王弟の帰還
少人数の謁見用の第三謁見室。重要かつ外部に内密に行われる謁見に使用されるその部屋は、最小限の護衛と当事者のみが入室し、あとは人払いの対象となる。
壇上の玉座から、約十五年ぶりに再会した同腹の弟を見下ろして、クリソプレーズ王国現国王ジュリアンは、「相変わらずデカいな」と、しみじみ胸に感想を抱いた。
現王弟レアンドロ・サラル・クリソプレーズ。ジュリアンの四歳下の弟は、五歳の頃には九歳のジュリアンの身長を抜いていた。
当時から、その表情筋が動いているのを見たことは無い。
王族として生きていけるのか心配になるほど心優しく純粋な内面を本人も気にしたのか、「せめて身体は強く」とばかりに生真面目に修練を積み鍛え続けた結果、15歳で弟の身長は2メートルを超えた。ついでに筋肉も分厚く育ち、顔だけ美少年なゴリマッチョになっていた。
あらゆる武術に精通し、魔法も攻撃に主軸を置いた研究と鍛錬を極め、繊細な優しさは死滅した表情筋で隠し通せるようになった18歳の頃、身長は更に40センチほど育っていた。やっぱり筋肉も一緒にモリモリと育ち、そして顔だけ極上の美青年なゴリゴリマッチョが完成した。
ジュリアンが父と共に弟に婚約者を勧める話をして、「弟の微笑」という惨劇を目撃したのも、この頃である。
自分に政務の補佐は向かないと、早い段階で一騎士として騎士団に所属したレアンドロは、驚異的な強さを誇った。
前騎士団長ランディ・パーカーと一騎打ちで勝負になるのは、レアンドロだけだった。
夜会嫌いで社交が苦手という欠点が無ければ、騎士団長は、ジュリアンが即位した時点でレアンドロが任されていた筈だった。
だが、レアンドロはジュリアンの即位後、八年間国王の護衛を務め、王都を去って辺境の砦へ常駐することを決めた。先王である父とも話し合った結果だと言う。
彼が辺境へ去ったのは、王弟のレアンドロが王都に居続ければ、伯爵家当主でしかないランディが騎士団長であることに異を唱える者が、いつまでも減少しなかったことが原因だ。
ランディの前の騎士団長も、先王と同腹の王弟という高貴な血筋だった。いくらレアンドロが騎士団長となったランディの立場を脅かさぬよう、騎士団は退団してジュリアンの護衛の一人となってみても、同等の戦闘力を持つ似たような年齢の騎士が目に入る場所に居れば、より血筋の貴い方を上に置きたくなるものだ。
ましてや、視界に入るのが『銀髪にクリソプレーズの瞳』というクリソプレーズ王国の直系王族特有の見た目の、国王と同腹の王弟である。
王都に存在するだけで、ジュリアンの側近であるランディの地位を脅かしてしまうことを、レアンドロは憂えた。
国を割る存在になりたくないと考えるレアンドロには、辺境の砦に武力とカリスマ性のある指揮官が求められている、という事実は救いに思えた。
砦の指揮官には、ランディの前に騎士団長だった、ジュリアン達の叔父が落ち着いたら着任するつもりだったが、着任後に年齢を理由に短期間で引退することになるよりは、若い『新国王の弟』が安定して指揮を執る方が士気も上がる。
先王である父や元騎士団長である叔父と相談の結果、レアンドロは納得して砦へと旅立った。
可愛がっていた、幼いアンドレアが高熱で寝込んでいる間に。
「まさか、エリオットが、そのような真似をしていたとは・・・」
ジュリアンから、エリオットがレアンドロからアンドレアに宛てた手紙を握り潰し、一通もアンドレアに届いたことが無いのだと聞いて、レアンドロは抑揚の無い声を発した後、嘆息した。
表情筋も1ミリとて動いていないが、これでもレアンドロは大層悲しんでいる。
レアンドロの印象では、第一王子のエリオットは真面目で優秀な子供であった。
次期国王となる第一王子の教育は、現国王の父親が主導して行われる。その慣習に則って、レアンドロは王弟でしかない自分が積極的に関わることを控えていた。
レアンドロにとって、エリオットもアンドレアも可愛い甥であることに変わりはないが、為政者となることを求められるエリオットに、戦闘以外に能の無い自分が教えられることは無い。
エリオットには、当時、既に為政者となるべく教育が開始されていた。ならば、いずれ王弟となるアンドレアに周囲が求めるのは武力となる。
そう考えたレアンドロは、アンドレアに積極的に関わった。アンドレアは戦うことに適性も才能もあった。無邪気でコロコロと表情の変わるアンドレアが、表情筋の死滅したレアンドロにとって、溺れるほどに可愛らしくて堪らない対象となるのに時間はかからなかった。
それがエリオットを追い詰める一端となるとは、想像もしていなかった。
「私もエリオットを『次期国王』と成すべく突き放し過ぎたのかもしれんな。母である王妃は慣習で第二王子の教育を主導する。慣習を頭では分かっていても、ほとんど一緒に過ごしたことの無い母親が、弟にはベッタリ、とでも見えていたのだろう。エリオットが2、3歳の頃には母親ではなく乳母が常に側に居たからな」
「父親は厳しい指導者であり、母親と叔父は弟ばかり可愛がっているように見える。側に居るのは乳母だけ。しかし・・・」
レアンドロが濁した言葉の先は、ジュリアンにも分かっている。ジュリアンとて同意見だ。
親の愛情を感じられず、愛されているように見える弟が妬ましい。一般的な8歳児であれば、許される感情かもしれない。
だが、エリオットは『次期国王』として育てられた王族である。8歳は、茶会デビューも済ませる年齢だ。
王族として社交に参加する年齢に達していて、許される幼さではない。
ましてや、当時のアンドレアは2歳の乳幼児だ。幼い弟が母と共に過ごす姿を目にして、「自分の時は乳母だった」という事実があっても、「第二王子の教育は王妃が主導」という慣習を知っているのだから、エリオットは納得出来なければならない立場であり、年齢だった。
王族として社交に参加する年齢でありながら、王族の自覚が無かったと見られても仕方のない意識と考え方なのだ。
「エリオット本人からの聞き取りはしていない。もう、どうあっても次の国王はエリオットにしか継がせられない状況だからな。これ以上、あれの口から過去の罪を吐かせるわけにはいかない。だが、あの時のアンドレアの高熱の原因も、おそらくエリオットだ」
「なんと・・・。まさか、毒、でしょうか?」
「いや。毒物を使われた痕跡も、暴行を加えられた痕跡も、一切無かった。何か酷く精神的なショックを与えられたのだろう。アンドレアの記憶が曖昧なのは、それが原因だろう」
ジュリアンは、玉座の肘掛けに肘をついて、物憂げに深い溜め息を吐く。
「私はエリオットの教育だけを注視していた。突き放されていると当のエリオットが感じていても、私はエリオットしか見ていなかった。だから、私は当時、全く気づいていなかったのだ。アンドレアが天才であるということに」
「確かに、身体能力も、体術や剣術に関しても、とても才能が高く天才的であると感じていました」
「その方面だけではない。だが私の耳にアンドレアの行状が入って来たのは、アンドレアが3歳になる頃からだ。癇癪持ちで我儘が酷く、乱暴で傲慢、勉強は嫌いで家庭教師から逃げ回り手がつけられないとな」
「まさか!」
「・・・お前には、そうではなかったのだな」
「無邪気で愛らしく、表情豊かで好奇心旺盛、新しいことを知ることが、身につけることが大好きな子でした」
ジュリアンは嘆息した。
今の『最凶王子』となったアンドレアからは想像がつかないというのもあるが、ジュリアンは少し前まで、アンドレアがジルベルトと出会って更生するまでは、傲慢で手のつけられない勉強嫌いの我儘王子だったと思っていたのだ。
エリオットがレアンドロからの手紙を握り潰していた件の報告をコナー公爵から受けた後、ジュリアンは息子達がずっと幼い時分のことを秘密裏に調べさせた。
調査結果を知っても確信は持てずにいたが、レアンドロの言葉が調査結果を裏付ける決定打となった。
「エリオットが手紙を握り潰していた件を受けて、コナー公爵に過去の調査を行わせた。アンドレアは、0歳の頃から大人の会話を理解していたとしか思えないそうだ。アイリーンも『長く高熱で寝込んだ不安からか、直後から子供らしい反抗期が強く出たけれど、熱を出す前は賢すぎて不安になるような子だった』と言っていた」
王妃アイリーンは、敢えて国王の夫にアンドレアの天才ぶりを報告していなかったそうだ。
幼い時分の天才の片鱗は、年齢が上がると凡才に落ち着くことも珍しくない。特に、アンドレアは『次期国王』より目立つことを好まれない第二王子の立場である。「天才ならば」と担ぎ上げ、いらぬ派閥争いを生み出さないためにも、アイリーンは息子の成長を静かに見守った。
アイリーンにとって、現在のアンドレアの姿は、想像した未来像の一つであるらしい。まさか、『血腥い』とか『苛烈な最凶』という路線に進むとまでは想像していなかったそうだが。
アンドレアがその路線に舵を切ったのは、エリオットの地位を盤石なものとして守るためだったと言うのに、虚しさを感じてしまうのは親の身勝手だろうか。
「エリオットがアンドレアを強く憎んだのは、アンドレアが天才であると知ったからだろう。子供らしい甘えを制御され、人間らしい感情は己のためではなく民のためにのみ持つのだと、厳しく『次期国王』として為される教育に、エリオットが不満や泣き言を漏らしたことは無い。アレは真面目で完璧主義なところもある。だから、『天才の弟』に気づいた時、己の全てを懸けている『次期国王』の立場が脅かされると感じたのだろう」
「・・・排除を目論んだと?」
「いや。一人しかいない『次期王弟』を失うことは、『次期国王』の教育を受けたアレには出来なかっただろうよ。少なくとも、必要な子供を揃えるまでは、排除はしたくてもしなかっただろう。望んだのは、アンドレアが己より愚かで無能な弟になること、辺りか」
「そんな都合の良いことが可能でしょうか」
「やってみたら上手くいってしまった、というところではないか。想像でしかないが。だから囚われてしまったのだろう」
偶然でも一時的でも、成功体験があれば、人はそれを忘れられない。もう一度、今度こそ、があると思わずにはいられないのだ。
エリオットは自分の立場を守るために、天才の弟を『次期国王』に相応しいと言い出す者が出ないように、アンドレアの『次期国王』に相応しくなりそうな要素を、徹底的に削ぎ落とさねば安心できなくなってしまった。
一度上手くいったことがあるのだから、失敗の可能性があっても不安を塗り潰さずにはいられなかった。
成長し、恐れられながらも評価を上げ続ける弟に、エリオットはどれほど恐怖を感じていただろう。それを飲み込み乗り越えられなければ、王として立つことなど適わないのだ。
だが、エリオットには、それが出来なかった。
エリオットがアンドレアの『剣聖』であるジルベルトを、権力を以って無理強いしてでも奪い取らんとした、心の底に潜めた動機を、ジュリアンは今更に読み取った。
ジュリアンはゾッとする。
アンドレアの2歳前後の記憶は曖昧なまま、未だ戻っていない。となれば、ジルベルトとの出会いで奮起しなければ、アンドレアは天才の自分を今でも取り戻していなかっただろう。
エリオットが自己研鑽を怠ったことは無い。上の息子が、真面目過ぎるほどの努力家であることは認めている。
それでも現実とは残酷なもので、優秀な凡人が全てを懸けて努力をしても、努力をした天才に及ぶことは無いのだ。
自分が即位した年頃に並ぶまで成長したエリオットを、国王として冷静な目で見れば判断せざるを得ない。
エリオットは、一人で王になれる器ではない。
エリオットが国王として在れる絶対条件が、『天才の弟に支えられること』なのだと、しばらく前から、国王としてジュリアンは考えていた。
理想とは違ったが、お飾りの傀儡王となるエリオットは、天才の弟に傀儡師として支えられる。それが、次代のクリソプレーズ王国の形だ。
だがもしも、アンドレアが天才の自分を取り戻せないまま、エリオットが王位を継ぐことになっていたら?
エリオットの望み通り、アンドレアが努力を嫌う傲慢な愚か者であれば、誰が王として不足するエリオットを支えられる?
自身の奸計によって、己の最強の武器となる才能を失った自業自得だと、後悔して泣けば許される立場などではない。
エリオットは王になるために生まれ、王になるために育てられた生粋の王族だ。その身も心も、全ては国のために在るべき人間なのだ。
アンドレアがジルベルトと出会っていなければ、エリオットの代で国は滅んでいた。
ジュリアンの予想は、最悪の末路に行き着く。
以前、宰相で親友のオズワルドとも話したが、ジルベルトはこの国にとって、正しく運命である。
その存在に感謝は尽きないが、されど国王として運命頼みで国の明るい未来を望むのも情けない。
王としてだけではなく、父親としても、悲しいほどに情けない。王である限り、その感情を息子達にさえ見せるわけにはいかないが。
「私がアンドレアが天才であることに、いち早く気付き、エリオットに言ってやれば良かったのだ。アンドレアが如何に天才であろうとも、国王となるのはお前なのだと。お前は王として、天才を使う術を身につけろと。まぁ、全ては手遅れだ」
肘掛けから肘を外し、肩を竦めてジュリアンは戯けてみせる。
「アンディは、兄を慕っていました」
「それも気に食わなかったのだろうよ。自分が欲した何もかもを手にしている弟が、自分からの愛情まで欲するのかと」
「・・・人の心は難しいです」
辺境の砦で戦いに明け暮れていても、レアンドロの繊細な優しさは変わっていないらしい。
ジュリアンは、王位に就いて益々黒さを増した自分の内面と見比べて、厳つい大柄な弟に苦笑を零す。
表情筋は死滅し、声に抑揚も無いが、ジュリアンにはレアンドロの感情が、いつも豊かに伝わってくるのだ。
「ところでリーア」
ジュリアンは、幼い頃の愛称で弟を呼んだ。
「ジュリー兄上?」
大男が無表情で、コテンと首を傾げる。呼び方も、兄に合わせて子供時代に戻した。
「お前、アンドレアに怪文書を送っていたが、アレは何だ? 貰った当人が随分と悩んでいたぞ」
本来の口調とかけ離れた珍妙な文体と謎を呼ぶ内容の手紙は、「叔父上に何が起こっているんですか」と、息子に手紙持参で相談に来られたジュリアンの頭も抱えさせた。
「アレは・・・アンディに怖がられないようにユーモアを込めようと・・・」
弟にユーモアのセンスは無かったようだ。ジュリアンは認識を新たにした。
「アンドレアに怖がられていると思っていたのか」
「はい」
「泣かれでもしたか?」
「いえ。私の巨体に『叔父上のぼり』と称して飛びついて来てくれていたので、他の子供達のように怯えていたとは思っていませんでした。ただ・・・」
「ただ?」
「あの子との最後の会話が、『叔父上の中身とは、いつになったら会えるの?』だったんです」
ジュリアンは沈黙した。
口を開くと、多分爆笑するからだ。繊細な弟の心を傷つけるわけにはいかない。
「多分、大き過ぎる私は人間ではないと思っていたのではないでしょうか」
表情も全く動かない上に、顔だけは精緻な芸術品のように整った美形だからな。
ジュリアンは心の中で、当時の息子の気持ちを代弁する。
「私からの手紙がアンディに届いていないなど知りませんでしたから、返事が無いのは、人間と思えない私に恐怖を覚えてしまったからではと考え、試行錯誤の果てに、あのような形になりました」
「・・・一つ聞くが、リーアは何を目指したんだ?」
「はい。身体が大きくて豪快だが面白い叔父さんを目指しました。中身はいません」
うん。失敗だ。あと、中身の話は忘れろ。
ジュリアンは正直な感想を口からは出さず、「そうか」とだけ頷いた。
そして、これ以上大人な息子に混乱を招かないよう、可愛い弟にアドバイスを伝える。
「先に伝えたように、アンドレアは当時の記憶が無いだけで、お前を怖がることは無い。口調も本来のもので大丈夫だぞ。自然体で接してやれ」
寧ろ、自然体以外で接しないでやってくれ。
ジュリアンの想いが伝わったのかどうか、レアンドロは大人しく首肯してくれた。
現在、アンドレア率いる第二王子執務室は激務を極めた修羅場だ。メンバーの誰も帰宅など出来ていない。交代での仮眠も満足に取れていないだろう。
任務の内容に学院が関わっていなければ、本来であれば正当な理由有りとして休学するほどに、重要で失敗の許されない仕事が重なっている。
国王ジュリアンは、その修羅場に、集中力を削ぐ謎のキャラクターを演じる王弟兼新騎士団長を送り込むほど鬼畜ではないつもりだ。
「リーア、王弟帰還のパーティーは勘弁してやるが、騎士団長就任の式典はやるからな」
「はい。それは覚悟しています」
「式典までに副団長も決めておけ」
「はい」
扉の外から時間を報せるノックがあった。
それを合図に騎士の礼で退出して行く大きな背中を見送って、ジュリアンは、先延ばしにしている『嫌な国王の役目』の話を、近い内にアンドレアに伝えねばならないな、と胸に独り言ちた。