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ファンタジィ論  作者: 八雲 辰毘古
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三、異世界考察とファンタジーの「逃避」の効用に就て。

空想(ファンタジー)、すなわち別世界(・・・)を創造したり、あるいは眺めたりすることは、妖精の国を知りたいと云う願望の真髄だったのである。」

  ──J.R.R.トールキン『妖精物語について』

 ファンタジーに欠かすべからざると思われているもの、それは異世界だ。ネットに充満する「異世界転生」は言うまでもなく、ことあるごとに、「ファンタジー」と云う形式の物語にはこの異世界の存在がちらほらと見えて来る。これに対するマンネリズムやテンプレートに(つい)ての論議は、前回で(おおむ)(かた)を付けたので、今回は異世界の本質的な問いに言及したい。

 古来人間は未知や異世界と云うものに多くの憧れを抱いて来た。そんなことは『ギルガメシュ叙事詩』などから始まる文学史を(ひも)()かなくても自明なことである。昔から物語は英雄たちの戦いと、異国の地に(おけ)る冒険などを多く語ったものだった。そしてそう云った物語を運ぶのは詩人の役割だった。詩人たちは根無し草だったのである。タンポポの綿毛が風に乗せられて遠国(おんごく)で花開くように、或世界の物語は、他の世界では多くの興味を引き、そこに一旦(いったん)根付く。そしてそこで花が咲いた後に、再び綿毛の風に()らるる(まま)に、(また)旅立って行くのである。その後に花が残るか否かは記憶の問題である。(すぐ)れた物語は他の物語を生み出すように、花にとってその土地が合っていればそこに根付き、そして土地に合わせて変化して行くことだろう。さもなくば枯れて終わるだけだ。

 ところで古代社会に於ては、旅人のような例外者を除いて、「世界」とは自分たちの住んでいる集落や共同体そのものだった。村から一歩出たら既にそこが異世界なのである。山を一つ越えたところ、(あるい)は山そのものが人智(じんち)を越えた、生活空間とは別に置かれた空間だった。人の知的好奇心が何処(どこ)から()くのかは分からないが、少なくとも人はそうした外の世界を知りたいと思うのは、多かれ少なかれ事実であろう。冷徹(れいてつ)なリアリストたちは「何を云うか。生活空間こそが(すべ)てなのだ。」と云うかも知れないが、生活空間だけで自足するのは、(かすみ)()って活きることと同じくらい難度の高いことのように感ぜられる。人は機械ではない。変化のない日常と云うのはさぞ退屈なものであろう。()しかしたら生活苦や、退屈な日常から逃げ出したくなるかも知れない。そんな「逃避」の作用を、ファンタジーの性質として説いたのは、かの有名なトールキン教授である。

 (しか)し、この言葉を用いるとき、吾々はファンタジーの最も大切な効用を見逃している。トールキンは単に「逃避」と云っただけではない。教授はこの「逃避(escape)」の原義から、現実的な固定観念からの「脱出」と云う意味合いをも引き出してこれを用いたのだ。この効用は、とどのつまり、自分の視野を幻想の域に(まで)拡げることで、更なる知と想像的な体験を()ることに重大な意味を持つと云うことを示している。この強い意志を持つ「逃避」に対して、「内に向かっての逃避」と云う語を用いて現代の弱いファンタジーを指摘したのは荒俣宏氏である。「どうも昨今の『逃避』は苦難の旅というよりはリゾートへの閉じ籠りに近い。異世界の可能性探究というよりは健康ダイエットのような安心志向に動機づけられているのだろうか。」と現代のファンタジーに切実な問いを立てている。だが安心感を求める心理は全世界共通ではないのか。トールキンとて、ファンタジーの三大効用を、「回復」「逃避」「慰み」としている。現実から離れることで、現実を見直す力を「回復」し、嫌なものからの「逃避」をして、ハッピーエンドの「慰み」を得ることで大きな安心感を獲得すると云うのが、雑破(ざっぱ)な流れだ。

 併しながら、私はこの三つの効用を一纏(ひとまと)めにこう呼ぶことにしよう、「遊」の精神、と。ファンタジーの本質は如何(いか)に本格的に遊ぶかと云うことなのだ。これは無機質な日常生活からの「逃避」なのであり、(たの)しむことを前提とした「慰み」なのであり、ガス抜きとしての「回復」の作用の(すべ)てを持ち合わせている。(ただ)し書きを付けるならば、ファンタジーの持つべき本質は、「『本気で』遊ぶ」ことなのである。この「遊び」の持つ喜びの成分や、回復の機能を持たない限りで、ファンタジーは幻想文学と区別することが出来る。そして、昨今のファンタジー作品の変化は、この「遊び」と「異世界」への認識の変化が大きく(かか)わっている。

 先程も述べた通り、古代では、集落や共同体を抜け出たところにこそ「異世界」があった。子供たちは勿論(もちろん)、生活空間の中で遊ぶことが出来るが、それと同時に「異世界」に行くことも立派な遊びだった。そこには常に危険が伴なう。死人が出ることも(まれ)ではあるまい。この泥臭い、必死になる遊びは、あらかじめ教養や教訓を目的としていない。女の子は、将来己れが産むだろう子供の世話するために人形ごっこをするのではないように。併し、その遊びの中で本格的な知識や智慧(ちえ)を身に付けて、子供は大人になって行くのであるし、そうした未知の条件に身を当てることで、「自分」を(はぐく)んで行くのだ。食う寝る遊ぶは子供の為事(しごと)と云った古い言葉はこの真理をズバリと当てているように思われる。

 それが近代以降、特に現代への急激な流れの中で、「遊び場」は土地開発と共に減って行った。今日(こんにち)吾々は『ドラえもん』に見る、自由な「遊び場」をてんで見かけなくなった。有るのはお為ごかしに造られたテーマパーク、カラオケやパチンコ屋である。資本主義経済は遂に「遊び」(まで)商品にしてしまったのだ。そんな中で遊ぶことが()められない人たちは、我慢してお金を払うか、未開発の秘境、若しくは宇宙などの、遠くなった「異世界」に夢を見るしか無くなった。遠く迄行ける体力と知性が有れば良い。だがそんな人間は限られている。ゆえに彼らは一種の英雄に為る。バローズが『火星のプリンセス』で創始した「スペース・オペラ」や、ハワードが『コナン・ザ・バーバリアン』で示した無数の「ヒロイック・ファンタジー」がこれを見事に表している。だが英雄になり損ねたり、なれなくて不満たらたらな人たちは、深夜の道路を、(のぼり)を上げながら(はし)(まわ)ったり、歌舞伎町で盛大な喧嘩(けんか)を始めたりする。そうでもしないと満足出来ないのだ。幾ら「時間」が有ったとしても、遊ぶ「場所」が無ければ不満が起るに決まっている。この頃、遊び場がテンプレートと化していたのだ。

 そこに新しい「遊び場」が現れた。コンピュータである。正確に云えば「ゲーム」と「インターネット」である。テンプレートに飽き飽きしていた人々がこの新しい遊び場に喰いつかぬ(はず)はない。前者はお手軽な「遊び」として、後者は新しい「異世界」として受け止められた。インターネット時代を支えた開拓精神は、ウィリアム・ギブスンが『ニューロマンサー』などで描いた熱い夢(ニューロマン)であったのだ。これがIT化とスマートフォンの普及に因り、「生活空間」と「異世界」が分けにくくなってしまう。両者は(ほとん)融合(ゆうごう)してしまったのだ。(かつ)て、「()って(かえ)」る(はず)の異世界物語が、異世界への土着、果てには「異世界転生」へと変貌(へんぼう)するのはこの為かと考えられる。「異世界転生」の主人公たちが最初から元の世界に還りたいと想わないのは、抑々(そもそも)そこを「異世界」だと思っていないからだ。そこを現実だと()っているからだ。現実から現実に還ることは出来ない。それはただ同じところを彷徨(うろつ)いたに過ぎない。そして内と外、(はれ)()の区別を無くした異世界物語はもはや「異世界」の物語ではない。荒俣宏氏の云う「内に向かっての逃避」はここに始まるのである。

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