新しい日常風景
騎士にとって『剣聖』とは、一つのアイドル──偶像である。
人は偶像に対し、己が願う「こうあるべき」又は「こうであって欲しい」という理想を思い描き、凡そ現実的ではない自身の脳内の妄想でしかない虚像を、あたかも『唯一絶対の正しい姿』であるかのように押し付ける。
その妄信する『正しき姿』から、現実世界を生身で生きる『アイドル』が逸脱すれば、彼らは己の内なる正義心から憤り、『堕ちた偶像』に憎しみを募らせ、場合によっては殺意にまで想いを拗らせることもあるだろう。
クリソプレーズ王国の『剣聖』ジルベルトは、その人の理を外れたかのような超越した美貌と、高貴な生まれと教育による優雅で洗練された所作と佇まい、そして絶対的な剣技と強さによって、『剣聖』に身勝手で都合の良い偶像を重ねる者達を、遠くから眺めている分には一つの不満も抱かせずに憧憬を集めていた。
しかし、クリソプレーズ王国の騎士達は、立場と職域故にジルベルトを「遠くから眺めているだけ」ではいられなかった。
彼らの目にも、耳にも、ジルベルトが忠誠を誓って侍る第二王子アンドレアの悪評と、悪評を裏付ける苛烈で非道な振る舞いが日常的に入って来る。
それらは、『理想の剣聖の在り方』として容認出来ない「悪の手下」という汚点に感じられた。
悪と蔑む相手が、王国へ忠誠を誓う騎士としては叛意を露わに出来ない王族であるからと、彼らの表に出せない想いは、心の奥底に押し込めたまま燻り、堆積していた。
人の心は単純ではない。
鍛錬を重ねた武人の精神、騎士道、王へ、国家への忠誠心。
それらと、身勝手で我欲に忠実な『偶像への拗らせた想い』は、一個の人間の中で同居可能なのだ。
彼らの心は、不健全ではあるかもしれないが、不自然なものではなかった。
しかし、そんな相反するとも言えるような別々の方向を見ていた彼らの抱えた心の中を、『全て内包する一つの塊』として同じ一方のみを向くことが強制される出来事が起こった。
彼らの方々を向いていた反発し合う心を、同一方向に強制的にまとめ上げたもの。
それは、
───圧倒的な恐怖心だった。
彼らが「悪」と蔑む第二王子アンドレアと同じ王族でありながら、「勇猛」以外に特に評判の聞こえなかった、久方振りに辺境の砦から王都へ帰還した王弟。
それが、新騎士団長レアンドロだ。
自らに「正義」であることを課す騎士達は、新しく自分達のボスになった王族が悪評まみれでないことから、為人をよく知らずとも「正義の仲間」である「自分達の敬愛するリーダー」として歓迎していた。
レアンドロとジルベルトの模擬試合は、騎士達のガス抜きになる筈だった。
少なくとも、騎士達の側は、そう思っていた。
口には出せずとも、実は鬱積していたアンドレアへの負の感情が、罪無き騎士がアンドレアの命により罪人の父親に連座して死を賜った事実で、抑え切れなくなっていたからだ。
丁度いい、チャンスだ。
我らのリーダーに、「悪の手下」への制裁を下してもらおう。
そして、それを見物して溜飲を下げるのだ。
そうすれば、スッキリした自分達はまた、「あるべき騎士の姿」で王国に仕える日常を取り戻せる。
そんな風に考えていた騎士達が下げたのは、溜飲ではなく彼らの士気だった。
彼らは『剣聖』ジルベルトの「本気」を見たことが無かった。
レアンドロと対した時ですら、ジルベルトは「本気」で戦ってはいないのだ。
その「実力差」を見せつける為に、全力で手加減をして時間いっぱいレアンドロを嬲りものにしていただけだ。
実力主義を掲げるクリソプレーズ王国の騎士団に所属する、強者の筈の騎士達が、恥ずかしくもチビるほどの威圧と殺気を撒き散らしながら。
けれど、おそらくあの威圧とあの殺気も、ジルベルトの「本気」では無かったのだ。
アレらさえ「全力で手加減」されていて、多分、向けていたのはレアンドロにだけ。騎士達が浴びたのは、ほんの飛沫程度だったのだ。
一騎当千。
戦に出れば『剣聖』一人で戦況が変わる。
歴史書は御伽噺ではなく、事実を書き記していたのだと、騎士達は身を以て痛感した。
もしも戦場で、敵方からジルベルトの「本気で全力の威圧や殺気」などを向けられたとしたら。
彼らには、意識を保って立っていられる自信が持てなかった。
鍛錬を重ねた実力主義を掲げる騎士団の強者だからこそ、客観的に実力差が測れてしまった。
自分達では、それこそ千人居ても、ジルベルト一人に敵わない。
ジルベルトの強さは、憧憬を以て見つめられるようなモノではない。
アレは人間が備えていい類の「強さ」などでは無い。
その、人間離れした、人とは思えない美麗さも相まって、ジルベルトの存在は、まるで物語に出て来る「異界から来た人外の悪魔」のように騎士達には思えた。
騎士達は「強さ」に憧れる。
だから、強さの最高峰と認められる『剣聖』のジルベルトへの憧れの念を抱いていた。
だが、あの試合を見ていた騎士達に、ジルベルトに憧れる者は、もう居ない。
覚える感情は、畏怖。
それが最も大きい。
そして、ジルベルトへの畏怖の念が大きくなるごとに、彼と対峙し、重傷を負っても生存した自分達の新しいリーダー、レアンドロへの畏敬の念は育って行った。
怪我が回復し、レアンドロが騎士団へ復帰したら、新騎士団長の下で己を鍛え直そう。
ジルベルトを遠くに見かけるだけで、身体が勝手に「ビクッ」となっていた騎士達の困った身体反応もどうにか治まって来た頃、騎士団の新体制の人事も決定し、レアンドロは騎士団に復帰した。
強面無表情な見た目の印象そのままの、冷酷非情で厳格な騎士団長として。
為人をよく知らぬまま、「自分達のリーダーである騎士団長」にも身勝手な偶像を押し付けていた騎士達は、アテは外れたがジルベルトに抱いていたような拗らせた感情をレアンドロに向けることは、もう無かった。
どんなに怖くて厳しい団長だろうが、アレよりはマシだ。
それに、「全力で手加減」の飛沫を少々被弾した程度でチビッた自身の体たらくは、彼らの中の傲慢や甘えを消し飛ばした。
正義や理想に曇った目を覚ませば、アンドレアの仕事の重要性に気付けぬ能無しはクリソプレーズ王国騎士団には居ない。
アンドレアの役割は、現在のクリソプレーズ王国の在り方ならば、誰かはやらねばならないモノだ。
誰もやりたい筈の無い、損でしかない、憎まれる汚れ役。
それを幼い時分から担っているのが、「天才」と評されて来た未だ十代の第二王子と側近達なのだ。
国に忠誠を誓い、国の為に身を捧げる。
それを誇りに己の役割を務めて尽くす騎士と、第二王子達の在り様の何処に、反目する必要など有るものか。
騎士達は、少々想像とは違う為人であった新騎士団長レアンドロを、自分達を導くリーダーとして歓迎し、新たな心持ちで鍛錬に励む。
その張り詰めた緊張感と一糸乱れぬ統率された連帯感は、レアンドロの下、新生クリソプレーズ王国騎士団のこれからの日常風景となる。
あの試合は、確かに騎士達のガス抜きにはなっていた。
思い込みや「理想の正義」への固執といった毒ガスが、跡形も無く追い払われた様子である。
騎士団の鍛錬場を見下ろせる三階の窓から、すっかり成長した可愛い弟とその部下達を眺めた国王は、思い通りの成果を得て満足そうに笑みを浮かべていた。
結局、また、この人の手のひらの上。
もしアンドレアが、今のジュリアンの「いつもの食えない笑み」を目撃していたら、きっと渋い顔でそう零したことだろう。
美味しいところを持って行く王様。
次話投稿、2月28日午前0時です。