学院長室にて
ここから新たな登場人物が増えます。
学院長室へ呼び出され、ジルベルトは通常装備の静かな微笑を浮かべたままドアを潜った。
中では先代王弟である学院長が重厚な執務机に向かって座っている。その前には三十代半ばと思しき貴族男性。言葉を交わしたことも無いが、知ってはいる相手だ。あちらは何かにつけ有名であり目立つジルベルトを勝手によく知っている気になっているだろう。
クリソプレーズ王国の王立貴族学院の学院長は、名誉職であり、臣籍降下した王弟がその職に就くことが多い。
現国王の王弟は、国王と同じく正妃から生まれた未婚で王族籍にある王弟しかおらず、先代国王の側室腹の王弟である学院長は、随分と長いことその席に居る。
先代国王には、他にも臣籍降下した側室腹の王弟が複数いるにも関わらず、だ。
学院長の名はエイダン・メイソン。メイソン伯爵家へ婿入りして直ぐに伯爵位を継いだ。そして、未だに伯爵位を息子に譲っていない。息子に何か問題があるわけでもなく、孫息子さえ成人しているのだが。
息子には購入した男爵位を継がせ、孫息子は他国に留学させたまま帰還の許しを出していない。
王族に多い銀髪を受け継ぐことの無かった白髪交じりの黒髪に、父親が確かに国王であった証のクリソプレーズの瞳を持つ一見善良そうなこの男は、狡猾で尻尾を掴ませないだけの、権力欲の非常に強い狸爺だ。
学院内平等の建前で、学院に在籍していた頃のジルベルトの父も、もう少し上の学年だったアンドレアやモーリスの父親達も、中々に面倒で不愉快な思いをさせられたらしい。
主に、周囲に侍らせる人選において。
アンドレアの父である現国王ジュリアンは、学院在籍中に、「絶対に自分では選ばない無能で好みから外れた令嬢達」を繰り返し側近くに送りつけられ、学生時代から激務に近い多忙さだった彼の時間を随分無駄に浪費させられた。
モーリスの父であるオズワルドも、王命による婚約者ができるまでは同様に煩わされ、更に次期国王側近から引き摺り下ろす目的だろうハニートラップや、違法賭博や麻薬使用や乱交パーティー等に誘いかける人物達を「社会勉強のため」と紹介され関わらされた。
ジルベルトの父ブラッドリーは、簡単に御せる優男に見えたようで、侯爵家と問題無く運営できている豊かな領地を搾取せんと、威圧的に脅しをかけてくるような高位貴族と引き合わされて、のらりくらりと躱すのが大変に面倒だったんだよ、と苦笑していた。
高位貴族相手に侯爵令息でしかなかったブラッドリーが、のらりくらりと躱し続けられ、「面倒だった」と苦笑で済ませているのだから、『クリソプレーズ王国の毒針』と呼ばれる外務大臣の片鱗は当時からあったのかもしれない。
息子であるジルベルト達も、アンドレアが徹底して『血腥い王子様』像を自己プロデュースしていたために、父親達ほどではないものの似たような状態ではある。
それぞれ父親達から入学前に警告と対策方法を与えられているので、学業や仕事に影響を出すほど煩わされていないが。
ちなみにハロルドに関しては、学院長も元王族であっただけに『パーカー家男子の執着』は知っているので、実父のランディと執着対象の婚約者には手出ししなかったし、ハロルドとジルベルトにも直接手出しはして来ない。
いっそ、出せるものなら出してみればいいのに、と思わなくもないのだが。
国内最強の『剣聖』と、『剣聖』以外は手も足も出ない強さの国内二番手とされる狂犬だ。手を出さずとも、指先で突付いただけで怪我では済まない惨劇がその身に降りかかるだろう。
利用や懐柔のために周辺を飛び回る害虫は駆除し合い、悪意からは各々の得意分野で牽制し、害意からも互いに得意分野で護り合う、第二王子アンドレアとその側近達は、個々の高い実力とチームプレイで学院生活を平穏に謳歌していた。「平穏」が彼らの日常と比べれば、という程度であることは言うまでもない。
ジルベルトが、学院長室に入ってから長々と回想に耽っているのは理由がある。
入室してから長々と、興味の持てない下らない話を聞かされているからだ。
学院長の執務机の前に立っている貴族男性は、ジルベルトの脳内メモ通りの人物だった。
彼がデキる人間だから脳内メモにあったわけではない。単純に、ジルベルトの脳内には職務柄、国内貴族は全員記録されているのだ。
それでも彼には一応、備考欄まで記載がある。彼は、第一王子派を名乗っていた家の人間だ。
タイタス・ベケット。ベケット侯爵の弟で一介の近衛騎士。近衛騎士なのだから試験はクリアしているが、クリアしているだけ。隊長格ですらないし、剣術大会で目立った成績を収めたことも無い。ちなみに王族の誰かの専属護衛でもない。
少年の時分に王族の誰かに対して剣に忠誠を誓っていれば、専属護衛という道もあったかもしれないが、上を望み過ぎたために、降嫁が決まっている側室腹の王女の専属護衛は嫌がり、現国王の専属護衛となるには実力が足りず、現国王の王弟は自身が騎士であり生半可な護衛は却って足手まといだと反対され、第一王子とは年齢が上に離れ過ぎであり、第一王子と年齢の近い甥が側近となっていたために「同じ家から二人は勢力バランスが云々」と御歴々からの許可が降りなかった。
欲をかき過ぎて三十路半ばにして一介の近衛騎士の一人という立場に燻るタイタスは、実力に見合わぬ上昇志向のとても強い男だ。
今も、夢と言うより妄想でしかない願いが叶うと何故か思い込み、世迷い言としか表現できない内容を恍惚とした表情で垂れ流している。
うん。帰りたい。
静かな微笑を湛えたまま与太話を聞き続けるジルベルトは、一行で終わる内容に既に飽きていた。
要は、タイタス・ベケットは一介の近衛騎士から騎士団長になりたいから『剣聖』であるジルベルトに推薦して欲しいのだ。
学院長はそれを後押ししていて、ジルベルトをわざわざ授業中に主人のアンドレアから引き離して呼び出し、タイタスを紹介して引き合わせた。
馬鹿馬鹿しい。
国王陛下と宰相閣下による『バカ炙り出し企画』のために公表されていないが、前騎士団長ランディの地位返上により空席となった騎士団長の地位は、とっくに王弟であるレアンドロ殿下に内定している。
現在は副団長のオリバー・カイルが代理権限で指揮を執っているが、それは新しい騎士団長が正式に就任するまでであるということだけは公表されているのだ。
軍部は基本的には実力主義である。
だが、平時でも、戦時ですら、実力だけでは実力者の集団をまとめ上げることは難しい。
だから、騎士団長は武闘派の王弟が担うことが多かったのだ。
他国では軍部のトップの地位として、『将軍』や『総帥』などが挙げられる。
小国では、国軍が騎士団一つしか無くて軍のトップがその騎士団の団長ということもあるが、大抵の国は複数の騎士団を抱え、『将軍』や『総帥』と呼ばれる地位は無い国でも、『騎士団総団長』のような地位があり、『騎士団長』と言えば幾つかある騎士団のトップの一人でしかない。
だが、クリソプレーズ王国では違う。
正式には『クリソプレーズ王国騎士団団長』という地位は、クリソプレーズ王国軍のトップであり、国内に一人しか存在しない。「騎士団長」と略称で呼んでいても、その権限は他国でそう呼ばれる軍人らと比べるべくもなく強大である。
だからこそ人選は慎重に行われ、決して兄である国王に反旗を翻すことの無い王弟か、実力も家柄も申し分ない、国と王に絶対の忠誠を誓った騎士であるかのどちらかだ。
クリソプレーズ王国が軍のトップを『騎士団長』とし、そこだけは実力だけではなく元の身分も重視するのは、軍全体を出来得る限り実力主義にしておくためだ。
名誉ある役職を多く作るほど利権が生まれる。そして、実力を重視したくとも世襲の色合いが濃くなっていく。
それを是と出来るほど、国を取り巻く状況は未だ安穏とはしていないのだと、先代国王が同腹の王弟と現在の軍部の在り方を固定してから引退したらしい。
クリソプレーズ王国騎士団には、絶対的なトップである団長と、その団長と相性の良い補佐である─団長の苦手な部分を補える能力が最重要視される─副団長は明確な地位として存在するが、隊長などは任務毎に指名されるので固定された地位ではない。
ジルベルトは初めてそれを聞いた時に、「動かし方が国軍と言うより特殊部隊っぽい?」と思った。
隊長は、当然、経験も考慮されて実力を測られるので、何度も指名される騎士と一度も指名されたことの無い騎士がいる。
概ね五回以上隊長として任務を遂行し、隊長任務に慣れている騎士は、役職では無いが『隊長格』と呼ばれ、後輩の指導係や任務中に隊長が行動不能に陥った場合の隊長代理となり、『隊長格手当』も給料に上乗せされる。これによって、平民出身の騎士の給料が貴族出身の騎士を超えることは間々ある。
ちなみに、月毎の給料は功績で試算され、任務が与えられると報酬が加算される。隊長として任務に当たれば更に加算だ。そこに身分による区別は無い。
それでも、騎士団には貴族出身者が多い。
クリソプレーズ王国騎士団は、クリソプレーズ王国軍のエリートである。
クリソプレーズ王国騎士団の下部組織に『クリソプレーズ王国兵団』があるが、兵団が審査と適性検査と健康診断のみで入団できるのと違い、騎士団は一定期間の見習い訓練を終えた後に試験をクリアしないと入団資格が得られない。
この試験には魔法の行使も含まれ、騎士には加護が多くなければ生き残るのが難しい任務も多いことから、そもそも騎士を目指すのは貴族の生まれの者が多い。
更に、近衛騎士の試験は騎士でなければ受験資格が無い。ただし、貴族学院の剣術の授業の単位と剣術担当教師の推薦があれば受験は可能。
そして、王族の専属護衛は騎士としての忠誠を専属となる王族に誓う必要があるが、つまりは騎士の資格があることが前提だ。
幼少期から共に在る、王族の側近としての専属護衛ともなれば、社交デビュー前の外出が自粛される年齢から、屋敷の敷地内で、親の人脈を駆使して騎士の見習い訓練を終了し、実力と騎士資格を得て、最低でも学院入学前には誓いを立て終えていなければならない。
専属護衛は王族にとって、緊急事態に陥った時の最後の命綱であり切り札だ。
王族という生まれだけではなく、ある程度の立ち位置も決まり、衆目が価値をそれなりに計算するような年頃を過ぎてから出会った騎士を、専属護衛と認め信用する王族は少ない。
専属護衛の数を増やす必要がある場合でも、王族の側は既に地位を確立した大人となっていても、少なくとも騎士の側は幼い頃から忠誠を誓い、王族との信頼関係を築けなければ、専属護衛にはなれないのだ。
忠誠心が身命の一部となり、忠誠心と共に成長したような騎士でなければ、命綱や切り札として側には置けない。
現国王が最も信頼する専属護衛は、陛下より大分若いが、子供の頃から陛下の専属護衛となり、陛下と同年代の専属護衛達に鍛えられ、近衛騎士の試験を満点クリアして今の立場となった。
ジルベルトとハロルドは、アンドレアと幼少期からの幼馴染みでもある。
何が言いたいかというと、前提に「要騎士資格」がある近衛騎士や王族の専属護衛に、平民ではなれないということだ。
子供の内に騎士資格を取れる平民はいないし、高位貴族レベルの貴族の所作や教養は、大人になってから身につけても、相応の暮らし方で、それが当たり前の状態で何年も過ごさなければ、自然とは出せないものだ。近衛騎士の試験は、それではクリアできない。「滲み出る育ちの良さ」を要求されるからだ。
このように、ただでさえ、実力主義を謳いながら、最も護られるべき人物である王族や、最も護られるべき場所である王宮を護るのは、貴族の身分の者からしか選べないのが現実だ。
だから、国軍においては出来得る限りの実力主義とし、身分によって実力を発揮出来ないような非効率が為されないように、
“クリソプレーズ王国騎士団は、決して無能なお飾りをトップに据えてはならない。”
これは、軍律を記した、見習い訓練期間に「全部暗記しろ」と渡される冊子の最初のページに書いてある一文で、騎士資格がある者は全員知っているのが建前だ。
この、中身の無い雑音で空気を汚している男は一応近衛騎士だった筈だが、あの一文を覚えていないのか、それとも曲解妄想の上で記憶されたのか。
実は、ジルベルトがこのように「騎士団長に推薦して欲しい」と密かに接触されるのは初めてではない。
前騎士団長ランディが地位を返上した直後から、既に三人目の接触となる。
密かに接触して来ているつもりのようだが、本気でコソコソと動いているのを関係各所に知られないと考えているような愚か者は、流石にいないと思いたい。
第二王子側近で『剣聖』のジルベルトにコナー家の監視が付いていない筈は無いし、何よりジルベルトはアンドレアに騎士としても『剣聖』としても忠誠を誓っている。
第二王子アンドレアの職務は国内貴族の監視や調査や粛清である。忠誠を誓う主に、ジルベルトが報告しないと思えているなら、それはそれは天晴な頭の造りだ。
現在、アンドレアも国王陛下も宰相閣下もこの件に関して動きを見せていないのは、ジルベルトを餌にして『バカ炙り出し企画』の真っ最中だからだ。
バカ三人目にして、国王陛下や宰相閣下も潰したがっていた先代王弟が紹介者として網に掛かったのは収穫だが、そろそろ餌役を降りたい。
このままではハロルドの『処分リスト』に現国王や現宰相まで載ってしまいそうなのだ。
友人が友人の親を殺すのも避けたい事態だが、飼い犬が『処分リスト』に不敬の証拠を残してしまう前に、さっさと片を付けて欲しい。
この『バカ炙り出し企画』の開催中は、前騎士団長の補佐であったオリバー・カイル副団長が騎士団をまとめているとはいえ、オリバー・カイルはカイル子爵の弟であり、貴族としては身分の高い方ではない。
それに、ランディの苦手な部分を補うための副団長だったので、騎士としての実力は高いのだが、書類仕事や他部署との調整・交渉を得意とする威圧感の無い外見は舐められがちだ。
どこまでのバカを炙り出すつもりかは知らされていないが、血筋と力で抑えられる程度のバカまで炙り出そうと長引かせるなら、騎士団が緊急時に対応できないほど混乱状態になるだろう。国防の面でも治安の面でも、それは避けてもらいたい。
ようやく終業の鐘が鳴った。
静かな微笑を浮かべたまま、一言も発さず、ただ勝手に話すのを聞いていたジルベルトは、優雅な騎士の礼を見せつけて、学院長室を辞去した。
放課後はアンドレアが会長を務める生徒会の執務がある。
気分を害し、ジルベルトを呼び止めようとしたタイタス・ベケットを学院長が止めた。
やはり学院長は狡猾だ。タイタス・ベケットが愚か過ぎるだけのような気もするが。
歴史ある学舎の中で最も豪奢に造られた扉を閉じて長い脚を進め、耳についた雑音を振り払うようにジルベルトは髪を掻き上げた。
会話ゼロの、ジルベルトの回想によるクリソプレーズ王国の騎士に関する説明回でした。