二、ネットで論議される「テンプレート」に就て。
「(……)わたしたち詩人の多くは、正しさのうわべだけを見て、それに欺かれる。努めて簡潔さを求めると、曖昧になる。洗練を狙うと、力強さと気迫が失われる。荘重さを表に掲げると、誇張におちいる。あまりに用心深く嵐を恐れる者は、地面を這うほかない。驚くべき趣向を凝らして一つの題材に変化をつけようと望む者は、森に海豚を、海に猪を配して描く。だが、もし技術を欠いているならば、あやまちを避けようとすることがかえって過失につながることもある。」
――ホラティウス『詩論』
ネット・ファンタジー……飯田一史氏などに拠って多少の陽の目を見たこの物語の一形式は、併し、肝腎のネット読者たちの反撥をも招いている。所謂「類型化」の問題だ。
「名作に随って物語を書くのは容易い。」
不信感を抱くものは「テンプレート」と呼ばれる語を用いて盛んに非難するが、抑々名作を完全模倣することは、素材も着想もない儘に物語を綴ることと同じくらい至難の業とも云える。種が無ければ花は咲かぬし、花が咲かねば種は生まれない。或作品の個性は、他の個性を能く育む力を持つわけであり、影響を受けたと云う面に於て、これらを非難する理窟は全く無意味だと言わざるを得ない。寧ろ他作品の影響を全く受けずに書いたと云う作品の方が胡散臭くて読む気がしない。
このとき吾々はもうひとつの言葉を思い付く。マンネリズムである。或作品のパターンを借りたは好いものの、そこに斬新な想像力を組み込むことが出来なかったと云う点で、多くの作品が失敗していると考えるのも又一つの見方であろう。これは一見正しい。が、取り扱っている問題が違うので別に置いておく必要がある。思へらく、「テンプレート」と「マンネリズム」は混合こそすれども、別の問題なのである。
繰り返しになるが、作品に個性がないと云うのは奇妙だ。吾々は姓名から体格、身体的特徴から趣味嗜好に到る迄、とことん似ている二者を探し当てるだけでも易からぬことなのだから。成る程、或人間は生まれてから死ぬ迄に、様々な可能性を手にするだろう。だが彼はその中から一つしか択べない。可能性を夢見ることは容易だろうが、事実は一つしかあり得ない。花の咲く理窟を考え、解釈が変わるのは能くあることだが、どんな解釈を施したところで、現に花が咲いていると云う事実を捻じ曲げることは出来ないのである。ならば、この変えようのない事実そのものが、個性と云うべきではあるまいか。彼は持って生まれた天賦の才、想像力を遣うことで文章と云う「形」を創り上げる。想像するものは無限だがそれを文に書き起こすときにどうしても一つの言葉にしか表現出来ない。それはどう見たところで一つの事実なのであって、それ以外の何物でもあり得ないのだ。読者が文章を読んで大差ないと云うのであれば、それは読者側の解釈であるに過ぎない。仮令同じ梗概の物語を三人が書いたところで、三者三様の作品になるのは自ずから判るものだろう。カラオケで複数人が同じ曲を歌ってもその声の色彩が違うのと同じだ。これをマンネリズムと呼ぶのは躊躇わければなるまい。マンネリズムの弊害とは新鮮な観点を欠いていることに最も重きを置かれるのだから。
併し「テンプレート」と云う概念は曖昧模糊としている。この概念の齎す具体例は、「VRMMO」「異世界転生」「ハーレム」「チート」「俺TUEEE」などであろう。これらの詳細を述べていても仕方がない。だが、圧倒的多数派として君臨するこれらの「テンプレート」に対する反感が求めることはみな同じものである。それは新鮮で美味しい野菜が店先に売られていないなどと云う苦言ではなく、八百屋に行ったのにキャベツしか売っていないことに対する文句なのである。抑々キャベツしかなかったら料理のしようがないじゃないか、もっと彩はないのか。本当に餓えていれば人はキャベツでもなんでも喰べるだろう、併し余裕が出て来たら変化が欲しくなる。売れ筋なんて知ったことじゃない、と云うわけなのである。
ここで初めて読者の嗜好が問題になる。好き嫌いを解決する方法は知らないが、好き嫌いでとやかく騒がれることを解消することなら出来る。選択肢を多く用意すること、嫌味な言い方をすれば様々な逃げ道を用意することだ。万人が同じく好きなものなぞ存在しない。況してや万人をして一つのものごとを好かしめることは出来ない。吾々はものごとが「好き」であることと「面白い」と思うことを分けなければならないのだ。「好き」と云うのはえらく個人的な理窟なのに対して、「面白い」と思うのは普遍的な感情なのである。例えば、或人間がピーマンを嫌いだと思っているのと、ピーマンそれ自体を喰べて美味しいと思うことは全くの別問題なのである。そして、彼が肉類を好きだから喰べて美味しいと思うのではない。彼は肉類が美味しいと思うから好きなのだ。要は同じだ。「テンプレート」で物語を書いた人は、自分が「好き」だから相手も「好き」になって呉れるだろう、と思い違うのである。好きこそ物の上手なれと云う諺が功を奏して呉れれば、少なくともその時点では作者は倖せである。だが、自分の「好き」と他人の「好き」は異なることが多い。随って、このような作者が成功するとき、彼の「好き」とその他多くの人間の「好き」が 偶々一致しただけに過ぎない。数さえ取れればランキングでも商業的にも上手く行くだろう。併しそれが「面白い」とは限らない。テンプレートを廻る議論や作品の持つ大きな弊害はここにあると言っていい。
そして、それにマンネリズムが加わるともはや致命的なのである。マンネリズムの問題は、要は創意工夫の欠如なのである。キャベツしか無くても工夫で如何様にも出来るものを、やって見せるか、しないかと云う部分で問題があるのである。ときには失敗することもあるだろう。だが工夫が巧く行き、マンネリズムを克服して得られるものは、謂わば「美味しさ」である。併し幾ら一つの料理品が美味しく出来ようとも、その他の炊事が出来なければその作者は優秀なテンプレート作家とならざるを得ないのであり、換言すれば好事家たちを喜ばせるだけに終始する。
では今回最大の問題に這入ろう。肝腎要の「面白さ」は何処に表れるのか。思うに、「面白さ」とは新鮮さを何よりも求めらるるのではないか。鮮やかに映された新しいものから、驚異を覚えたり、納得と喜びの感情が生まれたりすることで、「面白い」と思えるようになると考えられるのだ。つまり、吾々が求めている新しさと云うのは、意外の意を突かれることにある。決して奇を衒うことではない。林檎の木に可愛らしい白い花を咲くを看たとき、吾々は驚きと感歎の声を上げるが、林檎の木から茄子が生えることは素より望んでいないのである。後者で悦ぶのは、それこそ書いて字の如く、好き者だけなのだ。