残される事実
第二王子の執務室は、今も厳戒態勢が続いていた。
同盟国の王族へ送る機密報告の草案等もあるのだ。扉以外から出入り出来る者とて厳選される。
ジルベルトは待機していたアンドレア達の前に立ち、口を開いた。
「むさ苦しい姿のまま直行しましたこと、お許しいただきたく」
あの自白剤を用いたのは丸二日以上かかる聴取であり、罪人から出る様々な体液や汚物の臭気も移される。窓の無い小部屋に共に籠もることになる自白剤の使用者のため、聴取の前に罪人の意識を失わせて一度丸洗いをして体臭は取るが、常人であれば吐き気を催すような臭いが移ることは避けようが無い。
アンドレアは、常ならば清廉で凛々しい麗容が、退廃的な妖しさを纏い、心の無い石像すら悩殺しそうな色気を溢れさせている今のジルベルトを見て苦笑した。
「いや、お前がむさ苦しかったら世の男共は誰一人外を歩けなくなるぞ。薄っすら無精髭が生えて来ても麗しいっておかしいだろ。ハリー、鼻血を拭け」
最後だけ、名を呼んだ本人には視線を向けず遠い目をして言うと、モーリスがサッとテーブルを拭くための布巾を、ジルベルトを凝視していたハロルドに渡した。
その様子を目の端で確認し、アンドレアはジルベルトへ着席を促す。
「ご苦労だったな、ジル。報告を聞きたい」
「はい」
ソファに腰を下ろしたジルベルトの向かい側にアンドレアも座り直し、モーリスは四人分の紅茶を淹れにティーセットのある棚に向かった。ハロルドはジルベルトの背後に立って、他人の臭いの付いたジルベルトを不機嫌そうに嗅いでいるが、いつものことなので室内の誰も気に留めない。
天井裏でドン引きするコナー家の精鋭は御愁傷様だが、それもいつものことだ。
「まずは、カーネリアン王国子爵令嬢の捜索指示を出した方が良いと思われます。E-3が呪いの材料欲しさに路上に一人で居た令嬢を誘拐し、スラム街に繋がる路地裏で人形だけ取り上げて犯罪者の屯する暗がりへ突き飛ばしたようです」
処刑の決まった大罪人の名を高貴な人間が口にすることは無い。名前の頭文字と、記録上残っている同じ頭文字の大罪人の続き番号を振られて識別される。
エリカは、史上三人目の頭文字がEの大罪人だ。Eで始まる名は割と多い方だ。
「関わりがあることは予想していたが、正にそれ目的で誘拐されたことは公には出来ないな。高そうな人形を取り上げる為に人気の無い場所まで連れて行ったところで男達に囲まれ、令嬢を置いて逃げた。辺りが記録に残し被害者側に伝えられる内容だ」
事実をそのまま残し伝えることが必ずしも正義とは、為政者の立場になれば考えることは出来ない。
アンドレアの決定は、自国の利益だけを考慮したものではなく、被害者側の立場を失わせない為のものでもある。
同盟国以外でも、ここまで厳格ではなくても呪いに関する情報は禁忌のもの扱いだ。必要以上に知れば、故国で痛くもない腹を探られかねない。
それに、最終目標が王族である陰謀に巻き込まれた事実を知れば、国同士の交渉の道具にされることになるだろう。
王政の国では、子爵家の立場は王族や高位貴族の意思一つで如何様にも翻弄される程度の軽さなのだ。ニコルのミレット家のような特殊な事情でも無い限り、国が重要視する順番は身分という序列の通りである。
特殊な事情があるような家ならば、我が国でも噂くらいは把握している。件の子爵家は、多少裕福であるだけの、特に何処かの王族と縁を繋いだことのあるような事実も無い、ごく普通の子爵家だった。
事実を知ろうが知るまいが、自衛する魔法も習熟していない幼い娘から他国の路上で目も手も離してしまったのは彼らの非であり、娘が無事で戻って来るかどうかには関係しない。
彼らに事実を知らせたことで、彼らの立場を危ういものにするだけではなく、今は型通りの平穏な国交しか無い国家間に不穏な色を付ける切っ掛けになるかもしれないのだ。
エリカが子爵令嬢を誘拐した動機は、あくまでも孤児で非合法な街娼をしていたエリカが金欲しさでやったのだということにしなければならない。
子爵令嬢が突き飛ばされた詳しい場所を聞いたハロルドが、一旦部屋を出て捜索の指示を出して戻るまでに、モーリスはテーブルに紅茶を三人分置いて自分も空いているソファに座った。
ハロルドの分の紅茶は、ジルベルトが一人がけのソファに座っているので、どうせその背後で立ったまま飲むだろうと、入口近くの花瓶を載せた台に置いておいた。鼻が利くから気がつくだろう。
「呪いの手法はゴードン・ファーレルから伝わっていますが、ゴードンは、それを『アンドレア王子とクリストファー・コナーから聞いた』とE-3に話していました」
ゴードン・ファーレルは、もうこの世にいない。死人に口無しだ。
エリカが一度目のアンドレアとクリストファーから得た知識は、ゴードンが今のアンドレアとクリストファーのせいにしようと工作したことにした。
「ああ、やりそうだな」
嘆息するアンドレアも疑わない。
第一王子側近だったゴードンが、アンドレアを目の敵にし、クリストファーを邪魔な存在と敵視していたことは、関わったことのある者達には周知の事実だった。
「同盟国の王族へ送る報告書では、E-3に呪いの手法を伝え実行を教唆したのは、街娼時代に客として接触して来た自称帝国の工作員だということにしておくが、接触時期はどうする?」
「ゴードン・ファーレルが接触を開始した時期と重ねておきましょう」
長い脚を組んで自分の膝に肘を付いた姿勢で側近達にアンドレアが問いかけると、主人の分の毒見を済ませ自分の紅茶に口を付けていたモーリスが淡々と答える。
歴史は時の権力者が創るものであると、この執務室で働いていると実感するな、とジルベルトは内心で呟き、報告を続けた。
「E-3と同じ孤児院の少年が行方不明になった件は、やはりE-3によって生贄に使われていました」
「やはりな。生贄であれば遺体も消えている。行方不明扱いのままで捜査は打ち切りだ」
エリカを極悪人として処刑する為に、生贄にした少年を自称帝国の工作員へ売ったことにする案もあったが、それだと同時期にエリカが誘拐したカーネリアン王国の子爵令嬢も、エリカが自称帝国の工作員へ売ったのではと疑われる。
他国の貴族令嬢を自国民が自称帝国に売ったということになれば、クリソプレーズ王国の国際的な評判が傷付けられ、友好国でもないカーネリアン王国からは、国家が賠償責任を負うよう追求される可能性もある。
自衛する力が弱く見目は良い子供が行方不明になる事件は、残念なことに珍しくはない。
国内貴族の子供は茶会デビューの年齢を引き上げた国法によって、誘拐の被害者になることが随分と減ったが、平民の子供は自分の身は自分で守るしかないのだ。
生贄にされた少年が、このまま「よくある行方不明事件」で処理されても、疑いを持つ者は、ほぼ出て来ないだろう。
「クーク男爵はE-3によって精神操作の呪いで支配され、金品を要求する命令以外は、『クーク男爵として働け』、『クーク男爵として生活しろ』という命令を受けていたようです」
「ああ・・・。変な所で知恵が回るな。発覚が遅れたのはそのせいか」
「貴族家の当主でありながら管理職にも就いていない男爵ですからね。多少振る舞いがおかしくても、注視して調べるほど周囲も暇ではありません」
ジルベルトの報告内容に、うんざりした表情で毒見済みの紅茶を飲むアンドレアと、戻って来たハロルドが扉の近くで鼻をヒクつかせてカップを見つけるのを確認して相槌を打つモーリス。
執務の重要度の割に緊張感が無いな、とジルベルトはまた内心で呟いた。
「クーク男爵は、E-3に中毒性のある強力な媚薬を盛られ、娼婦の手管と薬の効力で洗脳を受け支配下に置かれた。養女として迎え入れてからは、自称帝国の工作員がE-3に渡した解毒剤の無い特殊な毒を、妻や幼い息子に使うと脅され、逃げることも逆らうことも出来なかった。で、いいか」
「その案ならばクーク男爵の名誉は損なわれますが、一応被害者として扱えるので、処刑は免れますね。妻子に咎めが行くことも無いでしょう」
「どの道、クーク男爵はコナー家の医療施設で長期保護となる。E-3の処刑後も呪いの影響の予後を観察するからな。貴族家の当主として再度表舞台に立つことは出来ない。妻子を完全な被害者として同情を集め、後見人を付けて家督は幼い息子に継がせることでクーク男爵家を残す」
「では、『中毒性のある強力な媚薬』のリストを作成しておきます。E-3がクーク男爵の脅迫に使ったとされる自称帝国の工作員から入手した毒は本物にしますか?」
アンドレアとモーリスの間で進められる話を、ジルベルトとハロルドは紅茶を飲みながら聞いている。
この手のシナリオ作りは、大抵が得意な二人で展開が決められて行くのだ。
任せておいて不安も不満も無いし、決まって行く今後の展開の中で実力行使要員が何を請け負うのか、頭の中で考えながら聞いている。
「毒はゴードン・ファーレルの所持品から押収したブツで行く」
「本物ですね」
ハロルドが、ふと思いついたように掌サイズのぬるま湯の水球を作り出し、それをジッと見ながらブツブツと何事かを口の中で唱え始めた。
何してるんだコイツと思いながら、ジルベルトは報告を続ける。
「E-3はクーク男爵の養女となった後、魅了の呪いに必要な品をクーク男爵の資産と権力で集めさせていましたが、『カギグルマ草』が入手出来ず学院内で接触可能な高位の身分の令息らを魅了する計画が頓挫。支配下に置いたクーク男爵の様子から、精神操作の呪いの方が相手の持つ財産等を奪うには使い勝手が良いと判断し、集めるモノを精神操作の呪いに必要な品へと軌道を変えました」
「ミレット嬢に流通を操作してもらっていて助かりましたね。何人もの高位貴族の令息が呪いの餌食になっていれば、事実の隠蔽は困難を極めたでしょう」
「対策を取らずにいたら何処まで蝕まれていたかと考えれば、ゾッとするな」
対策が取れたのは、エリカには一度目の記憶があるのではと推測したクリストファーの功績だ。それが無ければ、エリカが呪いのやり方を知っているのではと思い至ることも無かった。それを今生の記憶しか持たない誰にもジルベルトは言うつもりは無い。
「E-3は、支配下にあるクーク男爵にかなり強引な手段で必要な品を集めさせ、ニコル嬢を精神操作の呪いにて意のままにすることを企てました。ニコル嬢を支配下に置いた後は、ニコル嬢の資産とミレット商会の力で精神操作の呪いに必要な品を大量に仕入れさせ、それらを使って第二王子及び側近、更にクリストファー・コナーを支配しようとしていました。ニコル嬢の資産を奪い尽くした後は、ニコル嬢を最下層の娼婦として場末の娼館に売り飛ばす計画も立てていました」
「は?」
アンドレアが、エリカの下劣な思考に、不快感を表すよりも訝しむような顔をした。
「どう考えてもソレが不可能だということは置いておくとして、あの女が面識も無いミレット嬢にそこまで恨みを向ける何があったんだ?」
理解不能という具合で眉を寄せている高貴な生まれの主に、「関わらない人種だから理解できないだろうな」と思いながらジルベルトは淡々と答える。
「E-3はニコル嬢を『自分より下の女』と見ていました。ニコル嬢は成り上がりの血筋で、容姿もカネをかけなければ地味なブスの筈だと思い込み、由緒正しい男爵家の血を引く特別に可愛い自分より女として劣っているという考えに固執していたようです。だから、ニコル嬢が美しく着飾って、護衛の見目の良い男達に傅かれていたことが許せなかったことが動機です」
「は?」
言葉の内容を理解しても意味が分からない、何とも言えない気持ちの悪さをアンドレアは覚える。
「ミレット嬢の祖母が生まれた伯爵家は、側室腹の王子が婿入りしたこともある名家だぞ。病死した母親自身は問題のある人物だったが、血筋だけで言えば侯爵家の分家筋の子爵家だ。祖父が平民から成り上がったとは言え、平民の時分も何代も続けて商人として成功していた、実績も教養も人脈もある家だから爵位を賜ることになったんだ」
「そうですね」
耐性を付けるためにクソ不味い毒を飲まされた時よりも嫌なモノを口に入れられたような顔で、滔々とミレット家の血筋について話すアンドレアに、やはり淡々と相槌を打つジルベルト。
アンドレアの斜め左に座るモーリスが、表情筋を微動だにさせずに実はドン引いているのも、さもありなんと思っている。
何だかんだ、この二人はどんなに手を血に染めようが、何処まで行っても育ちの良い若者なのだ。貴族社会における血筋の重要性は身に沁みている故に、頓珍漢なエリカの血筋自慢が本気で理解できないのだろう。生まれも育ちも厳選された血統な人間ならではの感性を持っているし、それが揺らぐことも無い。
「大体、カネをかけなければ地味なブスの筈という理論がおかしいだろう。ミレット嬢は茶会デビューから、社交界で功績や資産だけではなく美しさでも有名だったんだぞ。8歳の少女が外見のみでも注目を浴び、感嘆の溜め息を吐かれる程だったのだから、土台からして相当に上等だったということだろう? 夜会はともかく、学院では濃い化粧もしていなかったし皆と同じ制服を着用していた。それでも十人中十人がE-3よりもミレット嬢の方が美しいと感じると思うぞ」
アンドレアは、男性故に「カネをかける」が示すのが衣装や装飾品、せいぜい化粧だと考えているが、実際ニコルは美容に関して、肌にも髪にも体型維持にもお金と努力は惜しんでいない。
その辺は別に説明しなくてもいいだろうとジルベルトは考えた。それだけ説明しても、どちらにしてもアンドレアやモーリスが、エリカの感性を理解出来ることは無いからだ。
「アンディ様、E-3みたいな女は市井においても忌避される嫌われ者になりますが、然程珍しい訳ではないですよ。できましたジル様!」
先程から掌サイズの水球をブツブツ言いながら捏ねくり回していたハロルドが、漸く会話に参加して、満面の笑みでポヨンポヨンしたぬるま湯の水球を掲げた。
「何が出来たんだ?」
何となく嫌な予感がしてハロルドから身体を引き気味に問うジルベルトに、目を爛々と輝かせた変態犬が迫る。
「ジル様から他人の臭いを拭い去る俺の作り出した魔法です!」
うわぁ。三者三様の引いた表情を、天井裏のコナー家の精鋭は、「ドン引きにも種類があるんだな」と感心しながら眺めていた。
アンドレアとモーリスは、上書きされたドン引きでエリカの思考に感じていた気持ちの悪さから救出され、知らず強張っていた筋肉から力が抜けた。
それに気づいたジルベルトは、犬への褒美として仕方無く好きにさせることにした。
どうやら水と火の妖精の力を借りて作ったぬるま湯の水球に、土の妖精の力を借りて適度な弾力を付けて粘土の一種を混ぜ込み、そこに風の妖精の力を借りた作用で汚れと臭いを吸着するようにしたらしい。
解析すると、アンドレアが呆気にとられる程、物凄く高度な魔法だった。
モーリスが蟀谷をグリグリと揉み解す。
「本当に、ジルの為なら君に限界は無いですね」
ジルベルトに受け入れられたことで、上機嫌に掌サイズのポヨンポヨンでご主人様の汚れを拭き取って行く犬。
されるがままのジルベルトは、意外と心地良い使用感に、後で自分でも作ってみようと思案する。
顔、首筋、髪と丁寧に水球を滑らせながら、ハロルドは話を戻した。
「狭い世界で万能感を持つと、自分は何処に行っても通用する『特別さ』を持っていると思い込むんです。我々だって、恥ずかしいことに、ずっと幼い頃は覚えがあるでしょう。貴族なら教育を受けることで己の小ささを自覚することになったり、外見なんて社交デビューすれば、一部の極上の容姿の持ち主以外は人並みであることを痛感させられます」
一方的に騎士達に慕われているハロルドは、この場にいる三人以外の人間に興味が無いので、下級貴族や平民の騎士達に対しても高位貴族相手と態度が変わらない。
それがまた慕われる要素となり、リアルな市井の生活や人情絡みのトラブル、貴族達の恋愛遊戯とは趣の異なる生々しく欲望に忠実かつ直結な愛憎劇も耳にする機会が多かった。
平民の中では、下級の兵士ではなく騎士となればエリートであり優良物件だ。妻や恋人の座を狙う女達の熾烈な足の引っ張り合いに蹴落とし合いは、笑い話に出来ないほど男にとっては恐ろしい。
昔から、男所帯の騎士団には男色家が多いと噂されているが、実情は、平民出身の騎士が女性に奪い合われて女性恐怖症になって同性に逃げ道を求めたケースが噂になっているだけだ。
ハロルドにも男色家の噂が立っているが、彼は男色家ではない。執着するジルベルトが偶々男性だっただけだ。少なくとも、本人はそう思っている。どれだけ女性が嫌いでも、そこは譲れないらしい。
「平民でも貴族でも美しい人間は価値が高いように扱われますが、それは、生まれながらに美しければ妖精の加護を授かる段階で有利であるからです。魔法が使えて当たり前の貴族なら、幼少期からその考えが常識として身につく。ですが、市井では『美しい人を大切にしていれば、いつか得をする』という話が一般論として通じています」
襟元を緩めて制服の下に侵入しようとした変態犬の手をギリギリと締め上げるジルベルト。恍惚の表情で与えられた痛みを堪能してから、ジルベルトの手袋だけ脱がせて手を拭き始める変態。
繰り広げられる攻防は突っ込みどころ満載だが、ハロルドの声も口調も、ごく落ち着いたまま何事も無かったように語り続けられる。
「過去に、平民出身でも加護の多さから優秀な魔法使いになったり貴族と縁ができた人物がいて、そういう人物に恩を売っておけば利益になって返って来る、ということでしょうが、見目良く生まれた子供は、ただ他人より優遇されてチヤホヤと甘やかされることが当然という環境で育ちます。運良く挫折すれば、大人になる頃には恥ずかしい若気の至りの過去になりますが、取り巻きに守られながら成長すれば、いい年をして『カワイイ自分が』または『イケメンな俺が』望むことが叶えられない筈が無いという思い込みを正すことが出来なくなるんです」
「E-3は貴族学院に編入しただろう。あの程度の容姿なら貴族令嬢ならば並みの中だ。おまけに魔法を使える加護さえ無かった。それでも挫折しなかったと言うのか?」
変態が変態なのはいつものことだと気にしないことにして、アンドレアは話の内容で気になったことを問い質した。
「その辺は、俺も貴族として生まれたので、最初に平民の騎士から聞いた時には妙なことを考えるものだと思いましたが、平民から貴族に身分が変わることを、彼らは『人間としてランクアップした』ように感じるそうです。玉の輿だったり逆玉の輿だったり、または能力を見込まれての養子縁組だったりと、大概は男爵家ですが、平民が貴族と縁付いて身分の変わるケースもありますよね。そういった場合、かなり強く『自分は特別な素晴らしい人間だ』と思うようになるそうです」
「E-3は、市井では挫折を覚えないまま万能感を持って育ち、男爵家の養女になったことで、自己を特別視するフィルターがかかったまま貴族社会に入ったということか」
「はい。おそらく。ジル様、足を拭きますから靴を脱いでください」
アンドレアに向かって神妙に頷いた後、ジルベルトに向かって嬉々として躙り寄るハロルドに、意外とマトモな事を言うものだと感心していたジルベルトは、ハッとして身を離した。
「お前、素足を晒すと舐めようとするから嫌だ」
エリカの聴取で、体力的には問題は無くとも神経は磨り減らしていたジルベルトは、咄嗟に普段の余裕を取り繕わず反応してしまう。
アンドレアが王族らしい極上の美貌が台無しな面白い顔でジルベルトを凝視し、変態犬は鼻血を噴出して倒れた。
「ジル。君、そろそろ身の危険を感じた方がいいですよ」
普段は動かさない表情筋を半分だけ笑顔にしながら絶対零度の視線で、ジルベルトの望外に可愛らしい口調と色気に当てられた主人と同僚を突き刺して、モーリスは、そっとジルベルトの手を引いて席を立たせ、自分の隣に座らせた。
生涯独身が決まっている見目麗しい注目度の高い男達で、妙な雰囲気を醸成しないで欲しいと、モーリスは視線に意思を込める。
ハロルドが危険なことは端から承知だが、アンドレアはジルベルトへの幼い初恋を、彼の誇れる主を目指すことで昇華したのではなかったのか。
絶対に本人にはバレないように秘めておく子供時代の思い出だと言っていたくせに、国の為に生涯独身で愛人すら持たないと陛下に誓いを立ててから、そんな目をジルベルトに向けたら男色の噂が立つだろうが。
モーリスの絶対零度の視線は、アンドレアを容赦無く責める。
別にアンドレアが実際に男色家だろうと、モーリス個人は一向に構わないが、種々の事情で第二王子周辺は、将来的にも妻を娶ることができるのはモーリスだけになるのだ。
身分と財産を持つ貴族男性が独身でいることは、親か男性の後ろ盾が無ければ生きることが難しい貴族女性の保護という義務を放棄していることになり、貴族女性と紳士達を敵に回す。つまり、貴族社会で仕事がやり難くなる。
それを回避する為に、手を回したり根回しをしたり策を講じて奔走するのはモーリスだ。これ以上、手間を増やすなと訴えたい。
どうせ手に入らない『剣聖』相手に揃って不毛な、と考えたモーリスは、絶対に手に入らないからこそ、安心して妄想の対象や秘めたる想いの対象に出来るのかもしれないと思い直した。
まぁ、どちらも暴走しがちな危険人物なので、強さ故にその手の危機感が薄いジルベルトを、出来得る限りケダモノ共から保護しようとは考えているが。
そんなモーリスの横顔を眺めるジルベルトが、「やっぱりモーリスは皆のお母さん」と思っていることは、幸い勘付かれていない。
「完徹が続いていますから、そろそろおかしくなる頃合いでしょう。一度休憩を入れて仕切り直しますよ。ジルは奥で入浴して来てください。替えの制服は僕が出しておきます。アンディはハリーがジルを覗きに行かないように捕まえておく。僕は軽食を用意します」
テキパキと指示を出すモーリスに、室内の三人と天井裏の一名の心が重なった。
お母さんだ。
クリソプレーズ王国の史実を創り上げる為の、厳重に隔離された第二王子執務室。
そこで実際に交わされる緊張感の無いやり取りや変態の自由な挙動、諸々の嘘と憂い。それらが後世に残されることは無い。
これが史実として記録されたならば、モーリス・ヒューズは『お母さん宰相』として歴史に名を残すのだろうか。と、自覚する以上に疲れていた頭でジルベルトは想像した。
天井裏のコナー家の精鋭は、監視目的ではなく、そのルートからの侵入者を排除するために配置されています。
第二王子と側近達は、王族と高位貴族の令息ですが、四人とも入浴や着替えの他、身の回りのことは自分で出来ます。
アンドレアの世話は護衛目的で側近の誰かが付きますが、他の王族より暗殺を狙われることの多いアンドレアは、側近以外を無防備になるタイミングで近くに置きません。その時も、護衛の手を塞がないよう自分のことは自分でやります。
モーリスはアンドレアの世話をする為に覚えました。凝り性なので、「お母さん」レベルで世話を焼ける程度に色々出来ます。
ジルベルトは侍女や侍従が性犯罪者に変貌してしまうのを回避する為に、装備を外す時は一人です。前世の平民で母親だった記憶があるので、披露していないだけでリアルにお母さんスキルがあります。
ハロルドは女性は近くに寄せず、子供の頃から軍人として野営も単身で完遂可能となるよう訓練を積んでいるので大抵のことは出来ます。