6 ◆ 好きと告げる勇気さえ
「ああ、この子この子。この子が最近、よく店に来るんだよ」
そう言って、ばあちゃんはしわくちゃの指でクラス写真に写る有栖川真梨花を指差した。ずらりと並んだ四十人余りのクラスメイトの中、まるで一人だけ淡く発光しているかのようにひと際目立っている有栖川を見つけるのはさして難しいことではなかったようだ。
実家のコンビニに、最近俺の高校の制服を着た『女優さんみたいに綺麗な女の子』がよく来るのだ、とばあちゃんが言うので、まさかと思ってクラス写真を見せたら案の定、それは彼女だったのである。
ほんとうに、目が覚めるような美人でねえ。そうしみじみとばあちゃんは言う。もう優に八十を超えているばあちゃんだが、いい加減年なんだから家で休んでいてください、と説得する父さんの話も聞かずに現在も道楽で一日中コンビニの店番に出ており、そのときに有栖川を見かけたらしかった。
もともと、父さんが脱サラするまでは俺の家はタバコ屋を営んでいて、俺が生まれる遥か以前からばあちゃんは『タバコ屋のばばあ』として毎日店先に出ていたらしい。だからばあちゃんの体にはそういう生活がすっかり染み付いてしまっていて、古くから愛用している赤いパイプ椅子に腰掛けて店番をしていないとどうにも落ち着かないのだと言う。
昭和の匂いのするばあちゃんが、レジ奥の隅に置かれたその椅子に座って接客している様子は清潔で明るい雰囲気のコンビニとはいかにも不釣合いで、なんだか『タバコ屋のばばあ』ならず『コンビニのばばあ』といった迫力がある。
ばあちゃんが店に出るのを父さんが止めるのは、どうやらそのへんのビジュアルの悪さも理由にあるらしい。最近は、年寄りのささやかな楽しみを奪っちゃいけないと思って目をつぶっているみたいだけど。
有栖川が、俺の家(もといコンビニ)によく来ている。ばあちゃんが有栖川を指差した瞬間から、我ながら単純だなと呆れるくらいに俺の胸は高鳴っていた。
ばあちゃんの話によると、有栖川はここ一週間ほぼ毎日、うちのコンビニに姿を現しているのだという。俺の記憶が正しければ、有栖川の家はこの近所ではないはずで、わざわざうちの店を頻繁に利用する理由がよくわからない。
成績優秀な有栖川のことだから、もしかしたら週七で通っている予備校や塾がこの店の近くにあるのかもしれないし、あるいは華道とか茶道といったいかにも彼女らしい稽古事の教室が近所なのかもしれない。たこ焼き屋のバイトに忙しくて、俺自身が店を手伝うことはほとんどないから店先で顔を合わしたことは一度もないし、有栖川がこのコンビニを俺の実家が経営する店だと知っている可能性はおそらくかなり低いだろう。
と、そこまで理解していてもなお、どこかで夢見がちな期待をしてしまっている自分がいることを俺は否定できなかった。もしかしたら、有栖川は俺に会いに来てくれたんじゃないのか、って。あまりにおめでたすぎる考えだと自分でも思うが。
「ちょっと、祐樹。この有栖川さんって子、名前はどんな字を書くんだい?」
ほう、きれいな子は写真写りもいいんだねえ、それに比べてお前の顔はひっどいねえ、なんて失礼なことを言いながらクラス写真を眺めていたばあちゃんが、唐突に言う。占いに詳しいなんて話は聞いたことがないが、もしかして姓名判断でもするつもりなのかと思いながら俺は手近なメモ用紙に彼女の名前を書いた。
「ふうん。梨の花、で真梨花ねえ。なんだか派手な名前だねえ」
「なんだよ、名前がどうかしたわけ?」
「別に、あんたにゃ関係ないよ。それより、祐樹」
にやり、と口の端をもちあげてばあちゃんが言う。こういう表情をするとき、ばあちゃんは大抵ろくなことを言わない。
「あんた、もしかしてこの子に恋してるんじゃないだろうね」
「なっ……」
「やめときな、やめときな。とてもじゃないけどあんたには不釣合いだよ、かわいそうだけどね」
「う、うっせーな、ほっとけよ!」
ここで動揺したら負け。長年の経験からそう知っているはずなのに、情けなく叫んでしまう俺。罠にかかったな、とばかりにばあちゃんは邪まな笑みを浮かべている。孫のいたいけな恋心をもてあそんで何がそんなに楽しいんだ、このクソばばあは。
そんな数日前の出来事を、ぼんやりと思い返す。終礼前のざわついた教室、全開にされた窓辺に風に当たりながら突っ立って、俺は入り口のあたりで担任の須藤先生と会話をしている有栖川を見つめていた。
盗撮未遂(少なくとも俺については未遂だ)から一晩明け、いつもと変わらず登校した俺だったが、どうしてか今日は朝から有栖川真梨花のことがいつも以上に気になって仕方がない。彼女の姿が視界に映るたび、何か喉に小骨がひっかかっているかのような妙な気持ちの悪さに襲われるのである。それはやらなければいけないことがあるのにその内容をどうしても思い出せない時に感じるような、頭の奥のほうがむずむずとよじれるような感覚だった。
昨日、ちょっとした出来心で見てはいけないものを見てしまったことに対する罪悪感が、俺にそんな居心地の悪さを感じさせているのだろうか。あるいは、岡元に『告白をするなら今』とけしかけられた事が思った以上に俺の頭に残ってしまっていて、その言葉が彼女を今日もぼんやりと眺めているだけの俺を『そーやっていつまでもうじうじ見つめてるだけなのかよ』と思考の片隅で責めているのかもしれない。
確かに、ただ見つめているだけの片思いほど非生産的な恋愛はないだろうし、俺だって何か行動をおこしたいとは常々思ってきた。しかし情けないことに、告白どころか彼女と日常会話をするだけでも大変な勇気を必要とするのが今の俺なのである。
彼女に恋をして初めて、自分が好きな人に好きと告げる勇気さえ持たないほどの小心者であるというあまりに残念な事実に俺は気付いてしまった。しかし同時に、相手があの常識外にハイスペックな有栖川真梨花でなければ、俺だってもう少し勇気をもてていたのではないだろうかとも思う。有栖川真梨花は、俺にとって対等な好意を抱くにはあまりにハードルの高い相手なのである。
だが何はともあれ、今日の俺はいつもとは少し違った。頭の奥のむずむずが、昨日までと同じではいけない、何か行動を起こせと俺を焚きつけているのである。
ひとまず、俺は例のコンビニの件について彼女に話しかけてみようと決めた。ずっと気にかかっていたことだったし、いつまでもおめでたい妄想を繰り広げているくらいならさっさと彼女に真相をたずねてしまったほうが精神衛生上も良いといまさらながらに気付いたのだ。
そんなわけで今日は朝からずっとそのタイミングを伺っているわけなのだが、なかなかチャンスを掴めずに気付けばもう終礼の時間になろうとしていた。青いファイルを胸に抱え、彼女は今もなお輝くような笑顔で何か楽しげに担任と会話をしている。会話の内容は好成績だった先日の模試のことか、それとも彼女の輝かしい進路の話か、はたまた副会長を務めている生徒会の仕事の話か。怪我をしたのか、右頬にばんそうこうを貼っているのが朝からずっと気になっていた。
そのときである。突然に、彼女が俺のほうを見た。
窓のほうに顔を向けたらたまたまそこに俺がいた、というのでなく、彼女のことをじめじめと見つめている『誰か』がそこにいることを確かに知ってこちらを見たという感じの見つめ方だった。俺は思わず目をそらし、くるりと背を向けて白々しく外を眺めていた振りをする。窓はグラウンドに面しており、いち早く終礼を終えたらしいサッカー部員数名が広いグラウンドでボールを蹴っているのが見えた。
別に悪いことをしていたわけではないはずなのに、なぜか妙に後ろめたかった。まあ、朝からずっとこそこそと彼女のことを見つめ続けているわけだから、全くもって悪いことをしていないとも言えないような気はするが。
いつのまにか、窓の桟を握るてのひらに嫌な汗までかいている自分の気の小ささに、我ながら少し腹立たしくなる。
「周防くん」
その時、背後、それもかなりの至近距離で声が聞こえた。そして同時に、誰かがつんと俺の背中をつつく。
その声の主がたった一人しか思い当たらない俺が、どきどきしながら振り返ると。
「あ、顔赤い。何見てたの?」
そこに立っていたのは、なぜか事代美鈴。腹に一物抱えた様子でにやにやしている。『周防くん』なんて、わざと普段は呼ばないような呼び方をして、声色まで変えて。どうやら謀られたらしい。
「さ、サッカー部の練習。ほら、エースの倉科が骨折したらしいじゃん。た、大変そうだよな」
「なにその白々しい言い訳。ゆーくん、話ごまかすの下手」
「べ、別にごまかしてなんか……」
思わず言葉に詰まる。事代はにっと笑うと俺の横に並ぶように移動して、窓の桟に肘をつくと耳元に顔を近づけてきた。
「ゆーくん、まりにゃの事、好きでしょ」
そっと囁く事代。まりにゃ、というのは事代が命名した有栖川のあだ名だ。ちなみに、『岡っち』も『周防ちゃん』も事代の命名で、同時に俺たちをそのあだ名で呼ぶのは事代しかいない。
「……岡元に聞いたのか?」
「岡っち? 違う違う。ほら、ゆーくんの顔の、ここに書いてあるんだもん。まりにゃが大好き、って」
そう言って、事代は俺の右頬に人差し指でふれた。何だかこそばゆい。
「……嘘だろ?」
「ほんとほんと。鏡、見たほうがいいかもよ」
俺は全開になっていた窓を半分ほど閉じて鏡代わりにし、自分の顔を確認する。案の定というかお約束というか、映っているのはいつもどおりの冴えない俺の顔。
「あ、ゆーくん騙された」
「……」
「あれ、怒った?」
「お前さ、こんなことして楽しいか?」
「ふふふ。すごく楽しい」
言葉通り、実に愉快そうに事代は言う。心優しい女子だと思い込んでいたが、意外にも人の弱点をついてよろこぶような一面をもちあわせているらしい。昨日から、事代については意外だらけである。
「あのさ、事代」
「ん?」
「その、俺の呼び方なんだけど。ゆーくん、ってやつ。止めてくれないかな」
「なんで? あ、ゆーくん、もしかして照れてるんでしょ?」
「違うって。そうじゃなくて、いろいろと誤解を招くんだよ、それ」
昨日の夕方、一方的に俺を『ゆーくん』だと認定した事代は、今朝から俺の呼び名を周防ちゃんからゆーくんへ変更することにしたらしい。それが周囲には、俺たちが急に親密な仲になったように見えたらしく、会話する俺と事代の横にいた女子たちが突然ひそひそと内緒話を始めたり、あるいはいつから付き合っているんだと友達に尋ねられたり。
岡元に至っては、別に何も起こっていないといくら話して聞かせても信じようとせず、お前は有栖川一筋じゃなかったのかよ、などと一人で勝手に熱くなっていて、ウザいことこの上ない。
「誤解って?」
「ほら、俺とお前が……付き合ってるとか何とか」
「あはは、確かに。私も周防ちゃんと付き合ってるのかって、何人もに聞かれた。『周防ちゃん』なら友達なのに、『ゆーくん』だと彼氏になっちゃうなんて、なんか不思議だと思わない?」
「まあ、そう言われてみればそうかもしれないけど……」
呼び名そのものの問題というより、事代が語尾にハートマークがついているように聞こえてしまうような甘い呼び方で『ゆーくん』と口にすることが誤解を生む原因のような気がしてならなかったが、さすがにはっきりとそう言うわけにもいかない。事代にとっては思い入れのある名前だから、知らず知らずのうちに感情がこもってしまうのだろう。
「俺が本当にその……ゆーくんなのかどうかもわからないんだしさ。それに、へんな誤解されたら事代だって迷惑だろ?」
「あれ、ゆーくん。昨日の話、まだ信じてくれてないんだ」
「信じてないっていうか、全く身に覚えがないんだよ」
俺の記憶に残る髪の綺麗な女の子が事代かどうか聞いて確かめてみようとも思ったけれど、そうすると何だか俺が『ゆーくん』だと自分で認めてしまったことになりそうで、俺は彼女に話せずにいた。
「……そっか。小さかったし、忘れちゃったんだとしても仕方ないかもね。ゆーく……周防ちゃんが嫌なら、そう呼ぶのはやめるね」
少し寂しそうにそういう事代に、なぜか申し訳ない気分になる。けれど、覚えていないものは仕方がないし、勘違いをされたままでは事代だっていい気はしないだろう。
「ねえ、じゃあ、マキちゃんって女の子のことは覚えてない?」
「マキちゃん?」
「ゆーくんの他に、もう一人女の子がいたと思うの。確か、マキちゃんとか、マミちゃんとか……そんな名前だったと思うんだけど。覚えてない?」
「……悪い。全く覚えてない」
「そっか、だよね。……あっ」
事代が急に小さく叫んだ。見ると、なぜか俺のほうを、といっても俺自身ではなくて俺の背後を見て驚いた顔をしている。何、とたずねるが、しかし事代は急に笑顔になって「ごゆっくりー」と囁くと手を振りながらどこかへ言ってしまった。
何だ、あいつ。そう思いながら、俺も背後を見ると。
「あ、ごめん。お邪魔しちゃったかな?」
そこにいたのは、今度こそ正真正銘の有栖川真梨花。どうやら、あの有栖川が、俺に話しかけるタイミングを伺って今まで背後でうろうろしていたらしい。
「ごめんね、美鈴ちゃんと話してたのに」
「え? いや、いやいやいやいや。ほら、あいつはさ。なんか用事があったみたいだから。気にする必要ないって」
そっか、なら良かったけど、と言いながら、有栖川は先ほど事代がいた場所に同じように立つ。どうやら、先ほど彼女が俺のほうを見たように思ったのは気のせいではなかったようだ。
一体俺なんかに何の用なのだろうと思わず身構えるが、一向に話しかけられる気配もなく、彼女は俺が先ほどまでしていたのと同じようにグラウンドを眺めはじめた。何となくぎこちない雰囲気で、何か気軽には口に出せないような用件で俺のところへやって来たように見える。
「……あ、あの。周防くん」
「な、何?」
妙に気まずい沈黙のあと、恐る恐るといった感じで口を開いた有栖川は、なぜか緊張した表情をしていた。もしかして、不気味だからあんまり見つめないで、とか言おうとしているんじゃないだろうか。
「あの……サッカー、好きなの?」
「え? ああ、うん」
どうやら、俺がサッカー部の練習を眺めているフリをしているのを見てそう聞いたらしい。
「確か周防くん、サッカー部だもんね」
「いや、一年で幽霊部員になってさ。今はもう退部したんだ」
「そっか。周防くん、バイトもしてるし、両立は大変だよね」
有栖川が、俺が所属していた部活だけでなく、バイトをしていることなんかまで知っていることに内心驚きつつ、うん、まあね、と生返事をする。まさか、それを聞くためだけに俺に話しかけたのだろうか。でもならなぜ、有栖川は緊張なんかしているんだろう。
「周防くん……あのね」
少しの間を置いて、有栖川が心なしか震えた声で言った。
「聞いてほしいことがあるの。終礼が終わったあと、すこし時間あるかな?」
張り詰めた表情で俺を見つめ、彼女はそうっと言う。それほど緊張をしているということなのか、彼女の瞳は心なしかぬれている様に見えた。
彼女のその一言を聞いた瞬間、心臓がくるりと一回転してしまったかのように俺の動悸は激しくなる。昨日自分がしたこと、岡元の言葉、今朝の決意――さまざまなことが頭に浮かび、今起こっていることが一体何を意味するのか俺にはうまく理解できなかった。
いや待て、もしかしてこれは夢なのか。あまりにもベタだが、一瞬自分の頬をつねって確かめてみようかとまで思う。
けれど、窓の外から流れてくる湿った匂いの夏の風も、目の前で固い表情をしている有栖川真梨花のわずかにふれる腕の体温も、とても生々しく感じられる。夢なんかのはずがない。
ごくりとつばを飲み込み、俺は搾り出すようにうん、と返事をする。その声は、彼女と同じように少しだけ震えていた。