はじまりの犬
全四話とも前世の話になります。
それぞれの「前世の犬」が素良と出逢い、「犬」になろうと決めるまでの話です。
この章を読まなくても、本編のストーリーが分からなくなるということは無いと思います。一話ずつが長いので、お時間のある時にどうぞ。
イェルトの前世である山川タローの受けている虐待は、直接的な描写は少ないですが、完全に現代なら警察を呼ばれるレベルです。ご注意ください。
「ソレ、毒。死ぬために採ってるなら止めないけど」
山川タローと素良の出逢いは、数日間、親から食事を与えられることの無かったタローが、腹を空かせて河川敷の隅に生えていた水仙の葉を毟っていた時だった。
当時は小学校の入学手続きだけはした数日後だった筈なので、タローの年齢は六歳から七歳くらいだろう。
彼が声の主を振り仰げば、そこには奇妙な子供が居た。
年齢はタローより何歳か上だろう。ランドセルを背負っているから小学生だろうが、おそらく高学年。
顔は綺麗だけど髪はザンバラで、着ているのはサイズの合っていない男児用の服で、センスは眉間にシワが寄るほど悪い。
ボロボロのランドセルの色は赤なので女の子なのかもしれないが、見下ろして来る無表情の威圧感は、タローの知る「女の子」とは別のものだった。
タローの知る「女の子」は、もっと間抜けな表情をしていて、けれど目付きだけは小狡さが見て取れる生き物だ。
ソレが育って大人になると、人目の無い場所ではヒステリーを起こして子供を叩いたり蹴ったりする生き物になる。
かと言って、その子供は「男の子」という生き物という感じもしない。
タローにとって「男の子」というのは、強きには媚び、自分より弱そうな相手を見つければ徒党を組み、大声で威嚇し、棒切れや傘などの道具を使って暴行を加えて来る生き物である。
ソレが育って大人になると、気分次第で子供をサンドバッグにしたり、煙草の火を押し付けて来たり、自分が飲み食いしていたものが気に入らなければ子供に頭から掛ける生き物になる。
タローは、自分の親だと言う大人の男と女が、自分と同種の生き物であるらしきことに、大きな違和感を抱いていた。
しょっちゅう家の中にしまわれることを忘れられるタローは、空き家の庭の空の犬小屋で雨風を凌ぎながら過ごした夜が幾日もある。
だから、何度か見た、空き家を根城にする野良猫の交尾から妊娠出産までの流れで、「生き物がどうやって殖えているのか」を知っていた。
けれど、姿形は同じ生き物であるかのように類似していても、どうしても「親」という生き物が自分と『同種』であると認識することが出来ないのだ。
タローは感情の無い双眸で、声をかけて来た子供を見上げる。
子供はタローと同じように感情の無い目で見下ろしていて、ずっと視線が合っているけれど、普段他の子供や大人が向けてくる、嫌悪や侮蔑や憐憫や嘲笑や敵意といった「何かしらの色」が、その子の目には何も映っていなかった。
「君の目は、目玉に色は付いてるけれど、透明なガラス玉みたいだね」
目を合わせたまま首を傾げて子供が言った。
「っ」
タローは衝撃を受ける。
何故かは分からない。
けれど、この子供を、タローは初めて見つけた自分と『同種』の生き物だと認識したのだ。
何か言いたくて、けれど今までマトモに人と言葉を交わしたことなど無かったから、口から言葉を出して声にして何かを話すことは出来なくて、タローは何度も口を開閉する。
大人に放置されていたタローは、タロー自身も自分の能力の異常性に気付いてはいなかったが、放置されていた七歳児には有り得ないほど賢かった。
周囲の大人達の会話や家にしまわれている間に見るテレビから得た情報で、並の大人顔負けの語彙を持ち思考しているのだ。
けれど、その頭の中を口から声にして出す力が、あまりの経験の乏しさ故に大きく不足していた。
「何か言いたいけど喋れない?」
もどかしげに口を開閉するタローに、子供は淡々と問う。
この落ち着き様も、タローの知る「自分と同種の生き物だと認識出来ない子供達」とは違う。
タローは何度も頷いた。
「声が出せない?」
「あ、あ・・・あ。あ、あ」
言われて思い出し、とにかく声を出してみた。
煩いと暴力を振るわれるから、食事を与えられるチャンスが益々減るから、タローは声を出さないように生きてきた。
前に出したのはいつなのか、忘れていた自分の声は、弱々しく掠れていた。
けれど目の前の子供は変わらず淡々と落ち着いている。
「ああ、声は出せるんだ。知能の高そうな顔もしてるし。長いこと口から言葉を出して話さないでいると、身体が喋り方を忘れるから。そうなってるだけか」
納得したように小さく頷いてそう言った子供に、タローは「同じ経験があるんだ」と気付いた。
「親は生きていて、一応一緒に暮らしてることになってる?」
首肯するタロー。
普通であれば、タローみたいな「小さな子供」に、こんな訊き方はしない。そもそも、言葉の意味が理解出来て通じるとも考えないだろう。
けれど、この子供は、タローに話が通じ、理解も出来ると確信しているようだった。
「いっそ最悪なパターンか。でも君は生きる気があるから草を食べようとしていた?」
こくり、とタローはまた首を縦に振る。
「学校は入学してる?」
こくり。
「行ってる?」
ぶんぶん。首を横に振る。
「じゃあ行け。とりあえず、給食で月曜から金曜は一食稼げる。水は公園の水道を使え。飲むのも顔や身体を洗うのも。河の水は飲めば腹を下すし、入って流されれば死ぬ」
こくり。
「学校には図書館がある。タダで本が読み放題だ。人気のある物語のコーナーには近付くな。ヒーロー気取りの集団に目を付けられやすい。図鑑やサバイバルの本が役に立つ。食べられる草も覚えられる」
こくり。
「私は君を助けない。自分が生き延びるので手一杯だ。けど、君は生きる知識さえあれば、一人でも生き延びられるサバイバル能力に長けている気がする」
しばし考えて、こくり。
「また会ったら声をかけていいけど、形のある物は何もあげられない」
こくり。
「じゃあ、健闘を祈る」
ガシッ。子供の服の裾を掴む。
「あ、あ、な、まえ」
タローは自分を指差した。
「タロー」
子供は自分を指差して答えてくれた。
「素良」
名前を聞いても、その人が男か女か分からなかった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「ソラ」
口に出してみれば、思ったよりハッキリと音になった。
タローにとってソラは、初めて見つけた自分と『同種』の生き物だ。
自分はどうやらオスらしいけど、ソラがオスでもメスでも、どうでもいい。
「ま、たね」
手を放すと、ソラは頷いて背を向け、やっぱり落ち着いた淡々とした足取りで去って行った。
それからタローは学校に行った。
所謂「イジメ」のようなものは日常で、教師による独善的な異物の排除行動や、自分が気持ち良くなるためにしか見えない、「可哀想な子供」へのニーズの合わない愛玩行為など、鬱陶しいことも多いが、食料にありつけて情報も得られる「学校」という場所は、タローにとって利益を齎す場所だと判断した。
当時は、児童虐待に関する法律も人々の意識もかなり緩く、薄汚れたガリガリの子供が一人で徘徊している程度では警察に通報する大人なんか居ない時代だった。
各家庭の「子供の躾」に口を出せば非難されるし、「男の子はケンカするくらい元気な方が良い」という風潮も未だ色濃く、小学生男子の顔や腕や足が痣だらけでも通報案件ではない時代だ。
それまでは、何となく本能的な勘で生き抜いていたタローは、ソラとの出逢いで学校に行くようになり、集団生活を『馴染めない側の人間』として経験し、頭も使って上手く生き抜けるよう試行錯誤し、「トライ・アンド・エラー」で自分なりの最善のトラブル回避方法を編み出した。
学校の図書館で読んだ「人気の無い本たち」から得た知識も、十分に役に立っていた。
公園の水道で服ごと全身を洗った後、乾かしがてら外敵──集団暴行目的で追い回して来る子供達──から身を潜める為に木に登っていたタローは、久しぶりに『同種』の姿を発見し、音も無く木の枝から飛び降りた。
「タローか」
いきなり目の前に子供が降って来たのにビクリともせず、やっぱり無表情で淡々と、ソラはタローの名前を呼んだ。
ソラに名前を呼ばれると、タローは自分の中から力が湧いて来る気がした。
ソラもタローも、前に会った時より少し背が伸びていた。
タローの方は、給食のお陰で食糧事情が多少改善されたことが大きいのだろう。
「ソラ。ボク、学校に行ってる。本も読んでる。怪我も減った」
ソラ以外と積極的に会話をする気の無いタローは、相変わらず頭の中の思考と比べると、声に出す言葉は随分と幼い。
「そうか」
頷いて、ソラはタローが降って来た木を見上げた。
そして、しばし考えてからタローを見下ろす。
「タローは多分、かなり『普通』じゃない。頭の出来も身体能力も、大分『普通』を上回ってる気がする」
こくり。
タローも学校に行くようになってから、そんな気がしていた。
「この先、無事に生きて行くために、サバイバル能力だけじゃなく、『普通』に擬態する技術も身に付けた方が良い」
「ソラも?」
「・・・鋭意努力中だ」
「ソラ、普通に見えない」
スッとソラが目を逸らした。
本人にも自覚はあるらしい。
ソラは、また少し考えると、タローとしっかり視線を合わせた。
「今の私は『普通の子供』らしくない自覚はある。けれど、私は能力的には成長するにつれ『普通』に埋没する程度だと思う。来年の春には中学に入るから、制服は流石に女子のものを与えられるだろうし、パッと見で変に見える今よりもマシになる筈だ。でも、タローは『出来ること』で迫害されるほど目立ちそうだ」
「ソラ・・・メスだったんだね」
「せめて女子と言え」
「喋り方が・・・」
「女子の服を着るようになったら擬態する」
「擬態なんだね」
また、スッとソラは目を逸らした。
けれど、ソラがくれた「アドバイス」には、タローも納得した。
タローの外敵達がタローを追い回すのは、タローが彼らと『違う』からだ。
学校に「同じの」が沢山いる彼らは、確かに「この辺りの似た姿形の生き物達」の『普通』なのだろう。
風体、言動、能力、考え方、そういうモノを、彼らの中で可能な限り目立たぬ存在に寄せるように自分を見せかけることで、受ける攻撃は大分減りそうだ。
「中学、どこ?」
「◯◯中」
「ん。近い。また会う」
「そうだな」
否定されなかった。
だから、タローはソラがタローから離れて帰路を進んで行っても追いかけなかった。
今は追わなくても、また会えるから。
中学生になったソラは、本当に女子の制服を着ていた。
服装の効果というものに、タローは内心でとても驚いていた。
女子の制服を着たソラは、しっかり「女の子」という生き物に見えた。喋り方も擬態するようになり、「こういう潜伏方法もあるのか」とタローは感心した。
この二人の間に、ツッコミ役が当時は居なかった。
考え方も行動も、色々とおかしいところがあるが、誰も指摘しない。
「ソラ姉」
気配を消して背後から声をかけても、ソラはタローに驚いたり怒ったりしない。
当たり前のように振り返り、「タロー」と名前を呼んで応えてくれる。
ソラが最初にタローに声をかけたのは、ほんの気まぐれだったことを、タローは知っている。
タローが『同種』のソラに執着するように、ソラがタローに執着してくれることは無いことも知っている。
けれど、タローが自分から離れない限り、ソラはわざわざタローを捨てたりしないだろうと、気付いていた。
ソラは、『特別』を作らないことを、随分と厳格な自分へのルールにしている気がする。
それは、『普通』である為のような気がしていた。
ソラの色んな分野の能力は、タローと比べれば、『伸びしろ』も含めてずっと低いだろうということが、もうすぐ高校生になるソラを見ていればタローにも分かった。
前にソラが言っていた通りだと思った。
多分、タローがソラを『同種』と認識したのは、感覚や考え方、精神の在り様が重なるところが多かったからだ。
でも、ソラはタローと『同種』ではあるけれど、『同一』ではない。
ソラには残念ながらタローみたいな執着心は無い。
だけど、ソラはタローと違って、『執着もしていないタロー』をタローから望まない限りは捨てたりしないのだ。
「ソラ姉、高校どこ?」
「△△高校」
「・・・遠い。電車通学?」
「さぁ? 定期代を出してくれる保証は無いからね。バイト可の高校だからバイトはするよ」
「あんまり会えなくなる?」
「そうだね」
肯定された。
ソラはタローに嘘をついたことが無い。
タローは、ソラが高校に行ったら今までよりも会える機会が減ることを、事実なのだと受け止めた。
「ボク、ソラ姉の持ち物になりたい」
離れなくていいように、持ち物になって、いつでもどこでも置いて行かずに持ち歩いて欲しい。
「持ち物が増えるのは重いし面倒」
ソラの返答は素っ気ない。
でも、嘘は無い。
「じゃあ、ボク自分で歩くから、リードはソラ姉が持って」
「それじゃあ犬みたいだよ」
「じゃあ、ボク、ソラ姉の犬ね」
タローは決定事項としてソラに要望を告げた。
冗談だとでも思っているのか、否定の言葉は返って来ない。
一度認めさせてしまえば、ソラは覆さない。
タローは注意深く観察して分析して来たソラの習性や傾向から、そんな答えを導き出していた。
付け込むなら、そこだ。言質さえ獲ってしまえばいい。
夕暮れの土手を、タローはソラと並んで上機嫌で歩く。
ボクの『同種』のソラ姉は、ボクより弱いし賢くない。
けれど、ボクはソラ姉を『御主人様』にする。
ボクが『犬』でソラ姉が『御主人様』なら、ボクが『御主人様』のソラ姉の為に、何をしたって、どんな方法で護ったって、『普通』のことだから。
だって、『犬』が『御主人様』を護るのも、褒められたくて色々頑張っちゃうのも、『普通』のことでしょう?
ソラ姉、ボクのこと捨てないで、ずっと、ずーっと、ボクの飼い主でいてね?
だってソラ姉は、多分、『普通』であることを頑張るのが人生の目標なんだよね?
だったらソラ姉の『犬』のボクが『普通じゃない事件』を起こしたりしないように、躾は飼い主のソラ姉が責任を持たなくちゃ。
ボクもソラ姉の『犬』でいる限りは、『普通』の『犬』でいられる気がするんだ。
だからソラ姉、これからも。
───これからは、ボクの『飼い主』として、よろしくね?
素良の言動がイタイ厨二病臭いところがありますが、巫山戯ているわけでも格好つけているわけでもなく、生きて来た環境故のものです。
出逢い当時の喋り方が「女の子」じゃないのも、男児服との相乗効果で性犯罪者避けを狙って意図的にそうしています。
重いし面倒だと持ち物にするのを断り、自分で歩くし軽いよとリードを持たされて「犬」にした方が、『責任』というものが物凄く重くなった分岐点がココ。
一見、素良がヤバいのに捕まった分岐点のようですが、本当に囚えられたのは何方なのか。(ただし素良の方は完全に無意識)
次回投稿、3月17日午前0時です。
次話は木崎の話。長いです。