あの日の馬車の帰り道
ジルベルトの怒気にプリシラと馬がフリーズした時間まで戻ります。
あの日、ジルベルトの、『怒気』と呼んで良い規模ではない未曾有の恐怖の波動を浴びたプリシラと馬の手当のために、クリストファーが馬車を降りると、ジルベルトもすぐに続いて降りて来た。
一言、「頭を冷やして来る」とクリストファーに告げて走り去ったジルベルトが向かったのは、きちんと実在している『郊外にある木の実入りの美味しいスコーンの店』だ。
ジルベルトが魔法も使って本気で走れば、ぶっちゃけ馬よりずっと速い。
見たこともない現実離れした美貌の貴族男性に夢見心地でスコーンを売った店員が正気に戻る前に、プリシラの分もスコーンを購入したジルベルトは馬車が急停車した場所まで戻っていた。
こうやってクリストファーには無い気遣いをくれるので、どんな目に遭おうともプリシラは、ジルベルトに貸出されている状態を「楽園のようなホワイト職務環境」だと喜んでいる。
今回も、うっかり一度心臓が止まってクリストファーに蘇生されていたのだが、プリシラは郊外の店の素朴なスコーンを涙を流して貰った後で、拝んでいた。公爵家のご令嬢には見えない。
人前で聞かせるために話題に出した店で「スコーンを買った」という事実は作ったので、馬車はもう帰路につかせても問題無い。
馬も無事に蘇生できたので、クリストファーとジルベルトは再び馬車に乗り込んだ。
ジルベルトに会う前に既にブチ切れ済みのクリストファーと、全力疾走で頭を冷やして来たジルベルトは、今度は冷静に情報を共有し、今後について話し合う。
クリストファーは、ブチ切れて兄のウォルターをボロボロに痛めつけた後で命令を下していた。
『挽回の機会を一度だけ与えてやる。いいか、一度だ。お前が死んで俺が嫡男になっても、俺がお前が忠誠を誓う王子を選ぶことは無い。この意味は分かるな?』
虫の息のウォルターだが、聴覚は研ぎ澄まし、己を支配下に置く8歳も年下の実弟の命令を、一言一句洩らさぬように聞いていた。己の失態が、忠誠を誓う主君の身を滅ぼすほどのものであることを、彼は知っていた。
失態により、現在嫡男として生かされているウォルターが始末されれば、繰り上がって次男のクリストファーが嫡男となる。コナー家の嫡男は次期国王に必ず忠誠を誓う。
コナー家の嫡男に当主から伝えられる口伝にある過去の実例が、ウォルターの血を恐怖で凍らせる。
過去のコナー家嫡男の中には、王国存続のために次期国王として不適切であると判断された第一王子に、ご退場願って、第二以下の王子へと忠誠を誓った者も存在したのだ。
コナー家を掌握したクリストファーは、この口伝も知っている。そして、クリストファーにとってウォルターが忠誠を誓う第一王子エリオットは、「不適切」な次期国王なのだと知らされた。
エリオットを守るために、ウォルターが取れる手段は唯一つ。クリストファーの命令を完遂し、首の皮一枚でも命を繋いで「コナー家の嫡男」として生き残ることだけだ。
『ゴードン・ファーレルを徹底的に洗い出せ。ケツの穴から内臓ひっくり返してさらけ出すほど何もかもを洗い出せ。仮にも公爵家の嫡男、仮にも第一王子の側近だ。茶会デビューからコナー家の精鋭が担当してた筈だろう。過去の担当者を全員呼び出せ。僅かな隙間も無いだけ思い出させろ。奴がその日何歩歩いたのか何度瞬きしたのか全てを思い出させろ。死んでも許すな。この失態に繋がったのはそいつらの怠慢だ。優しい処分で済ませて欲しけりゃ手段は選ぶな。俺が求めるネタを二日後の朝日が昇るまでに揃えて来い!』
幼い頃から異能の天才で悪鬼の如き本性を持つコナー家の申し子だとは思っていたが、ウォルターが本気で激怒するクリストファーを見たのは、この時が初めてだった。
これは逆らえない。逆らう気も起きない。人間という生き物であれば、どんな生まれでも些少は持ち合わせるほんの小さな慈悲すら持ち合わせない、非情の絶対強者。ウォルターの目に、クリストファーはそう映った。
主君のためならば、どんな拷問も耐えられる、最も恐怖する事柄は主君から見放されることと主君を喪うこと。その筈だったウォルターだが、同じ年頃の少年らよりも幼げな容姿を持つ弟の、漆黒より暗く感じられる紺色の双眸に、柔らかそうな水色の髪を浮き上がらせるほど発せられた怒気に、本物の至上の恐怖を否応なく理解させられた。
ウォルターは死ぬよりも主君を喪うよりも、クリストファーの怒りをこれ以上買うことが怖かった。
コナー家の嫡男として失格だとしても、人としての生存本能が他の感情を選ばせなかった。
ウォルターは、この時より本当の意味でクリストファーの傀儡となった。
もはや命令完遂の目的は主君を守るためではなく、クリストファーの怒りを鎮めるためだけである。
クリストファーが異常なだけで、ウォルターが過去のコナー家の人間達に比べて無能だということは無い。彼は十分にコナー家の人間として能力があり、コナー家の人間らしく人間性は壊れていた。
招集された過去から現在のゴードン・ファーレル担当の監視者達は、楽に死ぬことだけが唯一つの褒美となる地獄を覚えることになった。
そうして、刻限までに手元に集まった情報は、彼らにとって幸いなことに、クリストファーの要求レベルをクリアしていた。
「ロリコンのゴードンは、幼い少女に接待させる非合法の店に出入りしていた。そういう店で働かされてるのは平民か、売られて来た他国人だが、非合法だから貴族相手の高級娼館よりも料金は高ぇ。親バレして一時的に小遣いを減らされたゴードンは店に通えなくなり、酒場の噂を頼りに15歳未満の少女と目される街娼を探して買っていた」
淡々と話を進めるクリストファーと静かに聞き入るジルベルトを乗せて、馬車はゆっくりと帰路を走る。
「ゴードンが酒場の噂で聞いた街娼は、『栗色の髪、ピンク色の目の幼気な美少女で、貴族は怖いからと、貴族じゃない優しい金持ちの年上の男を求めている』という女だった。よく見かけるという場所に平民の金持ち風の身なりに変装したゴードンが向かうと、確かに噂通りの街娼がいた。外見の特徴はエリカと一致する。『リーラ』と名乗っていたそうだ」
「母親の名だな」
『リーラ』とは、調査済みのエリカの母親の名前だ。姿も変えずに偽名で違法な売春行為をするなら、もう少し捻ればいいものを。何とはなしに思ったジルベルトだが、どう捻ってもどうせ無駄だったか、と思い直し、関心の無い事柄は頭から抜けて行った。
「ゴードンは、その後も飽きるまで全部で七回その街娼を買っている。──自称帝国と密通し、禁制品を密輸していた大罪人と複数回接触した女だ。未成年だろうと、コナー家を動かして徹底調査を行う対象にできる。判明した街娼の本名は『エリカ』。当時は王都の西の外れにある孤児院で暮らしていた孤児だ。現在はクーク男爵の養女となり、エリカ・クークと名乗っている」
「丁度いい繋がりが出たな」
「ああ、まったく。ジルの勘に外れは無ぇよな」
淡々と応じるジルベルトに、黙って噤んでいれば少女のように可憐な唇をニィッと裂いて嗤い、クリストファーはこの場にいない獲物を嘲り鼻を鳴らす。
「エリカには違法売春だけじゃねぇ重大犯罪の嫌疑がかけられている。今年の三月初め、カーネリアン王国から旅行に来ていた子爵家の6歳の娘が犯罪に巻き込まれたと、親が訴え出た事件があったろ?」
「ああ。他国の貴族が巻き込まれた犯罪だが、同盟国以外の国であり被害者が子爵家であったことから、私も父も直接は関わっていない。未解決だな」
ジルベルトの父、ダーガ侯爵は外務大臣であり、外交の他に、他国人が国内で巻き込まれた問題の調整も職務としているが、膨大な仕事量をこなす為に副大臣以下、部下に割り振る内容も多い。
同盟国人が関わるものであれば最優先で外務大臣が自ら調整に乗り出すが、それ以外の国であれば伯爵家以上の高位貴族を副大臣が担当し、子爵家以下は貴族であれば貴族家出身の部下が、平民であれば平民出身の文官が調整に当たる。
ジルベルト自身も、主であるアンドレアが、国内の不穏分子の調査や粛清を主な職務とする関係上、重大犯罪や貴族の関わる犯罪は報告が上がるし解決に出向くこともあるが、やはり多忙な身の上なので、優先されるのは自国の貴族と同盟国が関わるものとなる。
カーネリアン王国の子爵家が巻き込まれた犯罪は、ジルベルトが解決に出向くものとしては報告が回されて来なかった。
ジルベルトが報告で把握している内容としては、カーネリアン王国から妻と幼い娘と共に旅行に来ていた子爵が、目を離した隙に娘を見失い、そのまま娘が帰って来ないというものだ。誘拐等の犯罪に巻き込まれた可能性を示唆されている。
クリソプレーズ王国では、8歳未満の貴族の娘を国外に旅行に連れて行き、更に街中で目を離すとなれば、保護者としての責任を放棄する類の虐待も疑われるような事案だが、カーネリアン王国にはそういった法律も習慣も無い。
国柄の違いが災いして、誘拐されたのだとしても親の自業自得だろうと、行方不明の娘に同情はするが、助けを求めた親には冷ややかな視線が送られていた。
ただでさえ平民の子供よりも美しく目を引く貴族の娘。身につける服も装飾品も、悪意ある人間から見れば「拾ってくれ」と大声で宣伝する落とし物にでも見えることだろう。
小悪党よりも悪辣な犯罪を生業にする輩から見れば、加護が多そうで魔法は未熟で大した抵抗もできなさそうな幼い貴族の少女など、商品にしか見えない。
法律や習慣が違えども、その程度は親として子を大事に思うなら想像して然るべき、そう考えるクリソプレーズ王国の国民は、過去の為政者に恵まれているのだが、それが当たり前の環境で生活しているために、今回の被害者に向ける意識は「自業自得」以外に持てないのだ。
その意識で職務に当たっていても、事件が解決に向かって進展することは無い。
「大々的にコナー家の手足を使ってエリカの足取りを洗ったら出たぜ。該当する日に該当する幼い貴族の令嬢の手を引いて歩いていた、エリカの目撃情報が複数。該当する幼い貴族の令嬢は、デカい高そうな人形を抱えてたそうだ」
「・・・シュンガイト王国に流行らせた人形か?」
思い当たり訊いたジルベルトに、クリストファーは無言で頷く。
国内に、ごく自然にアンティークの宝石が入って来なくなるように、ニコルが仕掛けた流通操作の手管の一つだ。
同盟国以外の国で、ただしクリソプレーズ王国からあまり離れていない国で、アンティークの宝石が素材として必要になる流行を生み出し、同時に国内では「アンティークそのものを身につけるのは流行遅れ」という風潮を醸成する。仕掛けには王妃殿下にも協力してもらい、首尾は上々だった。
同盟国である隣国アイオライト王国の、クリソプレーズ王国と反対隣りのシュンガイト王国の商人へ、ニコルは父親のミレット子爵を通して、アンティークの宝石を瞳や装飾品に使用したオーダーメイドの超高級ドールをデザイン画付きで企画提案し、シュンガイト王国で鉱山が発見された比較的新しい種類の宝石を輸入する際の優先権を対価として受け取った。
ごく自然な流れで、ごく普通の商人同士の交渉事という体で、ニコルは周辺国で流通するアンティークの宝石の流れをシュンガイト王国に集中させ、クリソプレーズ王国に入れることの旨みを減らしたのだ。
カーネリアン王国とシュンガイト王国は友好国だ。互いの国の流行品を、貴族同士で贈り合っていても不思議ではない。
生半可な富裕層では手が出せない超高級ドールだが、だからこそ『特別な贈り物』として、見栄を張るのが人生とも言える貴族には好まれる。
生産数に厳しく制限を設け、手に入れた顧客の優越感を煽ったり、通し番号を見えない場所に刻印して偽物との差別化を図るなどの手法も企画書と共に善意で伝えていたために、生産しているシュンガイト王国の国内でも入手は困難となり、金を積めば買える商品ではない。
積極的に国交を結んでいないクリソプレーズ王国まで、シュンガイト王国産の『特別な贈り物』が届いたという話は、今のところ把握されていない。
「流石ヒロインと言うべきか? 悪運強ぇよな。エリカが暮らしていた孤児院の近くに六年前に住民が引っ越したきり放置されてるボロい小屋があるんだが、そこで両目の無い人形が見つかった。通し番号から調べたが、人形の目に使われていたのはアンティークのブルーサファイアだ」
「あとは、『シオミチ草』と生贄か」
「エリカは13歳の時、売春帰りに避妊薬を買いに寄った薬屋で『シオミチ草』を買っている。看板も出してねぇ避妊薬やら堕胎薬が主力商品の薬屋に、子供みてぇな年齢の女が客で来れば目立つから店主も覚えていた。ただでさえ需要の無ぇ『シオミチ草』なんて、この国には普通入って来ねぇからな。他の薬草に紛れて入って来たやつを戯れに店に並べていたのをエリカが買って行ったらしい。きっちり正規の料金を払ってな」
「売春の売上は中々良かったようだな」
「一回当たりの値段から計算したら、大体一年分の売上だったぜ。『シオミチ草』代」
13歳で売春歴が最低でも一年。看板の無いモグリの薬屋に平気で立ち寄り、慣れた風に避妊薬を買い求め、一年分の売春代で購入するのが他人を精神操作する呪いの材料。
乙女ゲームって何だったかな。ヒロインって何だったかな。ジルベルトは前世記憶の常識が覆されていく気がした。
「カーネリアン王国の子爵令嬢が行方不明になった日、エリカが居た孤児院でも子供が一人消えている。7歳の男の子供だ。どっかの貴族と貴族向けの高級娼婦の間に避妊に失敗して産まれた子供で、消える半年ほど前に娼婦の母親が仕事の邪魔になるからと、金と一緒に孤児院に預けに来たそうだ。実際は、貴族の男の妻にバレて殺されそうだからと、逃すために預けたみてぇだがな。貴族と高級娼婦の子供だ。綺麗な顔してたらしいぜ。消える半月ばかり前には貴族並みの妖精の加護を授かったって、近所で噂になったそうだ。消えなければ、いずれ原作のヒロインのように、貴族の父親が迎えに来ていただろうな」
「・・・加護を授かる瞬間じゃなくても生贄になるんだな」
「みてぇだな。んな実験したことねぇから俺達には詳しいところは知り得ねぇもんだろ」
「そうだな」
「カーネリアン王国の子爵令嬢は発見されないままだ。子爵令嬢も生贄になって消えたのか、別の原因で親元に帰れないのかは、エリカの足取りを洗うだけでは出て来なかった。だが、ボロい小屋の周辺は綺麗な格好の貴族が彷徨いたら目立つような土地だ。おそらく、もっと街中で人形だけ取り上げて子爵令嬢は始末されている」
決定的な現場を目撃した人間は出て来ていないから他国の貴族令嬢を害した罪は問えないが、行方不明になる直前まで連れ回した重要参考人であり、令嬢の所持していた超高級品の残骸がエリカの居住地の近所から発見された。
貴族令嬢誘拐の重要参考人で引っ張って、自称帝国と密通していたゴードン・ファーレルと人目を忍んで幾度も接触し、『シオミチ草』を平民の孤児の身分でありながら正規の価格で購入し、クーク男爵の異常行動がエリカとの接触後からである証人を用意すれば、目玉を失った子爵令嬢の人形も相まって、「自称帝国と繋がるゴードン・ファーレルから情報の提供を受け、エリカが精神操作の呪いを実行した」状況証拠は出来上がる。
エリカに指示を出す機会があったと想像できる自称帝国と繋がりのある人間。不足する素材はそれだけだった。
状況証拠と素材が揃えば、自白など、どうにでもできる。
原作のバッドエンドのように、ヒロインが己の欲望のために近付いた人間が次々と、公開または非公開で処刑されるラストになど、させはしない。
ニコルを陥れようとした奴らを、仲良く退場させてやろう。
モブがヒロインと心中できるんだから嬉しいだろう?
自分達の大切なお姫様に手を伸ばそうとした人間を陥れ、人生を壊して奪う具体策を挙げながら、目線を交わす二人の笑顔は、いっそ清廉ですらあった。
ニコルに手を出そうとしただけではない。
ジルベルトにとって、ゴードン・ファーレルは己の『剣聖』の忠誠を望まぬ相手に捧げさせようと介入し、唯一無二の主を悲しませ心を乱した許されざる怨敵だ。
クリストファーにとっても、ジルベルトの自由な意思を権力で捻じ曲げようとした立役者は許せるものではない。
どうせ、ゴードン・ファーレルはトカゲの尻尾として切り捨てられる。
国が揺れるほどの事までには至らない。
それでも、第一王子は弱体化するだろう。『次期国王』という権力で、他者のモノを奪おうとすることなど出来なくなるくらいには。
第一王子に待つのは、『お飾りの国王』として王位を継ぐ未来。
ジルベルトらが支える第二王子が実権を握り、運営する王国。
第一王子が望まれるのは、同盟維持のため、嫁いできた王女との間に後継者の王子と同盟国へ嫁がせる王女を作ることだけ。
「『完璧』は『天才』には敵わねぇんだよ。多くを望まなけりゃ潰そうとまではしなかったってぇのにな」
ぽつりと呟いたクリストファーの声。耳に届いたジルベルトだが、何も反応しなかった。それが、意識して零された呟きではないことを察していたから。
原作でも現実でも『完璧王子』と称されていた第一王子エリオット。
彼を少年時代から見続けてきたクリストファーにとって、エリオットは「優秀だが、『完璧』に見せるには相当の努力を必要とする凡人」だった。
対して第二王子アンドレアは、自信家で傲慢なところはあれど人を惹き付けるカリスマ性があり、生まれ持った性能は凡人を遥かに超越した天才。そしてジルベルトとの出会いを経て努力を知り、今や凡人が死んでも爪の先程も到達できない高みに座している。
クリストファーは、努力する凡人が嫌いではない。前世の部下でも、最終的に使えるのは、天才型より努力する凡人だった。
トップが「努力する凡人」である方が、波風は立たず、下で動く大多数の凡人にとっては生きやすい場となるのではないかとクリストファーは考えていた。
だから、エリオットが馬鹿な真似さえしなければ、そのまま為政者としてのトップに就く彼を、影から支える程度の手伝いはするつもりだった。
だが、エリオットはジルベルトの想いを蹂躙して手に入れようとし、側近がニコルに非道の限りを尽くそうという企みの、ブレーキにならないどころかアクセルになっていた。
凡人が天才を凌駕したければ、できることは、凡人らしさを極めることだけだったのだ。
天才から奪うのではなく、天才に成り代わろうとするのではなく、後ろ指を差される手段で出し抜くのではなく、ただ只管に地道な努力を泥臭く続ける『普通』の姿を見せ続けることが、人間の99%を占める凡人らの人心を集める唯一の手段だった。
それを、エリオットは間違った。
「間違う辺りが凡人たる所以なんだろうな」
今度の呟きには、口許に甘く香ばしい塊が押し付けられた。
目線を上げると、澄んだ濃紫がじっと見つめながら、クリストファーの口許にスコーンを押し付けている。
「飲み物が無ぇと口ン中の水分あらかた持ってかれるんだけど」
齧り付く前に不満を洩らせば、笑むように細められた濃紫の前に一口大の水球が幾つも浮かべられた。
「頭を使ったら糖分の補給は必要だぞ」
(生まれ変わっても敵わねぇよなぁ。)
大切なモノ以外はどうでもいいクリストファーだが、エリオットは「大切なモノ」には成り得ないが、「どうでもいい」と言い捨てるには気にかけながら見守った期間が長過ぎたのだ。
その複雑な思いを見抜かれて、ジルベルトに甘やかされている。
(もっとイイ男になりてぇなぁ。)
ジルベルトが聞いたら、「もう十分だろうに」と苦笑しそうなことを内心にボヤき、クリストファーはスコーンを喰みながら、一つずつ水球を口に放り込んだ。
次話の投稿は、1月4日の午前6時を予定しています。