むかしの話3 セシル視点
「フィリップ殿下とエリアナ嬢のご婚約が発表された」
「⋯⋯はい?」
十一歳になったある日。
小鳥が鳴くような清々しい陽気の朝にも関わらず、義父さんから放たれたその言葉は僕の思考を停止させるには十分だった。
フィリップ殿下はこの国の第一王子で、優れた容姿もさることながら、剣術や学問も優秀で、正義感の溢れた真っ直ぐな方らしく、今のところ次期国王の最有力候補と言われる方だ。
エリアナとフィリップ殿下の婚約は昨日、婚約披露パーティーが催されて発表されたそうだ。そういえば義両親は昨日夜会に出かけたな、なんて頭の片隅で思った。
最近の僕は、少しずつエリアナの外堀を埋めようと邁進していたところで、公の場でも私的な場でも、僕とエリアナの相思相愛っぷりを皆に見せつけて、周りから固めていこうとしていた時だった。
「なん、で⋯⋯」
ようやく出てきた言葉は、僕のいろいろな疑問を表したものだった。
なんで、フィリップ殿下とエリアナが婚約する話になったのか。
なんで、僕のことを大好きだと言ってくれるエリアナがそれを承諾したのか。
なんで、義父さんや義母さん、レクサルティ公爵家の方々、エリアナは、前もって僕に言ってくれなかったのか。
なんで、このタイミングだったのか。
「陛下からの申し出により、決まった話だったそうだ。レクサルティ公爵は最初は断るつもりだったそうだが、エリアナ嬢が承諾したのだと聞いた」
僕は心のどこかで、エリアナは僕との結婚を承諾してくれないけれど、でも、誰の元へも行かないものだと思っていた。ずっと僕のそばにいて、キラキラ輝く笑顔で「好きだよ」って言ってくれるものだと思っていた。
「セシル⋯⋯お前がエリアナ嬢を特別に想っていたことは知っているが、彼女は公爵令嬢だ。いずれこうなる日がくるのは賢いお前ならわかっていただろう?」
優しい義父さんは眉尻を下げてそう言った。
エリアナが身分的に手の届かない遠い人なのは知っている。でも、僕はそんな身分差なんて乗り越えられるはずなのに。
そういえば、僕は母の指輪の秘密をまだ誰にも話していなかった。エリアナを僕のものにしたくて、エリアナの周りを固めようとするばかりで――――自分の立場を固めるのを忘れていた。
「⋯⋯どうしてっ、もっと早く言ってくれなかったのですか!」
王子との婚約が一朝一夕で決まるはずがない。両親やレクサルティ公爵家、エリアナも、僕に婚約のことを隠していたんだ。
「すまない⋯⋯。セシルは事前に知っていたらこの婚約をやめさせようとしただろう?」
「当然じゃないですかっ!」
僕がどれほどエリアナを想っていると思ってるんだ。事前に知っていたら、あらゆる手段を使って止めるに決まっている。僕以外の男と婚約なんて許すはずがない。
「これがエリアナ嬢の意志なんだ。尊重してあげてくれないか?」
「⋯⋯僕、エリアナの所へ行ってきます」
体の中で真っ赤な炎が燃えているような気分だった。いつも冷静沈着だとか、子どもらしくないだとか言われている僕にはありえないくらい、嫉妬と怒りで周りが見えていなかった。
「エリアナ!」
公爵邸に着くと、すぐさまエリアナの部屋に向かった。よく遊びに来る僕は公爵邸では比較的自由に行動させてもらえている。だから、突然エリアナの部屋に行っても誰も何も言うことはなかった。
「びっくりしたー。どうしたの、セシル?」
エリアナは自室でお茶を飲んでいたようだ。ノックの後すぐに扉を開けた僕の勢いに、驚いたようにカップを揺らしていた。
なんだろうと、首を傾げたエリアナだったけれど、僕が怒っているのを察したのだろう、嬉しそうに目を輝かせた。
⋯⋯これは、エリアナが僕を怒らせて楽しんでいるとかそういうのではない。
エリアナは僕を観察するのが好きで、僕が普段と違う表情をしているとひどく嬉しそうな顔をするのだ。
案の定、ボソリと「推しのレア顔キタコレ」とよくわからない言葉を呟いていた。
そんな彼女に少し気が抜けて、一度長い息を吐くと、先程よりは落ち着いた声色で問うことができた。
「今朝義父から聞いたんだけど、フィリップ殿下と婚約したって、本当?」
「ええ、本当よ。我が家にとっても悪い話じゃないからね」
とりあえず事実を確認してみた。
エリアナは僕が何故怒っているのかもわかっていないのだろう、不思議そうに瞬きをしながら答えてくれる。
王族と縁続きになれるのは名誉なことだ。でもレクサルティ公爵家は、古くから王家に仕える重鎮で陛下の信頼も厚く、領地も豊かで安定している。別にエリアナが婚約者にならなくても安泰だろうし、王子の婚約者候補なら他に山ほどいるはずだ。
「レクサルティ公爵家ともなれば、別に王族と縁続きにならなくても大丈夫でしょう」
「それはそうだけどね。この婚約はゲームシナリオで決定されていたことだから」
「シナリオ⋯⋯?」
エリアナが言うには、彼女の前世でフィリップ殿下とエリアナは必ず婚約していたらしい。
⋯⋯そんなの初耳なんだけど。
「わざわざそんなシナリオの通りにしなくても⋯⋯別に殿下のことが好きなわけじゃないんでしょう?」
これまで、エリアナが殿下に懸想しているとかそんな様子はなかった。好きでもないし、大きな得があるわけでもないのに、シナリオ通りに婚約者になる意味がわからない。
「貴族の結婚なんてたいてい政略結婚よ。今後の展開を考えてフィリップ殿下と婚約するのが一番いいと思ったの。あ、もちろんセシルは恋愛結婚できるわよ!」
フィリップ殿下と婚約するのが一番いい?
今後の展開って、僕が『ヒロイン』とかいう女性と結ばれること⋯⋯?
それがどう繋がるのか、エリアナが何を言っているのか、全くわからない。
でも、一つだけわかったことがある。
⋯⋯やっぱりエリアナは、僕を異性として見てくれていない。僕と結ばれる気が一切無い。だから、そんなに簡単に離れて行こうとする。
「でも、断ることだってできたはずだ」
グサグサと胸をナイフで抉られたような気持ちになって、つい尖った声が出た。
今回の婚約は、国王陛下がパーティー時のエリアナを見て気に入ってくれたのが発端だと聞いている。いくら国王陛下からの申し出でも、レクサルティ公爵家ならば断れたはずだ。彼女の父親は、婚約に関しては彼女の意志も汲み取ると言っていたのだから。
「断るつもりはなかったから。婚約の打診が来た時に『受けるわ』と言ったらお父様やお母様、弟にまで驚かれたわ。何故かしら? ゲームと同じように行動しているはずだけど」
そりゃあ、エリアナはしょっちゅう僕のことを好き好き言うからね。愛おしそうに見つめてくるからね。他の男との婚約に快諾するなんて思わないでしょう? 僕も信じられないもの。
「ねぇ、わかってる?! 婚約者になるってことは、パーティーとかはあいつのエスコートを受けるんだよ?! あいつに触れさせるの?!」
「殿下のことを『あいつ』とか言っちゃダメよ」
変な所を注意されたけれど、僕はそれどころじゃない。
――――エリアナは僕に触れようとしない。
僕と彼女が二回目に会った時、彼女の手を振り払ってしまったあの時から、一度も。
手を握られることも、頭を撫でられることもない。
きっと、僕が怒ったと思ったからだろう。エリアナは優しいから、僕の嫌がることはしないのだろう。⋯⋯でも、そのせいで僕からも何年もエリアナに触れていない。
「僕だって、まだ触れられないのに⋯⋯」
僕だって、本当はエリアナの柔らかくて温かい手を取って、エリアナの存在をすぐ近くに感じて、エスコートやダンスをしてみたい。
頭を撫でられるのだって、優しく指が通されて、愛情を注がれているようで嬉しかった。
できることなら、抱きしめたり⋯⋯キスだってしてみたい。きっと、他の人が見たことないような可愛い表情をしてくれる。
なのに、今日、その全てができなくなったんだ。エスコートしたり、抱きしめたり、キスをしたり、その権利は全てフィリップ殿下に渡ってしまった。
『僕を選んでよ』
僕を選んでくれたら一生エリアナだけを愛すると誓うから、幸せにすると誓うから。
エリアナの為なら王様にだってなろうと思えたのに。
その言葉は声にする前に消えてしまって、僕はグッと拳を握りしめた。