第10話
レイフォードとの話し合いが終わり、シアは入って来た時と同様に部屋を出た。すぐに私室に戻る気になれず、また庭をゆっくりと散策する。
今シアの歩いている辺りは、足元に灌木が植えられ、その向こうに若木が青々と茂っている。木々には小鳥が止まって囀りあっており、鬱蒼とした暗い感じはない。緑ばかりの面白みのない木立ではあるが、いつも見るのは色とりどりの花ばかりで、逆に新鮮で心をひかれた。
飽きもせず木々や小動物を観察していると、シアは木立へと入る小道を見つける。
シアはシュリを連れ立って、興味が引かれるままに足を踏み入れた。
歩いてみると、道はしっかりと舗装され、日の光も差し込んでいて歩きやすい。だが、道は奥まで続いていて、どこまで続いているかは見通せない。
道なりに進んでいると、遠くで声が聞こえた。
微かにしか聞こえず、精々人の声、しかも男の者だとしかわからない。当然、何を言っているかまでは聞きとれもしない。
周囲を見回しても人影が見えず、遠くから聞こえてきているようだ。
気にはなったものの、とりあえず道なりに進むことにした。
さらに少し進むと、楕円形の広場に出る。いや、広場というには小さく、長い所でも10歩ほどの広さしかない。
そして、そこには見知った姿があった。
向こうは既に気付いていたらしく、その金の瞳がじっとシアを見つめていた。広場の入り口で立ち止り、シアは優雅に挨拶をする。
「こんな所でお会いできるなんて奇遇ですわ。ごきげんよう、陛下」
ライオネルは装飾の少ない動きやすそうな服に、腰には剣を佩いていた。
いつも隙なく衣装を着こなしているライオネルには珍しいほど軽装だった。夫の見慣れない格好に、シアは上から下までじっくりと見回す。
「鍛練からのお戻りでしょうか? お疲れ様です」
先程の声は、おそらく軍の修練場から聞こえたものだ。思い返せばあれは、かけ声だったのだと今ならわかる。鋭い号令に、それに応える部下の声。遠くても聞こえるはずだ。
この広場には3本の道が延びている。その1つが鍛練上への道なのだろう。道の先から、先ほどと同じように声が聞こえている。
ライオネルはシアの言葉に肯定を返す。そして、なぜここにいるのかを問うた。
「食事の後の散歩をしておりました。気の向くままに庭を歩いている内に、この小道を見つけました。こうした華美でない自然のままのような場所は好きです。とても落ち着きますもの。――陛下もそうでしょう?」
「そうだな、ここは気が休まる」
「もしかして、お邪魔いたしましたか?」
「いや、かまわん」
ライオネルに近づき、常より穏やかなその顔を見上げる。鍛練後だからだろう、額に薄らと汗がにじんでいる。
シアは懐のハンカチの存在を思い出して、差し出した。
使うかと尋ねても、ライオネルは動かない。しばし逡巡してハンカチを見つめ、手に取る様子がない。
「きちんと洗ってある清潔なものです。……いえ、差し出がましい真似を」
「いや、借りよう」
引っ込めようとした手を制し、シアの手からハンカチを取る。
白い絹布に金糸で装飾が施されたハンカチは、シンプルで男の持ち物としてもおかしくはない。何より、獅子の刺繍がライオネルによく似合っている。
「お返しいただかなくて、結構です。元より陛下のためにと作ったものですから。不用でしたら、売るなり誰かにあげるなり、屑籠に仕舞うなりしてくださってかまいませんわ」
「屑籠に仕舞うとは言わんだろう」
「婉曲的表現です。仕舞ったはずなのにうっかり捨てられてしまったと言えば、角が立ちませんもの」
ライオネルは呆れたような表情を浮かべる。その様子にシアはより一層笑みを深めた。
折をみて贈ろうとは考えていたが、中々によい巡り合わせで渡すことができたと思う。朝に何となしに手に取り、そのまま持ち歩いていたのが幸いした。
シアは汗を拭うライオネルを機嫌よく見つめていた。そんなシアの様子を、ライオネルは横目で見やる。
「なぜ俺に?」
「公国では一般的な風習です。婚礼衣装と同じ布地に、手ずから刺繍を施したものを夫に送ると、幸せになれる。身につけるものや常に持ち歩けるものなら尚良し、だそうですよ」
「自分で縫ったのか」
「ええ、もちろん」
ライオネルは感心したように手の中にあるハンカチを見つめる。
刺繍は裕福な子女の推奨される趣味の1つだが、絹を売りにしている公国では他国よりも尊ばれる。姫たるシアも、幼いころから様々な技法を学ばされてきた。ゆえに客観的に見てもシアの技量は並み程度ではない。
「器用だな」
「ふふ、ありがとうございます」
会話が途切れれば、木々の囁きや小鳥の囀りが耳に入る。こうして外にいると、沈黙も苦ではない。自然の音に耳を傾ければ、穏やかな気持ちになれる。
いまここには、シアとライオネル、そして少し離れた所にシュリが控えているだけだった。
王と王妃ともなれば何人もの侍女や侍従を傍に置くため、ほぼ2人きりの状況は滅多にない。だからこそ、この状況をシアは目一杯堪能していた。
不意に、鳥の羽ばたきが耳についた。
1羽が飛び立ったのではなく、複数の鳥が不穏を掻き立てるような耳障りな羽音を立てて空に舞い上がる。空を見上げれば、鳥の群れが影を落としていた。
視界の端で、何かが動く。
それに気が付いた時、シアは強く腕を引かれた。倒れないためにも、引かれるままに後ろへ下がる。
慌ただしく動く景色の中で、白刃が舞い。何かが地に落ちた。