新月の夜に
三日間に渡って行われた文化祭も、この後夜祭をもって幕を閉じる。教師たちが厳しく目を光らせている中、アルコールだけは絶対に禁止だったが、その他の大概のことは、許された。浴衣を着ていようが、着ぐるみを着ていようが、咎められることはなく、生徒なのか部外者なのかさえ、曖昧になる開放的な時間。秋の夜は途端に訪れ、グラウンドの真ん中に作られたキャンプファイアに火が灯されると、弾けて舞い上がる火の粉が幻想的な空間を生み出した。
ふと見上げると、月が、ない。今日は、新月なのだ。
「俊、何処行くんだよ?これから、いいとこなのに」
立ち上がった俊を、竜志が呼び止めた。今から各クラスの女子たちが、ダンスを披露することになっている。俊は、すぐ戻ってくる、と言って、走り出した。
キャンプファイアの火も、校舎に囲まれたこの場所までは届かない。壁の小さな明かりだけが中庭を照らしていた。
「やっぱり、」
噴水の水が止まっている。あの芝居は、作り話なんかじゃない、そう確信した俊は、噴水に近づいて行った。微かな明かりで、辛うじて、天使の足元が見えている。普段は天使の像の台座から跳ね上がるようにして流れ出る水が、その足元を隠していて、どうなっているのか知らなかったが、噴水のフチに立ち上がって、さらに背伸びをすると、左足の小指に、何かが光っている。……指輪?もう少し、背が高ければ、見えるのに。俊は自分の身長を呪った。確かめたくても、これ以上は近づけない。噴水の水の中を歩いて台座によじ登れば、見えると解っていたが、俊は思いとどまった。……夏は、侵入者を深く引きずり込む闇に。冬は、触れただけで凍り付く罠に。秋は、どうなるのだろう。鏡の水面を覗き込んでも、それはただの水にしか見えなくて、俊は恐る恐る、手を伸ばした。
「俊、」
沙輝の声。
「今日は、新月だよ。その水に、触れてはダメ」
声はするけれど、姿が見えない。俊は必死に、目を凝らした。
「沙輝?何処にいるの?」
「ずっと、君の側に、」
鳥の羽ばたく音がして、見上げると、天使の肩にとまった小鳥が、舞い上がったかのように見えた。が、闇に慣れてきた視界に、いつも通りに静止しているようにも見える。ハッキリ確かめるために、渡り廊下まで行きたいけれど、その間にまた動くかも知れない。そう思って、瞬きもせずジッと見つめていると、やがて後ろで足音が聞こえ、振り返ったそこにいたのは、沙輝だった。
「何処にもいないから、探したよ」
まるで、今、ここに来たばかりのような口調。俊が何も言えずに見つめていると、
「どうしたの?一人でこんなところにいて、寂しくない?」
本当に何事もなかったかのように、そう尋ねる。
「……沙輝、今、来たの?」
到底信じられなかったが、彼は、少しの間もなく、頷いた。たった今、交わしたばかりの会話が、夢?そんな馬鹿な。
「グラウンドのキャンプファイア、綺麗だよ。一緒に見に行こうよ」
誘われたが、俊は首を横に振る。
「噴水の水が、止まってるんだ。文化祭なのに……どうしてだろう、」
本当に尋ねたいことは、口には出来なかった。きっと沙輝は、伝説の真実を知っている。そして俊も、気付いていることがある。それは、前に噴水が止まっていたときも、側に沙輝がいたということ。まるで俊をその罠から、守るかのように。
いつまでも黙ったままの沙輝をジッと見つめていると、彼は、手を伸ばして、その水面に、触れようとした。
「ダメ!さっき、自分でそう言ったでしょ、」
俊は慌てて、沙輝の腕を掴んだ。沙輝は、その静まり返った水面を見つめていたが、やがて小さく息を吐き出し、
「あの時、僕は、止められなかった」
「……、」
「でも、今、やっと解った。どうすれば、彼を止められたのか」
沙輝は真剣な眼差しを、俊に向ける。
「僕が、先に、飛び込めば良かったんだ。そうすれば、それが罠だって、すぐに解ったはずだから、」
それが何のことを言っているのか、俊には解った。すぐに、冗談だよ、と、笑ってくれることを、祈っていた。しかし、どれだけ待っても、その言葉は、聞こえなかった。
「春の新月の夜に、湖に入ると、命と引き換えに、どんな願いも、叶う。秋の新月の夜に、湖に入ると、……全ての記憶を、無くしてしまうんだよ」
俊はただ、頷いた。そして、
「解った。もう、絶対、新月の夜には、近づかないから」
そう言わなければならない気がした。沙輝はようやく、笑顔を取り戻し、ありがとう、と、涙を零した。




