30.嫌いと セシル視点
前話のセシル視点の話です。
『セシルなんて⋯⋯大っ嫌い』
琥珀色の瞳から涙を流すエリアナは、僕を一度睨みつけると僕が先程堪能した唇からそう言葉を発した。
「エリアナが、僕を、嫌い⋯⋯」
頭を殴られたような衝撃に呆然としているうちにエリアナは玄関から出て行ってしまったようだが、僕はまだ立ち直れずにいた。
◇◇◇
醜い嫉妬の感情だったことはわかっている。
最近、エリアナが僕に好きだと言ってくれなくなった。
以前なら、毎日のように言ってくれていたのに。
僕は正直、エリアナの『好き』は僕の『好き』とは違うから、エリアナから好きだと言われるのは嬉しい気持ちと嫌な気持ちと、そんな二つの感情が入り交じっていた。
しかし人間欲張りなもので、言われなくなると途端に不安になった。
僕のことは変わらず愛おしそうに見つめてくるのに、どうして最近言ってくれないのだろう。僕が何かしたのだろうか。何か心境の変化でもあったのだろうか。
そう不安に思っていた時に、エリアナとヘンリックの噂を聞いた。
二人だけで高級喫茶店の個室を利用しているのだとか。
学院にいた頃は、エリアナとヘンリックは特別仲が良いわけではなかった。
エリアナは「ヒロインをヘンリック様ルートに進ませない為に阻止する!」とか言って、彼に近づいていたが、いつもその後に「あの人と話すと鳥肌が立つんだけど⋯⋯会話が成立しない」とゲンナリした顔をしていた。
ヘンリックの方も、「エリアナ様っていかにも都会のお嬢様って感じで、近寄り難いんですよね」と言っていて、様々な女性と浮名を流すヘンリックもエリアナには苦手意識があるようだった。
だから、油断していた。
噂通り、喫茶店から二人で出てきて、楽しそうに会話して、エリアナがヘンリックに耳打ちしようとして顔を近づけて。あんな二人の雰囲気は学院では無かった。
一瞬で黒い気持ちが身体中を支配した。
僕が何年も我慢して、やっとの思いでここに連れてきたのに。やっと、エリアナに触れられて、意識してもらえるところまできてたのに。
他の男に横から攫われては堪らない。
エリアナを奪い取り、怒りの収まらないまま彼女を組み敷いた。
偶然会った? そんなわけないだろう?
噂通りなら二人は何回もああして会っているはずだ。
ヘンリックに心変わりしたの? 僕のことはもう好きじゃないの? だから、そんな嘘をつくの?
エリアナは僕が好きだって頷いてくれたけれど、どうにも信じられなくて、エリアナの口から言い訳を聞きたくなくて、口付けで唇を塞いだ。
こんな状況なのに、初めて触れたエリアナの唇は柔らかくて、甘くて、ずっとこうしていたいと思う程歓喜した。この甘美な味わいを堪能したくて、エリアナの小さな抵抗は全て押さえつけた。
途中、辛そうに涙を流し始めるエリアナを見て、やっぱり彼女は僕とこうしたい程好きではないのだと落胆した。だけど、もう離す気もなかった僕はそのまま更にエリアナを貪った。
一度唇を離すと多少なりとも罪悪感が込み上げてきた。こんな形で無理やり奪ってしまってよかったのかと。
「ひぐっ、セシルこそ、どうして、キスしたの⋯⋯?」
どうして泣くのかと聞いたら、質問で返ってきた。
そんなの、決まってるじゃないか。エリアナが好きだからだよ。エリアナが欲しくて欲しくてたまらないんだ。君が他の男と一緒にいるだけで、嫉妬してしまう程好きなんだ。どうして、まだわからないの?
「どうして⋯⋯? エリアナはね、僕のなんだよ。一緒に没落したあの時から、エリアナは僕のもの。それをわからせないと⋯⋯」
エリアナ、君はもう僕のなんだよ。フィリップ殿下から奪い取った、あの時から。
もう誰にも奪われないように、僕だけしか知らない所に隠して、君の奥深くにまで僕のしるしを刻みつけないと。
――――君が二度と僕から離れて行かないように。
再び口付けを開始した僕に、冷たい水が降り注いだ。
彼女が僕に魔法を使ったのだと、気づくのに少し時間がかかった。
冷たい水のおかげで頭の冷えた僕は、腕の中から抜け出したエリアナの表情を見て愕然とした。
「よく、わかった。セシルにとって私は『物』なのね」
怒り、悲しみ、絶望。
僕の前で、キラキラ輝く瞳で、「好きだよ」って言ってくれていた彼女が決して見せなかった表情。
⋯⋯僕は、エリアナを『物』だなんて言ったのか?
「あ、違うんだ、エリアナ⋯⋯。今のは言葉の綾で⋯⋯」
そうじゃないんだ。僕は、エリアナが欲しいけれど、そんな傲慢な扱いをしたいわけじゃなくて。⋯⋯エリアナを大切に思ってるからこそ、エリアナが欲しくて。どうしようもなくて⋯⋯。
「――――セシルは、今まで私が『好き』って言っても、『好き』って返してくれたことなんてなかったわよね」
エリアナの瞳から光が完全に消えた。
僕は大きな過ちを犯していたんだと、今更気づいた。
エリアナの言う通り、僕がエリアナに『好き』だと伝えたことは一度もない。エリアナの『好き』と僕の『好き』が違うからというのは言い訳だ。
ただ、自分から好意を伝えるのは照れくさくて、エリアナから同じ気持ちが返って来ないのはわかっているから、辛くて。
エリアナの『好き』と僕の『好き』の大きさが違いすぎて、少しでもその差を埋める為に、エリアナから僕と同じ『好き』だと言わせたかった。
好意も伝えられていない男から、こんな強行手段に出られたら、わけがわからなくて、怖くて、嫌に決まっている。
そして、エリアナから僕が一番恐れていた言葉が放たれた。
◇◇◇
「違うんだ⋯⋯」
どうして、エリアナ相手だと上手く立ち回れないのだろう。
世間からは完全無欠だとか、いつも冷静沈着だとか、そんな評価を受けている僕なのに、エリアナに対してだけは上手くいかない。
僕はまた、間違えたんだ。最初に好きだって言えばよかったのに。好きだから僕のそばにいてって言えばよかったのに。順番を間違えて、やり方を間違えて――――エリアナは僕の元からいなくなった。
一番傷付けたくない人なのに、どうして、自分の狭量な感情を優先させてしまうのだろう。
一番守りたい人なのに、どうして、彼女のことを一番に考えてあげられないんだろう。
「違うんだよ⋯⋯僕は、エリアナが好きなんだ⋯⋯」
自分では、どうしようもない程に。




