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ファンタジィ論  作者: 八雲 辰毘古
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序文

 所詮作り事に過ぎないものが、どうしてこうも面白くあり、且つ同時に面白くないのか、それがわからないのです。……

 多くの読者が本を読み、判断するよんどころと()るのは単純明快なことである。つまり、面白いか(いな)かのひと言に尽きる。面白いと思ったら読む。そうでなかったら読まぬ。(ただ)それだけなのである。論理や理窟(りくつ)はおまけに過ぎない。人は面白いとさえ思えば、如何(いか)なるジャンルの垣根も飛び越えて、知的探求を試みることが出来る。

 だが、形の無いものを人間は()ることは出来ぬ。ゆえに本を一つ読むときでさえ、そこにジャンルと()う外部形式を与えることで判別する。そこにあるのは期待だ。これこれと云う作品が面白かった。このような作品があるジャンルには可能性がある。ならば同じ枠組からもっと面白いものが出るかも知れぬ。……と、まあこんな工合(ぐあい)であろう。

 ジャンルを与えられた事物には数限りが無いものだが、今回は敢えて一つを選択する。それは「ファンタジー」である。この言葉がいつ何処でどうやって生まれたのかと云うことは判然しないのであるが、そんなことを知らなくても人はこの語を用い、そして積極的に(えら)ぶ。問題は、ない。面白ければ良いではないか。

 (ただ)、それでは批評の存在理由は(うしな)われる。詩を書くから詩人と云うのだし、小説を書くから小説家と云うのである。(しか)し、批評を書くからと云って批評家になるとは限らない。例えば、(ある)人が文芸作品に関する批評を書くとする。その作品はその人自身の持つ嗜好(しこう)や定規をもとにしてその優劣や是非を()めらるるところと()る。だがそれだけである。その批評はそれ以上の力を持たない。他の人が同じように批評をすれば、違う批評が表れるだけだ。そこにあるのは批評ではなく我儘(わがまま)な解釈である。解釈だけでは人は動かない。如何に理に(かな)っていても、感情が納得しない限りで無意味なのだ。恰度(ちょうど)、馬を水場に連れて行くことは出来ても、馬に水を飲ませることが出来ないように。人が真に()えや渇きを感じないところに、解釈だけの批評を載せたところで意味がない。

 だが私は今でも小林秀雄の批評や、寺田寅彦(とらひこ)、清少納言や韓愈(かんゆ)などの文章を読んで感銘を受けることがある。これは、私が()えていると言われれば反論は出来ないが、彼ら彼女らの縦横無尽な知の遊撃(ゆうげき)情緒(じょうちょ)が、私の自覚せぬところの(かわ)きを触発するからでもある。それらの感銘のよんどころは文体や知識と云った表面的な次元ではない。その根源に共通する情熱であろう。人が真に納得するのはこの感情が納得させられたときだけなのである。感情が納得するだけの情熱とは、個人の好き嫌いのことではない、そのより深い場所に存するものだ。(すぐ)れた文章は、豊満な情緒を養分として育まるるように出来ているに相違(そうい)ないのである。

 ならば夢幻や空想をモティーフに取るファンタジーは、この豊満な情緒を何よりも(ほっ)するものではないだろうか。真に秀れた作品は、この情熱に言葉が(ただ)(したが)うのである。私が批評で狙うのはこの情熱そのものだ。文体や物語を巻き込んで君臨する情緒そのものを標的にして批評を書くのである。そしてその情緒に随った物語と云う「形」に(つい)て論ずるのである。本論はそのようにして進められて行くことになるだろう。


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