酷かもしれない。
それでも、それくらいでなければ、彼に生き残る道は残されていなかった。アンドレアの側近となる道もだ。
アンドレアも、その側近のメンバーも、15歳当時、それに並ぶほどの偉業を既に成し遂げている。
「どちらにしても、道は無かった。アデルバードは間に合わず、不足していたのです」
重ねてジルベルトに言われ、アンドレアは暗い空を見上げた。
まだ、鳥は眠っている。
「マリア嬢も、父親に抵抗をしても、結局は逃げられなかったな」
マリア・メイソンは、学院長の末娘だ。先日、『初風の夜会』で父親の学院長にエスコートされていた。
アンドレアが両親に確認を取ったところ、学院長は、第一王子のエリオットが生まれた時から、マリアを側妃にすることを希望していたと言う。まだ、正妃とするエリオットの婚約者が決まる前からだ。
その後、エリオットの婚約者となる、アイオライト王国の正妃を母に持つ王女クローディア姫が産まれ、正式に婚約が結ばれてからは、打診が本格的になった。
当時、マリアは11歳。その頃から、彼女はゴテゴテと着飾るようになったのだ。
社交界では、年下の王子の側妃を狙って必要以上に飾り立てていると、マリアを揶揄し嘲弄する者も多く居たが、彼女の真意に気付く者も存在しなかった訳ではない。
年配の貴族女性は同情の目を向ける御婦人も少なくなく、男性の中にも「もしや」と感じ取る紳士がいた。
特に、前世を女性として生きたジルベルトは気付くのが早かった。社交の場に出るようになって数回でマリアの真意に気が付き、その情報はアンドレア達と共有していた。
マリアは、エリオットに嫌われようとしていたのだ。
そのやり方は消極的ではあったが、当主の父親に逆らうことなど考えられない貴族令嬢としては、出来得る限りの抵抗であっただろう。
少女の頃から中年女性並みの厚化粧を顔に施し、昼の茶会であっても、お茶や食べ物の香りが掻き消えるほど強い香りの香水を、たっぷりと全身に纏って社交の場に現れた。
ドレスも装飾品も、最新の流行の最高級品ではあるが、ドギツい色を選んだ配色は、彼女には本当はセンスがあることを窺わせる、見事に絶妙なセンスの悪さを体現していた。
マリアは彼女が持つ知識と教養と知恵を駆使して、必死の抵抗を試みていた。
だが、マリアは、逃げることは、しなかった。
家から出奔し、国外に出されたままの甥でも頼れば、そのまま二度と帰国しなければ、或いは命は助かったかもしれない。
けれど彼女は、そうはしなかった。
出来なかったのだろう。
貴族令嬢の世界とは、通常はとても狭いものだ。家と領地と学院、社交の場。それ以外の世界を見ることも知ることもなく、嫁いで夫の子を産んで、多くの貴族令嬢の生涯は終わる。
誰も、マリアに、それ以外の世界があることなど教えなかった。
狭い世界で生きる、それ以外を知らない彼女は、そこから逃げて生きることなど、考え付きもしなかっただろう。
「マリア嬢が、フローラ妃を母に持つ学院長の娘である限り、命を救う術は最初からありませんでした」
ジルベルトの口調は、常より更に淡々としている。
ジルベルト自身も、感情的にならないよう意識しているからだ。
学院長の横暴の根拠と許されている理由を知ってしまえば、学院長が娘のマリアを『次期国王』の側妃に据えようとする、その最終目的が嫌でも知れる。
メイソン伯爵家の功績稼ぎや、準王族の父親の地位を狙う等というチンケな野望ではなかったのだ。
自分の母のフローラが正妃だった筈だと思い込む学院長は、本来ならば自分が国王だった筈だと妄想している。
その学院長が、自分の娘を『次期国王』の子を産む可能性のある立場に送り込む意図は、王位を自分が考える正しい血筋に戻すことだ。
現行法では、側妃の産んだ王子が王位を継ぐ可能性は、かなり低い。
学院長の娘が産んだ王子を王位に据えるには、正妃が一人も王子を産まないか、正妃が産んだ王子が、王子の正妃との間に王子を設ける前に、全員死亡しなければならない。
どちらの状況を人為的に作り出すとしても、同盟国に喧嘩を売る行為であり、国を内部から破壊する行為でもあり、やろうとしているのは王位簒奪の大罪だ。
計画書が実在する訳ではないから物証は無いが、状況から学院長の目論見はそれで間違い無いと、アンドレア達は確信している。
マリアは、学院長の王位簒奪計画の要だ。
フローラ妃の血を引く学院長の娘であるマリアの存在無くしては、学院長の計画は成り立たない。
学院長の最も重要な手駒として産まされ、育てられ、生存している。
そして、大罪人となる学院長の、連座の範囲に含まれる血族だ。
彼女が罪を犯していなくても、父親に抵抗を続けていた事実があっても、その血を持つ彼女を生かしておくことは、クリソプレーズ王国にて国のために粛清を担うアンドレア達には、絶対に出来ない。
物証の無い、未実行の罪を問うて裁くことは出来ない。
学院長エイダン・メイソン伯爵を裁く罪は、ジルベルトがフローライト王国の留学生を堕として協力させて与える、一族郎党処刑四回分に相当する罪となる。
マリアは、その連座として、逃されることなく命を奪われる。
父親の罪は、毒杯で優しく殺される程度のものではない。処刑前に身分は剥奪されるのだから、貴族の処刑に使われる毒など使われない。
連座させられるマリアも、公開で断頭台に膝を着かせられることになる。
貴族令嬢として死を迎えることも許されず、遺体は身寄りの無い平民が葬られる、王都を少し出た辺鄙な場所に作られた共同墓地だ。
そこは、誰かが悼んで花を手向けに行くことも無い寂れた墓地であることを、幾人もの貴族を断罪して来たアンドレア達は知っていた。
「俺は無力だな。奪う力はあるが救う力は無い」
弱音を吐く主に、ジルベルトは、やはり淡々と言葉を返す。
「奪う力で十分です。奪われた命によって救われた命に目を向けてください。奪うのも救うのも貴方が一人で背負う必要がありますか? 救う作業は、お綺麗な渾名を持つ人達に任せておけば良いじゃないですか」
「ジル」
「何です?」
窓の外に向けていた視線を室内に戻し、アンドレアは自分の騎士に歩み寄る。
そして、ずっと自分を支えて来た頼れるその肩に、割り切れない想いを消せない頭を載せた。
「今だけ、俺を救え。お前、結構、お綺麗な渾名を持ってるだろ?」
ジルベルトは、ハッと息を吐き、気持ちを主従から幼馴染の親友へと切り替えた。
「仕方ないな、アンディ。お前の抱える罪は、我ら四人で分け合うものだと決めているだろ?」
次期国王を傀儡とした傀儡師の重責は、アンドレアが一人で背負うしか無い。
だが、アンドレアを先頭とした血の粛清は、側近全員で担うモノだ。
肩に預けられた頭を彩る輝く銀の髪を乱暴に掻き混ぜ、ジルベルトは、負の遺産の清算を押し付けられた天才王子の頭を抱くように押さえて甘やかす。
「迷いは無いんだ。夜が明ける頃には割り切れている」
「だろうな。私の主なのだから」
腕の中、くぐもって聞こえるアンドレアの声に、返すジルベルトの口調は、ぞんざいだが温かい。
窓の外では、ジルベルトの瞳に似た濃紫から淡い紫に過ぎて往くグラデーションの空に、疎らな鳥の影が流れて行った。