不思議な朝
何より好きな昼寝にも飽きてきた頃。あまりに寝てばかりいるせいで、朝、まだ陽が昇る前に目が覚めてしまい、時計を見た俊は、小さく溜め息をついた。午前四時。開け放った窓の外で、うっすらと、空に色が戻り始めている。俊は思い切って起き出し、着替えてコッソリ、外に出た。夜明け前の街に、まだ人の気配はなく、時間が止まっているかのようだ。行き先を決めていた俊は、そのまま薄暗い通りを歩いて、駅へと向かった。
始発が何時なのかは解らないが、列車は既に動き始めていた。滑り込むように、閉まるドアを擦り抜けて、ガランとした車両に乗り込む。飽和状態しか知らなかった俊は、わざと横に長いシートの真ん中に、座った。間もなく数人の乗客を乗せた箱が動き出し、車掌の挨拶が聞こえる。窓からの景色を新鮮な気分で眺めながら、その特徴的な抑揚のアナウンスを聞いていた。
いつもの街並みが、見慣れぬ景色に見えるのは、気のせいだろうか。もしかしたら、街は夜、全くその姿を変えていて、夜明けが近づくと、元の姿を取り戻すのではないのか。今は丁度、その狭間。普段は見えないものが、見えているのかも知れない。そんなことを考えてしまうほど、神秘的な空気が街を包んでいる。まだ半年も経っていないのに、既に退屈なものになってしまった通学路も、初めて見る景色のように、新鮮に映った。
しっとりとした朝靄の中を歩き、高校に辿り着くと、大袈裟なほど頑丈な金属製の門が、開いていた。部外者が入れないようにと、施錠しているはずだったが、教師たちも意外にいい加減なのかも知れない。俊は難なく、背丈の倍ほどもある校門をくぐって、迷わずに中庭へと向かった。しかし、中庭が近づくにつれ、聞こえてくるはずの水音が聞こえない。夏休みの間は、噴水を止めているのだろうか。
噴水の周りは魔法陣のように白いタイルが敷き詰められ、さらにその周囲は色とりどりの薔薇が植えられて、そこだけ見ていれば、欧風の庭園の一角のようだった。晴れた日には、太陽光が白い床で反射して、まるで光のベールに包まれているかのように見える場所。今はそのベールを脱いで、ハッキリと、天使の像が見える。俊は、静けさに満ちた、白い空間を、歩いた。
鳥の声も、まだ聞こえない。ようやく明るくなってきた空の色が、中庭に面した校舎の窓に映っていた。俊は、白いタイルの上に散った、薔薇の花弁を集めていたが、ふと気になって、動きの止まった噴水の、鏡と化した水面を覗き込んでみる。知らない人の顔が映るかもしれない、と思ったが、そこには見慣れた自分の顔が映った。幾分、ガッカリして、手にしていた花弁を、映った自分の唇に載せてみる。そこから広がる波紋。……あの時の白い羽根は、どこにあるのだろう。そんなことを思って、俊はハッとした。あの時も、噴水は、止まっていた。
靴音が聞こえて、顔を上げると、噴水の向こう側に、制服を着た沙輝の姿があった。いつの間に……?驚いて声も出せずにいると、沙輝はジッと、俊の瞳を、見つめる。いつもの笑顔はどこへ行ったのか、無表情なのが気になったが、それが余計に、彼の美しさを際立たせた。
「……沙輝、どうしたの?」
明らかに、いつもと様子が違う。いくら待っても、返事がなく、
「ねえ、何か、変だよ。何かあったの?」
自分も人のことは言えないが、こんな時間に、こんな場所にいるなんて。休日に制服というのも、不自然な気がする。それでも答えない沙輝に、さすがに不安になってきた時、彼はさっき、俊がしたように、水面に薔薇の花弁を落とした。鏡の表面が揺れて、同心円を描いてゆく。その揺らぎは、俊の記憶の、最も深いところを刺激した。が、ハッキリとした形のあるものを見つけることは出来ず、代わりに、ずっと心の中に仕舞っていた言葉を、取り出してみた。
「沙輝って、ホントは、天使なの?」
「……、」
「この天使の像は、沙輝なの?」
その瞬間、強い風が巻き起こり、薔薇の花弁が噴水を覆うように舞い上がる。思わず目を閉じ、再び開けると、そこに沙輝の姿はもう、なかった。
「沙輝!」
俊の声が、中庭にこだまする。風は一瞬にして何処かへ消え、その名残も残っていなかった。辺りの木々も薔薇も、何事もなかったかのように、静かにそこに立ち、細い枝の一つも、揺れていない。ただ、止まっていた噴水の水面に、細波が立っていて、たった今、動き出したようだ。あちこちから、鳥の鳴き声が聞こえる。
「……沙輝、」
俊はもう一度、その名を呟いて、呆然と、そこに立ち尽くした。




