むかしの話1 セシル視点
本編の合間に没落前のセシル視点の話を入れていきます。
僕の記憶の始まりは、薄暗い部屋と母の明るい笑顔。
その頃の僕は、下町の小さな家で母と二人で暮らしていた。
母は明るくて優しい人だった。いつも朝早くから働きに出ていたけれど、穏やかで笑顔の絶やさない人だった。質素な生活だったけれど、幸せだったと思う。
僕は父親がいたことがなかったので、欲しいとも思わなかったが、母は父が恋しいようだった。明るい母が父の話をする時だけは悲しい顔をしていたのを覚えている。
そんなある日、突如母が倒れた。病らしい。僕は苦しそうに床に伏せる母を見て、ただただ呆然としていた。どうすればいいのかわからなかった。母が倒れた報せを聞いたのか、豪華な身なりの男が家にやって来た。
母に面影が似たその人は、母の弟でエディローズ男爵家当主だと言った。やがて母が息を引き取ると、僕は叔父だというその人に引き取られることとなった。
叔父さん夫婦は二人とも優しい人で、衣食住を与えてくれて、教育も施してくれた。父親もわからず、母を亡くした僕を気にかけてくれた。
ただ、僕の心にはなんとなく隙間が空いてしまったような気がしていた。
食に困らなくても、母の質素な手料理の方がおいしかったと思ったり、ただ僕だけに純粋に注がれる愛情が恋しかった。
「僕が本当の子どもじゃないから」や「二人は本当の両親じゃないから」と思ってしまったことは何度もある。
義両親の愛情は、母がくれたような無条件の惜しみない愛情じゃない気がして、怖かった。
ちょっとしたきっかけで嫌われてしまうんじゃないか、迷惑だと思われてしまうんじゃないか、捨てられてしまうんじゃないか、そう思っていた。
だから、僕は本当の気持ちを隠すように、義両親から見て『いい子』であるように務めるようになった。嫌われない為に、迷惑だと思われない為に。
僕が七歳になったある日。義父に誘われこの国の公爵家の一つ、レクサルティ公爵家にやってきた。
どうやら義父とレクサルティ公爵は古くからの友人らしく、今のところエディローズ男爵家の跡取りである僕も人脈を作るのに駆り出されたらしい。
レクサルティ公爵家には、二人の子どもがいるのだとか。その長女が僕と同い歳で、義父たちが話をしているうちに一緒に遊んだらどうかと言われた。
正直、憂鬱だった。
エディローズ男爵家はどちらかというと裕福な家だったが、貴族の中に入れば劣ってしまう。特に高位貴族の子は高圧的で、自分が優れていることを誇示したがる。貴族たちのお茶会に参加して、除け者にされたこともあった。
義父の友人の子なので多少は好意的かもしれないが、僕がその子の機嫌を損ねるようなことはあってはならないのだろう。
そんな気を使わなくてはならない相手と一緒にいるのは憂鬱でしかないので嫌だったが、『いい子』の僕は「わかりました」と笑顔を作った。
⋯⋯どうせ、そのご令嬢にも彼女の望む言葉をあげればいいんだ。
レクサルティ公爵家は、エディローズ男爵家よりもはるかに大きく、豪華なお屋敷だった。その豪華なお屋敷の応接室に通された僕と義父は、ノックの音で立ち上がった。
入ってきたのは、灰色のスーツに身を包んだ優しそうな男性と、僕より少し背の高いピンク色のドレスを纏った女の子。レクサルティ公爵とその娘だろう。
ダークブロンドのふわふわした髪に、大きな琥珀色の瞳。スっと通った鼻筋に桃色の唇が愛らしい少女は僕を見るなり目を見張った。
「初めまして。セシル・エディローズと申します」
教えられた通りに丁寧にお辞儀をした。第一印象は大切だと義父さんもよく言っているから、にっこりと笑顔も付けておいた。
これで、僕の印象は悪くないはずだけど。
そう思ったのだが、彼女は驚いたように目を見張った後、僕をじっと見つめて瞬きし、そしてその琥珀色の瞳をキラキラと輝かせた。
⋯⋯え?
まるでずっと求めていた人にやっと会えたとでも言うように目を潤ませ、頬を上気させ、幸せそうに蕩けた笑顔になった彼女はこう言った。
「セシル様、好きです。大好きです」
そんな風に無条件にありったけの好意を向けられると思っていなかった僕は猛烈に動揺してしまったが、彼女はそんな僕も愛おしげに見つめてきた。
握られた手は温かくて、まるで僕を包み込んでくれるみたいに優しくて、ずっと握っていたいと思った程だった。
何故か胸がぎゅっと苦しくなって、いきなり告白をした彼女に慌てた公爵家から「今日はお引取りを」と言われて帰されてからも、彼女のことが頭から離れなかった。
「セシルはエリアナ嬢が気に入ったんだな」
公爵家からの帰りの馬車で、なんだか義父さんに温かい視線を向けられた。彼女のことを思い出して顔が緩んでいたからかもしれない。
自分の感情をコントロールできないなんて、男爵家に来てから初めてのことだった。
「別に、そういうんじゃ⋯⋯。僕と彼女じゃ身分差があり過ぎるのはわかっていますよ」
可愛くない返答をしたと思った。『いい子』を演じる僕らしくない返答。
でも、公爵家の彼女と男爵家の僕はずっと一緒にいることは難しい。対等な友人にすらなれるかどうかわからない。
それはわかっていて、何故か悔しかった。
この気持ちはいったい何なのだろう。
「⋯⋯そうか」
義父さんは、なんだか嬉しそうな、寂しそうな、複雑な顔で呟いた。
次に彼女に会えたのはそれから三ヶ月後だった。彼女は変わらずキラキラした目を僕に向けてきて、僕もそんな彼女に会えたのが嬉しかった。
彼女――――エリアナは、僕にも言葉を崩して呼び捨てで呼ぶ権利を与えてくれた。対等の関係を築きたいと言ってくれたのが、まるで彼女の特別な人になれたみたいで嬉しくて。
恥ずかしくて頭を撫でてくれた彼女の手を振り払ってしまったのは失敗したと思った。
公爵令嬢の機嫌を損ねてしまったんじゃないか、僕に好意を向けてくれていた彼女に嫌われるんじゃないかと慌てた。
でも、彼女は僕が怒ったんじゃないかと勘違いして謝ってきただけだった。
⋯⋯この時僕は、手を振り払ったことを謝る機会を逃したわけだけど、後にこれを何年も後悔することになる。
その後に、エリアナは驚くべきことを言い出した。
「私、セシルにこの国の王様になって欲しいの!」
「⋯⋯はあ?!」
エリアナの前世というものの話は突拍子がなさすぎて、わけがわからなかった。⋯⋯でも、僕は一つのあかりが見えたような気分だった。
僕が王様になれたら、公爵令嬢のエリアナと結婚できるんじゃないか。そうしたら、僕を愛おしそうに見つめるこの目をずっと見ていられる。エリアナと一緒にいられる。そう思った。
でも、エリアナの答えは『否』だった。
僕は『ヒロイン』と呼ばれる女の子と結婚するのだというエリアナ。
誰だよソイツは。僕はエリアナがいいのに。エリアナ以外は要らないのに。
彼女といると胸がきゅうっと苦しくなるんだ。でも幸せで、彼女の笑顔をずっと見ていたくて、ずっと、僕の隣にいて欲しくて。
――――僕は、エリアナのことが好きなんだ。
パズルのピースが綺麗にハマるように、そうストンと納得した。
そして同時に、僕の『エリアナが好き』と、エリアナの『僕が好き』は、『好き』の種類が違うのだと知った。