幸せな結婚生活のためには、手段を選んでいられませんわ
私がアリアという新しい名前を携えて、カイル・ガーターリック子爵様に嫁ぐことができたことは奇跡と呼ぶ他ない。
数年前までは結婚はおろか、太陽の下を堂々と歩くことすらままならなかったのだから。
「アリア、そんなところにいたのかい」
「あら、カイル様。お仕事はもうよろしいのですか?」
「ああ、ちょうど一区切りついたところだよ。せっかくだから、僕にも御茶を入れてもらえないかな」
「承知いたしましたわ」
メイドが十人単位で常駐している屋敷だけど、カイル様は私が入れたお茶を好む。必死に練習した甲斐があるというものだ。
執務室に併設された簡易キッチンに赴き、カイル様が愛用されているカップを手に取った。しっかりと蒸らした紅茶を注ごうとして、違和感に手が止まった。
カップの縁……それも口を付けるところに、うっすらと光沢がある。注意しなければ見えないほどの、透明な毒だ。
またか、と私はため息をついた。軽く洗っただけでは、毒性が残るかもしれない。
「きゃぁっ」
わざとらしくならないように小さく叫んで、カップを落とした。高所から床に叩きつけられたそれは、あっけなく割れた。
「アリア! 大丈夫かい!?」
「ええ……でも、カイル様の大切なカップが……」
「そんなことはいいんだ。それより、怪我はない?」
首肯して、割れたカップを拾おうとする。その手を素早く掴んで止めたカイル様は、メイドを呼んで片付けるよう命じた。
改めて、別のカップを手に取った。大丈夫、こちらは正常だ。
今度はどこの手の者だろうか。この屋敷には、敵対勢力からの刺客が多すぎる。
「アリアは僕の妻なんだから、無理に働かなくてもいいんだよ? 今日みたいなことがあったら危ないし」
「いいえ、私にはこれくらいしかできませんから」
カイル様は、私を普通の女性だと思っているだろう。養父による経歴の詐称は完璧だし、私もそれを演じてきた。
でも、もともとはカイル様の命を狙う者たちと同じく、裏の世界に属する者だった。幼い頃から武器術から格闘術、毒の扱いから人心への取入り方まで、あらゆることを仕込まれてきた。言われるがまま人を殺し、情報や物を盗んだ。
その生活に疑問を持ったことはなかったし、死ぬまで続くものだと思っていた。同業者のほとんどは成人を迎える前に死ぬから、私もその程度の人生だろうと。
転機が訪れたのは、私がとある任務で実家を離れていた時だった。養父率いる騎士団が、組織を一網打尽にしたのだ。国家の命で動くことも多かった私たちは、国に切り捨てられた形になる。
力を持ちすぎたとか、何か一線を超えて怒りを買ったとか、理由はいくらでも思いつく。一つ確かななのは、私の人生はそこで終わりだということ。
燃え盛る実家を尻目に逃げ出し数か月の間スラムで暮らしていた私を、養父はたった一人で見つけ出した。死を覚悟した私に、彼は交換条件を持ち出した。
名を変え、素性を変え、とある貴族に嫁ぐこと。そして、正体を隠したまま守り抜くこと。
「御茶が入りました」
「ありがとう」
優しく微笑むカイル様は、目の前にいる女が数百人を手に掛けた殺人鬼であることを知りもしない。
それでいい。私の任務は、愚鈍な妻を演じながら彼を守り抜くことだ。
「ちょっと、散歩でもしようか」
「いいですね。ちょうど、ゼラニウムが綺麗に咲いておりましたよ」
笑顔の裏で、きゅっと気を引き締める。
屋敷の周囲には、それはそれは立派な庭園が広がっている。庭師が心血を注いで作り上げた庭園は、国内でも最高峰の完成度と話題だ。なんでも、先々代の当主がこだわりの強い方だったらしい。
私が普通の淑女であれば色とりどりの花にうっとりとするところであるが、植栽の隙間が気になって仕方ない。この庭は隠れるところがありすぎる。暗殺者としての感覚で、息を潜めるのに都合の良いポイントをいくつかピックアップしてから、カイル様の隣に並んだ。
「いつもながら、素晴らしいお庭ですわ」
素晴らしく暗殺しやすそうな庭ですね。
「そうだろう? アリアと歩くのは僕も楽しいから、仕事の合間に良い息抜きができるよ」
「まあっ」
私は息が詰まりそうですわ。
屋敷から少し離れたところで、私が見定めた暗殺ポイントの一つに近づいてきた。カイル様と談笑を続けながらも注意は怠らない。あえて隙を作って、適度な距離を保った。
私とカイル様が同時に反対側を向いた瞬間、音もなく何者かが接近した。
「――ッ」
毒を以て毒を制す。暗殺者には暗殺者だ。
場所、タイミング、身のこなし……なるほど、全て理想的で、完璧だ。理想的だからこそ、私には分かる。
カイル様の背中に突き立てようとしたナイフを蹴り上げた。回転しながら上空へ飛ぶナイフには目もくれず、覆面をした男の腹を殴りつける。一瞬で背後に回ると、首に手を掛け一息で折った。そのままの勢いで、茂みの中に捨て、ドレスの乱れを直す。
この間、わずか二秒。
「そうそう、昨日お父様が……ん? どうかした?」
「いえ、ネズミが歩いていましたので、驚いてしまっただけですわ」
「それはよくない……庭師に伝えておこう」
再び歩きだしたカイル様の頭上、運悪くピンポイントで落下してきたナイフを指先で受け止める。毒が塗ってあるけど、私に毒は効かない。
この後、庭を抜けるまでに三人の暗殺者を殺した。
カイル様が素晴らしい御仁であることは疑いようがない。彼には大変よくしてもらっているし、平たく言えば幸せだった。
それはそうだろう。今までは人並みの幸せなど、おとぎ話だったのだ。暗殺者として誰にも悲しまれず、名を名乗ることも許されないままひっそりと死ぬはずだった。
私のような人間が幸せになどなっていいのだろうか。そういう思いが浮かぶ時もある。カイル様が与えてくれる無償の愛が、たまに重い。でもそれ以上に、手放したくないという気持ちが強くなってきた。
だから、これが任務の一環にすぎなくとも、養父に逆らうことができなくとも精一杯、カイル様に尽くすと決めている。彼を守るためには手段を選ばない。それが、私の幸せだから。
何故かひっきりなしにやってくる暗殺者なんて、こっぱずかしい言い方をすれば、愛の前には大した問題ではないのだ。
また、私の素性をカイル様に知られるわけにはいかない。貴族の妻として、後ろめたい過去などあってはならぬのだ。正体を隠す後ろめたさはあるけど、仕方ない。
「うーん、どうしようかな」
「カイル様、どうなされましたか?」
「いや、ちょっとね」
今日は珍しく、カイル様が頭を抱えていた。普段は仕事もプライベートもそつなくこなすのに、どうも歯切れが悪い。
「アリアになら話してもいいかな。最近、ちょっと困ったことがあってね」
「何もできませんが、よろしければお話しください」
「ありがとう」
悩み事は、政治的なものだった。
正直理解が及ばない部分も多かったが、カイル様の出世を邪魔してくる者がいるらしい。長いこと利益を奪い合う関係で、最近は対応に追われているのだとか。
愚鈍な妻らしく平易な慰めと賞賛を送りながら、裏ではまったく別のことを考える。
なら、私がその貴族を消せばいいのでは?
毎日のように相手している暗殺者も、その貴族が雇っているのかもしれない。人数を考えれば、相当な資金力を持った相手であることは間違いないのだ。カイル様と同格以上で、かつそれだけの費用を掛けてでもカイル様を殺したい者。その条件に会う存在は、そう多くない。
その日の晩、こっそり屋敷を抜け出した私は件の貴族家に訪れていた。国内の主要な屋敷については、場所から設計まで頭に入っている。
私の戦闘装束である黒いドレスをはためかせて、屋敷に忍び込んだ。この程度の警備など、いないものと同じだ。
当主を発見するまで、そう時間は掛からなかった。酒でも飲んでいるのか、大声で話しているから分かりやすい。
誤算だったのは、私室の中に大勢の暗殺者が待機していたことだ。
「はっ、どこの暗殺者だか知らないが、こんな小娘一人をよこすなど大した奴じゃなさそうだな。可哀そうに。俺の戦力を見て絶句してやがる」
なるほど。やましいことがある貴族は、保身に余念がない。人数は……十人。カイル様に送られてくる暗殺者より数段高い実力を持った男たちが、にやにやと笑って私を囲った。
この人数が常に護衛しているのなら、アリ一匹通れまい。
まあそれは、暗殺者が勝てる相手に限るが。
「な、なんだ……と……」
「御免遊ばせ。もう少し上等な暗殺者を雇うことをお勧めしますわ」
ものの数秒で倒れ伏した男たちを見て、貴族がだらだらと冷や汗を流した。カーペットは血で真っ赤に染まっている。私のドレスには一滴も付いてない。
「き、聞いたことがあるぞ……! 黒いドレス、青白い肌、夜空のような髪、翠色の瞳……幼い子どもだと聞いていたが、いや、あれから数年経ったことを考えれば……」
「あら、光栄ですわ」
「黒薔薇姫……!」
そのように名乗っていた時期もあった。
でも今は、アリアだ。
「何が望みだ! 雇い主の二倍、いや四倍の金を出そう。望むなら領地でも与えてやる。だから――」
「私の望みは幸せな結婚生活だけですわ」
一息で、心臓に穴をあけた。
あれから数年、私は変わらず穏やかな日常を過ごしていた。
日に一度はネズミ退治をしなければいけないけど、穏やかだ。最近目を剥くスピードで出世しているカイル様には、政敵が多いのでネズミが減る気配はない。何故か敵対勢力が次々と姿を消すらしい。
「アリア、今日も綺麗だね」
「まぁ、嬉しいですわ」
私は今、とっても幸せだ。
カイル様は素敵だし、生活は豊かで、笑顔が絶えない。
それに……。
「まーま、ぱーぱ」
よちよち歩きで私を見上げる小さな存在。
私とカイル様との間に出来た、大切な子だ。
「ふふ、どうしたの?」
「だいぶ話せるようになったね」
薄汚れたこの手で、子どもを抱くのは抵抗がある。でも私は、自分の幸せを諦めたくない。
カイル様が私と愛する子を腕の中に抱き、微笑んだ。
その後は、いつも通り揃って食事を取る。
「お仕事の調子はいかがですか?」
「そうだね、順調だよ。ただ……」
困ったことがあると、私に雑談程度として話してくれる。
あくまで政治のことが何もわからない愚鈍な妻に、適当な慰めを求めて。その割には個人名がはっきり出てくるような気もするけど、私の正体は関係ない。
家の中で気を抜いて、うっかり愚痴ってしまったカイル様に、私は良き妻として応える。
「まあ、それは大変ですわね。でも、カイル様ならきっと大丈夫ですわ」
「アリアがそう言ってくれて助かるよ」
カイル様の敵は、私たち夫婦の敵だ。
だから、まあ……。
「幸せな結婚生活のためには、手段を選んでいられませんわ」
小声で、そう呟いた。
【連載中作品】
女性主人公×人外転生の書籍化作
「処刑された聖女は死霊となって舞い戻る」
共働きの両親に代わり幼い弟と妹の面倒を見る高校生二人の子育てラブコメ
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