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きみは天使  作者: 奥汰由乃
【1】 好きな人に
8/11

7 ◆ 世界を、終わらせないで

 一体、どこへ行くつもりなのだろう。


 先だって歩く有栖川は、教室を出てからずっと無言だ。俺も、何を喋っていいのかわからないから黙っている。

 話しかけたい、話しかけなければいけないと思いつめていたら、まるでタイミングを見計らったかのように彼女から声をかけられた。今までほとんど会話をしたこともない、遠い遠い存在だった、クラス中、いや学校中の憧れの人に。それも、まるで何か重大事を打ち明けようとでもいうかのように緊張した表情で。

 いくら相手があの有栖川真梨花と解っていたって、さすがにこのようなシチュエーションに直面すれば思わず浮ついた想像をしてしまう。告白、この二文字しか今の俺の頭には浮かんでこない。

 しかし、予想に反して舞い上がるような喜びなど全く感じなかった。あまりに想定外の事態に、頭が現実を上手く理解してくれていないのである。さらに、もしかして昨日の覗きがばれていて今から職員室へ連れて行かれ教師のもとに突き出されるのでは、などといったマイナスの考えも同時にちらちらと顔を覗かせて、俺の気分をいっそう混乱させている。

 俺たちのクラス、二年B組のある二階の廊下を有栖川はまっすぐに進む。放課後とはいえ、終礼が終わったばかりの時間なのでまだ教室に残っている生徒がいてもおかしくないはずなのに、なぜか学校中がしんと静まり返っていた。

 もしかしたら、緊張のあまり俺の聴覚が少しおかしくなっているのかもしれない。有栖川の靴のゴム底がリノリウム張りの床をきゅ、と優しくこする音だけが、俺の耳には妙に大きく聞こえる。


 ―――バサバサバサッ。


 その時。ふと一つ、別の音が響いた。

 窓の外、何かとても大きい、鷲か鷹のような。いや、それすら超える大きさの鳥のような『何か』が、大きな羽音を響かせて横切っていった。思わず俺は立ち止まる。有栖川も足を止めた。

「今、何か……」

 俺は言う。今、何か窓の外を横切ったよね。そんなふうに聞こうとして。

 有栖川は俺が終わりまで言う前に、ゆっくりとこちらを振り向いた。相変わらず緊張した表情をした彼女は、どきりとするような鋭い眼差しで俺を見つめ、何か話そうというのか少しくちびるを開く。彼女のその視線の強さに、俺は無意識に小さく息を飲んだ。

 しかし次の瞬間、彼女は俺の背後にすばやく目線をうつし、くちびるをその形のままにして何かを凝視し固まってしまった。まるで幽霊でも見たかのように青ざめた顔色をした彼女に、俺は思わず有栖川さん、と呼びかける。しかし彼女は何も答えない。

 そこでふと、背後から足音が聞こえることに俺は気付いた。有栖川の優しい足音とは違う、床を確かに踏みつける力強い音。

 俺は振り返ろうとした。しかしそれより先に、なぜか有栖川が俺に向かって飛びかかるように走ってくるのに気付いて動けなくなる。有栖川は迷いのない動きで俺に体当たりをし、よろけて尻餅をついた俺に背中を見せて立ちはだかった。先ほど聞こえた足音の主の姿を俺から隠そうとするかのように、あるいはそれから俺を守ろうとでもするかのように。

「周防くん、そこを動かないで!」

 有栖川が叫ぶ。その声が耳に届くのと、尖ったものが何かに突き刺さるような柔らかい音が廊下に響いたのがほぼ同時だった。それから、有栖川の体ががくんとくず折れるのも。

 俺は一瞬何が起こったのか理解できず、俺のほうにゆっくり倒れてくる彼女の背中を呆然と見ていた。その胸の辺りに、何かが突き刺さっているのが見える。きらきらとした金色の、それは鳥の羽根のようなものだった。

 何なんだよ、これ。ふわりと長い髪を揺らして俺の胸に飛び込んできた彼女の体を受け止めながら、俺の口からひとりでに声が出る。彼女の白いシャツの胸に確かに突き刺さっているその羽根を抜き取らなければいけないと思うが、途端に手が震えてしまって思うようにならない。

 血は出ていないし、今のところ彼女の身体は温かいから、きっと気を失っているだけだ、大丈夫だ。硬く目を閉じた有栖川の顔を見つめながら、俺はせめて祈るようにそう自分に言い聞かせた。

 カツン、とヒールのある靴が地面を鳴らすような音がした。顔を上げると、先ほど有栖川が凝視していた方向に一人の女性が立っている。

 明るい色の金髪のボブヘアに日焼けしたような色の肌をしている、明らかに外国人のようだった。俺と同じくらいかそれ以上にも見える高身長だが、着ている黒いパンツスーツが確かに女物だとわかる程度に女性らしい体格をしており、思ったとおり足元にはハイヒールを履いている。地方都市にある何の変哲もない公立高校の廊下に彼女が立っていることに強烈な違和感を覚えてしまうくらい整って綺麗な顔つきをしているが、残念ながらその美しさは表情のない彼女の顔の不気味さを助長してしまっているだけのようにも思える。

 現実逃避をするように、俺はぼんやりと、もしかしたらこの人は新任の英語教師なのかもしれないなと思った。しかし片手にダーツの矢をもつように例の金色の羽根を構えているところから考えて、彼女はおそらくそのような穏やかな職業に就いている人間ではないのだろう。

「手間を掛けさせるな、人間」

 金髪美女は言った。驚くべきことに、流暢な日本語を喋っている。いや、『あなた』とか『君』、あるいは百歩譲って『お前』と呼ぶべき初対面の俺を『人間』なんて呼んでしまうあたり、もしかしたら目下勉強中なのかもしれないな、うん。心の中でのん気にそう呟いた俺の手の震えは、もちろん未だにおさまっていない、今のも単なる現実逃避である。

 どこか苛立っているようにも見える無表情でしばらく俺に抱かれる有栖川を見つめていた金髪美女が、視界の端で思い直したかのように羽根をもつ片手をもちあげたのが見えた。おそらくあれをこちらへ投げるつもりなのだろう、有栖川の胸元に突き刺さっているこれと同じものなのだろうあれを。

 あいつが彼女を傷つけたんだ。そうあらためて実感した途端、胸の奥から怒りが込み上げてくる。しかしだからと言って、武器らしいものは何も持たず、徒手空拳で危険人物に立ち向かうような技も身につけていない俺には何をすることもできない。せめて、気絶している有栖川だけは守らなくてはいけないと、俺はただ彼女を抱きしめてその身をかばおうとした。

 そのとき、有栖川の瞼がふ、と開いた。そして同時に彼女は体に刺さった羽根を自らの手ですばやく抜き取る。周防くん、逃げますよ。至近距離にある彼女のくちびるが、そのような形に動くのが見えた。

 有栖川の動きは早かった。彼女は俺の手首を強く掴むと、自分が立ち上がるのと同時に俺を立たせる。有栖川が目覚めたことに気付き、金髪美女は焦ったように羽根をこちらに投げてくるが、しかし狙いを定めきれていなかったのかそれは俺と有栖川の側の床にタン、と小気味良い音をたてて突き刺さった。

 その隙をつくように、有栖川は走り出す。彼女に腕をひかれ、俺もただ無我夢中でその背中を追った。背後で例の羽根が床に突き刺さる音が再びし、さらには何本かが耳元や頬をかすめるように飛んでいくが、けして後ろは振り返らない。

「あ、有栖川さん、怪我は大丈夫なの?」

「大丈夫です、あれに人の身体を傷つけるような効果はありませんから」

 深手を負っていたように見えたのに、そんな様子は素振りも見せずに俊敏に動きまわる彼女に驚き、俺は走りながらたずねる。有栖川はこちらを振り向かずにそう答え、さらに「生徒会室へ行きます」と鋭く呟いた。

 三階にあるその部屋を目指し、後ろから追ってきているもののことはなるべく考えないように努めながら俺は彼女について角を曲がり、階段を駆け上がる。いやに長く感じられる三階の廊下は、階下と同じく不気味に静まり返って、人気が全くない。そうだ、きっとこれは夢で、だから一人も生徒がいないのだ、そうに違いない。相変わらず現実から逃避してそんなことを考えている俺を有栖川はやっとたどり着いた生徒会室に放り込み、そして彼女も中へ入った。

 ばたん、と戸を閉める有栖川。どうやら金髪美女は俺と有栖川がどの部屋に入ったかまではわかっていないようで、あちこちの教室を回って俺たちを探しているような足音が遠くから聞こえる。

 急に全力疾走したので息が切れ、俺は床に座り込んだ。一方有栖川は、あんなに走ったというのになぜか少しも息切れしていない。

 夢なのになぜこんなに息苦しいのか。あいかわらずそんなことを考えながらふと床を見ると、そこに黒い線で何か大きな図形が描かれていることに気付いた。

 大きな円の内側に、円に沿うようにして細かく文字のようなものが書かれ、さらには円の中には入れ子のように一回り小さな円がいくつも描かれていて、それが円を横断する何本もの線とともに美しい幾何学的な模様をつくっている。何だっけ、これ。ああそうだ、魔方陣ってやつ。漫画やゲームなんかで見たことがある。

 なんてぼうっと考えていた矢先だった。突然に、座り込む俺の上に誰かがしだれかかってきた。俺の肩を両手で床に押さえつけ、その誰かは気がつけば俺の腹の辺りに体を乗せている。いわゆる、『馬乗りになる』という状態である。

 そしてあろうことか、その誰かとは言うまでもなく……――

「あ、有栖川さん!?」

「周防くん、じっとして下さい。時間がないんです」

「じ、じっとしろって……あ、ちょ……ちょっと!」 

 想像もしたことがないくらいの至近距離、いや考えて見れば俺はさっき彼女を抱きしめたので想像するどころかすでに一度は経験した距離感だといえなくもないが、ともかく目を合わせることも戸惑うほどの近い距離で有栖川が俺を見つめていた。と思ったら、俺のワイシャツのボタンに素早く手をかけ、何と彼女はてきぱきと上からそれを外しはじめる。しかも、恥らって頬を染めながらというのならまだわかるような気がするが、相変わらず彼女は何かに戦いを挑もうとでもいうかのような表情をしたままである。

「ちょっと待った、俺にも心の準備ってもんが……」

「すぐに終わりますから! 彼女に気付かれます、お願いですから静かにしてください」

「す、すぐ終わるって……」

 ワイシャツを第四ボタンまで外した有栖川は、さらに躊躇なく襟ぐりを掴み、左右に開いて俺の胸元を露出させた。近頃のこの暑さだし下着のTシャツなんて着ているわけがなく、恥ずかしながらワイシャツ一枚剥ぎ取ればそこにあるのは俺の裸の胸である。

 不幸中の幸いとでもいうのか、帰宅部になって以来若干締まりに自信がない腹回りが彼女の目に晒されなかったことだけが唯一の救いかもしれない――などと冷静に考えている自分もまだどこかにいないわけではなかったが、しかし実のところ焦りに焦っていた俺は、気付けば花も恥らう乙女のように両目を固く閉じていた。

 きゅぽん、という聞き覚えのある音が聞こえる。何の音だったろうと考えているうちに、心臓のちょうど上辺りの皮膚を何か細い棒のようなものがくすぐっていくのを感じた。俺は思わず目を開ける。

 俺に馬乗りになっている有栖川が、文具店でよく見かける黒色の油性マジックを手に俺の胸に何かを描いていた。先程と変わらず、くそ真面目な顔をして。

「……何、描いてるんですか」

 そういえば先ほどからなぜか敬語で俺に話しかける彼女につられて、俺も敬語で彼女に尋ねる。手を休めずに、有栖川は答えた。

「天使避けのコードです」

「……テンシヨケのコード?」

「はい、つまり……天使が人に対して行なうあらゆる干渉を、防ぐための抜け道のようなものです。メリイはコードの解析が苦手ですから、これでしばらくは時間を稼げるかと……」

「あの、メリイって……」

「先ほど、私たちを襲った天使の個体識別名です」

「て、天使の……個体識別名?」

 天使って、金髪で青い目の赤ん坊で、背中から白い羽根を生やして、頭上には金色の輪を戴いている、あのかわいらしいやつのことじゃないのか。しかし俺が見たのは、モデルか何かかと勘違いするほどに美しい、しかし氷のように冷たい無表情の浅黒い肌の外国人女性の姿。

 しかも天使の最も大きな特徴であると思われる翼など彼女の背中には見当たらず、かわりになぜか金色の羽根を投げつけられた。正直ちょっと、というかかなり、イメージが違う。

「終わりました」

 有栖川が言い、俺のシャツのボタンを丁寧に元通り留めると、ようやく俺の上から降りた。俺を押し倒したことについては特に恥ずかしさも何も感じていない様子である。

 落ち着き払った所作で彼女はスカートをぱんぱんと払うと、扉のほうに向き直り、何かに集中している様子でそちらをじっと見つめはじめた。あの金髪美女、有栖川が言うところのメリイ、を警戒しているのだろう。

「あの、有栖川さん」

 彼女が降りた後もしばらく呆然としていた俺だったが、ようやく起き上がって彼女に話しかける。

「周防くん、動かないで。念のため、その円から出ないでください」

 途端、有栖川が俺に注意する。どうやら床に描かれた『魔法陣』から出るなということらしい。これも、テンシヨケ、いや天使避けのコードとかいうものなのだろうか。

「あれに襲われたのは、今日で三度目です」

 俺が戸惑っていることを察したのか、なお扉を見つめたまま有栖川が言う。

「え?」

「こんなことを突然お話しても信じていただけないとは思います。これまでは二度ともメリイに阻まれて、あなたの記憶は改変されてしまったから。あなたはアンジェリカの血を汲んでいるけれど、それでも人並みに改変の影響を受けているはずですから」

「ちょ、ちょっと待った」

 先ほどから、半分も内容を理解できない話のオンパレードで俺の頭はどうかなりそうだった。そもそも現在のこの状況自体、俺の理解の範疇をとっくに超えているのだ。

「有栖川さんは、何者なの?」

 聞きたいことは山ほどあったが、やっとそれだけ尋ねる。有栖川真梨花は扉から目をそらし、俺を見て、言った。

「私、実は、つい最近まで天使だったんです」

 窓のない薄暗い生徒会室で、扉の明かり取りから差し込む夏の日差しに後ろから照らされ、逆光の中浮かび上がる有栖川の姿はなんだか、厳かなまでに神々しく見える。

 例えばさっきまでの日常、平和な放課後の教室の中で。そこで突然こんなことを面と向かって言われたのだったら、俺は絶対に信じなかっただろうと思う。けれど今、俺はおそらく生まれてはじめて生命の危機に瀕したと感じられる状況に直面した直後で、その上やたらとオカルトじみた図形の描かれた床の上に座り込んでいて、目の前には真剣な眼差しで俺を見つめる俺の片思いの相手がいて。彼女のその言葉をすんなり信じるために必要な条件が、しっかりと揃ってしまっていた。

「周防くんに、お願いがあります」

 有栖川が、さらに言った。逆光でよく見えないはずなのに、彼女が泣き出しそうに見えるほどに思いつめた表情をしていることが、俺にはなぜかわかる。

「世界を、終わらせないで下さい」

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