六、オリジナリティ論
「詩をつくる約束をした作者は、これを抱きしめるならあれを突き放す、というやり方をしなければならない」
──ホラティウス『詩論』
作品にオリジナリティが無いと云うのは、おかしなことである。先に述べたが、作品を完全模倣するのは、何ものの影響をも排除して作品を創るのと同じくらい非合理的なものである。
「地図とは土地そのものではない。言葉とは物そのものではないのである。」
こう書いたのはコージブスキー率いる一般意味論である。吾々は抽象的な観念で凡ゆるものをジャンルのごとき外部形式で一括りに出来るが、細かいことを云えば、或二者が同一と云うのはあり得ないことである。ならば、作品に全く個性がないと云うのは奇妙なことである。「文は人なり」の至言は真っ当である。作品に個性が無いと云うのは、読者はその個性を見出す努力を怠慢っているとしか思えない。
併し、こう云う場合、吾々はその作者を没個性的だと云うことが出来る。模倣。つまり、彼が「似せ物」を作ったときである。他者の個性に成り代わろうとしたり、理想的な何かに自己を直そうとしたりするとき、彼は個性と云う事実を捻じ曲げようとしてしまう。残念ながら事実は変えることが出来ない。どうか、角を矯めて牛を殺すと云う諺を憶い出して欲しい。
併し、他者を私淑したり、真似たりすることには何ら問題は無い。作品を育むべき情緒を養うのは豊かな体験であり、そして学ぶこととは真似ぶことなのだ。「ものまね」を「物学」と書いたのは世阿弥である。俳優は与えられた役のモデルを完全に再現することは出来ない。併し「似せぬ位」を知ることで人の意外の意を突くことが出来る。それこそが斬新性であり、独創性に到る途であるように思われる。そこで奇を衒うは、好事家以外を喜ばすこと能わない。どれほど吾々が望もうとも、林檎の木に蜜柑は成らない。それを実現させてしまうのは牽強付会と云うやつである。「守破離」ではないが、「型」を持たなければ幾ら「心」を持とうとも「形」には成らない。そして「形」に成れないものを、残念ながら吾々は知覚することが出来ないのである。
されど、真に独創性な作品と云うのは、謂わば山中に切り拓かれた一つの獣道である。先駆者はその道を能く知るわけではない。唯、その力の限りを尽くして新しい道を拓くのみなのである。ゆえに、その道よりも、もっと効率的で、便利な道が後から切り拓かれることがある。つまり完成度の高い二次創作のことを指している。昨今はニコニコ動画などを活動拠点とする二次創作家たちが、原作よりも遥かに完成度の高い創作物を発信することがある。彼らは己れの「心」を籠める「型」を一次創作品に求めただけに過ぎない。ゆえにオリジナルよりもずっとオリジナリティに溢れ、人に強く働き掛けることがあるのは事実なのである。そうした想像力は、古来「本歌取り」の手法や、伊勢の「式年遷宮」なぞに見受けらるるものであるし、抑々紫式部『源氏物語』は白楽天の『長恨歌』に、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』は羅漢中の『水滸伝』や槃瓠伝説などを借りてその比類無き物語を「形」にしたのだ。これを盗作と呼ぶのは余りにも品のないことであるし、況してやそこに想像力が無いと云うことは出来ない。そう云う人間こそ想像力が無い。
だが、確かに一次創作品は偉大に見えてしまうのである。何故なら獣道を創る勇気があったからだ。人は取り敢えずでも出来た道を歩もうとするが、人跡未踏の土地に、初めの一歩を踏み出すのは常に勇気を必要とする。それを果敢に行なったものこそが、真の独創性、先駆者の称号で呼ばれることとなるだろう。中々興味深い、面白いことだ。
その一次創作品は、往々にして不完全なことが多い。獣道を自動車が走ることの出来ないように、その独創性には余裕が無いことがある。ゆえに完全に一次創作者で無くとも、人を創造的にさすような作品を創ることは出来る。これは先人の筆跡を追うに、自明のことかと思われる。
だが、今私は敢えて逆のことを書こう。つまり、真の独創性とは、不完全なことであると言いたい。ここで云う不完全と云うのは、欠如していると云う意味ではなく、「空」を持つと云う意味である。独りで完全に切り拓くことの出来なかった分野は、その道を辿った人たちが後から発見し、開発することの出来る余地と観ることも出来る。獣道を拓くだけでも充分にエネルギーを使うのだから、後からやって来る人間たちにその完成度や質に於て優位に立つことはむづかしい。されど、彼は何よりも初めて道を拓いたのである。真の独創性は、他の創造力を養う。と、云うのは、斯くの如く、獣道が仮に大勢の利便性や興味を掴んだとき、多くの人間をして創造的意欲を起こさしめることになるからなのである。