プロローグ
私は、牢獄のなかに捕らえられていた。
水のしたたる石の壁は冷え冷えとしていて、錆びた鉄の格子は頑然と降りている。手狭な空間には、ベッドはおろかトイレすらない。いったい乙女にどこで排泄しろというのだろう。
私の名誉のために言っておくが、罪を犯してこんなことになったわけではない。誘拐されたのだ。
手短に、三行でいまの状況を説明しよう。
ここは乙女ゲームの世界!
私は転生した日本人!
魔法学園に入学したら何者かによって寮から攫われてしまった、ピンチ!
――というわけだ。
「しかしよお、あの悪名高きカスピアン辺境伯令嬢が森の中で餓死とは、いったいどんな騒ぎになるか、いまから楽しみだねえ」
「ははっ、巫女姫様に楯突いたものの末路としては、甘すぎるな」
格子の向こう側でぺちゃくちゃしゃべっているのは、ふたりの見張りの男。会話からしておそらく教会の狂信者かな? 立派な犯罪行為をしていながら、まったく良心の呵責を感じている気配はない。
カスピアン辺境伯令嬢ダイアナは、巫女姫を故意に傷つけようとした。これは聖書の教えに逆らう大罪である。よって、神罰として、死刑を執行する。
彼らの非常に残念な頭のなかでは、たぶんそんな感じで正当化されているのだろう。
はあ〜、はっきりわかるね。やっぱ教会の手先はゴミ! ていうかね、このゲームの世界がゴミ!
そんなもん、ダイアナというキャラが悪役令嬢であるがゆえに着せられた、完全なる冤罪なんだよなあ。
この世界、とことんまでヒロインを贔屓しやがってからに。
「それにしても、かなり器量のいい娘と聞いて楽しみにしていたんだが、これは酷いな」
「ああ。巫女姫様に嫉妬する権利すらない。なんて貧相な娘なんだ」
「まったくだな。……ふふ、計画が成功した暁には、巫女姫様は我らにどのような褒賞をくださるだろう」
「いやいや、このような任務を賜っただけでも感謝するべきだ。あの黒髪の輝き、優しげな目元、『くれぐれも気をつけて、お願いね』と頼む儚げな声と言ったら!」
私の容姿をけなしつつ、”巫女姫”の容姿を褒めつつ、ぼろぼろと情報を落としていく狂信者たち。鮮やかなる芸当だ。
それにしても、やっぱりこれはヒロインの差し金だったわけか。
その確信が持てただけで、大収穫。これ以上こんな不衛生かつ不快な場所にとどまる理由はないぞ。
言っておくが、私はそれなりに腕が立つ。国の最大戦力であるあのカスピアン辺境伯家で、小さい時からかかさず訓練を積んできたのだ。本気を出せば、こんなやつらに捕らえられることなどあり得ない。
あくまで、情報収集のために捕まってあげただけの話だ。
くちびるをすばやく動かし、私は呪文を詠唱する。
便利なようでいて、存外この詠唱に取られる時間が長いのが、魔術の欠点である。しかも、一音でもしくじったらやり直し。
もっと簡単な仕様にしてくれよと願わなかった魔術師はいないだろう。
「ご令嬢よお、この牢のなかじゃ、頼みの魔術は通用しないってわからんのか?」
「呪文は全部打ち消されちまうんだよ」
呪文を唱える私に気がついた男たちは、にやにやと下卑た笑みを浮かべ、高みの見物を決め込む。
魔術が打ち消されると思って、余裕の構えだ。
しかし私の見立てだと、正確には「牢屋に対する魔術効果は消される」と思われる。
もしほんとうにいかなる詠唱をも打ち消すのだとしたら、この牢屋はとっくに魔族との戦いに有効活用され、聖剣を超える活躍を見せているはずだ。
それでも、かなりの逸品であることには違いない。相当腕の立つ魔術師が創ったのだろう。さきほどから何度も脆弱や溶解をかけているのに、格子がびくともしない。
なーんてことを考えているうちに、詠唱はパパッと終わった。
「ほらほら、今度はなんの呪文を唱えたんだ、辺境伯令嬢様は」
「なんにも起きてねえぞ?」
ここぞとばかりに煽ってくる男たちは、どうやら魔術への見識はないようだ。
私の詠唱の最初の一音でも理解できれば、これは肉眼で感知できる効果をもたらす呪文ではないことがわかるはずだからね。
――カスピアン家の令嬢を暗殺するにしては、ずいぶんとお粗末な駒だ。
まあしかし、入学間もない令嬢が扱える呪文なんて、せいぜい回復がいいところ。寮から誘拐に成功した時点で、彼らの計画は終わりだったのだろう。
……もっとも、それは正しくカスピアン家のご令嬢を攫っていたらの話だが。
「ありがとう。ここまで厚遇されたのは、人生で初めて」
にこりと私が微笑みかけると、男たちは胡乱な目になる。
「令嬢だなんて、照れちゃうわ――生まれて初めて言われたもの」
男たちが驚きに目を見開いたところで、渾身の力で鉄格子を殴る。
粉々に鉄格子は粉砕され、その奥にいた男たちは冗談みたいにぶっ飛び、すぐ後ろの壁に強打される。
ざまあみろ、人を貧相だとかいった罰じゃい!
「ふんぬ!」
続けて、男たちが叩きつけられた石の壁を粉砕すると、そこは燦々と光差す森の中。
あっさりと外に出ることができたようだ、よかったよかった。
あ、これはさすがに素の力じゃないよ?
さっきかけた身体強化、私のもっとも得意とする魔術のおかげだ。
――うん、いかにもパワー系かませキャラが使いそうだよね。わかる。
でも仕方がない。
得意魔術なんてものは生まれつき決まっているもの。ようするにガチャ。むしろ魔力を持って生まれてくる一厘の確率の平民だったことに感謝しなければ。
そのSSR級幸運のおかげで私はダイアナ様の乳兄弟となり、こうして魔術学園にも通わせてもらえているわけだし。
「追え! 牢が壊されたぞ!」
「逃すな!」
早くも私の脱走に気づいたのか、追っ手が迫る。
逃げるが勝ちとばかりに、脱兎のごとく駆ける私。
「おーほっほっほっ、この麗しき辺境伯令嬢ダイアナを捕まえてご覧なさいっ!」
ついでに高笑いまでしておく。
いいよね、辺境伯令嬢って響き。身代わりになるためにちょっと演技をしていただけだけど、案外ハマっちゃったよ。私もご令嬢に生まれたかったなあ。
「なんだこいつ、ほんとうに良家の令嬢か?」
「くそっ、なにものなんだ!」
どんどん離れていく距離に焦った叫びが、後ろから聞こえてくる。
私が誰かって?
そんなの決まっているではないか。
乙女ゲーム『終焉のファンタジア』の悪役令嬢ダイアナ・イゾルテ・カスピアンの護衛にして侍女――ナタリア・アスターシャだ。