壱:行き倒れは王子様
……おやおや。これは一体、どう言った趣向なのやら。
私は確かに、死んだはずなのだけれど……
ふむ……まぁ疑問は残るが、とりあえず、ひとつだけ確定している事がある。
私はまだ、戦いを享受する事ができると言う事だ。
ああ、良い。僥倖、何と言う僥倖…………と、最初は喜んだものだがね。
何だい、この世は。
恐ろしい。誠に恐ろしい。
何なんだ、この有様は……!?
大陸は王によって完全に統治され、荒事と言えばならず者の起こす子供喧嘩程度……殿が想いを馳せていた天下泰平とはこれこの事。
話を聞くだけでも解せぬと、想像するだけでも頭が痛いと思っていたけれど……目の当たりにすればここまで気が狂いそうになるものとは。
ああ、そうとも、狂気だよ。この世は狂気に満ちている。
こんな泰平の世の何が楽しい?
何をそんなに笑い合っている?
理外極まるね。本当に君たちは私と同じく知や心と言ったものを持つ生き物なのか?
だとすれば……どいつもこいつも狂っている……!
いくら深く息を吸っても、肺に落ちる空気は軽く、実に澄んでいる。血潮に濁った重く紅い空気が、どこにも無い。
喉に張り付くじっとりとした湿気が、鼻腔にこびりつくねっとりとした鉄の香りが、無い、無い、無い、無い……!!
苦しい……いくら吸っても吐いても、呼吸をしている気分にならない。
まるで泥川にでも落とされたかの様な気分だ。空気が足りない。代わりに流入してくるのは口に含むだけでも悍ましい汚物の臭気。
新しく手に入れた体がぷるぷると震えている。
耐えられないと、悲鳴をあげている。
どうすれば良いか……決まっている。
簡単な話さ。
他の誰でも無い、この私が、世に蔓延る狂気を斬り伏せる。
正そう、在るべき姿に。正しい世界に。
まずは……【力】が必要だ。
武力、戦力、暴力、それらを束とした軍力。
狂気に引導を渡し、泰平に動乱を齎さん……我が【修羅の軍】を作り上げるんだ。
「おや、力をお求めですか?」
――図った様に、その【少女】は現れた。
白翼を背負い、金毛の頭には狐の様な耳を生やした奇っ怪な化生の者……まぁ、今の私が言えた義理ではないけれど。
「当方、名を玩婦臨恵屡と申します。種族は【天狐】。え? 狐の癖に尻尾は無いのかって? 恥ずかしながら随分昔に全て刈り取られてしまいまして。いずれ再生させたいとは思っています。必ず」
艶やかな笑みを浮かべながら、こちらの警戒に気付かず……いや、気付いた上で知らぬ風にずけずけと擦り寄ってくる。
「まぁその辺はさておきまして。力を求める貴方に、耳寄りな【告知】があるのですよ……ええ、それはもう、とてもとても美味しい朗報です故に、聞いておかねば人生を丸ごと損すると言っても過言にあらず」
小娘の笑みが放つ気には、覚えがあった。
狂言を吐き慣れた者のそれ。「腹に含んだ一物がございますが、それが何か?」と言わんばかりのあの笑みだ。
まさしく女狐の如く、何事かで私を謀ろうとしているのだろう。
「……ふふ、ええ、ええ、勿論。世の常として『美味い話』には裏があります。しかしてどっこい。この御話に関しては、貴方は表の美味しい部分を、私は裏の美味しい部分を持っていけば大団円に収まり得る……両者の利が競合せずに複合して存在する、『美味過ぎる話』なので御安心」
私が本性に気付いている事も折込済みと暗に告げ、小娘はその細腕をこちらに差し出して来た。
「さぁ、力を求める愚か者。全知全能より解れ落ちた【超兵器】の御話などをひとつ、如何です?」
◆
「ほう、ここが雄緑の村か……」
「むほほー!! 聞きしに勝る活気の商店集落よな!!」
マルを旅の道連れに加えてから数時間ほど。
太陽はすっかり直上に回った昼飯時近く。
我々は最初の目的地、戦具とか言う武器の販売・流通で名を馳せると言う町、雄緑村へと到着した。
「すごいのう! すごいのう! 者も物も溢れておる! おお!? あの霞んで見える山、かなり遠い風だのにあんなにデカく見えるぞ!? ヤバきではないか!?」
「ああ、そうだな、ヤバきだな」
相も変わらずやかましい……が、今回はヒメがわあきゃあと騒ぐ気分もわかる。
まるで祭にでも来た様だ。
村に入ってすぐの大通り、その両脇を固める商店の列は、よもや地の果てまで続くのではないかと思える程。店と店の僅かな隙間には露店商が陣取り、通りの全てが隙間無く、商売で満ちていた。
まさしく商人の……いや、商者の村だ。
店先に出された看板や並べられた商品を見るに、戦具に留まらず、食物・菓子・薬・玩具に舶来の珍物……ありとあらゆる物が販売されている模様。
そして、商店による長蛇の列に挟み込まれた通りを埋め尽くすは客となる者々の群れ。
次はどの店に行こうかと悩む者、あそこの店ではこんな良い物が買えたと誇らし気な者、様相も様々。
「いつ来ても陽気な雑踏が溢れ返っているでござるニン」
「ほう、マルよ。貴様は既に来た事があるのか」
「はいでござるニン。里で売っている服やら小物やらは乱破趣味の地味なものが多く、ウチは基本こっちで物資を調達していたでござるニン。と言う訳で、ウチはひとまず行きつけの反物屋に行って参るでござるニン」
「ああ、それが良いだろう」
血まみれな挙句、気を抜けばすぐに乳が溢れるボロ姿でこの町並みに入っていくのは無理があるしな。貴様はまず何よりも衣類を新調してくるべきだ。
「あの……それで、非常に申し上げ辛いのでござるニンが……」
「ん? ……ああ、そうか、銭か」
「……はいでござるニン。貸していただけると幸いでござるニン」
抜け忍の身で荷無し、逃げる途中で紛失したか、そもそも逃げ仕度をする余裕も無かったかは定かではないが、衣を買う銭など持っとらん事は明らか。
「銭の貸し借りなんぞ他所様行儀は不要じゃ。同じ鎮威群の仲間なのだからな! のう、ゴッパム!」
「ああ、異論は無い」
安定した収入の確約が無い今、銭は貴重ではあるが……ここでケチってヒメの替え着を着させる訳にもいくまい。
身長だけならまだしも、ヒメとマルは肉付きも段違い過ぎる。華奢極まるこのちび娘に合わせた着物では、豊満に恵まれたマルは前を合わせる事すら叶わんだろう。
露出の嗜好など無いと必死に訴えるマルに、そんな遊郭でも「なんと大胆奇天烈な……」と驚かれそうな格好を強いるのは流石に不憫だ。河童に成ったとはこの身とは言え、人の子である情を失った訳ではないぞ。
「銀判の数枚もあれば足りるか? ……いや、替え分もと考えれば金判を渡しておくのが無難だな。あと、ついでだ。釣りの銭で医者にも行って傷の手当を受けて来い」
出血の割には軽傷だったとは言え、大事は取っておけ。
「……かたじけないでござるニン……では、できる限り早めに済ませてくるでござるニン故、後、町の中心にある広場にて落ち合いましょうでござるニン」
それだけ言って、しゅばばッ、とマルは姿を消した。
腐っても乱破、身のこなしは……
「あにゃぶ、すみませッ、通して欲しいでござるニ、いにゃッ!? 痛い痛い痛い!! 足踏んでる! 踏んでいるでござるニン! ってきゃああああああ!? 見るなでござるニン!!」
……向こうの雑踏から情けない泣き混じり声が聞こえてくるのは、気のせいと言う事にしておいてやろう。
まぁ、何だ。あれだけ叫ぶ元気があるならば、うむ、良い事だ。
「さて……では、拙者らもちゃっちゃと目的を済ましてしまおう。昼飯時も近いしな」
「うむ! まずはあの玩具屋じゃな!?」
「違う」
「違わぬ!!」
「いや、違……って、おい!?」
◆
銅判一枚の風車と小銅判八枚の色硝子玉を買い与えておとなしくさせたヒメを連れながら、拙者は道行く者に声をかけ、良い戦具屋を探した。
結果、ある一軒の店へと辿り着いた。
看板に刻まれた店の名は、【戦具店・舎守庫】。
店構えは大きく、更に庫と店名に入れる程だ、商品の充実に自信があるのか。
聞いた話によると、元々は冒険鎮威群の戦闘員として戦っていたと言う頑固一徹な店主が、自らの優れた目利きを以て選び抜いた武器しか並べておらんのだとか。
店名の庫の字に、戦闘に長けた者が選び抜いたと言う武器、期待して良いだろう。
「この店としよう。入るぞ」
「……あ、うむ」
……風車を吹いて回すのに執心夢中だな。まぁ、静かで良い。
「たのもう」
戸を開け、店内へと入る。
「はい、いらっしゃいませぇー……」
出迎えてくれたのは無地の黒着物に身を包んだ華奢な娘。
特に異変は無い。マルと同じく真っ当な人間の娘だな。
しかしながら……その声には覇気が、眼鏡をかけた面には笑顔が無く、余り愛想はよろしくない。
何と言うか、「客かよ面倒くせぇ……」などととんでもない事を言い出しそうな娘であ……
「客かよ面倒くせぇ……」
言った。
「……余計な口出しかも知れんが、娘よ……そこはそう思ったとしても、商いをする者として、せめて言外に濁すべきではないか……?」
「あ、声に出ちゃってました? 申し訳ありません」
欠片も悪びれる様子の無い顔で、娘は会釈程度に頭を下げた。
「で、お客さん、何か戦具をお探しで? ……と言うか、えらい大荷物ですね」
「旅の途中故な」
と言ってもこの大きな包みの中身、旅の荷よりも焼き団子の容量の方が圧倒的に多いがな。
「それでは、長く使える物をお探しで」
「うむ」
さて……娘の態度は物売りとしてはヤバきものを感じるが、中々どうして。店内はしっかりしている。
刀や斧、弓に槍に刺叉、何やら鋭い突起に塗れた鎖付きの鉄球……並ぶ武器は多種多様、舶来物か、一瞥では用途が想像できん武器までも。
種類は多いが、武器そのものの大きさである程度の区分に分けられており、自身に適した武器を探し易そうでもある。
店内が広く、空間にゆとりがあるので、気になった武器があれば試しに素振りもできるだろう。
武器を売る店としての体裁は充分以上に整っている、と評価して良い。
まぁ、買うならば刀一択だが、どれ、少しばかし店内にある物を一通り眺めてからでも遅くは……
「……む?」
なんぞ、一際、妙な気配を感じる物品がある。
「ん? ああ、アレですか? ……面倒なモンに目を付けますね」
拙者の視線に気付き、娘がやれやれと言った調子で【それ】に近付く。
それは、店の中心に据え置かれた立派な台座に飾られる、ひと振りの刀。
柄巻の紐は老齢の樹木めいた古びた茶色。
鍔の形は金色の鉄材であしらわれた五枚弁の桜の花。
鞘は無難な漆塗りの黒だが、職人の腕が良いのか並より流麗に見える。
鞘は美しく、鍔の形状が洒落ているので、女性受けが良さそうな刀だが……何故だかどうにも、それだけではない……何やら、物々しい気配を感じる……?
「これは、かの有名な【神日刀】と呼ばれる群に属するひと振り。銘は【裂羅風刃】です」
「しんじつとう……とな?」
聞いた事の無い……まぁ、異国の地である以上、それも当然か。
「手に取っても構わんか? 刃を見たい」
「ええ、どうぞ。見れるのであれば、ご自由に」
「?」
どう言う意味だ?
ふむ、重さは軽過ぎず重過ぎず……って、ぬ? ちと、鯉口が堅いな……何か引っかかっておるのか?
少し力を込めて引いてみるか。
「一応説明して差し上げますと……神の世界の陽光は桜色だと言われおり、神日刀の刃はそれ同様に薄く桜色に輝いているそうです。故に神の日の刀、と書いて神日刀と呼ばれているんだとか」
「ほう、確かに」
少し力を込めると、ようやく刃を抜く事ができた。
娘の語る通り、刃全体が薄く桜色に照っている……美しく、それでいて面妖な刀だ。
……人の頃に拙者が所持していた名刀・正刳楼と同じく桜色の刃……何やら因果も感じるな。
「斬れ味は異次元、まさに神業の代物……なぞと言われておりますが、神日刀を抜刀できる者はひと握りの選ばれし者のみ。実際それも今まで誰にも抜刀できず、未だその神々しいと噂の刃を拝めた事は……」
「ん?」
「……って、抜けとりますね」
「ああ、抜けたぞ。まぁ、だがしかし、河童の腕力を以てしても力む必要があったからな。並の腕力では抜刀できんのも道理だろう」
「……選ばれし者の条件って……まさか腕力……?」
その様だな。
「ふむ……して、これを鍛ったのは何処の匠か」
この刃紋……一瞥で充分だ。
これは業物に違いない。断言しても良い。撫ぜるだけで鉄をも分けてしまいそうだ。
この刀を用いれば……あの沈黄泉とか言う女の鋼琴なる楽器も両断できるやも知れん。
……一体、何処の何者が鍛えた代物か……
「不明です。神日刀は、いわゆる【黎神史印】、遥か昔……天地開闢から間の無い神代の文明が遺したと言われる出土品ですからね。父……先代が、冒険の途中で偶然に拾って来た物です」
「……神の代の匠が鍛ち、神の世の太陽の如しと称えられる業物、か」
見れば見る程、素晴らしい刀である。
神などと言う夢幻の産物を信仰するつもりはないのだが……少々ばかり「こんな代物が存在するのならば、その様な存在も在り得るのではないか」などと思えてしまう……これまでに培った人生観が揺らぐ程に絶世逸品の大業物。ああ、誠に素晴らしい事この上無い。
「ふむ、良い口上も浮かんだ。良い刀に巡り合えた。確か、こう言う時にこそ、神に感謝すれば良いのだったか?」
至極愉快なり。
「して、娘よ」
「はい」
「気に入った。買おう、いくらだ?」
これだけの名刀、欲さぬ武士が何処にいる。
しかも、桜色の刃……人の頃の拙者とも少なからず因縁のあるこの数奇な一致。
多少抜刀し辛いのは、後で鯉口に油でもすり込んでおけば良かろう。
是非買いたい……が、値段次第だな。金判三枚以内に収まってくれるか……無理臭い気もするが……すると、さて、どう交渉したものか……
「あ、持ってちゃって良いですよ。商品ではないんで」
「は?」
「それ、先程言った通り、父が拾って来た物で、曰く『いずれ運命に導かれし英雄――【斬武嵐威】となるべき者がこれを手にする』とか何とかで、店の真ん中に飾り始めただけなんです。神日刀と聞いて珍奇集めの連中が譲れ譲れそら譲れと騒ぎ立てても、父はそれを『抜刀できぬ者には譲らぬ』と断固拒否。連中は父が頑なと知るや娘の私にも絡んでくるから面倒くさい。そんな感じでぶっちゃけそれ邪魔なんで、持って行ってくれると助かります。実際、お客さんは抜刀できたんだし、父も文句は無いでしょう。なので、お客さんがそのサムライとなるべき者って事で、どうぞどうぞ」
ここに来て良い笑顔だな。
厄介払いができるぜやったぁ、と言わんばかりだ。
要らん心配かも知れんが、この娘、こんな調子で嫁に行く先が見つかるのだろうか。
まぁ、それはそれとして。
「ふむ……そうか。では、有り難く」
どちらかと言えば、拙者は既に侍なのだが……向こうが率先してくれると言っているのだ。銭を節約できるのならば、それは重畳。
有り難く頂戴するとしよう。
◆
「いやぁ、タダで刀を新調できるとは! ツいておるな、おぬし!」
「ああ、僥倖である」
ようやく風車に飽きたのか、元のやかましさが戻ってきたヒメを連れて、雄緑の町を行く。
商店の集まった通りを抜けた事もあってか、道を行く者の影は大分まばらになった。
「では、続いて昼飯と行くか。町の中央にあると言う広場でマルと合流し、餞別の団子をいただこう」
「何を言っておるのだゴッパムよ!! せっかく戦具を買う銭が浮いたのだぞ!? ここは飯屋に入って豪勢な物を食わねばじゃろう!? はようマルと合流して飯屋を探すぞ!!」
「……貴様は銭を貯める気が無いのか?」
拠安賓組駆鞍泊とやらを買うためには大きな銭が必要なのだろうに。
しばらくはこの狂った量の焼き団子で三食を賄うが上策であるはずだ。
「それはそれ、これはこれぞ!! それに……そうじゃ、良い飯屋には情報が集う物と聞く! 良い飯屋は客が多い、者が集まる、自然、噂話も白熱するのじゃから当然の摂理よな!!」
「情報だと?」
「妾達に必要な情報は二つ! 妖界王の超兵器に繋がる情報と、強き者の情報ぞ!!」
「前者は納得だが……強き者の情報なんぞ仕入れて、どうするつもりだ? 鎮威群の腕試しに片っ端から喧嘩でも売るのか?」
「んな訳あるか!? 発想が物騒過ぎるぞ……良いか、強き者を探して妾の子分、即ち鎮威群の仲間に勧誘するのじゃ! 戦力としてはおぬしとマルだけでも充分な感はあるが、おぬしは戦闘となると何やら盲目になる節があるし、マルは妾ほどでは無いにせよやや抜けている節がある故な。攻勢は万全だろうが守勢は不安でしかない!! 切に!! それに鎮威群である以上、数が多いに越した事は無し!!」
……ふむ、それは確かに。
「確かに理があるな。賛成だ。戦闘と貴様の子守を同時にやっていては、勝てるものも勝てなくなろう」
「子守て!! ……と、業腹じゃが、しかして然り。最低でもあと一名、妾の警護に徹してくれて、そして何よりまともな感性を持つ者が必須」
「まるで拙者がまともではないとでも言いた気だな」
「高所は苦手と必死に泣き叫ぶ少女を抱えたまま大空へ跳ぶ奴がまともであるはずがないじゃろう」
その事か……やれやれ、サッパリした奴かと思いきや、存外ねちっこい。
「で、じゃ。この際、腕っ節は並でも構わんが……欲を言えば、万全を期すために腕の立つ者を二・三名……いや、もっと欲しい、と言う訳よ」
「うむ……だが、それは飯屋で飯を食わずとも、飯屋の近場で聞き込みをすれば聞ける話であろう」
「良質な飯を食うと良質な情報にありつける確率がぐんと上がる……かも知れん!」
「阿呆」
「また一言で斬って捨てられたーーッ!? って、ふぎゅにゅ!?」
「!?」
おぉう……!? 阿呆が消え……た訳では無いな。何ぞに躓いて転げただけか。
「おい阿呆、何をはしゃいで……」
…………待て。阿呆が踏ん付けて転んだこれは――
「にゅぅぅ……い、一体何が……こんな所にこんな大きな物を転がしておくなんぞ非常識……って、えぇえ!? 誰ぞこれ!?」
「知らん」
ヒメが踏み付けたのは……うつ伏せに倒れて転がった何者かだった。
見てくれは……先程の武器屋の娘やマルと同様、真っ当な人に見えなくもない……と思ったが、違うな。頭、後方へ流れる様に角が生えておるし、首筋や手の甲には黒紫色の鱗が這っておる。
蜥蜴顔ではなく人の顔をしているので、先日の蜥蜴共とは違う種の様だが……近い何かだろう。
服装は、この温暖寄りな気温には適していないと思われる黒い厚手の外套を纏い、外套から覗く首元には、ピンと立った白い襟。南蛮の者が身に付けている様な襟の立った白い上着……確か、洋装……【割衣者着】と言うのだったか? あれだな。
「身なりは随分と良い様に見えるが……まさか行き倒れかのう?」
ヒメが件の者をごろりとひっくり返すと、その整った青年の顔立ちが顕に。だがやはり、只人にはあらず。首筋から這う鱗は目元まで伸びており、大きな八重歯が唇からはみ出している。
顔色は……すこぶる悪いな。生きているかも怪しい……っと、薄ら目が開いた。生きてはいるな。
「おい、貴様、大丈夫……な訳は無いか。何がどうした? どうして欲しい? 言えるか?」
言えんのならお手上げだ。
ここで会ったのも縁、墓穴くらいは掘ってやる。
「……血……」
「血……?」
「……た、多分……血が、足りな、くて……」
今にも擦り切れて消えてしまいそうなか細い声で、何を言っているんだ、この男は。
「あ、そう言えばゴッパムよ、確か南蛮には【蛮灰暗】と言う『血のみを食らって生きる化生者』がいると聞く!! もしやこいつ、それではないか!?」
「血のみを食らって生きる……?」
なんだ、その難儀な偏食を拗らせた生き物は。
しかしまぁ、南蛮の化生者、と言うのならば、南蛮衣装を纏うこの行き倒れがそれの可能性は高いな。
「おい、河童の血で良ければ、分けてやれんでもないが」
見付けてしまったものは仕方無い、助けられるならば助けるが……
「……ぁ、あり、ありがとう、ございます……どう、か……お、願い、します……」
そうか。
では、嘴で手首を啄んで……ッ、よし、一発で血管を当てたぞ。ぶしゅっと景気良く赤い血が吹き出しよったわ。
「ほれ、さっさと食え」
「ぃ、え、食べは、しません……」
はぁ? おい、河童の血でも構わんと言ったではないか。
一体全体、どう言う了見……
「赤き水、は……我が、眷属……反せず、抗わず、我が声に従え……」
「おい? 何の口上……、!?」
何だ……!? 行き倒れが血の滴る拙者の手首に指先で触れた途端……流血が、止まった。
だけでは、ない。地に落ちるのをやめた拙者の血は、どんどんと、行き倒れの指の中へと吸い込まれていく。
……! みるみる内に、行き倒れの顔色が良くなって……
「……ッ、ぶ、っはぁ!! た、助かった!! 助かりました行きずりの御二方!!」
「それは重畳だが……」
……なんと、拙者の手首の傷、もう既に血塊の蓋ができておる。
これも、この行き倒れがやったのか。
「本当に申し訳無い……僕、実は血を操る【妖術】を修めていまして……」
「ようじつ……?」
「妾は聞いた事があるぞ。確か、極一部の知性ある化生者が使う『不思議を意図的に起こす技』だったか?」
ほう、また冒険家からの受け売りか?
しかし……そんな術まで修められるのか、化生者と言うのは。
「血を使った不思議な技を扱う……成程。察するに、自らの血を使い過ぎて倒れた、と言う所か?」
「はい……恥ずかしながらその通りかと……」
今、拙者の血を指先で吸ったのも、拙者の傷を血塊で塞いだのも、その技の一端か。
「先刻、修行のため、術を行使し……しかし、つい先程までぴんぴんとしていたはずなのですが、突然ふらぁっと……」
「単純に貧血じゃろうな。時間差で来る事もある。妾も元々は身体が極めて貧弱だった故、その手の症状には詳しいのじゃ!!」
「威張る事か」
まったく……
「気にかけていただいた上、血まで分けて貰えるなんて、本当に有り難い……この御恩、如何にして返したものか……」
「いちいち気にするな。貴様の生命が助かったのは事実だろうが、拙者がした事は血を啜らせたのみ。恩義に思われるほど大した労は払っていない。運が良かったとでも考えておけ。……ところで貴様、南蛮の化生者にしては、言葉が上手いな」
「はい? 南蛮の?」
「むむ? その反応はなんじゃ? 違うのか? おぬし、【蛮灰暗】と言う奴であろう?」
「え、全く違いますよ? 僕は……ああ、この格好のせいで勘違いしてしまったのですね。これは、母が洋装好きだったので、僕も愛用しているだけです。僕は――」
「いたぞォ!!」
ぬ、何だ。こっちは話の最中だと言うのに、往来で馬鹿でかい声を張り上げる輩は……って、おう?
「あれは……確か、鱗先赤怒幡だったか?」
人の形をした小型の怒羅豪矛。つい先日、飽きる程に斬り殺したからな。覚えているぞ。間違い無い。
声を上げたのは、数体の仲間を連れた大柄な鱗先赤怒幡だった。
……はて、にしてもあの蜥蜴……拙者の方を真っ直ぐに睨んでいる様に見えるが。
「雄緑に向かったって話はマジだったな!! あいつで間違い無ぇ!! 褌一丁に刀を帯びた河童野郎!! 兄貴を斬り殺したっつうクソッタレだ!!」
「何?」
兄貴……とは、確か、拙者が斬り殺した蜥蜴の長が、そう呼ばれていたな。
……まさか、残党がいたのか。全員斬ったつもりだったが……厠にでも隠れていたのか?
いや、それとも、あの店主が別の群れに拙者の事を話し、仲間の仇討ちが来たか?
まぁ、どちらでも良いか。
とにかく、奴らは明確な敵だろう。ならば対処はひとつ。斬って捨てる。
「な、何じゃ何じゃ!? あやつら、こっちにずんずんと向かってくるぞ!? しかも何やら滅茶苦茶に物々しい!! ゴッパム!? 何かしたのか!?」
「ああ、まぁな。奴らの仲間を何匹か撫で斬りにして捨てた」
「あ、まさかあの銭袋を持ってたのはそう言う……って、何しとんのじゃおぬしはァァァーー!? いや、報復してくれたのは胸がすいて嬉しいが、お偉いさんに手を出しちゃあいかんじゃろ!?」
「えぇい、やかましい。わかったわかった。奴らも片付けてくる故、少し待っていろ」
丁度良い感もある。神日刀……裂羅風刃の試し斬りといこう。
「げぇッ!?」
……? なんぞ、蜥蜴共、急に立ち止まって目を剥きよって。
「……奴らがつるんでいるあの御仁は……ドラクリア様ァ!?」
「はぁぁぁ!? おいッ、ドラクリア様の配下に手ェ出したなんて聞いてねぇぞ!! そりゃあブチ殺されて当然じゃあねぇか!!」
「ひ、退くぞ!!」
「「「おぉおおおおおおおお!!」」」
………………はぁ?
「……おい、今回は刃を抜くどころか、まだ鍔を押し上げてもおらんぞ……」
連中……一体、何に臆して踵を返したのだ……?
どらくりあ? がどうのと……様を付けていたと言う事は、誰ぞやんごとなき者の名か?
「あ、あははは……えぇと……事情はよく飲み込めませんが……これは一応、恩を返せた、感じになるのかな……?」
「行き倒れ……? ……!」
……そうか、考えてみれば、すぐにわかる事だ。
拙者を殺しに来たのだから、拙者を見て臆する事は有り得まい。神日刀の触れ込みを知っていたならば、その桜色の刃を恐れるかも知れんが、拙者はまだ抜刀しておらんのでそれも無し。当然、ヒメには相手を威圧する要素など皆無。
ならば、奴らが我々の何を見て恐れをなすか……それはもう、こいつ以外に有り得ない。
「……貴様、何者だ?」
「その……名乗り遅れました。姓は奮沌、名は執繰朱……僕は、この地を統べる竜王・導嵐狂の息子です……はい」