深夜の回想
深夜、ダーガ侯爵家の自室を非公式に訪ねて来たクリストファーを、ジルベルトは無言で迎え入れた。
本来ならば14歳のクリストファーの身体には良くない物だが、加護を与えている妖精が大人になっているクリストファーにはアルコールが体内で毒になることも無い。
薫り高いブランデーとクリスタルのグラスが用意されたテーブルの前へ、ジルベルトは目線で促した。
深夜の静寂の中、トクトクと琥珀の液体が注がれる音だけが耳を打つ。
クリスタルのグラスを掲げ、互いに一口飲んでグラスを交換して、また一口。命を預けた信頼の儀式のようなものだ。
「隠しキャラの周囲がキナ臭い。隠しキャラ自身の意思か周囲の独断か知らんが、色悪貴公子の入手に失敗して、お助けキャラに手を伸ばしている」
万が一、何者かに聞かれても的確に意味は通じさせない隠語として、原作で使われた名称は役に立つ。現在の現実では、それぞれ、かけ離れた人物像になっているから。
ジルベルトに伝えられた内容は、クリストファーも苛立ちと共に認識していた。
エリカを『現行犯逮捕』に誘導する囮としてニコルを使う際の、一番の懸念事項がソレだ。
第一王子の側近達の家が、こぞってニコルに夜会の招待状を出している。
第一王子はアンドレアよりも6歳年上だ。側近達も大体が第一王子と同年代か、更に上。中には、既に親の爵位を継いでいる者もいる。
そんな年齢なのだから、当然全員婚約者がいる。主君である第一王子の婚約者が7歳年下で未だ婚姻に至っていないため、式を挙げたり籍を入れた側近はいないが、年齢や立場的に事実婚状態となり、同居はもとより既に子がある側近さえいる。
だが、法的には「婚約者はいるが妻帯者ではない」状態で、子も今は庶子の扱いだ。
だから、彼らは法的には、違約金と慰謝料を払えば婚約を解消して『新たな婚約者』を迎え、妻とすることが可能なのだ。
第一王子の側近なのだから、コナー家の正体は知っている筈だ。
コナー家を掌握しているのはクリストファーだということは、クリストファーの指示により、コナー公爵は国王陛下にしか伝えていない。
第二王子であるアンドレアは、クリストファーの許可を得たジルベルトが事実を伝えたので知っているが、国王陛下が伝えていなければ、第一王子は本当に敵に回してはいけない相手が誰なのか知らないままだろう。
その側近らも、また、知らないことになる。
コナー家の当主は国王直下で国王が絶対の主君である。コナー家とは、そういう歴史的役割を持つ家だ。
だから、実権を掌握してもクリストファーは当主にも後継者にもならないでいる。
国王を主君とする当主でも、次期国王を主君とする嫡男でもなかったが、クリストファーは第一王子が少年の頃からコナー家の一員として成長を見ては来た。
最初の印象は、「かなり優秀そうだが暗い奴」。成長するに従って、周囲の評価と反比例するように焦燥感を募らせているように感じた。
王族なのだから、焦りなど表には出さずに隠し切れてはいる。クリストファーがそれを見抜いたのは、前世の記憶があるからだ。大企業の敏腕営業部長は伊達じゃない。少年王子が幽かに滲ませる焦燥を感知する機会が、月日とともに増えて行った。
クリストファーは、第一王子の焦燥の原因にも思い当たっていた。
年回りの運の悪さか、第一王子と同年代の貴族の令息は、言葉は悪いが不作だった。
国王陛下が信を置く王国を支える忠臣に重臣、彼らの家に、第一王子と同年代の息子が生まれて来なかったのだ。
爵位、家格、何代も前の功労者の家系、そういった理由で選ばねばならない程、第一王子の年代には、華々しい功績を上げた人物の息子がいない。
第一王子の側近達が無能であったり愚鈍であるということは無い。だが、次期国王の側近としては些か頼りない凡庸さではある。
例えば、原作のように、第二王子が愚かで傲慢な『俺様王子』であれば、第一王子と側近達は、きっと原作のように『完璧王子』と真面目で実直な側近として国を守り立てて行けただろう。
だが、第二王子は非凡だった。
努力さえ知ってしまえば、すぐに頭角を現す天才だった。
この事実が知れ渡ったことで、第一王子は心の安寧を失った。
そして、第二王子とその側近らの能力が高く評価され、輝く功績が周知されて行く度に、真面目さが取り柄だった第一王子の側近達は腐って行った。
第二王子の同年代には、『王国の頭脳』と呼ばれる宰相オズワルド・ヒューズの嫡男モーリス・ヒューズ、『王国最強の軍人』と呼ばれる騎士団長ランディ・パーカーの嫡男ハロルド・パーカーがいた。
異常に美しい幼子としてしか名を馳せていなかった、ノーマークのダーガ侯爵家の長子ジルベルト・ダーガが、よもや立てた誓いの通り『剣聖』の称号を得るとは予想もしていなかっただろう。更に、ダーガ侯爵、ブラッドリー・ダーガが外務大臣にまで出世したことも予想から外れたのだろう。
宰相の嫡男に騎士団長の嫡男、そして外務大臣の息子の『剣聖』。第一王子の側近よりも、ずっと人数は少ないものの、名も実も、何もかもが華やかだ。
天才と称されるに相応しく、第二王子は早い段階で兄の感情を見抜き、己に血塗られた印象を植え付けて「自分は王の器ではない」と言外に主張し始めた。
それでも、芽生えた負の感情は、育つことはあっても消えることは、そうそう無い。
焦りはやがて、疑心と嫉妬の花を付ける。
嫌な予感はあった。
ジルベルトが『剣聖』となった15歳の年の陛下御前の年末剣術大会。本当ならば、その場でそのまま『剣聖』の忠誠を、ジルベルトは主である第二王子に捧げるつもりでいた。
だが、「別に正式な場を設けるから待て」と国王陛下に言われたまま、年が明け春が過ぎても、その「正式な場」は用意されないままだった。
そして、ジルベルト16歳の初夏の頃。第一王子は、第二王子と、ジルベルトを含む第二王子の側近達を謁見の間に呼び出して、弟王子にこう命じた。
『次期国王に叛意無くば、“剣聖”の忠誠を次期国王に捧げさせよ』
前例が無いことではないが、横暴ここに極まれり。
謁見の間に集まった臣下の多くが、内心に同様の感想を抱いた。
専属護衛は、騎士としての剣に『唯一の主』への忠誠を捧げ誓っている。その忠誠は、決して強要されて誓うものではない。過去の王族の中には、求心力の無さから専属護衛が一人もいなかった者もいるくらいだ。騎士が剣に誓う忠誠は、己の心のままに望んで捧げるもの。だからこそ、決して生涯違えられない誓いなのだ。
忠誠を誓った主の叛意を疑うような相手に、天地に誓いを立ててまで主のために目指した『剣聖』の忠誠を捧げさせろと、『剣聖』の主に命令する。
相手が次期国王たる第一王子でさえなければ、「恥を知れ! 痴れ者が!」、そう怒鳴られても言い返せない妄言の類だ。
息を飲む音以外、静まり返った謁見の間で、静かな微笑を浮かべたジルベルトが進み出て、見惚れるほど優雅な所作で第一王子の前に跪いた。だけに見えたが、実際はジルベルトは第一王子の前に進み出る前に、暴走しそうなハロルドの尻に蹴りを一発入れていた。
主である第二王子の命令が発せられる前に、自らの意思で屈するのか。
おかしな速度の蹴りなど見えていない周囲の予測は、外れた。
『おそれながら申し上げます。もしも私が第一王子殿下のお望み通り、私が心から望み忠誠を誓った主ではない御方に“剣聖”の忠誠を捧げたといたしましょう。さすれば、その瞬間から、私は“剣聖”という存在ではなくなります』
言外に、「お前に忠誠を誓うのは私の望むところではない」と言い切っているのだが、人外レベルの美貌は色々なことを晦ませる。
居並ぶ人々が美声にうっとり聴き入っている間に、ジルベルトは話を進めた。
『“剣聖”とは妖精と“相思相愛”であるが故に人智を超えた能力を持つ存在であります。妖精が愛するのは純粋な魂。立てた誓いを違え、主を変えるような変節漢の魂は、純粋さを失っていることでしょう。同時に妖精からの愛を失います。そして、己の心を偽って望まぬ主へ誓いを立てるような剣士を、私は軽蔑いたします。そのような半端者が妖精を愛する資格など無いと心得ます。ですから、その時は私から妖精への愛も消えてしまうことでしょう』
妖精達が意図的に人間達に流した話を引き合いに出し、続く言葉でも重ねて言外に「お前には忠誠を誓いたくない」と言い切ったジルベルトは、冷静に見えて実はこの時かなり怒っていた。
誰も口を挟めない気迫を静かな微笑のまま放ち続け、ジルベルトの長台詞は続いた。
『どうか、我が国にこの時代、“剣聖”の存在をお許し頂けるのであれば、“剣聖”の想いを命令で曲げられることは御容赦ください。私が私という存在の全てを捧げ、生涯尽くすのは、アンドレア・トュルシ・クリソプレーズ様唯一人。我が唯一の主を失うことあれば、私は私に加護を与える妖精達と共に、この世を去る所存でございます』
深々と頭を垂れたが、ジルベルトが言った内容は、「お前に忠誠を誓うくらいなら国を捨てるぞ。『剣聖』欲しさに今の主であるアンドレアを殺したら後を追って死ぬ」だ。
流石に謁見の間にざわめきが走った。
ジルベルトの不敬な発言に対してではなく、『剣聖』が命を懸けてまで忠誠を誓うことを拒絶し、無理に忠誠を誓わせ『剣聖』を第一王子のモノにしようとすれば、クリソプレーズ王国は、前の『剣聖』が姿を消してから、やっと数十年ぶりに誕生した『剣聖』を失うことになるという事実を突き付けられた衝撃で、だ。
次期国王の側近に『剣聖』がいれば、各国からの羨望と称賛を得られ、牽制にもなる。
だが、ここまでハッキリと「第一王子の側近にさせられるなら国を出る覚悟だし、第二王子を排したら自分も死ぬ」と言われてしまえば、『剣聖』がクリソプレーズ王国民であるという事実だけで満足するしかない。
クリソプレーズ王国に『剣聖』が誕生したことは、既に大陸中の国々に発表された。
その直後と言っていい時期に、『剣聖』が国を出奔、または自害して、その原因が「次期国王が命令で『剣聖』の望まぬ忠誠を欲したため」だと真実が漏れてしまえば、国として終わりだ。
下げた頭を上げる気配も無いジルベルトと、それを虚ろな目で高い場所から見下ろす第一王子。
第一王子の側近達は、次期国王の側近に加えてやるという栄誉を断ったジルベルトを信じられないような目で、或いは苦々しい表情で見下ろしていた。
どうか命令を撤回して欲しい。謁見の間、第一王子側近以外の臣下達の心は一つだった。
軽い嘆息。その後に第一王子の口から出た言葉は、臣下の祈りが届いた内容だった。
『相わかった。“剣聖”の想いを曲げさせては“剣聖”を愛する妖精の怒りを買うだろう。私は次期国王として、我が国のために妖精の怒りを買うことを望まぬ。“剣聖”は己の望む主へ忠誠を捧げるがいい。これからも、我が国の国民として、働きを期待している』
『御意にございます。第一王子殿下』
深々と長い時間頭を下げていたにも関わらず、頭部に血が上った様子も無い白皙の美貌。そこに浮かぶのは静かな微笑。あくまでも、対外的な仕事用の仮面しか第一王子には見せない。お前に心を預けることは無い。
ジルベルトの意志は第一王子に伝わった。
諦観で目を閉じた後、今度は深く嘆息して言葉を発した。
『アンドレア、此度の私の言葉は忘れてくれ。もう、下がって良い。お前の今後の働きにも期待している』
『仰せのままに。兄上』
アンドレアも、まるで外交の場であるかのような対外的な爽やかな笑顔で応じ、三人の側近を従えて謁見の間から立ち去った。
コナー公爵のオマケという体で謁見の間に入り、この事態を見ていたクリストファーが、自分の目で確認した謁見の間での顛末は、こんな感じだった。
その日の夜、小柄な少年の体躯を活かして給仕のメイドに扮し、夜会に紛れ込んだクリストファーが見る前で、第一王子は更にやらかした。
国王陛下主催の夜会の場で、性懲りも無く第一王子は親しげにジルベルトに声をかけ、第二王子とその側近達は一度会場を出て行った。
普段、公の場でもそうでなくとも「ダーガ侯爵子息」と呼んでいたジルベルトを、国王陛下主催の夜会という国内外の要人が数多く集う公的側面の大変に強い場で、「ジルベルト」とファーストネームで呼びかけたのだ。
第二王子が笑顔で、「飲み過ぎですよ、兄上」と往なしていたが、「クリソプレーズ王国の次期国王は『剣聖』をファーストネームで親しげに呼んだ」という実績が作られてしまった。
ジルベルトは第一王子からの呼びかけに応えることはなく、主である第二王子に促されて会場を後にする時にも、「御前を失礼致します。第一王子殿下」と騎士の礼で立ち去った。
次に第二王子達が会場に戻って来た時には、もう第一王子が声をかけに行くことは無かった。
その後も第二王子が職務を放棄することも、第一王子に叛意を持つと疑われるような動きをすることも無く、ただ、益々その優秀さが残酷さと共に轟くようになった。
禍根が残っているのかどうかは、他人には窺い知れない。
今のところ、再びジルベルトに第一王子の側近になれという誘いも命令も無い。
だが、ここに来て第一王子の側近達がニコルに手を伸ばそうとしている。
ニコルを国外に出さずに護りながら国に利益を齎して貰う目的で、王命による婚約がクリストファーと結ばれていることは、第一王子の側近であれば知っていなければならない。
クリストファーの8歳上の兄であるウォルター・コナーは、表向きは「第一王子の側近」としては登録されていない。
実情は最も信を置ける側近であれど、コナー家の真の役割を知る国内外の要人らから暗部を私物化した恐怖政治の疑惑を持たれることを避けるために、公式に「側近」という立場に就くことは無い。
それでも忠誠を誓っているだけあって、クリストファーがどれだけ丁寧に質問をしても、コナー家の嫡男ウォルターは、第一王子の情報は売らない。我が身可愛さに、コナー家の真の支配者がクリストファーであることを、主君に報告することも出来ずにいるのだが。
そんな訳で、第一王子の側近達にとって、コナー家の人間は、同僚や仲間という意識は無く、特に親しい相手でもない。
彼らは、ニコルとクリストファーの婚約は王命ではあるが、ニコルを守れる力のある家で婚姻という形で囲い込めれば、結果は同じだから逆らうことにはならない、とでも考えているのかもしれない。
親しくない、第一王子の側近でもない家の面子を潰すことになっても、第一王子の派閥にニコルを取り込むことは、次代のクリソプレーズ王国の為になるのだから国益を優先した考えだ、などと考えているのかもしれない。
コナー家だから、寸暇を惜しんで放たれる刺客や誘拐犯から護れているのだが、暗部を司るコナー家が、どういう鍛錬を積んでどれだけの能力を秘めているのか、目にしたことが無い彼らの想像は及ばない。
彼らはただ、「第二王子の側近であるジルベルトの友人」という立場のクリストファーがニコルを王国に繋ぐ枷であることに、不満を抱いているだけだ。
同じクリソプレーズ王国の高位貴族であれば、枷はクリストファーでなくとも良いだろう。そんな考えが見え隠れしている。
そこには、ニコルの意思を尊重する心づもりなど無い。あるのは、第一王子派の功績を増やしたい。それだけだ。
「腹が立つから、いっそヒロインと心中できるシナリオにしてやろうか」
常ならば垂れ気味の紺色の両眼を闇色に明度を落として吊り上げ、クリストファーが少年とは思えない低い声で呟く。
「策はあるのか?」
「今は素材が足りねぇ。まぁ、上手く行っちまえば隠しキャラも退場の危機だからな。それはハッピーエンドにならなそうだから他の手を考えるさ」
口許を歪めて嗤うクリストファーを暫し見つめ、ジルベルトはふと思いついたように言った。
「隠しキャラの側に、脳筋の姉と約束していた奴がいたな」
剣呑に細められていた紺色の眼が僅かに丸くなる。
「他所の事情だから放置していたが、脳筋のアンチっぷりは病的だ。病原菌の辺りに使えるネタが転がってる気がしなくもないな」
ハロルドの長姉は第一王子の側近の一人の婚約者だ。本人は女性への病的なまでの敵意の原因を詳しくは語ろうとしないが、心が弱い方ではないハロルドが、厳しい心身の鍛錬を積んで尚消せないトラウマの原因は、「姉達にイジメられた」だけではない可能性もある。
そこに何か、今回使えそうなネタがあるかもしれないと思うのは、ジルベルトのただの勘だ。
だが、クリストファーは、こういう時のジルベルトの勘に、絶対の信頼を抱いていた。
ニヤリと再度細められた紺色の両眼。唇は両端が禍々しく吊り上がる。
「ジルのその手の勘が外れたことって、昔から一度も無いよな。土産、期待してて」
「ああ。期待している」
濃紫と紺色が交差して、琥珀の液体が揺れるクリスタルのグラスが打ち合わされる硬質な音が響く。
何者を敵に回したのか、何故敵に回すことになったのか、何も理解しないまま退場させられるだろう脇役に同情する人間は、ここにはいなかった。
12月30日まで、毎日朝6時投稿です。