「殿下と二人だけの合言葉を、わたくしだけが覚えておりますの」
王宮議場の天井は、やけに高い。
夜半、蝋燭が百本灯されていた。それでも議場の隅には闇が溜まる。八歳の子供を立たせるには、広すぎる場所だ。
第三王子エーリッヒは、その中央に立っていた。
父王の玉座は空だった。病がちの陛下は三月前から寝台を離れられない。王妃の席も、この夜は空席——別棟で軟禁状態にあると、後に知った。
議場の中央。弟に向かって、剣の切っ先を突きつけているのは、異母兄ジークフリート。
「お前が本物のエーリッヒだというなら、証明してみろ」
声は柔らかい。怒っているのではない。むしろ困ったような、憐れむような、王太子らしい品格すら滲ませて、そう言った。
議員席から、ざわめきが起こる。
宰相ヴァルナーが、金の縁取りの書類を掲げた。
「こちらに、各方面の署名鑑定・洗礼記録・出生証明の全てがございます。——残念ながら、現在議場にいらっしゃる殿下の筆跡と、真正のエーリッヒ殿下の筆跡は、一致しておりません」
書類は、完璧に偽造されていた。
筆跡鑑定書、洗礼記録、出生証明——全てが「今ここにいるエーリッヒこそ替え玉である」と告げていた。容姿も、体格も、五年かけて用意された替え玉少年と完全に一致する。
議員たちは、判別できない。
「殿下」
議長が、できる限り優しい声を出した。
「何か、ご自身が本物であることの、証を」
エーリッヒは、顔を上げない。
父王と会ったのは半年前が最後。王妃とは一ヶ月前。八歳の人見知りの子供が、議場の百人の前で自己主張などできるわけがなかった。
ただ、右手の指が、震えている。服の裾を握り直した。——怖い、の合図だ。
誰も、それを読めなかった。
そして、エーリッヒは——
ゆっくりと、自分の左肩を。
右手で、三回、叩いた。
一定のリズムで。
トン、トン、トン。
誰の目にも、それは恐怖のあまりの痙攣にしか見えなかった。
しかし、末席の老議員——かつて先々代の王に仕えた、白髪の老人が、ふと立ち上がった。
「……陛下」
震える声。
「その合図を知る者が、ひとりだけ、存じております」
議場が、静まる。
「陛下付きの乳母が——八年間、殿下を抱き続けた乳母が、三ヶ月前、辺境に去りました。どうか早馬を。ファルケンシュタイン伯爵家のイヴリン嬢を、この議場へ」
ジークフリートが、嗤う。
「——たかが乳母に、何ができる」
その「たかが乳母」の名前を、議員たちの誰一人、はっきりと思い出せなかった。
彼女が八年間、この王宮の奥でしていた仕事を、誰も知らない。
議会は三日以内の本人証明を命じた。できなければ、殿下の継承権は停止。
王都から辺境ヴァイスタルまでは、早馬で三日の距離。
——ぎりぎりだった。
時を、三ヶ月前に戻す。
ファルケンシュタイン伯爵邸の応接間。午後の光が、薄いレースのカーテンを透かして床に落ちていた。
近衛大尉ロデリック・シュタインバッハは、窓辺に立ったまま、わたくしを見もせずに言った。
「——婚約は、破棄する」
暖炉の火が、小さく爆ぜる音がした。
「八年もの間、王族の乳母をしていた女を、近衛大尉の妻として迎えるわけにはいかない。令嬢としての品位を、乳母歴が汚す」
「さようでございますか」
わたくしは、微笑んだ。
反論はしなかった。
ただ——そう、ただ、指先がひとりでに動く。右手の人差し指と中指が、無意識に曲がって、何もない空に触れる。
殿下の額に、熱を測る癖。
八年やっていると、指が覚えている。動かそうと思って動かしているのではない。指が勝手に、そこに誰かの額があることを、想像してしまう。
ロデリック様は、わたくしの指を見もしなかった。
「お前の仕事は、よくやってくれた。宮廷も、陛下も、お前に感謝している。——だが、それは『よくやってくれた使用人』への感謝であって、『妻に相応しい令嬢』への敬意ではない」
「わかりました」
わたくしは立ち上がり、深く礼をして、応接間を出た。
廊下を歩きながら、指先で自分の額に触れた。
冷たかった。殿下の額は、いつも温かいのに。
その夜、わたくしは王宮に向かった。
殿下は、眠っていた。
八歳の寝顔は、三歳の頃とほとんど変わらない。まぶたの薄い青が透けて、睫毛が小さく震えている。
——きっと、夢を見ていらっしゃる。
わたくしは、夢日記を開いた。殿下専用の夢日記。八年間、毎朝聞き取って記録してきたもの。黒革の表紙は、指の油でところどころ光っている。
最後のページに、ペンを走らせた。
『雲の話は、いつでも聞こえるところにおります』
それだけを書いた。
殿下の枕元に、日記を置いた。
——起きて気づいてくださいませ。けれど、起きる前に、わたくしが消えていますように。
別れを告げなかった。
告げたら、殿下は泣いてしまうと知っていた。八歳の子供を泣かせて、その泣き顔を覚えて、それを抱いて辺境へ発つ勇気が、わたくしにはなかった。
翌朝、伯爵邸を出る馬車に乗った。
辺境ヴァイスタルまで七日。
馬車の揺れのなかで、指先が、また勝手に動いた。殿下の額がそこにあるように。
わたくしは、窓の外を見ないようにした。雲が、流れていたから。
回想は、もっと遡る。
わたくしが十三歳で、殿下の乳母に指名されたのは、王妃シャルロッテ様の御希望だった。
陛下と王妃様の第一子——それは陛下にとっては三番目のお子で、第三王子と呼ばれることになった——の御誕生は、宮廷中の祝福を受けた。しかし王妃様はお若く、初産で、産後の御心が沈んだ。授乳が、うまく行かなかった。
新生児が、泣き止まない夜が続いた。
伯爵家の三女であった十三歳のわたくしに、宮廷の侍医が言った。
「イヴリン嬢は、幼少の頃より泣いている弟妹の世話を熱心になさると聞きました。どうか、殿下を」
わたくしは頷いた。
最初の三日、わたくしは殿下を抱いたまま、一睡もしなかった。泣き声を、聞き分けたかったから。
——高く、平坦な泣き声。
——喉に引っかかる、籠もった泣き声。
——息継ぎの短い、ひきつるような泣き声。
三種類あった。
それを判別できるようになるまで、八ヶ月かかった。
高く平坦な泣き声は、空腹。ミルクの温度を三十六度ちょうどに調えると、殿下は静かに飲んだ。三十五度では冷たすぎ、三十七度では熱すぎた。
喉に引っかかる泣き声は、発熱。わたくしの指先を額に当て、その後、首筋に当て、最後に足の裏に当てる。三点で熱の分布を読んだ。頭だけ熱い時は冷たい布、全身熱い時は生薬の湯、足だけ冷たい時は擦って血を回す。
息継ぎの短い泣き声は、怖夢。これは薬では治らない。抱き上げて、胸に耳を当てさせ、わたくしの心音を聞かせた。——十五分ほどで、息継ぎが規則的になった。
誰にも、教えなかった。
教えれば、次の乳母が雑にやると知っていた。「この三種を見分ければいい」と言われた者は、それ以外の泣き声に気づけなくなる。そうしたら殿下が、必ず苦しむ日が来る。
だから、わたくしだけの知識にした。
誰にも、教えなかった。
殿下が二歳になった夏、絵本を開いた。
『月にキスをするクマ』——宮廷の絵本室で見つけた、表紙の擦り切れた古いものだ。
三十二ページ。
クマが月にそっと唇を近づける、墨と淡い青で描かれた挿絵。
殿下はそのページでいつも指を止めた。
「……これ」
「ええ、クマさんが月にキスしているところですわ」
「イヴも、するの?」
「いたしますわ」
わたくしは、殿下の額に、そっと唇を近づけた。
——熱はない。
殿下は、指をほどいて笑った。
その夜、殿下が熱を出した。三歳の冬のこと。泣き止まなかった。わたくしは、あの絵本をひらき、三十二ページの挿絵を殿下の目に見せて、無意識に口ずさんだ。
節の、細い鼻歌。
歌詞はない。ただ、四小節の、柔らかい節回し。
殿下の呼吸が、落ち着いた。
翌朝、殿下は言った。
「……あれ、やって」
「どれですか?」
「絵本の、ハチジュウニページ」
「三十二ページですよ、殿下」
「それ。それの、はなうた」
それから、二人のあいだの「だいじょうぶ」の合図になった。
誰にも、教えなかった。——教えたら、壊れると知っていたから。
肩を三回叩くリズムも、五歳の冬、殿下が怖い夢から醒めた明け方に、わたくしが無意識にやった。
トン、トン、トン。
殿下はわたくしの顔を見て、小さく言った。
「……それ、やって」
だから、音の合言葉になった。
『雲の話』も。殿下が夢を見た朝、わたくしが聞く。「昨日、何の雲を見た?」。殿下が答える。「白い山羊の雲」「黒い河馬の雲」「何も見えなかった」。
雲ごとに情緒がある。白い山羊は安らか、黒い河馬は怖い、『何も見えなかった』は、本当は見たのに言いたくない。
八年間、夢日記に書き続けた。
殿下にも言わなかった。殿下は、自分の情緒の地図が、紙の上に描かれていることを知らない。
——教えなかった。
教えれば、壊れる。
わたくしは、それを知っていた。
辺境ヴァイスタルの村外れ、木立に囲まれた石造りの二階建て。
聖ルカ孤児院。
門の前に、男が立っていた。三十歳に少し届かぬ年頃。くすんだ金髪を短く刈り上げ、日焼けした肌に薄い傷跡が散っていた。左の耳が、半分欠けている。
「ファルケンシュタイン嬢」
「——イヴリンで結構ですわ」
男は、目を細めた。
「じゃあ、イヴ」
わたくしは、息を呑んだ。
殿下と、同じ呼び方を、会ったばかりの男に許されることの、奇妙な痛み。
「……ダニエル・ホルツマンだ。この孤児院の代表をしている。歓迎する」
握手のために伸ばされた彼の右手は、大きかった。剣を握るための大きさではなかった。子供を抱き上げるための大きさだった。
わたくしが、その手を握り返そうとした、その時。
ダニエルの目が、わたくしの指先に留まった。
——わたくしの人差し指と中指が、無意識に曲がっていた。
誰かの額に、熱を測るための角度に。
ダニエルは、何も言わなかった。ただ、わたくしの肩を、ぽん、と軽く叩いた。
一回だけ。
それから、門の内側へ、わたくしを招いた。
孤児院には、十二人の子供がいた。
ミアは六歳。くすりゆびを三度曲げると『おやすみ』の合図。
ヨナは九歳。窓の格子を二度叩くと『怖い夢を見た』の合図。
ルネは四歳。スープのスプーンを逆さに置くと『もういらない』の合図。
ティムは十一歳。左ポケットに石を入れている時は『今日は話したくない』の合図。
——これらの合言葉を作ったのは、ダニエルだった。
「子供は、言葉が足りない」と彼は言った。「だから、言葉の代わりになるものを一つだけ、渡してやる。それを持ってる限り、その子は孤立しない」
わたくしは、頷いた。
そして、着任二週間目の夜、わたくしはダニエルに、残り八人の子供にも、合言葉を提案した。
「一つずつ、増やしてはいけませんか」
ダニエルは、何も訊かずに、ひとつだけ頷いた。
わたくしは、一ヶ月かけて、十二人全員分の合言葉を、作り直した。
ルネには、スプーンを逆さに置くのと別に、わたくしの膝によじ登る『今日はそばにいて』の合図を。
ミアには、くすりゆびに加えて、耳たぶを触ると『お腹がすいた』の合図を。
一人につき、二つから三つ。
孤児院の夜が、少しずつ、静かになった。
ダニエルは、わたくしが鼻歌を漏らすたびに、背後の窓を、そっと閉めた。
音を、外に漏らさぬように。
わたくしは、自分がいつ、誰の知っている節を、口ずさんでいるのか、自分でも気づかなかった。
ある夜、縁側で彼が言った。
「あんたが口ずさんでるその節——どこかの子が、覚えてる」
わたくしは、答えなかった。
ただ、夢日記の新しいページに、ダニエルの名前を書いた。
彼は、黙って、わたくしの隣に座っていた。
「あんたの指先は、人を助ける指だ。乳母と呼ぶのは、違う」
辺境の風は、湿って冷たかった。わたくしの指先が、ようやく、誰か別の人間の温度を、知り始めていた。
三ヶ月が経った、ある夜明け前。
孤児院の門を叩く、馬蹄の音がした。
十二人の子供が、全員、目を覚ました。
わたくしが階段を下りると、門の外に、旅装束の女が立っていた。
護衛もなく、頭巾で髪を隠し、深く頭を下げていた。
「……イヴリン」
顔を上げた、その目。
王妃シャルロッテ様だった。
「……あの子が、肩を、三回——議場で、叩きました」
王妃様の声が、震えていた。
「どなたも、その意味を、ご存じありませんでした。議員方は、恐怖のあまりの痙攣だと、お思いのようでした。——けれど、わたくしは、知っています。あれは、あなたとの、合図です」
わたくしの指先が、また勝手に動いた。殿下の額が、そこにあるように。
「どうか——どうか、馳せ参じていただけませんか」
王妃様は、跪こうとした。
わたくしは、その肩に手を置いた。
「——参ります」
ダニエルが、厩から馬を引いてきた。彼は無言だった。
わたくしの鞄に、夢日記を詰めた。八年分。
ダニエルは、一言だけ言った。
「行ってこい」
「……戻れないかもしれません」
「戻れ。ここに、あんたの座る縁側がある」
わたくしは、頷いた。
馬は、夜明けを引き裂いて駆けた。
三日目の夕刻、王宮議場の扉が開いた。
旅装束のまま、わたくしは中へ歩み出た。
議場の空気が、止まった。
ジークフリート王子の声が、低く飛んだ。
「——たかが乳母が、何の用だ」
わたくしは、答えなかった。
まっすぐに、議場の中央へ歩いた。そこに、八歳の少年が立っている。
三ヶ月ぶりに見る殿下は、少しだけ、痩せられていた。顔を上げずに、服の裾を、きつく握っておられた。
わたくしは、跪かなかった。
その代わり、殿下の目の高さに、自分の顔を合わせるために、床に膝をついた。
「殿下」
殿下は、顔を上げない。
「——三十二ページ、覚えておられますか」
三秒の、沈黙。
それから、八歳の王子が。
鼻歌を、口ずさんだ。
かすれた、小さな、けれど、一音も外れていない四小節。
クマが月にキスをする、あのページの。
議場の、百本の蝋燭が、一斉に、揺れた気がした。
わたくしは、殿下の肩を、三回、叩いた。
トン、トン、トン。
殿下も、肩を、三回、叩き返した。
トン、トン、トン。
王妃様が、涙を、指でぬぐわれた。
わたくしは、立ち上がり、議会に向かって、頭を上げた。
「この殿下の、右耳の裏に、生まれつきの、小さな星形の痣がございます。——わたくしと、王妃様しか、存じておりません」
王妃様が、頷かれた。
近衛が、殿下の右耳の後ろを、そっと確かめる。
星形の、小さな赤い痣が、そこにあった。
議場が、沈黙した。
確認は、取れた。
ジークフリート王子の、剣の切っ先が、わずかに、揺れた。
「——偶然だ」
ようやく、絞り出した声だった。
「たまたま、似た動作をしただけだ。痣などは、替え玉選抜の段階で、似たものを探させれば」
わたくしは、鞄から、分厚い冊子を、取り出した。
黒革の表紙。縁は、擦り切れていた。
「殿下の、夢日記でございます」
議員長が、眉をひそめた。
「——夢、日記?」
「はい。八年分」
議場が、動揺で揺れた。
「毎朝、殿下が目覚められたら、わたくしは、『昨日、何の雲を見ましたか』と、お尋ねしてまいりました。殿下のお答えを、わたくしが、記録してまいりました」
わたくしは、冊子を三年前の頁で開いた。
「殿下が五歳の冬、『黒い河馬の雲を見た』と、おっしゃった日。その夜、殿下は、高熱を出されました。うなされて、『兄上が、こわい』と——」
議場の、息が、止まる。
ジークフリートの眉が、かすかに、歪んだ。
「——その夜のことを、殿下、覚えておられますか」
エーリッヒ殿下が、初めて、顔を上げられた。
「……うん」
小さな声。
「イヴが、ずっと、手を握ってた」
議員たちが、息を呑んだ。
ジークフリートの声が、わずかに、乱れた。
「……言い訳だ。そんな日記など、いくらでも偽造できる」
「左様でございますね」
わたくしは、微笑んだ。
「では——あの冬、殿下の熱を冷ますために、わたくしが、窓の外から摘んできた薬草の名前を、殿下、おっしゃってくださいますか」
議場の、全員が、殿下を見た。
殿下は、わたくしを見た。
そして、兄ではなく、わたくしを見つめたまま、言われた。
「……マツヨイ草」
殿下の指が、はじめて、服の裾から離れた。
「イヴが、窓の外から摘んできてくれた。指先が、冷たかった」
わたくしの指先が、記憶の通りに、また、無意識に動いた。
殿下が、その動きを、見ておられた。
「その指で、ぼくのおでこを、ずっと触ってた」
「……左様でございます」
わたくしは、頷いた。
議場の、誰もが、動けなかった。
わたくしは、ジークフリート王子の方を、振り返らなかった。
振り返る必要が、なかった。
静かに、議場に向かって、告げた。
「——殿下の夢を聞いた者は、替えがきかないのですわ」
議場から、拍手は起こらなかった。
ただ、百本の蝋燭が、揺れ、そして、ゆっくりと、安定した。
王妃様が、ジークフリート王子の方を、見られた。
「ジークフリート」
王妃様の声は、小さかった。
「——お前が、あの子を、殺そうとしたのね」
ジークフリート王子は、膝をついた。
剣が、床に、落ちた。
「母上——違います。違う。私はただ——」
王妃様は、答えなかった。
ただ、目を、閉じられた。
議場を出る時、老議員が、わたくしの袖を、そっと引いた。
「どうか、王宮にお戻りを。殿下の養育を、今度こそ、正式に——位階を、伯爵位を、いくらでも」
わたくしは、振り返らなかった。
「お断り、申し上げます」
「なぜ——」
「この合言葉は」
わたくしは、一息、置いた。
「——売り物ではございませんの」
老議員は、言葉を失った。
わたくしは、エーリッヒ殿下の小さな手を、握った。
八歳の殿下は、はじめて、人前で、声を立てて、泣かれた。
わたくしは、膝を落とし、殿下の肩を、三回、叩いた。
トン、トン、トン。
「——肩を三回、覚えていますわ」
そう言って、殿下を抱き上げた。
王妃様が、深く、頭を下げられた。
「……どうか、あの子を、お願いします」
わたくしは、頷いた。
議場の扉を、くぐった。
馬車の外では、夜が、明けかけていた。
一年後の、春の夕暮れ。
聖ルカ孤児院の、縁側。
九歳になられたエーリッヒ殿下が、膝に四歳のルネを寝かせて、座っている。
「ルネ、おやすみの時は、くすりゆびを、三度曲げるんだよ」
「……うん」
ルネが、くすりゆびを曲げた。
エーリッヒ殿下も、一緒に、曲げられた。
二人のあいだに、新しい合言葉が、ひとつ、増えた。
縁側の奥、わたくしは、ダニエルの隣に座っていた。
夕陽が、木立の向こうに、沈もうとしていた。
ダニエルが、わたくしの手を、そっと、握った。
「——あんたの指先は、ひとの、熱を、覚えている」
わたくしの目に、涙が、浮かんだ。
八年間、殿下の熱を、測り続けてきた指が。
ようやく、別の人間の、別の温度を、知り始めていた。
安堵の、涙だった。
エーリッヒ殿下が、縁側から、こちらを振り返られた。
「イヴ」
母でも、お姉様でも、先生でもない、二人だけの呼び名。
「今夜の、雲の話、またする?」
「——ええ」
わたくしは、微笑んで、頷いた。
「殿下——いえ」
ひと呼吸。
「エーリッヒ」
八歳の——もう九歳の王子が、歯を見せて、笑われた。
遠くの空に、白い、小さな雲が、三つ、浮かんでいた。
子羊の、雲だった。
ルネ、ミア、エーリッヒの——三匹。
全員、安らかな夢の、かたちだった。
後に聞いた話。
北の要塞グリムに、ジークフリート前王太子は、幽閉されたという。
彼は独房の石壁に向かって、毎朝、「たかが乳母」の五文字を、繰り返し呟くのだそうだ。
——誰も聞いていない。
王妃様は、一度だけ、お手紙をお書きになった。
返事は、来なかったそうだ。
わたくしは、夢日記の、九年目の、一ページ目に、こう書いた。
『白い子羊の雲、三匹。
ルネ、ミア、エーリッヒ。
——全員、安らかな夢』
そして、その日付の下に、もうひとつ、書き添えた。
『イヴリンも——安らかな夢』
辺境の、春の風が、縁側を、吹き抜けた。
わたくしの指先は、もう、震えていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「殿下の夢を聞いた者は、替えがきかないのですわ」——この一文を書きたくて、この物語を書きました。
乳母の労働は、歴史書には一行も残りません。何百夜の夜泣き、指先で測った熱、絵本の特定のページで口ずさんだ鼻歌——それらは記録されず、名指されず、制度にも位階にもなりません。けれど、肩を三回叩く音を覚えているだけで、国がひっくり返る瞬間が、確かにあります。書類は偽造できるけれど、八年分の夜は、偽造できない。政変と子育ては、本当は、地続きだったのだと思うのです。
イヴリンが「誰にも教えなかった」のは、意地悪でも秘密主義でもありません。『名指さないものだけが、壊れない』という、子育ての逆説を彼女は知っていました。教えた瞬間、その合言葉はもう『秘密』ではなくなる。だから、二人だけの場所に、そっと置いておいた。その小さな場所が、最後の切り札になるところに、この物語のすべてを込めました。
殿下が人前で、一人で、肩を三回叩いた場面。八歳の勇気を想像すると、書きながらわたし自身が泣きそうになりました。世界のどこかで、誰にも気づかれずに誰かの熱を測り続けている全ての指先に、この物語が届きますように。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
・「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師〜【薬師型】
→ https://ncode.syosetu.com/N9955LU/
・「僕たちはフィオナ先生を選びます」〜【発覚型×保育】
→ https://ncode.syosetu.com/N4577LY/
・婚約破棄された回数、五回〜【連鎖破棄型】
→ https://ncode.syosetu.com/N1219LV/
・「お前は妹の身代わりにすぎなかった」〜【身代わり型】
→ https://ncode.syosetu.com/N9777LU/
・「存じ上げませんが、どちら様ですか?」〜【静かな離脱型】
→ https://ncode.syosetu.com/N4567LY/
・「毒が効かない体になるまで毒を盛られた令嬢は〜【断罪型】
→ https://ncode.syosetu.com/n6633lu/
・「女に商いの真似事をさせるな」〜【交易型】
→ https://ncode.syosetu.com/N0729LV/
毎日19時、新作更新中!
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!




