王妃の覚悟
モスアゲート王都、『仮面』の一人が生活拠点としているアパートメントの一室に、リオは潜伏していた。
今回のモスアゲートへの入国は、コロン男爵領の国境石壁に空いた穴からの密入国である。
十年前から空いていたという、あの穴の存在をもっと早く知っていれば、という思いは無くはないが、過ぎたことを悔やんでも詮無いことだと直ぐに頭から追いやった。
武器や暗器を丁寧に手入れし、身体のあちらこちらに隠し持つ薬物の確認を行いながら、アルロ公爵別邸の実行班とクリソプレーズ王都の上司からの連絡を待つリオ。
先に届いたのは、距離の近い実行班からのものだ。
任務完遂。アルロ公爵の死亡を確認。死体の死因偽装完了。
別邸内のアルロ公爵私兵及び自称帝国の売人、工作員、殲滅。死体の処理、完了。
監禁された女性達、行動可能範囲に水と食料を用意、監禁続行中。
別邸外部の見張り、交代に見せかけ入れ替わり完了。内部にて殲滅。死体の処理、完了。
ダミー、無傷。薬物により意識の無い状態を維持。
指示を待つ。
小さな紙片に書かれた、コナー家の上位工作員用暗号を読み解いて、リオは暫し思案する。
コナー家の工作員は伝達に暗号を用いるが、上位、中位、下位で教えられている暗号が違う。
上位は中位と下位のものも頭に入っているが、中位は中位と下位、下位は当然、下位の暗号しか使えない。また、工作員ではない『仮面』や、伝達物の運び役を専任している者は、工作員用の暗号を教えられていない。
リオはコナー家の支配者の『右腕』なので、使用される全暗号を叩き込まれた。
今回、この作戦に参加しているのは全員が上位工作員だ。
全員が、大抵の無茶振りには応じられると考えていい。
暗殺特化や暗殺と戦闘を専門としているからと言って、工作員としての他の技能が抜け落ちている訳では無い。ハニートラップや生け捕りが、やや苦手、という程度だ。潜入や潜伏、隠密行動は、暗殺を専門とする上位工作員なのだから、元から大得意である。
考えがまとまり、リオは上位工作員用の暗号で指示を書き記し、運び役へ渡した。
護衛役達は、ダミーを連れてクリソプレーズ国境側の宿場町へ向かえ。
宿場町でダミーの意識を戻し、言い包めろ。
ダミーが無事に帰して良い状態であれば本国へ共に帰還し、上へ報告。
そうでないならば、そうなるよう調整しろ。
別邸を拠点とし、見張り役以外の人員は、『仮面』と入れ替わった本職と連携し、モスアゲート王都内に散る自称帝国工作員とモスアゲート王国暗部を、個別に狩れ。正体は決して気取られるな。
次の指示まで定刻連絡。
同盟国の暗部を狩るなど、宣戦布告も同義の敵対行動だが、正体さえバレなければ、と言うか、証拠さえ掴まれなければ、殺っていいと本国から許可は出ている。
アルロ公爵は表に出さずに暗殺。
モスアゲート王族は、残せる者以外を表舞台から退場させ、実質は解体に近い状態にする。
石の名を戴く王国を消さない為に、血筋を繋ぐために残す王族も、同盟国の『紐付き』にすることが既に決定しているのだ。
現政権は、『紐付き』にした王族の名を使い、粛清という形で排除されることになる。
今後こちらが動きやすいように、ウロチョロと目障りなモスアゲート王国暗部を潰したところで、証拠を挙げられなければ後から問題になることは無い。
しばらくすると、クリストファーからの伝達を携えた別の運び役が、リオの許へ来た。
クリストファーの居る本部との遠距離でのやり取りは、訓練された大型の猛禽類が使われる。
今回は、運び役が人目に付かない郊外で鳥を待ち、伝達内容の書かれた紙片を外してリオの潜伏先へ届けに来た。
クリストファーとリオの間でのみ使われる暗号は、元の世界の言葉を基に作られている。
日本語、英語、中国語、ハングル文字を組み合わせ、二人だけに通じる隠語や隠喩で作成された元の文を、事前に示し合わせた文字数ごとに、示し合わせた順番で入れ替えたものだ。
使用する前世の言語がその四種類なのは、二人が共通で読み書き出来る言語がその四種類だったからだ。
前世では大企業の営業部長だったクリストファーは、海外は欧米への出向と交渉が多く、担当外だったアジア系の言語は中国語が日常会話程度、ハングル文字はビジネスでは使えないレベルだが読み書きは可能。だが、東南アジアの言語は区別もつかない。
逆に、都会の繁華街で多様な「夜の店」のオーナー経営者だったリオは、アジア系の言語は幅広く耳に慣れ、読み書きも代筆や翻訳まで出来るほどだが、ヨーロッパの言葉は挨拶程度で読み書きは出来ない。
ただし二人とも、英語は仕事をする上で必須だったので、母国語と同様に覚えていた。
それなりに面倒な暗号を解読し、リオは、そっと息を吐いた。
クリストファーから送られて来た内容は、本国の新騎士団長就任式典における作戦成功の一報と、元クリソプレーズ王女のモスアゲート王太子妃から聞き取った話を要約したものだ。
この身体の血縁者に対する情など元から無かったが、実父は想像を超えたクズ野郎だったらしい。
そう育つように謀られていたという予想もあるが、この身体の双子の兄から気の強さと自己主張の激しさを引けば、実父の人物像が出来上がりそうだ。
だが、王妃と王妃に育てられた王太子、元クリソプレーズ王女である王太子妃は、一度モスアゲート王国を壊して再生する覚悟が既にあるのだと知れたことで、この後のリオの行動は、比較的穏便に進みそうである。
あくまでも、比較的、だ。
王太子妃が手綱を握る予定の王太子以外の王族を、王妃と現国王含め全員暗殺。というのが、計画の中で最も不穏なパターンだった。
それと比べれば、王妃は暗殺対象ではなく使う方向で計画を動かせるし、リオが直接手を下す暗殺対象の王族は最少人数になりそうなのだ。
ならば、使う薬は───。
リオは、携行する薬を再確認すると、選択した計画と使用予定の薬物、計画実行日時を暗号化して記した紙片を運び役に渡す。
運び役は、郊外に待たせている鳥に紙片を括り付けて空に放つために出て行った。
リオも、潜伏先を出立する。
既に王都内では、リオの指示により、自称帝国工作員とモスアゲート王国暗部の狩りが開始されている筈だ。
夕闇、黄昏時、日中外で働く人々の帰宅時間を少々過ぎて、遅くなったと家路を急ぐ人足も疎ら。
逆に歓楽街は賑やかさを増して、まだ帰りたくない人々が集い出す頃。
こうして見ると、滅亡目前の危うさを孕んだ国にはとても見えない。
この国の上層部が「下賤」と蔑む平民街の人々の日常は、目を引く異常など嗅ぎ取らせず、ごく一般的な悲喜交交で送られている様子だ。
王都の街並みを流し見て、闇をすり抜けるように、リオは音と気配を絶って城に近付く。
先刻クリストファーから送られて来た暗号では、王妃は公務で外出する以外はほとんど王宮内の私室に一人で籠もっているそうだ。
侍女も護衛も室内には居ないらしい。侵入者となるリオにとっては都合が良いが、これが普通ではないことは、王族として暮らしたことの無いリオでも分かる。
モスアゲート王妃グラシアは、敵地で侮らせ囲わせて、実際は周囲の愚か者共を手のひらで転がしていた。
本来ならば自由に使えるべき力を奪われながらも、出来得る最大限で、機が熟した時の為に舞台を調えていた。
何とも肝の据わった忍耐強い女性だ。そして、冷静で思慮深く、聡明で大胆でもある。
リオにとって、モスアゲート王妃が母親であるという実感は無い。
だが、赤の他人としてでも、重責を負う立場を自覚した女性であることが窺えるグラシアは、好感を覚える人物だった。
計画に手心を加える気は毛頭ないが、敬意は表したいと思っている。
そして、グラシアへの評価を高く抱いたが故に、リオが選択した計画は、モスアゲート王妃グラシアへ、残酷な決断を迫るものとなった。
「王妃殿下、お静かに」
王妃の私室に侵入し、僅かに目を瞠っただけで動揺を見せない部屋の主へ、敵意を見せず優雅な所作で礼を執ったリオは、やはりグラシアはクリストファーからの伝達通りの印象の女性だと感じた。
「貴方は?」
敵意を感じさせず、所作も綺麗なリオへ、グラシアも敵意は見せず、王族らしい威厳を滲ませた所作と声音で問いかける。
「この国の再生の為、破壊に協力する者でございます」
「まぁ、不穏当なお話ですこと」
「私の存在自体が、この国にとっては不穏当ですからね」
リオは、ゴーグルタイプの色付き硝子の眼鏡を外した。
今度は、グラシアのカイヤナイトの両眼が、大きく見開かれた。
「貴方は・・・っ」
「お静かに。王妃殿下」
音も無く接近したリオが、王妃の唇に人差し指を当てて、それ以上の言葉を封じる。
聡明なグラシアには、リオがモスアゲートの両眼を晒したことで大凡の事情が察せられた。
それをリオも感じ取っていたが、細かな誤解が紛れ込むと後の禍根になりかねないため、簡単に経緯を語る。
「留学生として国外へ出た後、学院で誼を結んだ彼方の貴族の協力の下、死を偽装し亡命しました。この国に協力者も味方もいません。私は死んだ人間です。今は心から忠誠を捧げられる主の下、自分らしく生き直しております。どうか、私の存在はお忘れください」
「そう・・・。そうなのね・・・」
口許を隠した扇子の向こうで「良かった」と小さく声を零したグラシアの、慈愛に満ちたカイヤナイトの瞳から涙が一粒零れ落ちた。
ただ一粒、どうしてもそれだけは、王族としての矜持を以てしても堪えられなかった。
一人は、この先の未来を生きることが出来る。
十六年前、「無かった事」にされる寸前だった双子の王子に、「生きる可能性」を与えようとした。
どちらも碌な生き方が用意されないだろうことは予想しながらの、本当に「可能性」を与えただけだった。
それ以降は、グラシアが全力を注いだのは、王国の滅亡を阻止することだった。
双子の王子達には、自力で生き延びる運と力を得られるよう、祈るくらいしか出来なかった。
アルロ公爵が現王と第二王子に施したと思われる洗脳の内容を考えれば、第二王子は、再生後のモスアゲート王国では生かしておけないと、王妃として、既に理解と納得をしている。
母としては、既に嘆く資格も有していない自覚があった。
ダニエルの生命だけは直ぐに刈り取らないのだとしても、自我は消すことになるだろう。それが可能な薬の存在を、祖国でハイレベルな薬師だったグラシアは知っている。
亡命が叶ったと言うことは、目の前の彼の本当の身分どころか、モスアゲートが過去にどのような恥を犯したのかも、王太子妃から伝え聞く前に、クリソプレーズ王国の上層部は掴んでいたのだろう。
その上で、自分は死人だから忘れてくれ、つまり、「正当な第三王子」として名乗りを上げることは無いと、当人からモスアゲート王妃に伝えさせたならば、クリソプレーズ王国は、身柄を押さえた第三王子を傀儡としてモスアゲート王国を乗っ取る意思は無い、と言うこと。
再生後のこの国が『紐付き』になるとしても、クリソプレーズ王国に繋がれるならば、表から退場する王妃である自分は、頭を垂れて、最期の時まで恭順しよう。
グラシアには、死んだことになっている第三王子が、亡命後、現在は他国で主を見つけ忠誠を捧げ、恐らく暗部の仕事を担っているであろう身で、正体を明かした目的が推測出来てしまう。
今後二度と、自分が表舞台に出ることは無いのだ。
そして、舞台裏での役割を与える為に、彼は遣わされた。
「私は、何を望まれるのかしら?」
焦りも諦めも無く、落ち着き払った鷹揚さで話を促す王妃に、リオは懐から小さなケースを取り出して渡す。
心の内では、全てを理解した上での国母に相応しき王妃のその態度に、感嘆を覚えながら。
「乱心を起こす薬です。これを、現国王へ」
わざわざ薬など盛らずとも、既に乱心しっぱなしだろうがな。
そんなリオの心の声が聞こえたのか、場にそぐわないクスクスとした笑いを溢して、グラシアはケースを受け取った。
「近日中には、陛下に会いに行きます」
グラシアは、この薬を国王に盛ることで、自分はこの世から退場する覚悟を持っている。
そして、盛った薬によって、己が王妃として生きる王国の最も尊き存在であり、生涯を共にし、支え、仕えると誓った夫の命を奪う結末を迎える覚悟も固めていた。
夫への憎しみは無い。
だが、仕える王としては、国を思えば害することに躊躇は覚えなかった。
「人伝の話でしか知らない男だが、あんな愚物には勿体無いイイ女だな、アンタ」
曇り無き決意に彩られたカイヤナイトに視線を合わせ、少し困ったように零したリオに、グラシアは、この国に嫁いで以来忘れていた、心からの笑顔を浮かべた。
他人になって生き続ける彼が、今は本当に自由な心で人生を楽しんでいるのだと、信じられたからだ。
だから、彼が最後にこんな台詞を残して去った後に、ただ一粒で堪えた筈の涙がもう一つ零れたのは、きっと気の所為だ。
「母親じゃなかったら口説いてるぜ。アンタの血を受け継いだこと、感謝してる。あばよ」
二度と会うことの無い、産まれて直ぐに離れた息子。何も母親らしいことなどしていない息子。
憎まれ、恨まれ、侮蔑されて当然の母の血を、受け継いだことを認め、感謝までしてくれた。
「なんて、豪勢な冥土の土産かしら」
お隣の国は、随分と粋な計らいをしてくれたものね。
王族女性らしい優美な笑みを浮かべたまま、グラシアは手の中の小さなケースを、そっと袖口の隠しポケットに忍び込ませた。
自分が「イイ女」だと思った相手との別れ際に口説き文句めいた言葉が口から溢れるのは、リオの前世(木崎)から魂に刻み込まれた仕様です。
前世の子供時代から、母親の出勤時には、「今日もイイ女だぜ」みたいな言葉で送り出していたので、母親相手にその手の台詞を言うことに照れも忌避感も無い男です。
妙な性癖がある訳では無いです。