受験生をやめる日
教科書を机の上に投げ出して、白いシーツに体を投げ出す。
八月の夜は暑い。温かくて湿った空気に体を浸して目を閉じると、まるで自分が誰かの口の中にいるかのような気分になってくる。
エアコンを点けようなんて思わなかった。
いや、思わなかったんだろうか。思っても体が動かなかっただけかもしれない。動いたら私の体を包んでいるこの感覚──幸せにも似たこの感情が、逃げてしまいそうだったから。
このまま意識ごとベッドに沈み込んでいきたい──なんてぼんやりと思って目を閉じると、そういうわけにはいかないことをより強く思い出した。
シャワーを浴びて着替えないといけないし、何より明日の授業の予習がまだ途中だ。
枕元のデジタル時計を見ると、十時二十三分。
今から一日と七時間半前だ。三十一時間と三十分前。
午後の夏期講習の休憩時間に、塾の廊下で亜未とすれ違ったのが始まりだった。
始めは亜未に気づいていなくて、向こうから私の肩を掴んできたからびっくりした。
顔を忘れていたわけじゃない。同級生の亜未は今年になってクラスは変わったけれどよく話すし、なんならあまり友達とつるんだりしない私の一番か二番目の友達と言えると思っていたし、忘れようが無い。
ただ、亜未はすそが長めのハーフアップにしていた髪をばっさりと切って肩に付かないボブカットにしていた。
しかも私は知らない人と目を合わさないようにうつむき気味に歩いてるから、気づけるはずが無い。
親友に気がつかないなんてひどい、と笑ったから、亜未も同じ教室にいたのに気がつかなかったでしょ、と返す。
すると、少しだけ日に焼けた顔にわざとらしく不機嫌な表情が浮かんだ。
「廊下と教室じゃ全然違うよ。紗弓がギルティ。ジャッジメント!」
「はいはい」
髪。思い切ったね、と言うと、暑いからさ、と笑う。
その暑いからさ、は、もともと用意してあった暑いからさ、を取り出しただけに過ぎないような、そんな不自然な間の短さがあった。
最近暑いよね、本当に、とだけ応えて、その時は亜未と別れた。
三時間目の授業の後。荷物を持った亜未が、まだノートを書いている私の席にやってきたのはわかっていた事というか、規定路線だったと思う。
亜未は一緒に帰ろ、と言ってまた笑った。
授業が伸びたので、時刻は四時を回ったくらいだった。自習室に籠もって復習と予習+αをするつもりだったけど、別に家でもできるだろうと思った。
私達は駅に向かって歩き出した。
始めは、夏休みの過ごし方とか、塾で会った同級生のこととか、そんな他愛ない話をしていた。
亜未の家は結構遠いのだけれど、こっちの校舎に気に入っている先生がいるからといって、電車に三十分揺られてここまで来ているらしい。
精神的に疲れていたから、少しだけ亜未に甘える気持ちが起きていたのかもしれない。塾の最寄りの駅の階段を下りていた時だった。
私は突然、心が渇くの、と言った。
亜未の丸い目がさらに丸くなった。
「どういう意味?」
「張り合いが無いっていうか……前は何やるのも、勉強するのも、もっと光ってたの」
「ふむ」
亜未があごに手をあてる。
「でも最近、自分のしてることが本当に私がやるべきことなのかわからなくなって……」
「ふむ」
「行動に意味はあるの。価値もある。でも、何て言うかその……満たされないの」
「はー。色々考えてますなぁ」
ホームに入ってきた電車は意外と空いていた。二つ並んで空いていた席に座る。
話の続きを促す亜未を見て、ちょっと重かったかな、と思う。病んでるとか思われたかもしれない。この話はこれで終わりにしようと思った。
「だから、その──それだけ」
「そっか」
亜未はそれ以上何も訊いてこなかった。
私達はじっと黙って過ごした。
西日が眩しかった。次の駅までの道のりがとても長く感じられた。
一つ目の駅に停車した時、亜未はねぇ、と話しかけてきた。
「なに?」
「私の家の近所でさ、お祭りやってるんだ。今日と明日の二日間」
「ふーん。亜未は行くの?」
「んー、今のところは行かないつもりだな、やっぱり。一緒に行く人いないし」
「そう」
私は窓の外を流れる看板たちをぼんやり眺めながら、気のない返事をした。
お祭りか。もうずっと行ってない。無事大学生になって余裕ができたら行こうか。
「紗弓さ……行かない? 今日一緒に」
「えっ?」
隣を見ると、亜未は照れ隠しなのか、少しぎこちなく笑っていた。
「行こうよ。ほら、たまには息抜きしないとエネルギー切れになっちゃうし!」
「いや、でも亜未の家遠いし、それに勉強しないと……先月の模試もすごくひどかったから」
「えーいいじゃん、今日くらいさ」
亜未が不機嫌な声を出す。私は呆れてため息をついた。
「亜未、気ぃ抜きすぎ。油断してると大学行けないよ」
「だから、今日だけだって。今日だけ勉強しなかったからって大学行けないようなら、今日勉強しても大学なんて行けないって!」
「詭弁」
「正論!」
「論理的欠陥」
「客観的判断!」
「もう、とにかく行かないから。また機会があったらね」
「むー……」
三駅目は私の家の最寄り駅だった。
立ち上がると、じゃあね、と言って亜未に小さく手を振る。
そっぽを向いた亜未は、手を振り返してくれなかった。
その後は、家に帰っていつも通り勉強をした。
それで、夕ご飯の後だった。部屋に戻ろうとしたところをお父さんに呼び止められた。
先月の記述模試の成績表を持っていた。
私は心底逃げたいと思った。
それでもきちんと席に戻ったんだから、私は真面目な性格だと思う。
その後の二時間お父さんに嫌味を浴びせられ続けても黙って耐えたんだから、私はいい子だと思う。
でも、やっぱり不真面目だったのだろうか。二時間ずっと考えていたのは次の模試でいい成績が取れるように頑張ろう、ということじゃなくて、もうこんな目に遭うために勉強なんてしたくない、ということだった。
そして、やっぱり悪い子だったのだろうか。二時間を過ぎたところでお父さんに言い返してしまった。
もうずっと、親に怒鳴ったりなんてしてなかった。でも、怒鳴ってしまった。
娘なんか自身のステータスくらいにしか思ってなさそうなお父さんの口ぶりに、無性に腹が立った。
私の言葉は荒々しくて理論は無いし、整合性も無かった。ただ、胃の中をいっぱいにしていたどす黒い感情を吐き出さないと破裂してしまいそうだった。
両手を机に叩きつけると、ガラスのコップが床に落ちて、高い音を立てて割れた。
走るようにして部屋に戻る時、お父さんは何も言わなかった。
私は部屋のドアを大きな音を立てて閉めると、枕に顔を押し付けた。
コップの破片が踵に刺さって血が流れていたのも気にならなかった。
口からは呪いの言葉が溢れ出た。
そう。溢れ出たんだ。溢れてしまったんだ。私の中は、公式と定理で満タンだったんだから。
「心が、渇くの……」
呟くと、涙がぽろぽろとこぼれて枕に染み込んでいった。
次の日──つまり今日の授業が終わった時、私は何の気なく後方の席の亜未を見てみた。
私の方を見ていた亜未は目が合うとすぐに目を逸らし、ちらっちらっとこっちを見ながらそっぽを向き続けた。
思わず吹き出すと、ああ、私ってまだ笑えたんだな、と思った。
「今日は帰らず自習室かしら、紗弓さん」
我慢できなくなったのか、亜未は私の所に来て皮肉にもならない皮肉を言った。
そうだよ、と返す私。
でもやっぱり亜未には甘えてしまうんだろうか。今日は帰りたくないから、と小さい声で付け加えた。
できるだけ訳ありな感じに。できるだけ薄幸そうに。
どうかしたの、と言って心配そうに首をかしげる亜未を見た時、期待通りの反応をしてくれて嬉しい、と思った。
そんな自分に心の底から吐き気がした。
私は自習室には行かないで亜未と帰った。
それはつまり、そういうことだったのかもしれない。亜未に「それ」を言うことを決めていたのかもしれない。
昨日と同じように電車で隣り合って座って、昨日と同じように黙って過ごした。そして昨日と同じように、亜未が話しかけてきたのは一つ目の駅に停車した時だった。
「紗弓……気、張りすぎちゃだめだよ」
「そんなのわかってる」
「……ごめん」
そこはありがとうだろ、と心の中の私がいう。
手のひらに爪を食い込ませて痛めつける。
「でも紗弓はすごいよね、一生懸命努力して。そのやる気の一割でも私にわけてほしいよ……なんて」
「結果の出ないやる気だけどね」
「それでもすごいよ」
亜未がしみじみと言う。
しみじみとしながら努めて明るい声を出そうとしているのがわかった時、頭の中が熱くなった。
「努力って、やることが大事だもん。結果は後からでも絶対付いてくるって。きっとそういう風になってるんだよ」
「……ありがとう」
二つ目の駅に着く。
西日に目を刺されて、私はうつむいた。
「──でももう、努力なんてしたくないや」
「私も」
「明日なんて来なければいいのに」
「わかる。大学生にはなりたいんだけどね」
「でも大人にはなりたくないかな」
なんとなく喋っていると、電車が減速し出した。私の家の最寄り駅に着くのだ。
「じゃあね紗弓。ちゃんと息抜きしなきゃ──」
「ねえ、亜未」
電車が止まって、ドアが開く。
心が渇き過ぎて、気が大きくなっていたんだと思う。
緑のシートに座ったまま立ち上がらなかった。私は。
「……帰りたくない」
下を向いたままで亜未の顔は見てなかったけど、多分びっくりしたんだろう。一瞬沈黙があった。
でも、亜未は私が何を言いたいのかわかったんだと思う。答えはすぐに返ってきた。
「今日くらいはいいと思うよ」
「行きたい……お祭り」
「行こっか」
ドアが閉じた。
私達はまたしばらく黙って座っていた。
次の駅に着いた時、亜未が大きなあくびをした。
「眠いの?」
「ふあ、うん……なんか昨日眠れなくてさ。あ、紗弓にフラれて悲しみに暮れてたとかじゃないよ。寝る前に数学やったからだと思う」
「そんなんで悲しみに暮れてたらたら恐いよ。フッてないし」
「えーフッたよ。とにかく眠いや、眠い眠い」
「まだ着かないの? 寝てれば?」
「んー、あと20分くらいかな? 寝ようかな……」
亜未は目を閉じて壁に後頭部をつけた。
「新平敷に着いたら起こして」
「わかった」
私は夏期講習を受け始めてから控えていたスマホを取り出すと、芸能ニュースとか株価を見出した。
でも、内容は全然頭に入ってこなかった。
何と言えばいいんだろう。亜未を誘った時、上辺は冷静だったけどすごく興奮していた。
まるで、世界に私と亜未しかいないかのような感覚がした。
だって、模試でも振るわなかった私がするべきなのはどう考えても弱点を克服するための勉強なわけで。
マイペースだけど亜未もやっぱり十八歳で高校三年生で受験生なわけで。
私達のしようとしていることは客観的、論理的、社会的、一般的、常識的に考えて我慢するべきことだった。
でもその、絶対的な間違い──ということに、すごくドキドキした。私達だけが、この世界への小さな反逆者になったような気がした。
他の子はどうかは知らないけれど、私にはそれがすごくいけないことのように思えたから。
やけっぱちだ。私達はやけっぱちだ。
脳がポコポコと沸騰する。理性がじゅわーっと蒸発する。清々しいまでのやけっぱちさが、すごく気持ちよかった。
ほとんど時間をおかないで、亜未のショートヘアがこてん、と肩にもたれてきた。
なんだかふわふわして変な気分だった私は、なんとなくその、色が薄くてサラサラの髪を撫でたいような気がした。
寝息がよく聞こえる。
《次は新平敷、新平敷。お出口は右側です》
車掌の気怠そうなアナウンスが入る。新平敷は割とすぐに着いたように感じた。
すぐに着いたように感じてもやっぱり町の様子は塾の辺りとか私の家の近くとかとは違って、高いビルやマンションが少なくてアパートや一軒家がずっと並んでいた。
電車の中で立っている人も、もうほとんどいなかった。
「亜未、亜未。着くよ。亜未」
抜けた感じの寝顔を浮かべている亜未の頭が乗っかった肩を揺すると、亜未はもう着くの、と眠そうに目をこすった。
電車が減速し出す。
亜未は立ち上がって大きく伸びをした。
「んんー……ふう」
それからジーンズのお尻をさすると、しっとりしちゃった、と小声で呟いた。
亜未に続いてホームに出ると、熱気が体を包んだ。
「はー、あっつい」
亜未はリュックの脇からハンドタオルを出しておでこを拭った。
「ほんとに。暑いね」
「あ、ねえ紗弓。荷物邪魔だし一回私のうち来ない?」
「えっ、いいの? 急に行ったら迷惑でしょ」
「いーのいーの。今お母さんと弟が泊まりで地方の大学のオープンキャンパス見に行っててさ。それでお父さんも出張中だから昨日から誰もいないんだよね、うち。だから私が家主ー」
「ふうん……」
私は亜未の髪が汗で何本かおでこに貼り付いているのをなんとなく見ながら、ちょっと考えた。
「せっかくだしお邪魔していい?」
「オッケーオッケー」
エスカレーターに乗ると、亜未が目の前にあった私の肘をつねってきた。
肘ってつねっても痛くないんだよ、と言う。ほんとだ、と少しおざなりに笑った。
駅を出ると、電車の中から見た通りの閑静な住宅街という感じの町だった。
ただ、古そうな平屋が多い。過疎化してそうだ。
二階建ての亜未の家はそんな中でも割と新しそうだった。カードキーで解錠すると、上がって上がって、と私を招き入れる。
お邪魔します、なんて言うのはいつぶりだっただろう。
亜未が放り投げるようにして玄関の床に置いたリュックの横に、少し丁寧に鞄を下ろす。
家の中は外よりかは涼しかったけれど、亜未はあつー、としきりに呟きながらエアコンをつけていた。
脱衣所で手を洗った後、座って、というのでダイニングの席に座る。
お洒落かどうかはわからないけれど、とにかくすごく綺麗な家だった。窓が多くて開放的だし、白い壁紙も相まって明るい内装だった。
綺麗な家だね、と言うと、ストローを探しながら、ありがとう、と返す。
「亜未の部屋も見てみたいな」
「えーダメ。散らかってるし」
「亜未らしいね」
「ひどーい」
亜未は氷を入れたアセロラジュースのコップを二つ持ってきて向かいに座った。
透き通るようなガラスのコップを見ると、踵がじゅくり、と痛む。
「おまちどー」
「ありがとう」
アセロラの酸味を口に含むと、ぼうっとした全身の中で舌だけがピリピリと鋭敏になる気がした。
「紗弓、この後どうする? ちょっとだけお祭り見て帰る? ──って、帰りたくないんだっけ」
「あぁ、うん」
「そっかー。じゃあ泊まってく?」
「いや、それはさすがに……。親がさ」
「ああー」
ストローを咥えた亜未の唇がちゅっ、と細くなる。
「今日は自習室に残ってたことにする」
「名案名案。そしたら何時までいられる?」
「うーん、九時とか?」
「へー、いいね。門限とか無いの?」
「無い無い。自習室にいる分には」
「よかった。じゃあもうちょっとゆっくりしてから行こっか。そんで余裕持って帰ってこよう」
「わかった」
「あーお菓子食べたい。お腹すいたー」
エアコンが効いてきて、涼しいような、ちょっとだけ寒いような、心地良い室温になっていた。
亜未がキッチンの奥から持ってきたポテトチップスとか準チョコレートとか、そんなありふれたお菓子をお皿に雑にあけると、彼女に訊かれて昨日の夜の話をした。
「──それで、割れたコップの欠片踏んだら踵がザクッていって。床とかシーツ血だらけ」
「えー。痛そう」
「痛かったよ。傷見る?」
「うわっ、見ない見ない!」
ポリポリとお菓子を食べている亜未のぶらついた足が、机の下で私の足に当たる。
亜未の足は、柔らかいけど硬いような不思議な感じの感触だった。私は楽しくなって軽く蹴った。
亜未も負けじと蹴ってくる。
ただ、私の踵に気を使ってるのがわかった。
「紗弓のお父さん厳しそうだもんねー」
「厳しいんじゃないの。自己中なんだよ」
「まだ言いたいことは?」
「学歴至上主義」
「もうひと声!」
「ハゲ!」
「あははははっ!」
亜未もいけない事の気持ちよさを感じてるのだろうか。楽しそうに笑った。
同時に、両足で私の右足を挟んでくる。
指を挟んで、ぐりぐりと動かされた。
左足のつま先で土踏まずをくすぐると、さっと足を引く。でも、次のお菓子を口に運ぶと今度はふくらはぎの辺りを挟んできた。
しばらく中身の無い話をしながら机の下で蹴り合ったあと、亜未はなんか眠くなってきちゃった、と言って立ち上がった。
「亜未さっきも寝てたじゃん」
「えー、寝足りない」
トロンとした目つきで、ふらふらとリビングのソファに向かう。
長いソファに横になると六時に起こして、と言った。
「……わかった」
なんだか気まずい沈黙が後に残った。
私はしばらく株価を見ながら一人でお菓子を食べていた。
でも目にした文字やグラフは意味を為さない記号の羅列みたいに感じられて、見たまま頭を素通りしていくようだった。素通りしてリビングのソファに吸い込まれていく。
私はおもむろに立ち上がって、亜未の横まで行って膝をついた。
亜未の寝顔はこの世の嫌なことや面倒なこと全てを手放しているような安らかな表情で、腕を頭の方に上げている姿勢といいまるで赤ちゃんみたいだった。
そして規則的な寝息を立てている亜未は、何にも縛られてないかのようだった。亜未の周りにだけ、何も無いみたいだった。
無力感も、虚無感も、やるせなさも、義務も、理性も、社会も、何もかも。そこには流れていく時間さえも無いような気がした。
私も全てを手放してしまいたいと思った。何もかもを捨ててしまった後に残った本当の私の体を横たえて、亜未と一緒にずっと眠っていたかった。
そんなことをずっと考えながら、投げ出された亜未の肢体をぼんやりと眺めていた。
その内、六時になった。
暮れかけの空が綺麗で、六時ってこんなに明るかったんだ、と思った。
「亜未、六時だよ、亜未」
頬をペしペし叩くと、柔らかくて熱い。
亜未は小さい子供みたいな甘えた声を出しながら身をよじって、半分閉じた目でぼうっと私を見つめた。
「眠い……」
「知ってる。どうする、まだ寝てる?」
「んん」
亜未は伸びをして立ち上がると、着替えてきていい、と言って二階に上がっていった。
人のいなくなったソファになんとなく手を置いてみると、そこにあった亜未の体の温度が伝わってくる。熱くて、少ししっとりしていた。
階段を降りる足音が聞こえてくるまで、私は手の平にその感触を感じていた。
なんとなく、これが生なんだなと思った。
真っ白なキャミソールワンピースに着替えてきた亜未は小さいポーチを持ってない方の手で髪を整えて、行こっか、と眠たさの残る顔で笑った。
冷房の効いた部屋から外に出ると、むわっとした湿気と暑さが冷えた体を浸食してくる。
私達は暑い暑い、と言い合いながら、お祭りをやっている神社の通りを目指して歩いた。
五分もすると、お祭り特有の喧騒とお囃子が聞こえてくる。気分が上がった。
横断歩道の無い道路を渡ったところで、小さい子供達とお父さんお母さん達のグループとすれ違った。
大人のお腹くらいまでしかない子供達はそれぞれ綺麗な原色とか蛍光色の浴衣を身につけて、口々に騒いでいた。一番小さな子が履いているプピプピ鳴る靴の音が微笑ましい。
お父さんと手を繋いで幸せそうに笑っていた。私も自然と笑顔になった。
あの頃は楽しかったと。
お祭りの規模は、思ったより大きかった。
封鎖された道路の両脇にずっと屋台が続いていて、その間を人ごみが埋め尽くしている。
お囃子の音色と屋台のエンジンのうるささ、熱さ、臭さを感じると、すごく、例えようもなく、高揚した。
何かをしてこの気持ちを発散しないと気が済まない気がして、後ろから亜未の両肩に意味も無く手を置いてみる。
亜未は私の手に手を重ねて、どこ行こっか、と訊いた。
「私、チョコバナナ食べたい」
「オッケー、チョコバナナならたくさんあるからすぐ見つかると思うよ。お金ある? 屋台って結構高いけど」
「あるある。勉強ばっかりで使い道無いから余ってるの」
「クール! ではいざ!」
チョコバナナを求めて歩き出す。
人ごみに入っていくと、金魚すくいや綿菓子とかの見慣れた屋台から、ハンドスピナーや電球ソーダといった馴染みの薄い屋台まで色々あって目移りした。
それからは、ここでしか食べないようなものを食べたり、ここでしかできない遊びに興じたりした。
時間が過ぎるのも忘れて、二人で童心に返って遊んだ。あんなに楽しい時を過ごしたのは、本当に久しぶりだったと思う。
そして、亜未と笑っていた時の私は、本当の自分というものに近づけていた気がした。
無力感も、虚無感も、やるせなさも、義務も、理性も社会も何もかも棄ててしまえていた気がした。
二人共勉強のことなんて口にしなかったし、思い出しもしなかった。
すっかり存在を忘れていた腕時計を見ると八時半。
亜未と周りの人達に合わせて手拍子しながらオミコシを見送っていた私は、上下に揺れる小さな社に付いていく人の流れが過ぎ去るのを待ってから亜未にやり残したことが無いか確認した。
楽しそうな笑顔はそのままに、首を振る亜未。
「じゃあ、そろそろ引き上げよっか。夕ご飯何か買って帰って食べない? そしたら丁度いい時間になるんじゃないかな」
「いいね! 私タイラーメン食べたい!」
「あぁ……さっきあったね。タイラーメン。聞いたことないけどおいしいの?」
「おいしいおいしい! 去年弟が買っててすごいおいしかったから食べたかったんだ!」
はしゃぐ亜未をなだめながら、タイラーメンの屋台に向かう。
心なしか喧騒が少し大人しくなったように感じて、淋しさがふっと首をもたげた。
タイラーメンの屋台に並んでいる最中も、買ってから暗い住宅街の中を戻る時も、家に帰ってタイラーメンを食べながらも、亜未はご機嫌でよく笑い、よく喋った。
私も湧き上がってくる淋しさを紛らわすためによく笑ったし、もしかしたら亜未も同じ気持ちだったのかもしれない。
でも、今思えば亜未は何かもっと強い感情を紛らわそうとしていたんだろうか。
笑うたびにサラサラと動くボブカットが、すごく目についた。
お祭り楽しかったね、とか、あの射的絶対倒れないようにしてるよ、とか、この歳でスーパーボールすくいするなんて思わなかった、とか、そんな話のネタをあらかた出し尽くしてしまうと、私は帰りの電車の時間を調べ出した。
アプリに私の家の最寄り駅の名前を打ち込む時、なんだかどうしようもなく寂しくなった。
「えーと……十五分の電車で帰るね」
「わかった」
私の後ろに来て画面を覗き込んでいた亜未が、小さい声で返す。
そして、そのままそっと私の首に腕を回して、寄りかかってきた。
おんぶをするような格好になった私は、重いよ、とうわごとのように呟いた。
「紗弓」
腕がぎゅっと締まって、亜未の顔が頭に押し付けられる。
「なに?」
「付き合ってくれてありがと」
「何言ってるの。誘ったの私でしょ」
息を吸うと、亜未の匂いが鼻に広がった。あとは、少しお祭りの匂い。
「お礼言わなきゃいけないのは私の方だよ。愚痴とかも聞いてもらっちゃってさ」
「ううん、いいの。紗弓といたら私もすごくすっきりしたから」
「……そう。ならよかった」
締め付けがまた強くなる。
「──紗弓がいないとダメかも、私」
そう続けた亜未の声は、少し震えていた。
少しだけ、困惑した。
亜未がいないとダメだ、と私が言ったのならわかる。でも、私と違って明るいし友達も多い亜未がそんなことを言うなんて。
思い返してみると、私は今日亜未に愚痴や悩みを聞いてもらったけれど、亜未の方からはそんな話をほとんどしなかった。
塾の廊下で暑いからさ、と言った時の亜未の顔が、いやにはっきりと頭に浮かんだ。
「私は……亜未の友だちでいるつもりだよ。ずっと」
静かに言って、亜未の腕に触れた。
苦しいくらいにぎゅっとしてくる腕は細くて柔らかくて、それ以上力を込めたら壊れてしまうような気がした。
言葉にできない色々な感情で胸の中がいっぱいになって、熱い涙が滲んだ。
駅まで送ってくよ、と言って離れるまで、亜未はずっと私を抱きしめていた。
なんだか私も、ずっとそうしていてほしかった。
駅への道すがら、亜未はまた楽しそうによく喋った。私も、最後の時間を無駄にしたくなくてよく喋った。
「さて、明日からまた受験生だ」
「うわー。マジで最悪だあ」
「亜未、今日何時間勉強した?」
「えー。五時間とか?」
「目標時間は?」
「十時間……」
「達成度五割? いけない子!」
「きゃあ、Fランだ! Fランだ!」
「サッカー選手風に言うと?」
「十時間勉強しようとしてたのに、あえて五時間だけ勉強してみる。この残りの五時間は何か。伸びしろですねえ!」
「あははっ」
改札に着くと最後にもう一度、ありがとう、とお互いに言った。
改札を抜けた後、振り返って小さく手を振ると、亜未は背伸びをして大きく振り返してくれた。
「バイバーイ! 来年も行こうねー!」
「いいよ、浪人してなきゃね!」
ホームへのエスカレーターを降りる時にもう一度振り返ると、亜未はまだ私の方を見ていた。
目が合うと、床に阻まれて見えなくなるまで笑っていてくれた。
帰りの電車の中では、今日の気持ちをできるだけ心に焼き付けておこうとした。
背中には、亜未の体の感触がずっと残っていた。
ダイニングから、夕ご飯は、というお母さんの声が聞こえてくる。
私は、いらない、と返してまた目を閉じた。
明日も一時になれば講習が始まる。復習くらいは終わらせないと。
私は枕元のリモコンに手を伸ばして冷房をつけると、ゆっくりと起き上がった。
汗ばんだ私の背中を受けていたベッドは焼けるように熱くて、そしてしっとりとしていた。