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ファンタジィ論  作者: 八雲 辰毘古
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五、空想としてのファンタジー

「『空想』には、本質的弱点がある。完成の域への到達がむずかしい、というのがそれである。」

  ──J.R.R.トールキン『妖精物語について』

 まだ見ぬものへの憧れ、異世界や異なる者たちへの飽くことなき探究心、新鮮な感覚への無自覚な欲求……これらは「ファンタジー」とも呼ばれ、考えられる文芸作品の促す独特な魅力であろう。トールキンは言うまでもない、C・S・ルイスや、それ以前、ルイス・キャロルやロード・ダンセイニ、ノヴァーリスなどが幻想文学や物語を書いたとき、彼等の脳裡(のうり)にはこの不可思議なるものへの憧れが強く情熱と成っていたことだろう。さもなくば、西洋箪笥(クローゼット)の向こう側にナルニア王国があるとは書けないし、穴の底でチシャ猫がニタニタ笑っていることも、ペガーナの神々が無邪気に遊ぶことも、青い花が何時(いつ)(まで)も遠くに咲いていることも無かった。

 これらの想像的なモティーフが活き活きと(おも)い出されるとき、私は奇妙に感ずる。それらは実在しない(はず)だが、若しかすると本当に居るかも知れない。……こうした感触をリアリティとも言える。こんなに本当じみた想像の産物は、少なくとも私の心の内側では、活きていると感ぜられるのである。これは実に驚くべきことである。以前にも述べたが、人の見た夢ほどつまらない話題はない。何故ならそれは個人だけの所有物であり、ふつう他者に共有される物ではないからである。だが、現にファンタジー作品の冒険と生活は、私の心に強く影響し、未だに生き残っている。呼べば再び現れてすら呉れるような気もする。

 仮に唯物論者が居たら、こうした心境に対して、「精神異常」だとか「狂気」のレッテルを貼り付けて私を病院送りにしたことだろう。確かにネルヴァルや一部の詩人たちは狂気に陥った。これは恐るべきことである。吾々は時として幻想と幻覚とを間違えることがある。そうしたものに()てて加えて、夢と空想などを混ぜ込んで、十把一絡げに「非現実的」「嘘じみた」「虚妄の」などと云うレッテルを貼り付けて、(あたか)もプラトンが自身の理想国家から詩人を追放したように、これを粗末に扱うこともある。だがプラトン自身がイデアを信じたように、吾々も詩人の物語る虚構を信じることが出来る。成る程、虚構は、目で見て、手で触れて、()めつ(すが)めつすることの出来ない「非現実的」な物ではある。併し、虚構の虚とは、嘘ではない。謙虚の虚なのである。「虚数」と云う概念が数学に与えた恩恵と似たようなものをこそ、吾々はファンタジーの中に見出すことの出来る真実(まこと)なのである。

 閑話休題。果たして問題なのは、この空想なのである。余人がどう考えているのは知らないが、ファンタジーに本質的に必要なのは「遊」の精神である。異世界に遊びに行きたい、知らない物を目の当たりにしたい、……こうした願望は、それ自体が一つの、確固たる目的なのである。それは教訓を得たり、知識を吸収しようなどと云うあざとい目的意識とは一線を画すべきものだ。そこには無邪気さに(あふ)れている。確かに知識も教訓も重きを置くべきだろう。(しか)しサプリメントだけの食事は味気ない。吾々はもっと大胆に、様々な食べ物を口に運ぶべきだ。遊ぶと云うことは、つまり、腹が減ったから食事をするのと同じくらい始原的な、動的な行為なのである。そしてそれは肉体だけではない、心や想像力にもそのような働きがあるのだ。

 そして「遊」を支えるのは、空想である。「(うつ)」を「想」うと書いて空想と読むのだ。「うつ」とは「(うつ)ろ」に為り、そこから「(うつ)ろひ」て、「(うつつ)」に転ずるものである。一見何もしていないようなものでも、そこから何かが精製されているような、そうした源泉に「(くう)」は存在している。そこには少なくとも実、利己的な慾望(よくぼう)を満たす物はない。が、併しそれは虚無ではなく、(ただ)()いている、他者の想像力を受け容れる余裕があることを示す。若し或空想が、書き手の観念に拠って完全に表現され得たと有れば、それは彼自身の夢の「再現」であって、つまり「似せ物」に他ならない。人を以て「(にせ)」と読み、人の為すと書いて「(にせ)」と読むのである。無理に「(うつつ)」と為せば、それは「虚ろ」に転ずる。「移ろひ」易いのだ。本来「空」であるべき空想に人為を籠めると、満員電車のようなものになる。(はげ)しい目的意識を持たない他者の這入(はい)る余地は無い。そうなれば、自由な想像力はファンタジーとして機能出来ない。「遊」には大きく動き回る空間を必要とするのだ。秀れたファンタジーが「遊」を反映していると書くのは、空想とは固定的な物質ではないからこそ、読者の想像力に依って想い出してもらうものだからこそそう書くのである。ゆえに、真のファンタジーは、読者の想像力を或「形」にして還す鋳型の役割を果たすことになる。型に心が籠められたとき、それは(つい)に「形」と為る。「形」にならないものを人は感ずることは出来ないのである。

 こうした「形」を創る努力は並大抵のことではないし、直線を引いたような単純な道程ではあり得ない。ゆえに、そこに到る迄に疲れ果てた人間は、空想(ファンタジー)から気紛れ(ファンシー)に陥る。考えて見て()しい。吾々がファンタジーを望むとき、内心望んでいるのは、竜や天空の城そのものではあるまいか。某大佐のごとき野心が、そうした美しい空想に土足で乗り込み、これを支配したとき、吾々はそれをファンタジーと呼ぶことは出来ないだろう。『浦島太郎』は竜宮城から帰って来るから『浦島太郎』なのである。竜宮城に引き(こも)った漁師の物語は、語るに値しないのである。

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