悪魔の箱
「━━━ねぇ知ってる? 夜になると現れるっていう"悪魔の箱"のウワサ」
「玉出市内のどこかに突然出てくる、っていう、あの箱のウワサの事……?」
「宝箱みたいな形で、なんか悪趣味なデザインで、箱の前には血で書かれた『絶対に開けるな』って張り紙があるらしいよ! ……聞いた話だけど」
「なんかヤバそうだけど……面白そうだよな! 今度探しに行こうぜ!」
「またその話してるのー? んな事よりさ、最近めっちゃ面白い配信者さん見つけたんだけどね……!」
「……はぁ、しょーもな」
生徒達が口々に呟く『悪魔の箱』のウワサ話に、俺━━━此原 伴人は全く興味が無かった。この眉唾もののウワサ話は、つい3ヶ月ほど前からまことしやかに囁かれ始め、学校中でちょっとしたブームを巻き起こしている。今や生徒のみならず、街中がこのウワサで賑わっているといっても過言ではない程だ。
実は、箱を実際に見たという人物は一人もいないらしい。いたとしても、それは皆から注目を浴びたいが為に嘘をついただけだったり、お菓子の空き箱か何かをそれと勘違いしただけだったりと、ウワサ話の確固たる証拠は全く見つかっていないのだ。……にも関わらず、ウワサは尾ひれをつけながら次々に伝染し、今では学校で『悪魔の箱』を知らない人はいないと言えるぐらいに膨れ上がっている。高校生のウワサの広がりはインターネット級だ。
「馬っ鹿馬鹿し……。 たかがウワサ話だってのに」
ボソリと皮肉を呟く。ウワサ話なんて、どこぞの物好きが勝手に作ったホラだ。そんなモノに踊らされてはしゃぐなんて、ガキと一緒。至極馬鹿馬鹿しい。
「おーい此原ぁ! 今日4組の連中と一緒に『悪魔の箱』探しすんだけどさ、お前も来いよ!」
「興味ねぇよんなモン。 てか今日バイトだし」
「んだよノリ悪ぃな。 じゃ、俺らだけで行こうぜー!」
「はぁ……」
下らない……そんなことに俺を巻き込まないでくれ。俺は心の中でそう呟きながら、17時からのバイトに行くために、さっさと教室を後にする。校門を出るまでの間、『悪魔の箱』のウワサ話をする声は、そこかしこから聞こえてくるのだった。
***
「━━━はぁ、なんだよあのクソ店長。 時間外労働させやがって……」
午後五時から八時までの筈のバイトが、予期せぬ客足の増加によって八時半までのびてしまった。 見たかった番組が見れなくなった事にイライラしながら、灯りの少ない通りを歩いて帰る。時刻は、もう九時を回っていた。
バイト先とは別のコンビニに寄り、今日の晩飯を買った俺は、その先にある歩道橋に差し掛かった所で、その足を止められた。
「工事中? ……今日からかよ、ついてねぇな」
歩道橋の手前には、煤けた工事中の立て看板がドンと置かれていた。奥を覗き見ると、作業員らしき人がクレーン車に乗って、何やら作業をしているのが見える。……どうやら、少し遠回りしないといけないらしい。
「はぁ……」
ため息をつき、俺は数百メートル程離れた所にある地下道を通って帰ることにした。横断歩道の一つでもつけて欲しいもんだ、などと愚痴をこぼしながら、ようやく地下道にたどり着く。明日の朝飯をどうするか考えながら、のそのそと薄暗い道を歩いていた俺は、またしてもその足を止められる事になった。
「は……? え……これ、って…………」
俺の目の前にあったのは、乱雑に地下道の隅に置かれていた、黒く、禍禍しい謎の箱だった。
「……嘘だろ? あれ、ただの噂話じゃなかったのかよ!?」
ゾクリ……と背筋を駆ける悪寒を振り払うように、小走りでその箱のもとへ近づく。箱の大きさは、丁度ケーキとかを入れる箱と同じくらい。木でできているようで、真っ黒に塗られたその箱にはうっすらと木目が浮き出ている。さらに、それらを塗り潰すかのように、上から赤色の塗料か何かで、いかにもおぞましい模様が描かれていた。そして……
「……箱の前に、『絶対に開けるな』って書かれた張り紙…………」
俺の足元には、噂話通りの不気味な張り紙があった。 ここまで揃ってしまった以上、もう間違いない。
「悪魔の箱だ…………」
そう口にした瞬間、言い知れぬ恐怖感に襲われた。暑くもないのに、額からダラダラと汗が流れ、コンビニ袋を下げた左手がブルブルと震える。どうしよう……どうしよう……どうしよう……無意識にそう繰り返していた。
「……とにかく、開けなかったら大丈夫なんだよな……! 別に、見たら死ぬって訳でもねーんだし……」
スマホで写真を撮って、SNSで拡散しようかとも考えたが、この箱にどんな呪いが掛けられているのか分からないから止めた。もしかしたら、撮った写真に変なのが写り込んでたりするかもしれない。そんなものをSNSで拡散してしまえば、冗談抜きの、本物のチェーンメールになってしまう。
「……か、帰ろう。 これ以上ここにいるとヤバい……」
本能的にそう感じ、俺は箱に触れもせずに、逃げるようにその場から立ち去った。タンタンタン……と無機質に響く足音すらも不気味だった。地下道を抜けた先では、壊れかけの街灯が途切れ途切れに怪しく点滅していた。
***
「結局さ……その箱って、開けるとどうなるの?」
「知らないのかよ!? アレに触れたら最後、魂を抜き取られて箱の中に入れられちまうんだよ!」
「え? 私が聞いた話だと、あれは『コトリバコ』っていって、触れると色んな霊を呼び寄せちゃうって……」
「……あれは『ニギの包』だよ。 神社とかの巫女さんが、自分の指を切って箱に入れて、事故が起きた現場に置くんだ。 そうして、事故死した人の霊を鎮めているんだって」
「それ知ってる! 箱を開けると、箱の効力が弱まって、暴走した霊に取り憑かれちゃうんだよね!」
翌日。休み時間の間に語られる、生徒達の根も葉もない噂話に耳をそば立てながら、俺はガクガクと震えていた。噂そのものは、誰かの創作が入って随分と歪曲させられていたり、別の都市伝説と混ざっていたり、どれも信憑性のないものばかりだ。
しかし、『悪魔の箱』は存在するという事実を、俺は目の当たりにした。……目の当たりにしてしまった。あらゆるデタラメな噂話の間で唯一共通している『箱を開けると災いが起こる』という言葉が、俺の恐怖心をより一層際立たせた。膝が震え、じわりと手の平に汗が滲むのを感じながら、俺は休み時間中ずっと下を向いていた。
「……ーい。 おーいっ! 此原ー!」
「っ!?」
突然、目の前で俺を呼ぶ声がした。……いや、本当はもっと前から呼び掛けられていたらしいのに、気づけなかった。声の主は、俺に近寄るなりぐいっと顔を近づけると、
「此原どうしたー? なーんか顔色悪くね?」
「此原くん……大丈夫? 保健室、いく?」
俺に声を掛けたのは、クラスメイトの千戸 哲二(せんど てつじ)と、牛沢 花(うしざわ はな)の二人だった。 俺は、まだ震えが治まらない左手を押さえつけて、作り笑いで対応した。
「別に……何ともねーけど?」
「何ともねーことはねーだろ! さっきからずっと下向いて震えてるし! しかも、顔真っ蒼だぞお前!」
「此原くん……何かあった?」
どうやら、二人とも勘は鋭い方らしい。いや、むしろ俺が分かりやすいぐらいに動揺していたのだから、勘ぐられて当然だろう。
昨日あった事を話したかった。でも、それが影響して、誰にどんな被害が及ぶか分からない。そもそも、話したところで信じてもらえる保証はない。どうするか迷ったが、結局俺は自分の恐怖心を静めたいがために、皆に昨日の出来事を話すことにした。
「マジかよ……マジで見つけたのか!?」
「ああ……噂通りの見た目だったし、間違いない、とだろうな……」
周りに聞こえないようにヒソヒソ声で話す俺と哲二、花の三人。初め、悪魔の箱を見つけたと打ち明けた時には、二人ともかなりビックリしていた。が、最後まで茶化すことなく俺の話を聞いてくれた。ありがたいとは思いつつも、やはりまだ不安感は拭えなかった。
「で、お前は大丈夫なのか? 身体の不調とか、何かしらの心霊現象とか……」
「い、今のところは……箱を開けた訳じゃねえし……。 ……でも、いつ何が起こるか分かんねぇから……」
「落ち着いて。 きっと、大丈夫だから」
そう宥める花の声が、早まる鼓動を落ち着かせてくれた。普段の俺は、人当たりが良い方ではないが、今回ばかりは相談して良かったと、心からそう思った。きっと、彼らが助けてくれる。もう一人で悩む必要はなく、いつもの平穏な生活に戻れる。そう思った。
……そう思った矢先だった。
「━━━よし。 俺、今日の夜その地下道行ってみるわ!」
「…………は?」
背筋が凍った。忘れかけていた恐怖心が、一気に背中を駆けるような感覚に襲われた。
「バ、バカかお前!? んなもん危ないに決まってるだろ!!」
ヒソヒソ声で話すことも忘れて立ち上がる俺に構わず、哲二はキラキラした瞳で、
「だって、『悪魔の箱』って今まで誰も見たこと無いし、開けたこと無いんだぜ? ウワサばっかで真相は分かんねーままだし……。 そりゃ多少は怖いけど、見に行ってみたくなるのは当然だろっ!」
止めさせようと思ったはずなのに、何故か言葉が出てこない。駄目だ、危険すぎる! ……そう言いたいのに、あの箱が脳裏によぎった瞬間から、どうしても喉の奥が震えて声を出せなかった。
「千戸くん一人じゃ、流石に危ないよ。 ……私も行く」
「マジで? サンキュー、二人の方が心強いしな!」
「うん。 ……箱のことちゃんと調べれば、学校で流行ってるウワサ話とか、そういう混乱にも収拾がつけられるかもしれないし」
あ……あ……と俺が顔を蒼くしている間に、二人の話はどんどん進んでいく。二人の眼には好奇心の色もあったものの、冗談などではなく真面目に話しているようだった。……だからこそ、なのだろうか。俺は、二人に声をかけることが出来なかった。
「安心しろ、此原! 俺たちが『悪魔の箱』のヒミツ、バッチリ解明してきてやるから!」
「何か分かったら連絡するから。 ……此原くんは、もう心配しなくて良いよ」
「でも……」
━━━キーン、コーン、カーン、コーン……。
言葉が出かかった所で、タイミング悪くチャイムの音が重なった。慌てて席に戻る二人を引き留めようとする手が、空を掴む。結局、俺はその日、二人を思い止まらせることは出来なかった。
***
その日の夜、俺はバイトを休んだ。
飯も適当に済ませ、風呂にも入らずにすぐ部屋に籠った。毛布にくるまってガタガタと震える俺の姿を、二日前までの俺が見たならば、きっと腹を抱えて笑うだろう。それでも、俺はその体勢から一歩も動くことは出来なかった。
(何ビビッてんだよ俺……大丈夫だ、どうせあんな箱偽物に決まってる。 もうすぐしたらきっと、哲二がバカ笑いしながら連絡入れてくれるだろ……!)
何度も自分に言い聞かせる。とめどなく溢れ出る脂汗が、額をじんわりと濡らしている。俺は、机の上に置かれたペットボトルの水を飲もうと手を伸ばしたが、しばらく考えた後、スッとその手を引っ込めた。時刻は、もう九時を回っている。
━━━━ブゥゥゥン! ブゥゥゥン!
「ひっ……!?」
携帯が鳴った。待ちわびていた筈のその着信音にさえも、過剰に反応してしまう。震える手でなんとか携帯を掴み、画面を見る。電話は、意外なことに花からかかってきた。
ゴクリ、と唾を飲み、恐る恐る携帯を耳へと近づける。
「……もしもし? 花か?」
『━━━━此原くん助けて!! 千戸くんが……千戸くんが!!』
「っ!?」
受話器越しに、花の悲鳴にも似た声が響いた。ドクン……と心臓が冷たく跳ねる。俺の微かな期待は、最悪の形で裏切られてしまった。
「お、落ち着けって! 哲二が……どうかしたのか?」
『分からない……。 例の箱を見つけたから二人で開けてみたんだけど……そしたら、変な二つの黒い影が現れて……それを見た瞬間、千戸くんが気絶しちゃって……私……千戸くんを置いて逃げてきちゃって、それで……!』
「そんな……」
やっぱり、二人はあの『悪魔の箱』を見つけて、開けたんだ。
二つの黒い影……それは恐らく、箱に封じられていた怨念な何かに違いない。それが、哲二らが箱を開けてしまったことで解き放たれてしまった。となると……哲二だけじゃなく、近くに居た花も危ない!
「……今からそっちに行く。 だから、お前はなるべく人気のあるトコへ逃げろ!」
『でも、千戸くんが……!』
「俺が……何とかするから!」
詭弁だった。
本当は、声も足も震えて仕方がない。昨日、箱に近づいてしまった俺だって、その影とやらに襲われないとは限らない。だから、出来ることなら行きたくなかった。
……でも、友達の命がかかっている。哲二や花が危険な目に遭うかもしれないのを、黙って見過ごす訳にはいかない。
「……よし」
机の引き出しから、ありったけの古い御守りを取り出し、ポケットに詰めた。気休めだって分かってるけど、これがあるだけでも幾分か気が楽になった。
時刻は、九時半になりつつあった。俺は、かけてあったコートを羽織り、そのまま家を後にした。風の無い夜の街は、いつにも増して静かだった。
***
「ここ、だよな……」
十分ぐらいかけて、例の地下道へと辿り着く。
辺りを探してみたが、花の姿はなかった。きっと、俺の言うとおりにどこかへ逃げたのだろう。携帯を家に置いてきてしまったため、もしかしたら連絡が入ってるかもしれない。……というか、そうであって欲しい。
(……とにかく、今は哲二を探さないと……!)
ゆっくりと深呼吸をして、地下道へ足を踏み入れる。電気はちゃんと点いていたが、その淡い光がかえって不気味だ。コツ、コツ……と響く足音に心臓を震わせながら、少しずつ奥へと進んでいく。その間、俺はずっと足元に視線を落としていた。
そして、階段を下りきってから、恐る恐る顔を上げる。薄く汚れたアスファルトを辿るように視線を動かしていく。
……その途中で、視線は"あの箱"にぶつかった。
「…………」
哲二の姿は無かった。ただ、箱だけがポツリとそこに佇んでいる。赤と黒で纏われた禍々しいそのフォルムは、目を逸らそうとしても逃れられないような、そんな恐怖感を瞬時に植え付けてきた。その感覚に耐えられなかった俺の身体は、ピクピクと、痙攣という形で俺に抵抗を与えている。
「哲二……」
花は、哲二はここで黒い影に襲われて、気を失って倒れたと言っていた。そこからしばらく時間があったんだとしたら、まだ望みはある。哲二が途中で目を覚まして、どこかへ逃げてくれた、という可能性だ。だが……
「……黒い影に連れていかれたとか、箱に呑み込まれたとか……そういう可能性も、ゼロじゃない……よな……」
考えたくはなかった。でも、可能性がある以上、それを無視することは出来ない。どちらにせよ、ここに来てしまった時点で俺は、この『悪魔の箱』の正体を確かめるという義務を負わなければいけない身になってしまっているのだ。
辺りをキョロキョロと見回す。当然、人の気配はない。ただ、車が通りすぎる無機質な音がコンクリートを伝って響いてくるだけだ。俺は、家から持って来た古い御守りを、藁にもすがる思いで静かに並べていった。箱の前で突っ立っているよりは、こっちの方が断然良い。御守りを並べ終えるまでの僅かな時間のあいだ、俺は、この後どうするべきかを必死に考えていた。
「…………」
しかし、考えを決めるよりも前に、ポケットが空になってしまった。はぁ、と無意識に吐く息さえもが、微かに震えを孕んでいた。俺は、『悪魔の箱』の前で静かに膝をついた。
……分かっている。考える考えない以前に、俺に与えられた選択肢は一つしか無い。
箱を開けるか、開けないか。……それだけだ。
「はぁっ、はぁっ…………」
長距離走を終えた後のように、心臓がバクバクと鳴り響いて息切れを起こさせる。ゆっくりと箱へ伸ばす俺の手は、血の気すら感じられない程に真っ白だった。
「んっく……はぁっ……はっ、あぁっ………………」
喉はもうカラカラだった。恐怖感で全身の水分が抜け落ちて、時折嗚咽を引き起こす。焦点など、ずっと前から合っていなかった。
一時間にも、二時間にも感じられるような長い時間の果て。俺は、ついに意を決して━━━━
「……ぐ、あああああぁぁぁぁぁっ!!!」
━━━━箱の蓋に手をかけ、開いた。
多分、心臓は止まっていたんじゃないかと思う。それくらい、俺の耳は、目は、肌は、麻痺したかのようにその機能を停止してしまっていた。きっと箱の中から黒い影が飛び出してきて、恐ろしい姿で俺に牙を向き、そのまま呑み込んでしまうだろう……。そんな最悪の結末が見えて、でも見たくなくて、俺は必死に目を閉じて縮こまっていた。
……………………が。
「…………あ、れ……?」
何も感じないようにと感覚をシャットアウトしていた俺だったが、しばらく経ってみても、俺の身体は、実際に何の感覚も感じていないらしかった。
恐る恐る目を開けて、立ち上がる。目の前には、パカリと口を開けたままの『悪魔の箱』。しかし、それ以外には何もなく、ただ隊列を乱した御守りがバラバラと散らばっているのみだった。
「……は、はは…………」
安堵からか、それとも脱力感からか。
俺は、渇いた笑みを自然とこぼしていた。
「なんだよ……結局ニセモノじゃねえか! はは……クソが、ビビらせやがってよ。 結局俺の言った通り、『悪魔の箱』なんてただのウワ
━━━━振り返るとそこに、二体の"黒い影"が立っていた。
「え…………」
黒いローブのようなもので全身が包まれたソレは、ぐい、とその身を真っ直ぐに突き出すようにして、俺の眼前へと迫っていた。
何時から俺の背後に居たのか。何故すぐに襲わなかったのか。そんな事は分からない。……ただ、俺の僅かな希望は、ここで完全に打ち砕かれてしまったということだけは、ハッキリと理解できた。
「……あ、あぁ…………」
叫ぶ体力すら、削り取られていた。
俺は、目の前が真っ白になるのを感じながら、ゆっくりと膝から崩れ落ち、そのまま静かに意識を手離すのだった。
……………………
………………
…………
「━━━━なぁ、これまたさっきみたいに起きなかったらマジ面倒くさくね?」
「それなぁー。 ……あのー、大丈夫っすかー? インタビュー撮らないとアレなんで、そろそろ起きて貰えません?」
「……う、んん…………」
肩をグワングワンと揺さぶられ、俺は目を覚ました。うっすらと開けた目に広がるのは、煤けたコンクリートの天井と……見知らぬ大学生ぐらいの男二人組の顔だった。
「……誰…………?」
「んぁ、あー良かった起きた起きた! おいカメラ回せって早く!」
「うーっす!」
俺の質問に答えることなく、二人の男は俺を無理やり立たせて、テキパキとビデオカメラのセッティングを始めた。よく見ると、彼らの荷物と思しき鞄の側には、黒い大きなマントのようなものが乱雑に置かれている。まだ状況が飲み込めていない俺をよそに、黒い帽子を被った男がカメラに向かって喋りはじめた。
「……っさー! という訳でね。 実験開始から十日経ってようやく五人目が捕まった訳なんですけどもぉ。 どうだった?」
「いや、その……どうだった、って言われても……何がなんだか分かんないんすけど」
「ふははっ! めっちゃ混乱してんじゃんヤバいヤバい!」
ゲラゲラと下品な笑い声をあげる二人。ひとしきり俺を笑ってから、帽子を被っている方とは別の、金髪の男が俺に語りかける。
「あ、君俺らのこと知ってます? 『ツヅラーズ』って名前で動画投稿やってんだけど」
「え……いや、知らないです……」
「うぇマジかよー、萎えるぅー!」
「んふっ。 そんでね、俺たち今、『夜道で明らかに怪しい箱を見つけたら、通りがかった人は箱開けちゃう説』ってのを検証中なんすよ」
「いやー、君今までで一番リアクション面白かったわ。 御守り並べるのとか超ヤバかったし」
「んふふっ……ちょ、今説明の途中だから笑わすなって死ねよお前、ふふっ」
癪にさわる笑い方でいちいち説明が止められるも、何となく話の全貌は見えてきた。
要するに、この『悪魔の箱』を設置したのはコイツらだ。コイツらは、どこか離れた場所から箱を監視していて、誰かが箱を開けた瞬間、そこの黒いマントを被って脅かしに行くのだ。
……そう、これはタチの悪いドッキリ企画だったという訳だ。
怒りとか、恥ずかしさとか、そういう感情は不思議と沸き起こらなかった。……いや、そんな気力すら残っていなかった、という方が正しいかもしれない。度重なるショックと、常に心を圧迫し続けていた恐怖心とで、俺の心と脳はヘトヘトになっていた。もう、まともな思考能力すら働かない。事実、俺は目の前にいるウザったらしい男二人組に突っ掛かる事すらも出来なくなっていた。
「あー一応言っとくとね、君が来る前に、なんか、カップルっぽい二人組が箱の前まで来たのよ。 んで、そいつら箱開けたんだけどさ、俺らが行った瞬間、女の方がすんごい悲鳴あげて逃げてったのよ、男置いて」
「あ、そうそう。 その男の方は、なんか気絶しちゃったんで、俺ら二人で向こうの児童公園のベンチまで運んだんですけど。 そん時の様子はサブチャンネルに動画アップするんで、良かったら見ていって下さーい」
多分、悲鳴をあげて逃げていった女というのが花で、気絶して運ばれた男というのが哲二だろう。途中から、恐怖心で哲二のことなどすっかり忘れてしまっていたが、彼が無事であると分かって、ひとまずはホッとした。花もきっと無事だろう。……そもそも彼らには、"呪い"など降りかかっていなかったのだから。
「はい! てな訳でねー、残りあと一週間、頑張って検証していきたいと思いまーす。
……はいカットー。 んじゃ撤収しよーぜー」
「……あ、そうだ。 俺らまだしばらく検証続けるんだけど、学校の友達とかにバラしたりしないでね? まぁバラさずに誰か別の子連れてきてくれんのは大歓迎だけど」
……きっと彼らは、この『悪魔の箱』のウワサが、学校中で、とんでもない規模で広まっていることを知らないのだろう。様々な憶測が飛び交う『悪魔の箱』が、生徒らを恐怖に怯えさせる大きな存在となっていることを知らないのだろう。
……彼らは、意図せずして『悪魔の箱』という名の呪いの産物を産み出してしまったのだ。
んじゃねー、と、ヒラヒラ手を振りながら二人の男は去っていく。冷たい風の音と、車が行き交う音だけが響く地下道に、またしても俺は一人で佇むこととなった。足元に散らばった御守のいくつかには、さっきの男たちのものと思わしき靴の跡がついている。それらを拾い上げることもせず、その場を後にすることもせず……俺は、ただ怪しく点滅する蛍光灯の下でぼうっと突っ立っていることしか出来なかった。
***
「━━━━ねぇ、千戸君と牛沢さん、今日も休みなんだって」
「これで四日連続だろ!? アイツら別に病気がちって訳でも無いのに……」
「これ、友達から聞いた話なんだけどね……あの二人、休みになる前の日に、『悪魔の箱』探しに行ったらしいよ」
「うっわマジかよ……それもう完全に呪われてるヤツじゃん……」
「お見舞い行こうと思ってたけど、止めといた方が良いかな……」
学校では、今日も『悪魔の箱』のウワサが絶えない。哲二と花の件も相まって、そのウワサはますます肥大化していき、一部では警察までが出向く事態に発展したとまで言われている。
「……はぁ、しょーもな」
生徒達が口々に呟く『悪魔の箱』のウワサ話に、俺は全く興味が無かった。
俺は、全てを知っている。『悪魔の箱』の正体を知り、その"呪い"をかいくぐった、選ばれし五人……俺はその内の一人なのだ。ウワサ話に踊らされ、ありもしない呪いに見舞われて精神を病むような、馬鹿な二人とは違う。
俺の中にあった恐怖・焦り・不安は、とうの昔に消え失せた。今ではもう、ウワサに怯える馬鹿どもを高みの見物できることが、ただ楽しくて仕方ない。俺は、『悪魔の箱』の恐怖を超越したも同然なのだから。
『悪魔の箱』のウワサは、今日も絶えない。そこかしこで、不安な顔をした生徒たちが口々に『悪魔の箱』の根も葉もないウワサを語り続ける。俺はそんな喧騒の中でただ一人、密やかに怪しい笑みを浮かべるのだった。
END