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ファンタジィ論  作者: 八雲 辰毘古
2/11

一、「ファンタジー」と云うこと。その言葉の持つ語弊の問題。

 「ファンタジー」と云う名の形式を持つ物語を論ずるとき、吾々はその内容の豊富過ぎる多様性に翻弄(ほんろう)される。この歴史を敷衍(ふえん)して考えて()ても、具体的にどこからがファンタジーなのかどうかと云うところがイマイチ判然しない。

 これは当然のことである。古来「ファンタジー」とは批評家たちがリアリズムの論理の手に負えないからこそ付けた名前だからであり、()わば「非現実的なもの」=「ファンタジー」と云う等式が暗黙に示されているからである。現実が唯一、目の前に君臨し、変化しないものだと考えるのならば、「非現実的なもの」と云うのは一人一人から観ても違う、変わり続けるもの、と云うことになる。固体は定規では測れる。(しか)し水や気体をどうして定規で測ることが出来よう? ところが、吾々は水を容器に()れることで、それを計ることが出来るし、水の中に空気を入れることで可視化出来る。方法を変えれば良いだけだ。ファンタジーを探るのに、魔法も科学も決して必要ではない。

 近年はファンタジーと呼ばれる作品が多く散見された。だがこれは大きな語弊(ごへい)(はら)んでいる。吾々はファンタジーに魅せられたのではない。「ファンタジー」と呼ばれる物語に魅せられたのだ。だいたい、他人の夢想や空理空論を()くほどつまらないものはないのである。にも(かかわ)らず、現在に(おい)て「ファンタジー」と云うジャンルの毛皮を被ったものを喜ぶのであれば、それは他人の根も葉もない空想を支える情熱に当てられたのである。「世に()る人のありさまの、 見るにも()かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節ぶしを、心に()めがたくて、言ひおき始めたる」ものこそが物語なのだ。ここに秘められた情熱はすぐさま赤の他人にも(うつ)る。人は情緒(じょうちょ)が熱せられたときに、想像力が温泉のように()き上がるのを感ずる。大地の奥深くから()み出されたエネルギーは、人に(いや)しや恢復(かいふく)などの効用を与えて()れる。それに対して人が出来るのはそこに施設を建てたり、人が浴びやすいように温度調整をしたり、希釈(きしゃく)したりすることばかりなのである。

 (すぐ)れた物語はそれ自体が一つの事件なのであり、人はその事件をしきりに語りたがるようになる。そこに想像力を働かせた解釈や枝葉が付いて、一つの真実(まこと)を照らし出す。同じことだ。ファンタジーに空想的なモティーフが多いのは、その方が(もっと)もらしいからに過ぎない。そこに理窟(りくつ)は全く必要ではない。人は理窟ではなく感情で信じるのである。これこれの理窟があるから竜を信ずるのではなく、竜が居るかも知れないと信じるから確固たる論理性が導かれるのである。これを逆にしてはいけない。ファンタジーへの想いを抱く人間たちは、詩人の想いにも似て、尤もらしい「形」を、誰にも負けない敬虔(けいけん)さで信じているのだ。そしてそこに新しい言葉を、論理を配置することで、世界を(ひろ)げて行ったのである。彼らの熱意は常に未知の、異なるものを目指していたのだ。これはファンタジーだけではなく、(あら)ゆる本質的な物語の通奏低音として君臨するものなのである。さもなくば、吾々はディケンズやドストエフスキーのような人を世界の文学者に迎え入れることはなかったろうに。

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