ブロッコリー
十四年前 初夏
木々の破片や枯れ葉が、湿った大地と織り成す絨毯の上を弾むように歩いている。
まだ、梅雨明けだというのに、間欠泉のように汗が出てくる。
昨晩の土砂降りからは、想像もできないような晴れ模様で、森全体がむっとするような湿度に包まれていた。
緑滴る木々は、熱気を内包した生き物のようにも感じ、蠢いていても不思議には思わない。
孝汰は、変わった形の木を見つけては、名前をつけ、匂いを嗅いだり、耳を当てたりしながらよく観察した。
十歳の探検家は、軽々とした足取りで、根上がりした大樹を越えていく。
好奇に満ちるその柔和な骨格は、今にも大樹のように大きくなりそうな風格を漂わせる。
前だけを見据える澄んだ瞳は、土汚れに目もくれず、白い歯をみせていた。
山の中腹の開けたことろに、とりわけ立派な木がある。
僕らは、その人気のない場所が好きで、秘密基地にしていた。
「ブロッコリー」、そう名付けられた一本の秘密基地は、文字どおり誰にも口外していない秘密の場所だ。
今日は、未開の地を歩むべくいつもより遠回りしてここへ来た。
森の傘に覆われて気づかなかったのだが、のしかかるような日差しは、まさに酷暑と呼ぶに相応しかった。
彼方に横たわる水平線の蜃気楼が、意識を遠くに沈めてしまいそうになり、慌てて目を逸らす。
「ちょっと待ってて!」
そういって、孝汰は奥に広がる山中へ駆け出していった。
きっと、いつものように手頃な木の枝を見つけて、武器として携えてくるはずだ。
「でっかいなぁブロッコリー。」
頭を反らせても視界に収まりきらない複雑な線に、理科で習ったことのある、星々を繋いだ星座の見取図を重ねた。
枝葉の間から微かに差し込む日光が相まって、昼間に星空を眺めているようだった。
その時、枝に小さな2つの白い靴のような物がぶら下がっているのに気がついた。
「なんだろ」
何度も登ったことのあるブロッコリーは、足元に注意しなくても登れるようになっていた。
近づくにつれて、それが人の足だとわかり、さほど自分と変わらないくらいの少女であることに気付いた。
そっと近付こうと思ったが、乾いた樹皮を爪先が、がりがりと音を立てるので、すぐにばれてしまった。
「大丈夫?」
少女はそういうと、細い腕を伸ばしてきた。
気恥ずかしさからなのか、男子としての矜持なのかは分からないが、大丈夫、と素っ気なく呟いて、勢いよく左足を枝に掛けた。
僕は、自分とは対照的な涼しい表情をみせる彼女に、思わず見入ってしまった。
まるで風鈴みたいだな、心のなかで、瑠璃色の透き通った硝子を想像すると、蝉の鳴き声は止み、山背が吹いたかのような、颯然とした涼風を感じた。
「きれいでしょ」
振り向いて放たれた一言に面食らった。
赤面したのは、きっと暑さのせいで、息が整わないからだ。
再び視点を戻した彼女の先には、麓の先に広がる海があった。
何隻かの船が小さく浮かんでいる。
細めた瞳には、太陽の粒が煌めいている。
「あ、そ、そうだね。」
取り繕うように慌てて言った。
必死に息を整えようとすると、余計に汗ばんだ。
「たまにここへきて、海を見てるけど、人をみたのは初めて」
名前を聞こうとした機会を失って、彼女の言葉がよく入ってこなかった。
一瞬だったのか、そうではなかったのか定かではないが、出ようとする言葉を飲み込むのを繰り返しているうちに、沈黙が流れた。
「そろそろ帰らなくちゃ」
彼女は小さく呟いて、隣で立ち上がった。
そういえば、ずっと立ったまま海を眺めている。
器用に降りていく様は、もしかしたら、彼女はよくここに来ているのかもしれない、という希望的観測を与えてくれた。
「またね!」
やっと絞り出した声は、変に上擦って無駄に大きかった。
「うん、またね。」
微笑んだ彼女は、夏の眩しさを加速させたように思える。
颯爽と去っていく彼女の背中を見つめて、遠くなる白い姿に蜃気楼に似たものを見た。
彼女が小さくなるにつれて、蝉の鳴き声や葉の揺れる音のボリュームが上がっていった。
いつも見ていた大海に視線を戻すと、暑さの猛威が凄まじいのを、海面の反射で感じる。
地平線との距離が、こんなに遠く感じるのは初めてかもしれない。
意識がぼーっとするのは、暑さや蜃気楼のせいではないかもしれない。きっと、違うと思った。
ブロッコリーの幹に背中を預けて座り込んだ。
一本と一人になった世界に、初めて異なる色が射し込んだ。
天気予報士が、お昼のワイドショーで、今年の夏は例年に類を見ない暑さだと言っていたのを思い出した。
僕は右手で、よれたシャツの襟を引っ張って、胸に纏わり付く湿った熱気を冷まそうとした。
入れ替わるようにこちらに向かってくる孝汰が、大きな声で何か言っているが、音の輪郭がはっきりしなかった。