猫
玄関を開けると、そこに一人の男が寝転んでいた。両足を挙げて膝を曲げ、胸の前で両手を招き猫の手のようにして、寝転んでいた。驚いて、何の面白味も特別味もない、私の人間性を表し出した様な陳腐な質問を投げかけた。
「お前は誰だ、何故ここにいる」
男は答えた。
「私は猫さ。猫の散歩の行く先に、理由なんかあるものか」
変なヤツだ、と思った。チェシャ猫を思わせるにやけ顔が酷く気色の悪いものに感じられた。きっと心を病んでいるんだろう、可哀想だな、可哀想だが、私からすれば甚だ迷惑で付き合いきれやしない。勝手に人の家の玄関に寝転んで、一体何がしたいのやら。
「そうか、ところでどうやって入ったんだ」
「君、信じてないな」
なんと厄介な!せっかく親切でそうかそうかと頷いてやったのに、それに勘づいて言い返してくるとは。この狂人は親切はわからないくせに、変に敏感な心を持っているようだ。
「そりゃあ信じられるはずないだろう、お前はどう見たって人間で、ちっとも猫には見えないのだから」
私が正直に思ったままを言うと、男はいっそう気味悪く微笑んで、「へ」とも「は」とも聞こえる息遣いの笑いを二つ漏らした。
「やあ、君は頭が固いんだなあ。はへへ、ははへ」
「なんだって?」
「見たまんまを信じてやまないなんて、愚鈍極まりなく可哀想な子羊を!神よ、どうか彼らを救給う!」
急に神への祈りを叫び始めた狂人を、私は見ていることしかできなかった。口を塞いで祈りを(又は息の根を)止めることすら思いつかなかった。
「はあ、だとすればお前は、『見たものが全てではない』という教訓を与えにきた“お天使サマ”か」
「おや、固い頭をしているくせに、皮肉を言われたことはわかるのかい」
わざとらしい表情と、馬鹿にした言い草にひどく腹が立った。うるさいもういいとでもなんでも言って引き摺り出してしまえば良いだろうか。
「君はさあ、なんで僕を見て、『猫じゃない』と思ったんだい?『どう見たって人間で』だなんて、どうしてそう思えたんだ?」
「大方の人間なら、当然そうだとわかるものだろ」
「どんなところが猫じゃないんだ?」
「顔付きやら大きさやら色やら、全部が全部違うじゃないか」
「何故そう思う?」
「見ればわかるだろ」
「何で見たらわかるんだ、君は“お学者サマ”なのかい?」
聞き覚えのある言葉だった。相手に言ったそのままの皮肉を返されるのはどうも気分が悪い。しかしここで怒鳴って喚き散らかすのは格好悪いからと、奥歯に力を込めて狂人を睨む。
「ほとんどの人間は、詳しくなくとも生物の大まかな分類の区別がつくものなのさ。お前は“ほとんどの人間”に該当しないかもしれないがね」
「君は自分が狂っているのではないかと、考えてみたことはないのかい」
「俺が狂っているとでも?狂っているのはお前の方さ!」
段々と腹が立ってきて、とうとう我慢できずに、声が段々と高くなっていった。侮辱されたことよりも、ドードー巡りの質問責めに苛立って顔に力が入っていた。すると狂人はにやけ顔をやめていかにも真面目そうな面持ちになり、ピンとしないで持ち上げただけの人差し指で私を差して言った。
「ほら、ほら。そういうところだよ」
手の形はそのままで、手首をゆらゆらと回し始めた。
「君は自分が、何か精神の病を患っていて、周りの人間と呼ばれるもの全てが、別のものに見えているのではとは考えないのかい。例えば、その全て人間が実は猫で、君だけが君の思う“人間の形”に見えてるんだとしたら?そうしたら僕は猫で、狂っているのは君の方だよ」
それは実に最もらしく聞こえる哲学的な問いだった。
「しかしだな、俺は生まれてこのかた何の病気も大怪我もしたこともない健康優良人なんだ。どこの病院に行ったって、何の病気も見つからない」
「医者がどうやって君の見ている世界を見て、君の病気を暴くんだ!」
私はまたもや最もらしいことを言われて少したじろいでしまった。確かに、私の視界を見ることができるのは、私だけだった。そのことは、それぞれの見ているものの違いからできる齟齬に苦しめられてきた私が、最もよくわかっていることだった。
「だがしかし、普通に話していれば変なところに気付くものだろ」
「君の病気は猫が毛の無い猿に見えることだけじゃないか、話しててそれがどうやってわかるのさ」
狂人との押し問答にも疲れて嫌になってきた。もうそろそろ疲労も限界に達して頭痛がしてきたので、私は狂人を一足で飛び越えてさっさと寝室へと向かった。一瞬、その一足が敗走の一足に思え立ち止まろうかとも考えてみたが、踏み出した足を引っ張り戻すことの方が変なような気がしてやめてしまった。
「ああ、大丈夫。入ってきたところから勝手に出ていくつもりだから、お気になさらず」
聞いてもいないことをベラベラと話す狂人をよそ目に、廊下を抜けて居間のドアを開ける。
大広間のように広く感じられる居間を、堅苦しい服をそこらへんに脱ぎ散らかしいながらのそのそ歩き、家具やゴミを避け寝室のドアを開け、ほぼ下着だけの無様でだらしない格好をそのままにベッドに倒れ込む。襲ってきた眠気のままに、底なし沼のような深い眠りに沈んだ。
バチっと目が覚めた。疲労が取れ、清々しい気分だった。ぼーっと天井を見つめながら、所々欠けている昨晩の記憶の修復を試みた。
ふと思い立って、私は一言鳴き真似をした。
「にゃあ」
私を起こしたのは、新しい朝であった。
身支度を整えて廊下のドアを開けると、玄関に狂人はおらず、一匹の猫だけが寝転んでいた。両足を挙げて膝を曲げ、胸の前で両手を招き猫の手のようにして、寝転んでいた。今日大して驚かなかった私は、昨日の面白味も特別味もない、陳腐な人間ではなかった。しかし、それはそうと、思いつく言葉はやはり陳腐極まりない面白みに欠けるものであった。
「一体、どうやって入ってきたんだ」
(未完成)




