次期宰相の仕事
アンドレア達が現場に出て留守中の第二王子執務室で、モーリスは今回の件に関する諸々の書類を纏めていた。
今後の方針では、第一王子は今のまま『次期国王』として扱うが、それはお飾りとしての即位となり、実権は第二王子のアンドレアが握ることを国王陛下も承認した。
第一王子の側近は専属護衛以外は総入れ替えとし、側近の選定は現宰相のヒューズ公爵が行う。
第一王子の即位と共に宰相は現在のオズワルドから嫡男のモーリスに引き継がれ、王弟側近のモーリスが宰相として国王を監視する形となる。
第一王子の今後は、正統な血を引く子を成すために飼われる籠の鳥だ。次期国王の側室も、アンドレア達が選定をする。
同盟国への配慮や野心による内乱を防ぐために、アンドレアは正妃を置くことは無くなる。
どう隠しても、国の上層部に在る者には、実権が国王には無いことを気付かれる。外交の頻繁な同盟国の上層部にも推察されるだろう。
アンドレアは、正妃も公妾も愛妾も持たないことを陛下に宣誓している。公式な書類に残すのは「正妃を置かない」ことだけだが、正妃以外の子供は王族とならず継承権も無いので、書類上はそれで十分だった。
それでも、「天才」と称されて来た自分の血を引く子があれば、下らない野心を持つ輩が国を乱しかねないことを憂慮し、アンドレアは己の子を持たないことを国王陛下に誓った。
国王は、「父としては、お前の子である孫も抱いてみたかったがな」と嘆息しながらも、王族として国を守るために、自己の生物としての本能の一つを生涯封印する決意をした若き息子を、長男を御し切れなかった無力感と共に誇りに思ったと言う。
アンドレアは国の為に生涯独身を貫く。妾すら持たないのだから、側に女性を置くことが無い。
ジルベルトは『剣聖』だから生涯独身は決定済み。
ハロルドには女性との結婚などさせられない。表向きだけでも、と無理にさせても破綻は目に見えている。妻役を演じるだけの契約結婚でも、ハロルドの敵意を浴び続ければ心身ともに病むだろう。ハロルドが女性に向ける敵意は本人にもコントロール出来るものではない。どうせ、この後パーカー伯爵に見せる報告書でパーカー家は無くなる。不幸と醜聞しか生まない結婚など必要無い。
だが、王子も側近も誰一人婚約者を持たない今の状況が続けば、第一王子の婚姻が済んだ後には社交界の目が許さなくなる。「結婚して一人前」などという戯言は切って捨てても、女性蔑視や同性愛を疑われると仕事がやり難くなる。
アンドレア達の誰も女性蔑視の意識は持っていないし、同性愛の関係があるという事実も皆無なのだから、妙な勘繰りを招いて仕事に支障をきたすのは避けたい。
モーリスは、公爵家嫡男の義務としても、第一王子婚姻後には速やかに妻を娶る必要があるのだ。アンドレアの正妃が決まってから、と考えていた自らの婚約者の選定を急がねばならなくなった。
モーリスの妻となる女性の条件は、中々に厳しい。モーリスの好みがうるさい訳ではない。彼の現在置かれた立場故の難しさだ。
まずは、家格が釣り合わねばならない。公爵家の中でも家格はトップの方なのだ。公爵家というだけでも辿れば興したのは王弟または王兄なのだが、その中でも功績を上げた当主が多い、連続した、そういう家は家格が上がる。
ヒューズ公爵家は、現当主が国王の側近であり宰相で王妹を妻に迎えている。先代当主は武闘派な王弟の側近で、血の気の多い王弟を諌める役回りが先代国王からも重宝されていた。遡れば宰相の他に財務大臣を輩出した代もある。そして、次期当主のモーリスは次期国王の監視役の宰相となる国政の実権を握る次期王弟の側近。
高位貴族か王族の女性からしか妻を選べない家格なのだ。だが、モーリスの母が王妹なので、国内勢力のバランスを考えればモーリスは王族から姫君を貰うことは出来ない。二代続けて同じ家に王女を降嫁させることは、贔屓や独裁を疑われ、王家の心象も悪くなる。
更に、その中で、実家が王国に心からの忠誠を誓い、私利私欲に走った野心を持たない家であるか、例え実家が野心を持ち怪しい動きをしても、それを抑えることが出来る女性。
その時点で、そんな女性がいるだろうか、と首を傾げたくなる条件だ。
加えるならば、アンドレアの『血塗れ』やモーリスの『氷血』の噂に怯えず、アンドレア達に刺客を送って来る者達から確実に弱点として身柄を狙われることになるだろうから、ある程度は自分の身を自分で守れる強さは必要だ。
そして、出来ればだが、ヒューズ公爵家の後継を産む女性となれば、無能の遺伝子は入れたくない。
そんな無茶苦茶な条件を満たす女性がいるか。荒唐無稽な物語の登場人物でもあるまいし。
モーリスは、良く出来た仮面のように整った顔面の表情筋を動かさずに書類作成を続けながら考えて、ふと頭の中を過ぎった一人の女性の姿に思わず口許にだけ薄っすらと笑みを掃いた。
天井裏でコナー家の監視が身震いする。
「ああ、最適な方がいましたね」
独りごちるモーリスは、上から漏れ来る怯えの気配にも機嫌が上がる。
先に挙げた全ての条件を満たし、国政の裏にも馴染み、余計な詮索は命を縮めることを理解している女性。
年齢は一つ上だが、それをマイナス点とする必要の無い美貌と教養。仲間の友人の実姉という繋がりも自然だ。婚約者の家が二つ続けて没落した、縁起の悪い事故物件扱いであることも都合が良い。好条件しか無い女性では、モーリスの立場では王位簒奪まで疑われる。
「フフ・・・逃しませんよ」
愉しげでありながら、刃を思わせる笑顔をモーリスが浮かべた時、王都内で侍女に日傘を差し掛けられていたプリシラが身震いし、「あら、真夏なのに寒気が・・・」と呟いていたが、迫る危機には気付いていなかった。
「さて、次は・・・」
時間がかかると思っていた憂鬱な懸案事項が一つ、一瞬で解決した。
上機嫌でモーリスは、次の不愉快な仕事に取り掛かる。
モーリスは現場に出る能力が無いわけではないし、他の三人が書類仕事を苦手としているわけでもない。
だが、モーリスは自覚していた。自分以外の三人は、それぞれがカリスマであり天才であり、自分は優秀に過ぎるだけの凡人であるのだと。
傲慢か謙遜か分からない自覚であるが、モーリスは己の能力を高く評価し卑下などしないが、本物の天才を見れば、自分は「違う」ということが分かってしまったのだ。
アンドレアは、間違い無く天才でありカリスマだ。第一王子として生まれていれば、伝説として名を残す王となっただろう。
外見の美しさだけではなく、彼を嫌い反発する人間の目すら惹きつけてしまう、上に立つ者の魅力。おそらく、歴代王族最高の加護を得ている頑健な身体と、その加護を力に類稀な頭脳で練られた強力かつ強大な魔法。決断力と決断による責任を負う胆力に、王族としての誇りと決意。
かつて『傲慢な俺様王子』であった彼を変えた根底にあるものが、「大好きな側近にカッコイイ主人だと思われたい」だとしても、成長した今はそれだけでは無いし、原動力がそれだから悪いことだとも思わない。
アンドレアは、抑止力だ。外圧も、内乱も、彼の存在が抑え込む。彼が天才であるが故に、内外の敵は躊躇するのだ。「アレが居るならバレるかもしれない」、「アレが居るからバレたらマズい」、「アレが居るから仕掛けたらマズい」と。
容赦無い粛清を実行する『天才』アンドレアの存在が、謀の途上でも「泳がされているだけでは?」という疑心を生ませ、悪事を成し遂げたと喜んだ瞬間に叩き潰され、芋蔓式に過去から遠い関係者まで粛清される様子を目の当たりにした人間達の敵意を萎縮させる。
アンドレアは、存在するだけでクリソプレーズ王国の護りとなるのだ。
ジルベルトは『剣聖』なのだから、当然、剣士としては無上の天才だ。
だが、彼はそれだけでは無い。
美形の多い貴族の中でも奇跡と呼ばれ、美しいものが好きな妖精が特別に加護を多く授ける王族の血筋の者を凌駕する人外の美貌を有し、それ故に物心がつく前から狂った性犯罪者共につけ狙われながら、負けず、逃げず、心身を鍛錬し、己の望む場所へ到達した意志の強さと才能は、比類無き尊さだ。
あの外見で、両親も彼の意思を尊重して自由にさせるタイプの人間なのだ。もっと楽な道は幾らでもあった。
性犯罪者共から逃げ回る幼い日に心の拠り所としていた絵本が『剣聖』の話だったのが目指した切っ掛けだと言っていたが、それでそこに到達できる人間は、努力しかできない人間では無い。
天賦の才と揺らがない強固な意志、自律する精神、男でありながら肉体の純潔を思春期以降も守り続ける本能の制御。
以前に一度、『剣聖』の条件が休憩中の執務室で話題に上った時に、アンドレアが巫山戯てハロルドに言ったことがあった。「女嫌いで今後も清い肉体だろうハリーが剣術大会で優勝すれば、『剣聖』はハリーになるのか」と。
その時のハロルドの答えは、とても女性に聞かせられる内容ではなかった。要約すれば、相手はいなくても性欲は旺盛で、一人で常人以上に盛っているから、自分は「清い肉体」扱いに入れてもらえないと思う、ということだった。
ハロルドが一人で盛る際の妄想の対象は想像がついただけに、誰一人追求はしなかった。その会話以降も平然とハロルドと接しているジルベルトの器の大きさは、モーリスには決して真似できない。
顔を引き攣らせたアンドレアがハロルドから目を逸らして、ジルベルトに「お前は一人で盛ってるか?」とセクハラ発言をかましたのに対して、「私はしないよ」とにっこり返した大人の対応も、モーリスは尊敬している。自分なら相手が主人でも氷漬けだ。
モーリスにとってジルベルトは、己の黒歴史からの変遷を促してくれた恩人というだけでなく、主人でありカリスマで天才と認めるアンドレアとは別の意味で、一生絶対に敵わない人物だった。
凄腕の剣士であり、妖精が大人になる前からズバ抜けた魔法の達人で、頭もいい実力者のくせに、変なところが抜けている辺りも、『氷血』と呼ばれるモーリスを溶かして振り回す唯一の人間であるとも言える。
ハロルドは、言うまでもなく剣術や戦闘における天才だ。加護もアンドレアは例外として王族並みか、それ以上。魔法を併用した戦闘では比喩ではなく一騎当千であり、勘の鋭さは獣を超えて化け物級。
紛れ込んだ敵を察知する異常なまでの能力に、アンドレアやジルベルトすら首を捻って「何故分かった?」と訊ねると、「なんか嫌な臭いがした」と毎回答えるのだ。
訓練された軍用犬でも分からない臭いを嗅ぎ分けるハロルドは、一生仲間内の呼び名が変態犬から変わることは無いだろう。
脳筋な父親の血を引くとは思えないほど、頭脳もハイスペックなハロルドは、理解力や応用力はモーリスに及ばないものの、暗記力はモーリスやジルベルト以上だ。見たモノが、そのまま脳に印刷でもされているような記憶の仕方をしている。
おそらく、彼の才能を覚醒させたのがジルベルトだろうことを、モーリスとアンドレアは確信していた。
ハロルドの生家であるパーカー家の血筋は、男子の才能と執着心が比例する特徴があるのだ。
現騎士団長で当主のランディ・パーカーは『王国最強の軍人』と各国に名を馳せる素晴らしい才能の持ち主だが、妻への執着心は異常だ。
ランディの才能の開花は、茶会デビューで二歳年上のリナリアに一目惚れしたことから始まった。侯爵家の次女だったリナリアに付き纏い、伯爵家の嫡男として出世すればリナリアと結婚できるからと奮起して、ランディは王国最強の軍人まで登りつめた。
ハロルドの才能は父親を超える。ならば、その執着心も父親以上だろう。ジルベルトがハロルド以上の戦闘力を有した『剣聖』で良かったと、アンドレアとモーリスは胸を撫で下ろしたものだ。
ともあれ、ハロルドには、執着先のジルベルトの為ならばブレーキも限界も存在しない。『剣聖』を除けば国内随一の戦闘力を有する、野に放ってはならない狂犬だ。どちらかと言えば、天才と紙一重の存在と言えるかもしれない。だが、その能力が凡人を逸脱したものであることは疑いようも無い。
モーリスが誰にも愛称を呼ばせないのは、誰にも心を許していないからではない。
幼い頃、彼の産みの母だけはモーリスを愛称で呼んでいた。今は、それを許していない。
モーリスの母は王妹だ。先代国王の側室から生まれた王女だった。
モーリスの母、シャーロットが生まれた頃、王女は他に一人もいなかった。王妃は王子には恵まれたが王女は中々授からない。王妃が続けて王子を産んだために、王は側室の元に通うことも少なく、他の側室も王女を産んでいない状態だった。
同盟維持のために、王女を同盟国に嫁がせることも王家の重要な役割だ。同盟のバランスを保つために、血筋の偏りがあってはならない。早くバランス良く同盟国間の血を混ぜて絆を強固なものにするには、同盟国の王族同士の子供を別の同盟国の王族と婚姻させることを繰り返せばいい。
そのためには、婚姻を結ぶ王子も王女も、各々同盟国から嫁いだ王女である正妃から生まれていることが望ましい。
だが、正妃から生まれた王女がいなければ、側室から生まれた王女で妥協する。
シャーロットは、妥協で、同盟国であるカイヤナイト王国に嫁ぐための王妃教育を受けることになった。
耳に入る心無い侮辱や厳しい教育にめげず熱心に学んだシャーロットだが、貴族学院に入学する直前の13歳の時、王妃が王女を出産。カイヤナイト王国の第一王子はシャーロットと同い年だった。妻が13歳年上であれば反対意見が出ることがあっても、13歳年下の妻は寧ろ歓迎される。しかも王妃が産んだ王女。
積み重ねた努力と共に、シャーロットの立場は一晩で崩壊した。
いずれ同盟国の王妃となる王女が入学してくる、その期待を抱いていた教師も学生も、その親も、シャーロットが悪いわけではないと分かっていても、期待を裏切られた胸中のままに彼女に接する者が多かった。
13歳で彼女自身には何の非も無いのに婚約を解消されたシャーロットは、女性としても自尊心を踏み躙られた。
当時、第一王子だった現国王は、自分の側近で婚約者を定めていなかったモーリスの父親、オズワルド・ヒューズにシャーロットを娶るよう望み、オズワルドは受け入れた。
モーリスは、現国王と同い年のヒューズ公爵の嫡男であり長子であり一人息子だ。もう一人の国王と同い年の側近、ランディ・パーカーには第一王子と同い年の長子となる娘がいるが、モーリスには上にも下にも兄弟も姉妹もいない。
それは、シャーロットがオズワルドとの婚姻後も現実を受け入れることが出来なかったからだ。
数年がかりで国王を含む周囲が説得し、ようやくモーリスが誕生したが、モーリスが母を拒絶するとシャーロットも「ヒューズ公爵夫人」であることを拒絶する状態に逆戻りした。
4歳でジルベルトと出会い、能力に見合わない己の傲慢さを思い知ったモーリスは、母の歪んだ溺愛と決別した。
シャーロットは自分と同じ王族に多い銀髪のモーリスを側に置き、根拠の無い賞賛を彼に浴びせながら育てていた。
勉強を見たことも無いのに、王族より優秀だ、賢い、素晴らしい。他の王族の加護を知らないのに、王族よりも多くの加護を授かるに決まってる。家に閉じ籠もる母は会ったことが無い、従兄弟で本物の王族である王子達と比べて、モーリスの方が美しい。
僅かでも、視野を広げて省みれば、おかしな言い分ばかりだった。
何の根拠も無くモーリスを褒めまくった後で、シャーロットは必ず言っていた。「血筋と素晴らしい人間かどうかは関係無いの。貴方は王族より素晴らしい人間なの。だから貴方は王族より上を目指すのよ」と。
外に漏れたら不敬罪になる文言だが、王家もシャーロットに対して後ろめたい気持ちがあり、コナー家の監視から報告が上がっても、屋敷の中だけならと放置されていたのだろう。
血筋と素晴らしい人間かどうかは関係無い。そこはモーリスも同意するが、それに続く言葉は己の不足さを自覚すれば看過できなかった。
モーリスが、誰にも愛称を呼ばせないのは、自身への戒めだ。
第二王子と側近は天才集団だ、と言われることがよくあるが、モーリスは自分はそちら側だと思っている。天才を眺めて「天才」と呼ぶ側だ。
天才集団に在籍する優秀な凡人。慢心すれば天才の足を引っ張りかねない彼らの弱点にすらなり得る。
だが、それが彼らの中の自分の存在価値だと考えている。
天才は、凡人を理解も想像も出来ないものだ。
彼らが守り、導き、時に裁く人々のほとんどは凡人だ。凡人と天才の間を調整する流動的な緩衝材が在ることは、双方にとって必要なことではないだろうか。
モーリスは自分を卑下してはいない。ただ、主を、仲間達を、とても大切に想い、好ましく想い、認めているのだ。
もしも自分が彼らの弱点に使われたら許せない。
だから、自分を無能で傲慢な道化に育てようとした歪んだ愛情を忘れぬよう、彼は戒めを己に科する。
「まぁ、もっと強くなったら、仲間からは呼んでもらってもいいんですけどね」
頭の中と手で作成している書類が乖離していても問題無く完璧に仕上がっている、モーリスを凡人だと評価する人間はいないのだが、本人の自己評価は非常に厳しい。
モーリスの手元では、また一区切り、第一王子周辺を黙らせる書類が完成していた。
「そろそろ現場組が戻って来ますね。表立って裁けない罪人の回収と尋問はコナー家に任せていますし、次は弟のための書類を作りましょうか」
新しくモーリスの手元に揃えられたのは、騎士団長に見せるものと宰相に見せるものの原案。
それぞれを、モーリスやアンドレア、ジルベルトらハロルドの仲間達の気持ちを織り交ぜていい感じに仕上げるのだ。
こういうことが得意だから、宰相と国王の間で、「私の若い頃より可愛げが無い」「いや、そっくりだぞ」という会話が交わされるのだが、息子達は知らない。
いずれにしても、現国王は、非凡なモーリスが次期宰相と内定したことに安堵していた。