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その子爵令嬢の価値

 ニコルとアイオライト王国回。


 蛇足も含めて長いです。


 ニコルの屋敷、いつものサロンでニコルとクリストファーは向かい合ってお茶を飲んでいる。

 いつもの婚約者同士の茶会と風景は変わらないが、今日のクリストファーは王家から託された書簡を運ぶ『王家の使者』の役目も担っていた。


 しかし、託された書簡は自国の王家の物ではない。

 アイオライト王国の国王から、クリソプレーズ王家が庇護するニコルに渡すことをクリソプレーズ王国国王が依頼された手紙であり、クリソプレーズ王家側で内容を検めることにアイオライトの使者から同意が示されたために、ニコルに()()()()()()()()国王ジュリアンがアイオライトの使者に対し了承し、クリストファーが手紙を運ぶ命を受けた。


 本来ならば、この手の物はニコルに関する正当な『王家の使者』であるジルベルトが届けるのが筋だが、現在ジルベルトは外務部の資料室に缶詰状態であり、クリストファーも年明けからは夜会参加資格を得た「見做し成人」であることから、「特殊な事情(面会制限)のあるニコルの婚約者であり、成人した公爵家の子息(高位貴族)()()を受けて書簡を運ぶ」という、相手の面目を潰さない(言い訳を押し通せる)形に出来るために、このような運びとなった。


 尤も、相手に尽くすべき礼儀を尽くさねばという心構えが必要な状況であれば、ジルベルトが多忙を理由に『王家の使者』が担うべき責務をクリストファーに投げることなど有り得ないし、国王ジュリアンだとて最初からジルベルトに命令を下していた。

 今回は、ジュリアンが半笑いで「()()()()()でいい」とクリストファーに命じるような、「言い訳が出来る形なら礼儀など要らん」という状況と内容だったのだ。


「舐めくさり過ぎてて話にならないわ」


 だから、外部の耳も目も無いニコルの屋敷内のサロンで、ニコルが「アイオライト国王からの手紙」を鼻で嗤ってテーブルに放り投げても、誰も咎めないし何も問題にはならない。

 届けに来たクリストファーも、手紙の内容を知っているので、呆れた視線を放られた手紙に向けてマカロンを咀嚼するだけだ。

 パステルカラーのマカロン達は、春の王宮茶会に向けて王妃に依頼された新作の試作品らしい。春の花を風味付けに使った彩りも美しいマカロンは、女性ウケが非常に良さそうだ。


「あのトンチキ王女の()()が決まったから何だって言うのよ。公表されてるのは、『ニコット商会及びミレット商会とそれに連なる者達』が、『王女命令で国外追放された』ってことだけで、()()()()()()()()アイオライト王室からの発表は無いのよ? その状態で、王女が病死したからって()()()()()()()()()()戻れる訳無いでしょうが」


「同意以外無いな」


 不快そうに、けれど音も立てず上品にティーカップをソーサーに戻したニコルに、菫のマカロンをしっかり飲み込んでからクリストファーが応じる。


 先日到着したアイオライト王国からの使者は、クリソプレーズ王国にて留学中に()()を起こした第一王女アデライトが、「療養の甲斐無く近々儚くなる」ことをクリソプレーズ国王に伝えに来た。

 そして、その際に「ニコル・ミレット子爵令嬢に渡してほしい」と、アイオライト国王の手紙をクリソプレーズ王家に託したのだ。


 現在、クリソプレーズ王家が庇護するニコルに対し、地位や権力を持つ者達からの圧力や脅迫を防ぐために、ニコルへ直接、手紙を含む何らかの物品を渡すことは、()()()()()()()()()()()()()()()()

 これは、クリソプレーズ王国が国の内外に公表していることだ。古狸が学院長だった頃に、どこぞの侯爵家の馬鹿息子が学院でニコルに迫ったことで、条件は以前より厳格になっている。

 血縁者や王族であっても、ニコルとの直接のやり取りは許されない。間に必ず検閲が入る。ニコル本人も、それらを受け入れている。

 ニコルに送られる物は全て、「専門の検査官」によって検められるのだ。「専門の検査官」などと濁しているが、実際に検めるのは王国暗部の人間である。


 他国の、同盟国の国王であっても、「公表している条件通りに」手紙を検めることをジュリアンに告げられ、使者は失望を隠し切れずに滲ませながらも弁えて引いた。

 国王からの手紙であれば、同盟国の王からであれば、という期待は少なからず持っていたのだろう。

 だが、期待が叶わなかった場合にゴリ押しをしない程度の状況判断能力も持っていたようだ。


 ニコルへの口添えをクリソプレーズ王家に願うような、図々しさを顕す使者でなくて幸いだった。

 傀儡王になる予定の次期国王に嫁いで来る、後継者を産む以外の期待をされていない次期王妃とは言え、次期王妃の()()と表立って事を構えたい訳では無い。

 謁見を隠し部屋から見ていたクリストファーは、アイオライト王国はクリソプレーズ王国より「実力<身分」の度合が強いのだろうと印象を持った。


 身分制度のハッキリした王国なのだから、クリソプレーズも実力だけで台頭出来る国ではない。

 だが、クリソプレーズでは、明らかに「優秀」というレベルから頭抜けて突出した異才、天才が、国家に見出されながら身分を理由に軽視されることは少ない。というか、国家の方針を酌めない阿呆しか、国家に見出された天才達を身分で軽視などしない。


 今のクリソプレーズでは、ニコルを「一般的な下位貴族の令嬢」と同等に扱って構わないと考える貴族は、阿呆ではない貴族の中にはいない。

 勿論、『剣聖』のジルベルトを「所詮は侯爵家の子息」という扱いで大丈夫だと考える貴族も、余程の大馬鹿者でもなければいない。

 だが、どのような功績を上げようが才能を発揮しようが、生家の身分のみで人間の価値を測る王侯貴族が治める国もある。

 それは、その国で生まれ育った者の価値観であり、その国では何も間違っていない常識だ。


 アイオライト国王は、「ニコル・ミレット」という『子爵令嬢』の才能は否定せず、クリソプレーズ王家が庇護を公表していることも知っているが、自国の常識によって、それでも「所詮は子爵令嬢(=王族から見て人間としての価値が低い者)に過ぎない」と考えているようだ。

 アデライト王女がアイオライト王国の平民や下位貴族の娘を殺害するような犯罪を主導しても、王女に罰を与えず罪の隠蔽にのみ奔走したことからも、その思考は窺える。


 アイオライト国王からニコルに宛てた手紙には、アデライト王女が近く病によって死去することと、アデライト王女の「病死」で留学中の()()()()は手打ちとし、アイオライト王国への()()()()()()を収め、()()()()()()()()()()ことを『要求』する旨が記されていた。

 クリソプレーズの常識から見れば、ニコルが「舐めくさり過ぎ」と手紙を放っても仕方の無い、かなり馬鹿にした内容である。


 だが、アイオライト王国であれば、特別におかしな内容でも、馬鹿にしていると受け取られる要求でも無いのだ。

 これはもう「お国柄」としか言いようが無い。

 当然、クリソプレーズがアイオライトの「お国柄」に合わせてニコルを軽く扱う必要も無いので、ジュリアンは半笑いでクリストファーに「渡すだけでいい」と命じたのだが。


「アデライト王女から国外追放を命じられた理由も明らかにせず、王女からの国外追放命令の撤回もせず、こちらの潔白の証言もせずと、()()()()()のよ? その状態で、国外追放を命じた王女が『若くして()()』なんて可哀想で同情を誘う死因が王室から発表されて? そこに和解の発表もされてないのに()()()()()()()出店して交易して事業を再開しろと? 賠償も補償もされてないけど、更に無駄金を使ってまで、『恥知らず』の誹りを受けて商会の評判を落として損害を被りに行けと?」


 苦々しく吐き捨てるニコルの言葉は、クリソプレーズに於いては正論でしかない。

 だが、アイオライトでは、ニコルへの要求の方が常識だ。

 アイオライト国王にニコルを不快にさせる意図は無く、それどころか、『王の直筆の手紙を賜る栄誉』をニコルに与えることで、「クリソプレーズ王家の庇護する子爵令嬢に、他の子爵令嬢より()()()()を付けましたよ」というアピールを、クリソプレーズ王家にしたつもりでいるのだろう。


 アイオライト国王の手紙を要約して意訳すれば、「王族であるアデライトに『病死』という『この上ない罰』を与えたのだから、()()()()()()戻って来い。補償も賠償も無いけど、勝手に出て行ったんだから自腹で全部元通りにしろよ」という話になる。


 アデライトを「病死」させるのだって、王女が自国内で犯罪行為を繰り返していた事実が他国の諜報員にバレたからであって、ニコルへの暴挙に対する罰ではないのだ。

 それなのに恩を着せて来ているのが図々しいと、ニコルは感じていた。


 アデライト王女の件では、クリソプレーズ王国とクリソプレーズ王家には、アイオライト王室から非公式で謝罪があったが、ニコルへは無かった。

 王族が子爵令嬢に謝罪するのは現実的ではないが、王室から謝罪に値する非公式の見舞い品すら無かったのだ。

 つまり、アイオライト王室は、アデライト王女がニコルにやらかした様々な行為を、ニコルに対しては、全く「悪いことをした」とは思っていないということだ。


 アイオライト王国は、ニコット商会とミレット商会に全事業と支店を引き上げられ、取引まで拒まれるという経済的打撃に頭を抱え苦悩している。

 だが、クリソプレーズ王家にさえ謝罪して誠意を見せておけば、ニコルへは「要求」するだけで、()()()()()()()()()()()()()()()()()は解決する筈だ。

 この手紙からは、アイオライト国王や周辺の高位貴族が、そう考えていることがよく分かる。

 経済の前線近くで立ち回る、実動文官達が同じ考えとは限らないが。


 ニコルの不快に拍車をかけるのは、ニコルはアイオライトに出店や事業展開をしていただけであり、国籍を移した覚えなど無いというのに、アイオライト国王からの手紙には、まるで自国の下位貴族の小娘に向ける命令の如きニュアンスが端々から読み取れる辺りだ。


 ニコルはクリソプレーズ王国貴族だ。


 貴族の身であるから、王族からの「謝罪」など初めから望んでもいない。

 王族の「謝罪」は、王族側の体面も傷付ける両刃の剣であると同時に、最も(たち)の悪い強要だと、「下位貴族の商人」であるニコルは考える。

 だが、自国(クリソプレーズ)の国王からの王命でもないのに、事業引き上げにかかった費用の補填も賠償も無く、全てを無かったことのように、もう一度自腹で再進出など、要求されても実行する義務は無いし、和解もしていないのだから義理も無い。


 それに、折角、ニコット商会とミレット商会には悪評が立たないよう「誠意ある撤退」の形に整えて引き上げて来たというのに、何の義務も義理も無い国へ、『王族命令で追放され、命令の撤回も解除も正式発表が無いのに、可哀想な王女様が若くして亡くなったら、勝手に戻って来て商売を再開してる恥知らず』という悪評を、わざわざ受けに行ってやるほど優しくも間抜けでもない。


 引き上げ前には、アイオライト王国で、特に商売上の大きな問題が起きたことは無かった。

 だが、ニコルは今回のアイオライト王国の対応諸々を鑑みて、少なくとも、()()()()()()()()()()二度とアイオライト王国に支店も事業も戻さないことを決定した。


 商売は信用を失えば成り立たない。


 今回のアイオライト王国の、ニコル及びニコルの関係商会への対応は、信用の低下ではなく失墜へ繋がるものだった。

 低下は条件次第で挽回の可能性を残しているが、失ったものは戻らない。ニコルの商売の信念では、そうなっている。


「譲歩無しで、支店も事業も戻さねぇつもりだろ?」


 前世の妹の気性はよく分かっている。クリストファーは質問の形の意思確認をする。

 ジュリアンは、こちらの正当性を主張して丸め込めるなら好きにして構わないと言外に言っていた。手紙を読んだからと、アイオライト国王の要求を受け入れる必要など無い。


 第一、再度アイオライトへニコット商会とミレット商会の支店や事業を戻しても、クリソプレーズ王国にメリットはほぼ無いのだ。


 僅かばかり外交面で恩を着せられる程度で、ニコット商会とミレット商会に、超短期で莫大かつ不要であった出費を強いるのだから、その二つの商会からの税収が国家の大きな収入の一角であるクリソプレーズにとって、経済面ではデメリットの方が大きい。

 その上、外交面でのメリットならば、クリソプレーズの外務大臣ダーガ侯爵がアイオライトの筆頭公爵グレイソン卿と交わした密約で、大きなものが得られることが確定している。

 今更、経済的なデメリットを受け入れる譲歩をしてまでアイオライトに阿る必要など皆無だ。


「当然」


 ニコルは片頬を歪めて答える。


 ニコット商会とミレット商会は、アイオライト以外にも複数の国に進出しているが、アイオライト王国はその中で特別に利益を上げている国ということも無く、アイオライト王国産の原料に拘った商品もアイオライト王国以外で流通させていなかった。

 ニコルにとってアイオライト王国は、いつ切り捨てても困らない市場(しじょう)であり、いくらでも換えの利く原料の産地だった。


 ニコルに手を引かれて、困るのは向こう(アイオライト)のみであり、こちらは何も困らないという自信もある。

 ぶっちゃけ、ニコルと商会側にとってアイオライト王国とは、同盟国で隣国だから、その()()()自国(クリソプレーズ)の王の顔を立てて、店や事業を出していただけで、商売的には然程旨味の無い国だったのだ。

 自国に不利益を被ってまで、自国の王の「言外の許可」もあるのに、撤退の撤回などする気は無い。

 今回のアイオライト国王の手紙にジュリアンが口添えしなかったことが、「ニコルが自分で判断していい」という許可と受け取れる。


 ニコット商会もミレット商会も、『商会』だ。

 利益を齎さず、損しか出ない要求を受け入れるような慈善団体ではない。


 正当なお断りの理由など、具体的な数字を出して、一度引き上げた国へ再度進出する費用、「王女命令の国外追放」で使われた引き上げ費用、それらが商会へ与えた損害額、今までアイオライト王国で商会が得た純利益と損害の差額、を提示するだけで十分な筈だ。

 何しろ、それだけで他の細々とした理由や事情説明も必要無いほどに、莫大なマイナスになっている。


 更に、()()()再度アイオライトに進出する場合、再進出したアイオライトで二十年商売を維持しても、()()()()()()()()()()()()()()損害の回収は不可能であり、マイナスは年々増大していく予測計算が、表とグラフ付きで商会資料に既に収められている。

 もしも「明るい未来に期待して」などと世迷い言を言い出してゴネられても、跳ね退ける根拠は十分だ。

 相手に商売の常識が通じれば、ではあるけれど。


 お国柄が違えど、商売人にとって「商いは利益を出すことを求めるもの」という常識は万国共通だ。

 その常識を捻じ曲げて、権力者が商売人に損を被ることを不当に強要してくるような国は、彼らに忌避される。


 もしも、()()()()()()()()という身分を盾に、()()()()()()()()()()()であるニコルに、商いで損失を出すことを強要するならば、ニコルは庇護を受ける()()()()()()()()()に『相談』するだろう。


 二度と、アイオライト王国側に、ニコルに関わろうという考えを持たせないために。


 ニコルが『相談』しようとしている内容は、『クリソプレーズ王国に納める税金が大きく目減りする事柄を、アイオライト国王がクリソプレーズ王国貴族に強要している話』である。

 その話は、『アイオライト国王はクリソプレーズ王国を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()で侮辱し、クリソプレーズ王国の国益を損ねようと謀った』という解釈も出来てしまう。

 公になれば、中々のヤバさの国際問題に発展するのは確実だ。

 何しろ、他国との交流に於いて最も印象の悪い、『内政干渉』が疑われる内容なのだから。


 追い打ちとして、ニコルはヤバい大問題に発展しかねない『相談』はクリソプレーズ王家にしかしないが、商売人に対し有り得ない要求をしたアイオライト王国への『愚痴』ならば、()()()溢してしまうつもりだ。


 溢した『愚痴』は、身内や身内の同業者、取引先の色々な国の色々な商会や、様々な国の各種事業主にも伝わるかもしれない。


 信用を損なう情報が出回ることの恐ろしさを知ればいい。


 ニコルが受けたアイオライト王女からの国外追放命令は、アイオライト王室が撤回や否定の発表もしていないのだから、今や多くの国の商人達の間で「事実」として知れ渡っている。

 この時点で、アイオライト王国は「ニコル・ミレットに逃げられた国」として他国から嘲笑され始めていた。


 そこに追加で今回の『商売人に有り得ない要求をした国家』という印象の強いネタが流れたら、どうなるか見ものである。

 ニコル・ミレットの名を冠した噂は、ネットも電話もテレビも無いこの世界で、謎なほどに速いスピードで同業者の間に回る。

 ニコル・ミレットは、それだけ注目度の高い商売人なのだ。


 商売人らによる即時のアイオライト王国からの撤退や取引停止までは行かずとも、()()()()()()()新たな進出先としてアイオライトを選ぶ者は確実に減り、今後の方針を測って向けられる視線は厳しくなり、見定められ、彼らのお眼鏡に適わなければ、在アイオライトの取引や事業を縮小したり、目立たぬよう徐々に手を引いて行く者は増えていくだろう。


 反対に、真っ当な商売人達が引いた隙間を埋めるように、法の目を掻い潜り不当な利益を上げたり、足元を見て粗悪な商品やサービスで暴利を貪ろうとする者は増える。


 商会長本人が貴族であっても、子爵()()では身分を理由に軽視され、王族が不当な損害を与えて来る上に、誠実な対応は一切されず、身命の危険と損失増加回避のために「穏便に撤退」しても、()()()一方的な搾取に従えと直筆の手紙を出して来るような国と、関わりたいマトモな商売人は居ない。


 お国柄による常識の差からの行き違いや誤解が生じた。

 王族や高位貴族は、もっと高い視点から物事を見ているから、やむを得ない対応だった。

 などと言い分は向こうにもあるだろうが、被害を押し付けられる恐れのある側が()()から受け取る情報は、『アイオライト王国は、貴族でさえ安全に商売出来ないヤバい国』というものだ。


 おまけに、()()となっているニコルは「同盟国の貴族」であり、「同盟国の王家の庇護」まで公言されている存在なのだ。

 そのニコルでも、「そんな扱い」をされるのかと考えれば、健全な商売人にとっては出来得る限り距離を置きたい国だろう。


 詐欺師も各地から湧き出して、集まって来そうだ。

 どうせ「やんごとなき身分の御方が立ち上げた商売」以外には誠実な対応の望めない国ならば、保証もアフターサービスも用意しなくていいし、契約書が本物である必要すら無いと考えるような輩が、善良な正直者風の笑顔を振り撒いて跋扈する国になる。

 偽名で架空の商会を立ち上げ、それをバックに詐欺行為で荒稼ぎしてトンズラする者共は、法整備や治安維持が追いつくまで、アイオライトをしゃぶり尽くそうと入り乱れるだろう。


 いずれ、アイオライト王国には大きな経済危機が訪れる。


「隣の王様、大人しく『お断り』を受け入れるかしらねぇ。ああ、でも引き際を間違えたら、歴史に名を残す王様になれるわね?」


 普段のクリストファーとの茶会では見せない、貴族女性らしい口許を隠した笑顔でコロコロと笑いながら言うニコル。

 三日月のように細められた春の若芽のような黄緑色の瞳には、暖かみも笑みも無い。


 相当怒ってるな。と、クリストファーは桜の葉の塩漬けを練り込んだサクリとした歯ざわりのクッキーを無言で飲み込む。

 紅茶で喉を潤してから、事も無げに応じた。


「まぁ、足の付く犯罪以外なら好きにしろ」


 どうやらニコルが、アイオライト国王を退位に追い込むくらいはヤル気だと気付いたが、クリストファーに止める気は無い。

 ニコルの価値を測り損ね、喧嘩を売る相手も売り方も間違えたのは向こうだ。

 現国王が退位したところで、アイオライトの王太子は成人で既婚だ。譲位が原因で国が荒れることも無いだろう。


 ニコルの判断は、アイオライトの現国王との衝突にはなっても、アイオライト王国自体と事を構える事態までは発展しないとクリストファーには予想がついている。

 アイオライト担当のコナー家配下からの報告でも、アデライトのニコルへの暴挙の結果を重く見る貴族が増え始めているのだ。


 アデライトを野放しにし続け、暴挙を許し増長させた父王の求心力は下がっている。筆頭公爵の嫡男を()()()ことで、筆頭公爵派閥の貴族からの援護も望めない。

 だからこその、今回のニコルへの手紙だった。効果は逆方向も甚だしいが。


 まぁ、ニコルに喧嘩を売らずとも、現アイオライト国王は、王家と筆頭公爵家の和解のためにも、遠くない時期の退位は免れなかったのだから、その時期が多少早まるだけの『子爵令嬢からのささやかな抵抗』を止める必要も無い。


 いつもなら暴走を止める保護者(クリストファー)から「GO」を出され、ニコルはニッコリ笑ってペンを執る。

 今度の笑顔は普段の茶会と同じ、悪企みを楽しむ上機嫌な笑顔だ。

 悪企みをしている時が一番自然な笑顔なところも前世と変わらない。

 やや複雑な気分になりつつも、兄心でペンを走らせるニコルを見守るクリストファーだった。


【蛇足なアイオライト側の事情】


 アイオライト国王は、ニコルに悪意がある訳ではありません。

 アイオライト国王にとって、自分より身分の低い人間は『交渉相手』には成り得ず、下位の身分の者には『命令』か『要求』しか必要無いという意識なだけです。


 アイオライト王国の王族、高位貴族の中で、外交の実務経験が多くない人間は総じて同様の意識を持っています。

 だからボロを出さないように、通常の外交の場面では、その手の王族や高位貴族には、必ず相手国の常識に精通した人物が補佐として付きますが、今回は王と少数の側近だけで「良かれと思って」、ニコルに『要求』の手紙を出してしまいました。


 後から手遅れな事実を知った、外交担当の貴族や役人達は胃痛で血を吐いているかもしれません。

 彼らの悲劇は、外交に向いていない上層部がアイオライトの常識に基づいてニコルの立場を判断しているために、対外的にも公言されている「クリソプレーズ王家に庇護される子爵令嬢」が、『本当に大事に庇護』されているとは思っていないことも原因です。



 アデライトの一件では、アイオライト国王は、『交渉相手』と考えられるクリソプレーズ王国の国王や、国家や王室などに対しては、礼儀を尽くしています。

 アデライトの愚行を報されたアイオライト国王が顔色を悪くしたのは、アデライトがクリソプレーズの「王宮」で問題を起こし、「王家」が庇護する人間に危害を加えて犯罪予告をしたからであり、被害を受けた当事者のニコルに対しては、何の脅威も抱いていませんでした。

 かと言って馬鹿にしている意識は全く無く、ただただ軽視しているだけです。


 アイオライトの王城で財務や経済関係の部署で働く、実際に現場も行き来している文官達の意識は、王様達と真逆です。クリソプレーズ国王よりも、寧ろニコルの機嫌を損ねることに恐怖しています。

 ミレット家のアイオライト撤退の一報では、何人もの文官がショックで気絶しました。ミレット家の事業が齎す経済的恩恵が全て一気に失われることで、来年の国家予算が全部計算し直しになるので。

 彼らには、過労死が笑顔で手招きする幻影が見えています。



 アデライトの留学の随行員は、全員が下位貴族でした。


 男性は、「王女と間違いを起こさないように」という理由。

 女性は、「既婚者と年寄りと子持ちは嫌」というアデライトの要望と、「未熟な少女では役目を果たせない」という王室側の判断で、「中年よりは若いが、年増の嫁ぎ遅れ侍女」が集められた結果、家格の低い子沢山な貴族家の女性が集合。


 お国柄故に、下位貴族の娘は政略結婚の相手は見つかりにくいので、仕事を持って自立している下位貴族の女性が多い国です。

 そのため、下位貴族や平民ならば「女性が働いて自立すること」に肯定的な風潮もあります。

 下位貴族家の余っている子供と平民の婚姻にも、貴族側が平民に下る場合に限り、障害はほぼありません。

 この辺りの事情もあって、アイオライト王国では、王族や高位貴族と下位貴族の間の身分に関する意識の差は、同程度の似た文化の王国と比べても大きいです。


 アイオライトでは、城勤めで独身で当主ではない下位貴族は、城下で平民と近く生活する機会も多く、多くのアイオライトの平民を雇用してアイオライト王国民の生活レベルを向上させていたニコルの商会が、どれだけ自国へ利益を齎す存在なのかをリアルに感じ、深く感謝もしていました。


 故に、随行員達にはニコルを見下す意識も無く、「アイオライトという国をニコルが嫌いになったら大変なことになる」という意識もしっかりと有り、自国への忠義心から、アデライトの暴挙を止められなかったことを絶望しました。

 そして、アイオライトの国民生活レベルの向上に貢献してくれたニコット商会会長、ミレット商会会長令嬢のニコルへの恩を仇で返すことになった恥ずかしさで、かなり思い詰めてもいます。


 クリソプレーズで拘束後、尋問に粛々と従い、「生き恥を晒せません。故郷の民に顔向けも出来ません」と、クリソプレーズ王国で死刑になることを望む彼らに、尋問官らは大いに同情。

 預かった彼らの身柄は「懲役」という形で外部の人間と隔離しながら、「再教育」が済んだら適性ごとに下っ端仕事でクリソプレーズの王城に出仕させる予定。

 無駄死にさせるには惜しい程度には能力や教養があるので、人手不足な各部署が手ぐすね引いて待っています。



 ちなみに筆頭公爵で宰相のグレイソン公爵は、元々国王の側近ではありません。だから国王がグレイソン家との縁組に躍起になった、という向きもあります。

 グレイソン公爵は、側近ではなくても国王派寄りの中立派閥のトップでしたが、国王のゴリ押しで後継者の嫡男を壊されて以降、派閥ごと国王派から距離を置いています。

 色々と欲をかいて、多くのモノを失う結果になった王様。



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