取って来ーい
王城の第二王子執務室、バダックの用意した軽食とモーニングティーを片手に、アンドレアはコナー家から上がって来たローナン侯爵関連の報告書を読んでいた。
ローナン侯爵も、監視を受け入れる暗黙の了解で王都の最高級ホテルに滞在している。
イェルトがローナン侯爵を説得して、ジルベルトの『首輪付き飼い犬』になることを承諾させた件は、特に後から問題が起こりそうな事案の発生とはならなかった様子である。
クリストファーから届けられた、しっかり効力のある「ジルベルトがイェルトに首輪を付けた飼い主になる」ことを認める書状にも問題は無い。
なんと、カイヤナイト出国の前に、人材豊富な我が国でイェルトが求める主と出逢う可能性を鑑み、ローナン侯爵がカイヤナイトに危険や不利益が無いと判じられる人物であれば、イェルトが選んだ主と契約を結ぶことを許可する旨の、カイヤナイト国王からの委任状まで所持していた。
長らく国内では主を選べず、と言うよりは、平和な治世の続くカイヤナイトでは、ここしばらく目を引くような傑物が現れず、イェルトだけが突出した異端児だったことから、イェルトが国内の身分上位者を主君として仕えることは難しいだろうと、カイヤナイト国王と側近達は考えていたらしい。
イェルトを扱いきれる人物が、現在のカイヤナイトには存在しないのだ。
突出した才覚の持ち主が、将来的に敵対したら怖いという理由で、裁くべき罪も犯していないイェルトに冤罪をかけて処刑したり、刺客を送って暗殺する道を、カイヤナイト国王は選ばなかった。
それよりは、イェルトの自由を庇護下で認め、カイヤナイトと共存や共栄が見込める国家の中から主を選ばせ、その才覚が齎す利益が祖国にも自然と還元される方向へ導いた方が遥かに国の為となる。
その考えから持たされた委任状を、ローナン侯爵は、寧ろ安堵の思いと共に提示したそうだ。
カイヤナイト国王は、クリソプレーズ国王を理性的な王として信を置いている。
密な交流は無くとも穏やかで常識的な外交が行われ、互いに水面下の敵意を向ける必要を感じていない同盟国である。
イェルトが選んだ主は、そんな国の、古来より高潔で清廉な存在と称えられる『剣聖』だ。
考えられる限り、現在のカイヤナイトにとって最善の『天才問題児の飼い主』だった。
最も強固で厳格な誓いは、同種の内容を重ねることが出来ない。
イェルトが『剣聖』に誓いを立ててしまえば、今後イェルトが気まぐれを起こして興味を引かれ、敵対国の王族やら出自の怪しい犯罪者やらに誓いを立てる気になったとしても、既に首輪は付いている。
要は、「ヤバいのやマズイのに飼われる前に、マトモそうな飼い主にしっかり繋いでもらえるなら万々歳」という事情がカイヤナイト側にあったのだ。
イェルト自身も処分対象になるほどの勝手はせず上手く立ち回っていたのだろうが、ここまで臣下の才覚を惜しみ人材を大事にすることが許される国家であるカイヤナイト王国は、実に驚嘆すべき国である。
アンドレアはカイヤナイト現国王のジェフリーが成した偉業に、感嘆の溜め息を吐く。
己が表立って統治することは無いにしても、我が国に同様の偉業を成し遂げられる王族が育つ日を、この眼で見ることが叶うだろうかと、視線が遠くなる。
「失礼します。イェルト・ローナンの儀式、滞り無く完了致しました」
アンドレアが本格的に物思いに耽る前に、ジルベルトが執務室に入って来た。
深夜にアンドレアの私室まで報告に来たクリストファーが、そのままジルベルトに指示を伝えに行ったのだろう。儀式を済ませても日頃の出仕時刻から遅れは無い。
「ご苦労、ジル。イェルト・ローナンから何か要求はあったか?」
「不穏なものは何も。自身と私の周辺へ、イェルトが誰の飼い犬になったのか目に見える形で知らしめるパフォーマンスとして、私の色で作った首輪を物理的にも付けるから与えて欲しいそうです」
ジルベルトの報告を聞いて、アンドレアだけでなくバダックを含む執務室内の他の面子もウワァという目の色になる。ただし、ハロルドの「ウワァ」は呆れではなく「ウワァ羨ましい妬ましい!」のウワァだ。
貴族の子息が、どれだけ素材や造りを豪華で高級にしたとしても、首輪を付けて人前に出るなど考えられない恥辱である。
だが、それをまるで意に介さず、寧ろ「いいでしょ。羨ましいでしょ」と堂々と見せびらかし、その態度と恐ろしいまでの美貌で、見る者の異論を封じてしまう場面が容易に想像出来てしまうところが、この執務室のメンバーをして「破天荒」と言わしめるイェルトのキャラクター性だろう。
「確かに、関係国の社交界、特に貴族界への目に見える牽制は必要だ。『飼い主』がカイヤナイト王国人でなくても良いのだという情報だけが回れば、あの容姿だけを目当てにする輩なら愚かな暴走をしかねないしな」
カイヤナイト王国内でイェルトを狙っていた者達は、既に随分な「痛い目」を見ているようであり、そんな敗北者達を目の当たりにした腹の中は同じ同国人達は、他国人を飼い主に選んだイェルトと、それを許したローナン侯爵とジェフリー国王に文句や陰口を叩くことはあっても、実際に何かを仕掛けて来る蛮勇は持てないだろう。
だが、イェルトの華麗な経歴と高い評判だけを聞き、その別格の美麗な姿を遠目や猫被り中の短い時間だけ目にして「手に入れたい」という欲求を募らせていたカイヤナイト以外の国の権力者や有力者は、「カイヤナイトの国王と父親の侯爵家当主が、イェルトを国外に譲ることを容認した」という事実だけを基に、自分に都合の良い未来を妄想しかねない。
現在の飼い主を排除すればイェルトが手に入る、と。
もしくは、イェルトを無理矢理に拉致しても、従属さえさせてしまえれば、大手を振って侍らせ、連れ回して見せびらかすことが出来るのだと。
アレが大人しく拉致されるタマとは思えないが、見た目は非常識なほど美々しく可憐だ。
愚かな妄想も捗るのだろう。
イェルトの容姿に騙されて、数多のヤバそうな噂を聞いても尚、本質を想像も出来ない程度の雑魚がウジャウジャと湧くのは宜しくない。
飼い主にしろ犬にしろ、雑魚などいくら湧いても払うことは容易であるが、煩わしくはあるし、ジルベルトは多忙の身である。
だが、イェルトの『飼い主』が『剣聖』であると知らしめることで、大半の『飼い主の排除』でイェルトを手に入れようという妄想による暴走は叩き潰せる。
いくら妄想で脳がとろけていても、『剣聖』が排除出来る相手だとは流石に考えないだろう。排除とは暗殺なのだから。
ただでさえ『剣聖』の武力は比喩でなく一騎当千。そして、国家の最重要人物の一人に数えられる立場だ。
ジルベルトの排除を目論めば、クリソプレーズ王国人なら国家反逆罪、それ以外の国の者ならクリソプレーズ王国への宣戦布告行為に当たる。
自国の国王がクリソプレーズへの侵略意図を持っていなければ、自国からも「国に危機を齎した大罪人」として扱われることになるだろう。
どちらにしろ、待つのは身の破滅のみ。
もしも、脳味噌のとろけ具合が手遅れな末期の輩がジルベルトの排除を裏稼業の人間辺りに依頼したとしても、凄腕の実力者であれば、そんな失敗が確約されたような依頼を受けることは無い。
そして依頼を選べない、捨鉢な破落戸程度では、そもそも『剣聖』で王族側近且つ侯爵令息であるジルベルトに、近付くことすら出来ない。
「イェルトは、私の色の首輪を身に付け、今まで秘して来た『飼い主の条件』として、『自分より美しくて強いこと』という内容を公言して回るつもりだと」
「ああ・・・お前を飼い主に選んだ、納得せざるを得ない物凄い説得力が社交界を爆走する訳か」
「余程の身の程知らずで馬鹿でもなければ、『自分の方が飼い主に相応しい』とは口に出来ませんねぇ」
アンドレアとモーリスが、呆れを声に含ませつつもイェルトの策を肯定的に捉える。
狙っていた絶世の美少年に、何故自分を選ばなかったかと詰め寄れば、人外の美貌の麗人と容姿を比べて笑い者にされるのだ。しばらく社交界に顔を出せなくなる辱めである。
また、「イェルトを賭けて決闘だ!」と息巻く命知らずが現れても、「『剣聖』相手に恥知らずな申し出を」と後ろ指を差され、家や寄親から謹慎を命じられる羽目になるだろう。
謹慎で済めば温情だ。
国にとって『剣聖』は、戦争が勃発すれば国家の最終兵器となる国防の要の立場でもある。それを、自分が個人的に欲しいモノを『剣聖』が所有しているからと、剣を向けて害する意思を示す行為は、大罪と取られても文句は言えない。
「イェルト殿も中々えげつない策を取りますね。流石ローナン侯爵令息と言うところですか」
「自分の容姿と強さに絶対の自信があるから打ち出せる雑魚払いだよな」
「ハリー、そんなに羨ましいと視線で訴えても、軍服の詰襟に首輪は邪魔だし合いませんからね」
「ぐぅ」
感心したようにイェルトのえげつなさを称え、主の感想に頷いた後、流れるようにハロルドに釘を刺すモーリス。義理の兄弟は良好な関係を保っているようだ。
それを眺めて、ジルベルトはイェルトから出されたもう一つの要求を口にした。
「イェルトは自分を試して欲しいそうです」
「試すだと?」
「はい。留学は決定でも、学院には制服が仕上がるまで通えませんから」
貴族学院の制服はオーダーメイドだ。暫定的に自国の学院の制服で通うことも容認されるが、外聞として良くは無い。
何か、余裕の無い事情があるのかと痛くない腹を探られる。
「制服が仕上がるまでの期間、モスアゲート王国へ観光に行きたいそうです」
「どういうことだ?」
アンドレアのクリソプレーズの両眼が鋭く光り、執務室内の空気がヒリつく緊張感を孕む。
刺さる視線を平然と受け止め、ジルベルトは静かな微笑を湛えたまま説明する。
「現モスアゲート王妃はカイヤナイト国王の実姉です。先頃、これまで問題の無かったモスアゲート王の挙動が不審を抱くものに変化したことを懸念し、カイヤナイトの外交部署が在モスアゲートのカイヤナイト王国大使館に説明を求め、大使館から王妃へ謁見を申請したそうなのですが。王妃からではなくモスアゲート王室から、多忙を理由に却下されたとのこと。その理由は、『クリソプレーズ王国の新騎士団長就任式典へのモスアゲート王妃の参列準備』だったそうですよ」
「ほぅ・・・。そちらでは、そうなっていたのか」
クリソプレーズ王国に正式に提出されているモスアゲート王国からの王族の参列者は、王太子夫妻となっている。国王と王妃の参列は無い。
事前の申告無しで王妃クラスの王族が式典に参列するとなれば、非礼・無礼・非常識もいいところであり、一言で表せば侮辱行為。喧嘩を売っている。
モスアゲートとクリソプレーズ、両国の関係を考えれば、他の同盟国からの国際的な批判も免れない自滅行為だ。勿論、この場合自滅するのはモスアゲート側である。
だから、実際に王妃が急に参列するということは無いだろう。
つまり、モスアゲート王室は王妃の祖国であるカイヤナイト王国の大使館に、虚偽の通達を出したことになる。
これはこれで、カイヤナイトに対するとんでもない侮辱行為に当たり、まぁ喧嘩を売っている。
どちらにせよ後からバレるものだろうに、クリソプレーズとカイヤナイトに現在密な交流が無いことで楽観視でもしているのだろうか。
誰がトップで指示を出しているのか未だ確定は出来ないが、次から次へと後先が考えられていない愚策を重ねて来るモスアゲートは、本当に国として危険な境界に在るようだ。
「その流れから、ローナン侯爵の手の者が、昨年度のクリソプレーズに於ける『モスアゲートからの留学生殺人及び死体遺棄事件』の顛末を調べたらしく、まぁモスアゲートに何かあるな、とイェルトも思ったそうで。その何かは、王妃の祖国だけでなくクリソプレーズ王国への悪意も感じられるから、『取って来い』がしたいそうです」
「は? 取って来い?」
「はい。犬に棒やボールを投げて『取って来ーい』と指示を出すヤツです。モスアゲートから何かを咥えて持ち帰る気のようです」
何か──疑惑の濃度を再現無く上げながら、未だ核心に至っていない有力な物的証拠と動機。アンドレア達が今、自分達が国外に出られるものなら自身で取って来たいモノは、ソレだ。
眉根を寄せたアンドレアは眼光鋭いままジルベルトに問う。
「監視は」
「クリスが自身の『右腕』を出すと。モスアゲートのガイドとして最適だろう、と」
「ああ・・・許可しよう」
ニヤリ。端麗な唇を傲慢に歪め、アンドレアは裁可を下す。
これは、リオへの試験でもあるのだと、クリストファーから示された意図を読んだアンドレアの中で、利益計算が瞬時でメリットに傾いたのだ。
今日も、第二王子執務室の天井裏にて任務中のコナー家の「第二王子執務室番」はリオだろう。
この会話も、聞いている筈だ。
「モスアゲート観光、土産を期待する」
アンドレアの言葉。
見えず気配も感じさせない天井裏だが、そこに潜む者が頭を垂れたことが、執務室内の彼らには分かった。
ある日とうとう、ハロルドがバダックへの不満をブチまけた。
「壁際で控えている時のバダックが、匂いはするし姿も見えているのに存在を感知出来なくて気持ち悪い!」
「へー、お前、確か感情や思考も匂うんだよな? そういう時のバダックってどんな匂いなんだ?」
「本体の匂いのみで、思考や感情の匂いが一切消えてます。生き物なら必ず、睡眠中でも微かにでも発してるものなんですが」
「えー、お前らの人外っぷり、どっちもどっちだな。そう言えば、ルーデルはどうなんだ?」
「あ。言われてみれば同じく匂わないです。ルーデルは生き物の括りから除外してました」
「うわぁ・・・」
ルーデルは、あと百年くらい経過しても今の姿のまま生きてるような気がしている第二王子執務室メンバーだった。