王弟からの手紙
第二王子執務室、アンドレアが一通の手紙を前に頭を抱える様子を、側近の三人は区切りの良いところまで仕事を終えた順番に見物していた。
深刻そうな頭の抱え方ではないので、三人とも他人事かつ面白そうな視線である。
眺めていても進展が無さそうだと判断し、モーリスが休憩のために立ち上がって茶器を揃えたティーワゴンに向かうと、注目を浴びていることに気づいたアンドレアが濃紫と煌めくオレンジ色に「おぉ」と肩を引いた。
「その封蝋は王弟殿下でしょう。執務室宛ではありませんでしたし、砦で緊急事態が起きたということでも無いのでしょう?」
モーリスが本日の紅茶を淹れながら訊ねる。
ここで淹れられる紅茶は、モーリスが自宅から持ち込んだものだ。毒などの混入を案じてという理由もあるが、モーリスが「アンドレアの世話をする技術」の師匠であるヒューズ家の執事長と相談しながら毎日茶葉を選んでいるからだ。
今日は発酵が抑えめで水色の薄く明るいものだ。渋味も苦味も無いが香りは華やかである。ここ最近、濃く淹れさせた紅茶を眉間にシワを寄せながらガブ飲みするアンドレアを心配しての選択だ。
「ああ。現在空席になっている騎士団長の地位に就いてほしいと父上が遣いを出したから、近々十五年ぶりに王都に帰還するという報せなんだが」
アンドレアは、複雑な想いで叔父からの手紙を見つめる。
父である国王ジュリアンから聞かされた説明によると、クリソプレーズ王国では元々、騎士団長の地位は武闘派の王弟が担うことが多く、前騎士団長ランディ・パーカーはジュリアンの専属護衛とし、王弟を騎士団長にという声が高かった。
だが、王都に常駐することになる騎士団長となれば、夫人を伴い社交をする必要も出て来ることがネックになった。
当時、既に既婚者だったランディと違い、王弟はジュリアンの結婚後も婚姻を結ぶ意思が無かったのだ。それはアンドレアのような理由ではなく、婚姻適性の問題だったと聞いている。
二歳頃に高熱を出して寝込み、それ以前の記憶があやふやなアンドレアの中でも、確かに叔父の印象は『巨大』だった。顔面だけはやたらと美しい、聳える戦士像のような叔父が一応記憶に残っている。
それは、自分が女性でも片腕で抱えられるような幼子だったからだと思っていたが、どうやら叔父は本当に物凄く大きいらしい。
この国の成人男性の平均身長は180センチ程だ。騎士など職務上身体を鍛え上げる男性ならば、平均が190センチ近い。ジルベルトとハロルドは、未だ成長期であるが、ジルベルトはそろそろ190センチに届き、ハロルドは既に190センチを超えている。
アンドレアの叔父は、顔こそ直系王族らしい極上の美貌だが、240センチを超える身長に芸術的に鍛え抜かれた筋肉を持つ、表情筋の死滅した剣士なのだと、ジュリアンは息子に告げた。
表情筋だけに留まらず、ついでに声の抑揚も死滅しているらしい。
女性との身長差が不都合なほど大き過ぎ、社交の要とも言えるダンスが難しい。
身長が大きければ、それ以外の諸々も大きい。片手で腰を握り潰せそうな大きな手を差し伸べて女性にダンスを申し込む彼の姿は、捕食のために餌を見定める大型の猛獣に見えると囁かれていた。
女性には恐怖すら与えてしまう大きな体躯と、王族でありながら笑顔一つ上手く作れない自分に落ち込み、叔父は先王である父親から結婚を勧められた時に、微笑みながらこう言ったそうだ。
『父上は、羆に伸し掛かられる令嬢の心情を考えたことがおありか』
死滅した表情筋から繰り出された微笑みの攻撃力は抜群だった。その攻撃は、先王とジュリアンのなけなしの罪悪感を滅多打ちに刺激し、以来、彼への結婚話は王家において絶対の禁句となったそうだ。
深刻な面持ちで父王から告げられた内容に、アンドレアは仕事用の爽やか王子スマイルを貼り付けて固まった。「重要機密を打ち明けるような顔で何言ってやがるこのオヤジ」という内心を隠すための笑顔だった。
薄っすらとした記憶ではあるが、幼い頃かなり懐いていたように思うが、二歳頃、アンドレアが高熱で臥せっている間に辺境の砦へ出立し、十五年間会うことも手紙での交流すら無かった叔父を、アンドレアはよく知らない。
忙しいのだろうと、特に用事も無い辺境の砦へ自分から手紙を送ることも無かった。アンドレア自身も非常に多忙な身だったからだ。
自分に、と言うか、王家にそんな繊細な身内が居るなど想像したことも無かったアンドレアは、近々帰還する叔父との関わり方に頭を悩ませる。
王族なんて、図太い、食えない、我が強い血筋だと思っていたが、父の話では叔父は王家の突然変異的に優しく繊細な男らしいのだ。
「難しく考えることは無いでしょう。父から聞いていますが、砦へ出向する以前の王弟殿下は、貴方を非常に可愛がっていらしたそうですし」
毒見を済ませた紅茶をアンドレアの前に置いて声をかけるモーリスだが、返事は悩ましい呻きを伴って戻って来た。
「俺も、一応それらしき記憶はある。だが、何故か叔父上は俺から怖がられ嫌われていると思い込んでいるらしい」
「はぁ? 僕には王弟殿下を遊具のようによじ登ってじゃれついているアンディの記憶しかありませんが?」
アンドレアと生まれた時からの付き合いであるモーリスが、執務机に片手をついて呆れたように自分の紅茶を飲むのを見て、ジルベルトとハロルドは自分の分の紅茶を取りに執務机の周りに集まった。
アンドレアの側に来いという、モーリスからの無言の召喚であることに気づいたのだ。
「私は王弟殿下のことは噂でしか知りませんが、噂通りに大剣や戦斧や大槌を振り回す大柄な戦士ならば、親戚の子供に怖がられているのではと考えても不思議は無いと思いますよ」
辺境の砦で指揮を執り王都に戻らない王弟殿下は、ジルベルトにも職務上の関わりが無い。
王弟殿下は社交の場にも全く姿を現さないので、そちらからの噂も人々の口に上ることも無い。
現国王ジュリアンに、同母の王弟がいることは貴族の常識として知っているが、大型武器を軽々と振り回す大柄なパワーファイターだと、親世代の男性陣から聞かされた程度の情報しか無い。国王陛下が警戒対象としていない王弟は、アンドレア達にとって仕事の対象外なので、手を回す暇も無く詳細な人物像を調べたことも無かった。
「俺も騎士団の方で聞いたことがありますが、見た目に反して繊細な方なので、女性や子供のような壊れ物は苦手分野だとか」
「壊れ物・・・苦手分野・・・」
高熱前の記憶が大幅に抜け落ちているアンドレアは、眉を顰めて首を捻る。
「まさか、熱を出した原因が叔父上だったとかか? まるで覚えていないから怖がりようも無いし嫌う理由も無いんだが」
「王弟殿下がそう誤解している可能性はありますが、それは有り得ないと思いますよ。貴方は熱は出していましたが、かすり傷どころか痣一つ無かったそうですから。王弟殿下が壊していたら、五体満足では発見されてないでしょう」
涼しい顔で幼子バラバラ惨殺事件を匂わせるモーリスを半眼で見て、アンドレアも紅茶を口に含む。
一息ついて、天井を仰いだ。
「互いに多忙だろうと手紙一つ送らなかった俺も良くなかったんだろうな」
「で? 王弟殿下が、既に17歳の可愛げの消え失せた青年になった甥に未だに怖がられているとお思いでも、その程度でそこまで悩む貴方ではないでしょう?」
「モーリスが優しくない」
「アンディ様、それはいつものことです!」
ハロルドの失言に、モーリスが冷気を飛ばす前にジルベルトが裏拳を叩き込んでおいた。ご褒美にもなってしまうので悩ましいところではあるが、モーリスの攻撃ではハロルドに当てられない。
「で?」
蒼い眼の笑っていない笑顔で圧を強めたモーリスに、アンドレアは「ハリーの失言のツケは何故いつも俺が払わされるんだ」とブツブツ呟きながら、封筒の中から問題の手紙を取り出した。
「叔父上がおかしい」
「我々が見てもいいんですか?」
「ああ。俺が一応覚えている叔父上と手紙の文面が一致しない。モーリスなら分かるだろ」
第二王子の許可を得て、王弟殿下から届いた手紙を側近三人が頭を突き合わせて覗き込む。
そこには、美しく整った几帳面な文字で丁寧に怪文が綴られていた。
『愛しき甥、アンドレア
俺は、もうすぐ王都に帰る。ガハハ。
アンディは今でも俺が怖いか。
俺が本体じゃないからか。
俺は本体だぞ。本当にちゃんと本体だからな。
嘘じゃないんだ。中身なんて出て来ないんだ。
嫌われてるのは分かってるが、俺は好きだ。
ずっと忘れたことは無い。
もうすぐ会いにいくぞ。
誰よりも可愛いアンディ。
本体の叔父、レアンドロより。ガハハハハ』
執務室内に、微妙な空気の沈黙が流れる。
何か言え、という無言の圧力を主人から視線で受けて、モーリスは、そっと怪文書を持ち主の手元に押して戻した。
「熱烈な謎ラブレターでしたね」
言いながら、モーリスの視線は窓の外の夏空を向いている。
「俺、手紙で『ガハハハ』って書く人を初めて見ました」
「リアルでも、その笑い方をする人物にお目にかかったことは無いですね」
ハロルドとジルベルトの反応も、怪文書の中の比較的触れても支障が無さ気な部分だけをピックアップした、逃げの姿勢だ。
「お前ら・・・」
恨みがましい王子様の声音に、仕方が無いなと三人は顔を見合わせて、思い思いに口を開いた。
「取り敢えず、僕の記憶の中の王弟殿下の口調と違うのは確かですね。お顔に見合った紳士的な話し方をされていました」
「砦の総指揮を執る方なので、中央と書簡の遣り取りはしていたでしょう。王弟殿下からの書簡について変わった噂を聞いたこともありませんし、甥への親しみ故の文面なのでは?」
「誤解があるなら再会して解けばいいんですよ!」
それでもアンドレアの恨みがましい視線は、三人に平等に注がれている。
三人とも、理由は分かっている。
肝心な部分から、揃いも揃って目を逸らして逃げている自覚はあった。
「・・・本体」
ボソリと呟くアンドレアから、三人が一斉に顔を逸らした。
「・・・中身」
ボソリと続けられたもう一言に、三人は自分のカップを持ち上げて、物理的に逃げの姿勢に入る。
「・・・薄情者」
「いや、だって、何か、ものっすごくアンディ様の自業自得臭がするんで」
責められてハロルドが言い返すと、モーリスとジルベルトも重々しく頷いた。
「俺は一体叔父上に何をやらかしたんだ」
頭を抱えて唸るアンドレアをそのままに、カップと共に自分の席に戻った三人は業務を再開する。
至極久々の血の通った人間らしい悩みを、主人に存分に堪能してもらうために、自分達で片付けられる仕事は手分けして進めるつもりだ。
打ち合わせなど無くとも想いを同じくする同僚に、互いにひっそり口許を緩める。
窓の外は夏の空だが、もう晩夏であり、秋咲きのダリアが見下ろす小庭園で揺れていた。