帰りたくないよ
夕日が川面に煌めいていた。
眼前に見える手のひらに、その橙色が照り付けて不吉な色彩をつくっている。これは誰の手だろうと考えて、俺はすぐにそれが自分自身のものであることに気付いた。紅葉の葉のように頼りなく小さな手のひら。そうか、俺は今、年端もいかない子どもなのだ。
俺は川べりに立っていた。見覚えがあるような、ないような、けれどもどこか懐かしい感じのするこじんまりとした川。風が吹くと、川岸の沼地に群生する薄の葉がざあざあと大げさな音を立てて揺れる。たぶん、今は夏なんだろう。まだ穂をつけていない薄を見て、俺はぼんやり思う。
ふと火薬の匂いを感じて、顔をあげると飛行機雲のような細長い煙が地上から空へ向かって伸びているのが見えた。ああ、あれは花火だ。煙が少しだけ弧を描いているから、おそらくロケット花火。そう思っている最中に、ひゅるるるるという音をたてて俺のすぐ傍らからまた一つ花火が飛び立っていく。風に煽られて揺れながら、それでも一筋の真っ直ぐな線を描いて。
つまんない。もう無くなっちゃった。
誰かが言った。声の方向を向くと、どうやら花火に着火した本人らしい幼い少女が、俺を見て本当につまらなそうな顔をしている。彼女が深々と真紅のニット帽をかぶっているのを見て、俺は今は夏ではなかったのだろうかと不思議に思った。あるいは、もしかしたら真冬なのかもしれない。真冬の花火というのも少しおかしな気がするけど。
ねえ、もう帰ろうよ。俺は少女に言った。両手で服の腹の辺りをぎゅっと握り締めているから、おそらく俺は心細いのだろう。不安な時に思わずやってしまう、幼い俺には確かそんな癖があったのだ。
少女はつまらなそうというよりむしろ今や不機嫌そうな表情をして、無言で力強く首を振った。怒られるよ、と俺はか細い声で彼女に言う。しかし少女はさらに顔を歪めて、それから、気付けばぽろぽろと涙を流し始めた。
帰りたくない。帰りたくないよ。
少女は言う。そして彼女は涙を隠そうとでもするみたいに、俺に抱きついて肩に顔をうずめてきた。帰りたくないよ、帰りたくないよ。まるで呪文のようにそう繰り返す少女に、俺は彼女の名前を呼びながら、何とか落ち着かせようと背中をぽんぽんと叩く。そういえば、彼女の名前、なんだったろう。自分の口から確かにその名が発せられたはずなのに、なぜかその声が俺には聞こえない。
俺になだめすかされて、ようやく泣きやんだ彼女は、やがて顔を上げ俺を見て言った。
二人で遠くに行こうよ。遠くて楽しいところ。
それから、彼女は俺の名前を口にする。そのくちびるは『ゆーくん』と動いたようにも、また別の形に動いたようにも見えた。彼女の声も、俺のそれと同じようによく聞こえない。急に遠ざかる音声に、俺はこの夢が終わろうとしていることに気付いた。
そう、これは夢。
夢から醒めた時、いつでも俺はその内容をすっかり忘れてしまっている。
顔にかかる朝日に、いつもと同じ朝がやってきたことに気付く頃。俺はもう彼女の事をけして思い出せなくなっているのだ、けして。
けして。