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「殿下と二人だけの合言葉を、わたくしだけが覚えておりますの」

作者: 歩人
掲載日:2026/05/01

 王宮議場の天井は、やけに高い。


 夜半、蝋燭ろうそく百本灯ともされていた。それでも議場の隅には闇が溜まる。八歳の子供を立たせるには、広すぎる場所だ。


 第三王子エーリッヒは、その中央に立っていた。


 父王の玉座はからだった。病がちの陛下は三月前から寝台を離れられない。王妃の席も、この夜は空席——別棟で軟禁状態にあると、後に知った。


 議場の中央。弟に向かって、剣の切っ先を突きつけているのは、異母兄ジークフリート。


「お前が本物のエーリッヒだというなら、証明してみろ」


 声は柔らかい。怒っているのではない。むしろ困ったような、憐れむような、王太子らしい品格すら滲ませて、そう言った。


 議員席から、ざわめきが起こる。


 宰相ヴァルナーが、金の縁取りの書類を掲げた。


「こちらに、各方面の署名鑑定・洗礼記録・出生証明の全てがございます。——残念ながら、現在議場にいらっしゃる殿下の筆跡と、真正のエーリッヒ殿下の筆跡は、一致しておりません」


 書類は、完璧に偽造されていた。


 筆跡鑑定書、洗礼記録、出生証明——全てが「今ここにいるエーリッヒこそ替え玉である」と告げていた。容姿も、体格も、五年かけて用意された替え玉少年と完全に一致する。


 議員たちは、判別できない。


「殿下」


 議長が、できる限り優しい声を出した。


「何か、ご自身が本物であることの、あかしを」


 エーリッヒは、顔を上げない。


 父王と会ったのは半年前が最後。王妃とは一ヶ月前。八歳の人見知りの子供が、議場の百人の前で自己主張などできるわけがなかった。


 ただ、右手の指が、震えている。服の裾を握り直した。——怖い、の合図だ。


 誰も、それを読めなかった。


 そして、エーリッヒは——


 ゆっくりと、自分の左肩を。

 右手で、三回、叩いた。


 一定のリズムで。


 トン、トン、トン。


 誰の目にも、それは恐怖のあまりの痙攣けいれんにしか見えなかった。


 しかし、末席の老議員——かつて先々代の王に仕えた、白髪の老人が、ふと立ち上がった。


「……陛下」


 震える声。


「その合図を知る者が、ひとりだけ、存じております」


 議場が、静まる。


「陛下付きの乳母が——八年間、殿下を抱き続けた乳母が、三ヶ月前、辺境に去りました。どうか早馬を。ファルケンシュタイン伯爵家のイヴリン嬢を、この議場へ」


 ジークフリートが、わらう。


「——たかが乳母に、何ができる」


 その「たかが乳母」の名前を、議員たちの誰一人、はっきりと思い出せなかった。


 彼女が八年間、この王宮の奥でしていた仕事を、誰も知らない。


 議会は三日以内の本人証明を命じた。できなければ、殿下の継承権は停止。


 王都から辺境ヴァイスタルまでは、早馬で三日の距離。


 ——ぎりぎりだった。




 時を、三ヶ月前に戻す。


 ファルケンシュタイン伯爵邸の応接間。午後の光が、薄いレースのカーテンを透かして床に落ちていた。


 近衛大尉ロデリック・シュタインバッハは、窓辺に立ったまま、わたくしを見もせずに言った。


「——婚約は、破棄する」


 暖炉の火が、小さくぜる音がした。


「八年もの間、王族の乳母うばをしていた女を、近衛大尉の妻として迎えるわけにはいかない。令嬢としての品位を、乳母歴が汚す」


「さようでございますか」


 わたくしは、微笑んだ。


 反論はしなかった。


 ただ——そう、ただ、指先がひとりでに動く。右手の人差し指と中指が、無意識に曲がって、何もない空に触れる。


 殿下の額に、熱を測る癖。


 八年やっていると、指が覚えている。動かそうと思って動かしているのではない。指が勝手に、そこに誰かの額があることを、想像してしまう。


 ロデリック様は、わたくしの指を見もしなかった。


「お前の仕事は、よくやってくれた。宮廷も、陛下も、お前に感謝している。——だが、それは『よくやってくれた使用人』への感謝であって、『妻に相応しい令嬢』への敬意ではない」


「わかりました」


 わたくしは立ち上がり、深く礼をして、応接間を出た。


 廊下を歩きながら、指先で自分の額に触れた。


 冷たかった。殿下の額は、いつも温かいのに。




 その夜、わたくしは王宮に向かった。


 殿下は、眠っていた。


 八歳の寝顔は、三歳の頃とほとんど変わらない。まぶたの薄い青が透けて、睫毛まつげが小さく震えている。


 ——きっと、夢を見ていらっしゃる。


 わたくしは、夢日記を開いた。殿下専用の夢日記。八年間、毎朝聞き取って記録してきたもの。黒革の表紙は、指の油でところどころ光っている。


 最後のページに、ペンを走らせた。


『雲の話は、いつでも聞こえるところにおります』


 それだけを書いた。


 殿下の枕元に、日記を置いた。


 ——起きて気づいてくださいませ。けれど、起きる前に、わたくしが消えていますように。


 別れを告げなかった。


 告げたら、殿下は泣いてしまうと知っていた。八歳の子供を泣かせて、その泣き顔を覚えて、それを抱いて辺境へ発つ勇気が、わたくしにはなかった。


 翌朝、伯爵邸を出る馬車に乗った。


 辺境ヴァイスタルまで七日。


 馬車の揺れのなかで、指先が、また勝手に動いた。殿下の額がそこにあるように。


 わたくしは、窓の外を見ないようにした。雲が、流れていたから。




 回想は、もっとさかのぼる。


 わたくしが十三歳で、殿下の乳母に指名されたのは、王妃シャルロッテ様の御希望だった。


 陛下と王妃様の第一子——それは陛下にとっては三番目のお子で、第三王子と呼ばれることになった——の御誕生は、宮廷中の祝福を受けた。しかし王妃様はお若く、初産ういざんで、産後の御心が沈んだ。授乳が、うまく行かなかった。


 新生児が、泣き止まない夜が続いた。


 伯爵家の三女であった十三歳のわたくしに、宮廷の侍医が言った。


「イヴリン嬢は、幼少の頃より泣いている弟妹の世話を熱心になさると聞きました。どうか、殿下を」


 わたくしは頷いた。


 最初の三日、わたくしは殿下を抱いたまま、一睡もしなかった。泣き声を、聞き分けたかったから。


 ——高く、平坦な泣き声。

 ——のどに引っかかる、もった泣き声。

 ——息継ぎの短い、ひきつるような泣き声。


 三種類あった。


 それを判別できるようになるまで、八ヶ月かかった。


 高く平坦な泣き声は、空腹。ミルクの温度を三十六度ちょうどに調えると、殿下は静かに飲んだ。三十五度では冷たすぎ、三十七度では熱すぎた。


 喉に引っかかる泣き声は、発熱。わたくしの指先を額に当て、その後、首筋に当て、最後に足の裏に当てる。三点で熱の分布を読んだ。頭だけ熱い時は冷たい布、全身熱い時は生薬の湯、足だけ冷たい時は擦って血を回す。


 息継ぎの短い泣き声は、怖夢こわゆめ。これは薬では治らない。抱き上げて、胸に耳を当てさせ、わたくしの心音を聞かせた。——十五分ほどで、息継ぎが規則的になった。


 誰にも、教えなかった。


 教えれば、次の乳母が雑にやると知っていた。「この三種を見分ければいい」と言われた者は、それ以外の泣き声に気づけなくなる。そうしたら殿下が、必ず苦しむ日が来る。


 だから、わたくしだけの知識にした。


 誰にも、教えなかった。




 殿下が二歳になった夏、絵本を開いた。


『月にキスをするクマ』——宮廷の絵本室で見つけた、表紙のり切れた古いものだ。


 三十二ページ。


 クマが月にそっと唇を近づける、墨と淡い青で描かれた挿絵。


 殿下はそのページでいつも指を止めた。


「……これ」


「ええ、クマさんが月にキスしているところですわ」


「イヴも、するの?」


「いたしますわ」


 わたくしは、殿下の額に、そっと唇を近づけた。


 ——熱はない。


 殿下は、指をほどいて笑った。


 その夜、殿下が熱を出した。三歳の冬のこと。泣き止まなかった。わたくしは、あの絵本をひらき、三十二ページの挿絵を殿下の目に見せて、無意識に口ずさんだ。


 節の、細い鼻歌。


 歌詞はない。ただ、四小節の、柔らかい節回し。


 殿下の呼吸が、落ち着いた。


 翌朝、殿下は言った。


「……あれ、やって」


「どれですか?」


「絵本の、ハチジュウニページ」


「三十二ページですよ、殿下」


「それ。それの、はなうた」


 それから、二人のあいだの「だいじょうぶ」の合図になった。


 誰にも、教えなかった。——教えたら、壊れると知っていたから。


 肩を三回叩くリズムも、五歳の冬、殿下が怖い夢から醒めた明け方に、わたくしが無意識にやった。


 トン、トン、トン。


 殿下はわたくしの顔を見て、小さく言った。


「……それ、やって」


 だから、音の合言葉になった。


 『雲の話』も。殿下が夢を見た朝、わたくしが聞く。「昨日、何の雲を見た?」。殿下が答える。「白い山羊の雲」「黒い河馬の雲」「何も見えなかった」。


 雲ごとに情緒がある。白い山羊は安らか、黒い河馬は怖い、『何も見えなかった』は、本当は見たのに言いたくない。


 八年間、夢日記に書き続けた。


 殿下にも言わなかった。殿下は、自分の情緒の地図が、紙の上に描かれていることを知らない。


 ——教えなかった。


 教えれば、壊れる。


 わたくしは、それを知っていた。




 辺境ヴァイスタルの村外れ、木立に囲まれた石造りの二階建て。


 聖ルカ孤児院。


 門の前に、男が立っていた。三十歳に少し届かぬ年頃。くすんだ金髪を短く刈り上げ、日焼けした肌に薄い傷跡が散っていた。左の耳が、半分欠けている。


「ファルケンシュタイン嬢」


「——イヴリンで結構ですわ」


 男は、目を細めた。


「じゃあ、イヴ」


 わたくしは、息を呑んだ。


 殿下と、同じ呼び方を、会ったばかりの男に許されることの、奇妙な痛み。


「……ダニエル・ホルツマンだ。この孤児院の代表をしている。歓迎する」


 握手のために伸ばされた彼の右手は、大きかった。剣を握るための大きさではなかった。子供を抱き上げるための大きさだった。


 わたくしが、その手を握り返そうとした、その時。


 ダニエルの目が、わたくしの指先に留まった。


 ——わたくしの人差し指と中指が、無意識に曲がっていた。


 誰かの額に、熱を測るための角度に。


 ダニエルは、何も言わなかった。ただ、わたくしの肩を、ぽん、と軽く叩いた。


 一回だけ。


 それから、門の内側へ、わたくしを招いた。




 孤児院には、十二人の子供がいた。


 ミアは六歳。くすりゆびを三度曲げると『おやすみ』の合図。

 ヨナは九歳。窓の格子を二度叩くと『怖い夢を見た』の合図。

 ルネは四歳。スープのスプーンを逆さに置くと『もういらない』の合図。

 ティムは十一歳。左ポケットに石を入れている時は『今日は話したくない』の合図。


 ——これらの合言葉を作ったのは、ダニエルだった。


 「子供は、言葉が足りない」と彼は言った。「だから、言葉の代わりになるものを一つだけ、渡してやる。それを持ってる限り、その子は孤立しない」


 わたくしは、頷いた。


 そして、着任二週間目の夜、わたくしはダニエルに、残り八人の子供にも、合言葉を提案した。


「一つずつ、増やしてはいけませんか」


 ダニエルは、何も訊かずに、ひとつだけ頷いた。


 わたくしは、一ヶ月かけて、十二人全員分の合言葉を、作り直した。


 ルネには、スプーンを逆さに置くのと別に、わたくしの膝によじ登る『今日はそばにいて』の合図を。

 ミアには、くすりゆびに加えて、耳たぶを触ると『お腹がすいた』の合図を。


 一人につき、二つから三つ。


 孤児院の夜が、少しずつ、静かになった。


 ダニエルは、わたくしが鼻歌を漏らすたびに、背後の窓を、そっと閉めた。


 音を、外に漏らさぬように。


 わたくしは、自分がいつ、誰の知っている節を、口ずさんでいるのか、自分でも気づかなかった。


 ある夜、縁側で彼が言った。


「あんたが口ずさんでるその節——どこかの子が、覚えてる」


 わたくしは、答えなかった。


 ただ、夢日記の新しいページに、ダニエルの名前を書いた。


 彼は、黙って、わたくしの隣に座っていた。


「あんたの指先は、人を助ける指だ。乳母と呼ぶのは、違う」


 辺境の風は、湿って冷たかった。わたくしの指先が、ようやく、誰か別の人間の温度を、知り始めていた。




 三ヶ月が経った、ある夜明け前。


 孤児院の門を叩く、馬蹄ばていの音がした。


 十二人の子供が、全員、目を覚ました。


 わたくしが階段を下りると、門の外に、旅装束の女が立っていた。


 護衛もなく、頭巾ずきんで髪を隠し、深く頭を下げていた。


「……イヴリン」


 顔を上げた、その目。


 王妃シャルロッテ様だった。


「……あの子が、肩を、三回——議場で、叩きました」


 王妃様の声が、震えていた。


「どなたも、その意味を、ご存じありませんでした。議員方は、恐怖のあまりの痙攣だと、お思いのようでした。——けれど、わたくしは、知っています。あれは、あなたとの、合図です」


 わたくしの指先が、また勝手に動いた。殿下の額が、そこにあるように。


「どうか——どうか、せ参じていただけませんか」


 王妃様は、ひざまずこうとした。


 わたくしは、その肩に手を置いた。


「——参ります」


 ダニエルが、うまやから馬を引いてきた。彼は無言だった。


 わたくしのかばんに、夢日記を詰めた。八年分。


 ダニエルは、一言だけ言った。


「行ってこい」


「……戻れないかもしれません」


「戻れ。ここに、あんたの座る縁側がある」


 わたくしは、頷いた。


 馬は、夜明けを引き裂いて駆けた。




 三日目の夕刻、王宮議場の扉が開いた。


 旅装束のまま、わたくしは中へ歩み出た。


 議場の空気が、止まった。


 ジークフリート王子の声が、低く飛んだ。


「——たかが乳母が、何の用だ」


 わたくしは、答えなかった。


 まっすぐに、議場の中央へ歩いた。そこに、八歳の少年が立っている。


 三ヶ月ぶりに見る殿下は、少しだけ、痩せられていた。顔を上げずに、服の裾を、きつく握っておられた。


 わたくしは、跪かなかった。


 その代わり、殿下の目の高さに、自分の顔を合わせるために、床に膝をついた。


「殿下」


 殿下は、顔を上げない。


「——三十二ページ、覚えておられますか」


 三秒の、沈黙。


 それから、八歳の王子が。


 鼻歌を、口ずさんだ。


 かすれた、小さな、けれど、一音も外れていない四小節。


 クマが月にキスをする、あのページの。


 議場の、百本の蝋燭が、一斉に、揺れた気がした。


 わたくしは、殿下の肩を、三回、叩いた。


 トン、トン、トン。


 殿下も、肩を、三回、叩き返した。


 トン、トン、トン。


 王妃様が、涙を、指でぬぐわれた。


 わたくしは、立ち上がり、議会に向かって、頭を上げた。


「この殿下の、右耳の裏に、生まれつきの、小さな星形のあざがございます。——わたくしと、王妃様しか、存じておりません」


 王妃様が、頷かれた。


 近衛が、殿下の右耳の後ろを、そっと確かめる。


 星形の、小さな赤い痣が、そこにあった。


 議場が、沈黙した。


 確認は、取れた。


 ジークフリート王子の、剣の切っ先が、わずかに、揺れた。


「——偶然だ」


 ようやく、絞り出した声だった。


「たまたま、似た動作をしただけだ。痣などは、替え玉選抜の段階で、似たものを探させれば」


 わたくしは、鞄から、分厚い冊子を、取り出した。


 黒革の表紙。縁は、擦り切れていた。


「殿下の、夢日記でございます」


 議員長が、眉をひそめた。


「——夢、日記?」


「はい。八年分」


 議場が、動揺で揺れた。


「毎朝、殿下が目覚められたら、わたくしは、『昨日、何の雲を見ましたか』と、お尋ねしてまいりました。殿下のお答えを、わたくしが、記録してまいりました」


 わたくしは、冊子を三年前の頁で開いた。


「殿下が五歳の冬、『黒い河馬の雲を見た』と、おっしゃった日。その夜、殿下は、高熱を出されました。うなされて、『兄上が、こわい』と——」


 議場の、息が、止まる。


 ジークフリートの眉が、かすかに、歪んだ。


「——その夜のことを、殿下、覚えておられますか」


 エーリッヒ殿下が、初めて、顔を上げられた。


「……うん」


 小さな声。


「イヴが、ずっと、手を握ってた」


 議員たちが、息を呑んだ。


 ジークフリートの声が、わずかに、乱れた。


「……言い訳だ。そんな日記など、いくらでも偽造できる」


「左様でございますね」


 わたくしは、微笑んだ。


「では——あの冬、殿下の熱を冷ますために、わたくしが、窓の外から摘んできた薬草の名前を、殿下、おっしゃってくださいますか」


 議場の、全員が、殿下を見た。


 殿下は、わたくしを見た。


 そして、兄ではなく、わたくしを見つめたまま、言われた。


「……マツヨイ草」


 殿下の指が、はじめて、服の裾から離れた。


「イヴが、窓の外から摘んできてくれた。指先が、冷たかった」


 わたくしの指先が、記憶の通りに、また、無意識に動いた。


 殿下が、その動きを、見ておられた。


「その指で、ぼくのおでこを、ずっと触ってた」


「……左様でございます」


 わたくしは、頷いた。


 議場の、誰もが、動けなかった。


 わたくしは、ジークフリート王子の方を、振り返らなかった。


 振り返る必要が、なかった。


 静かに、議場に向かって、告げた。


「——殿下の夢を聞いた者は、替えがきかないのですわ」


 議場から、拍手は起こらなかった。


 ただ、百本の蝋燭が、揺れ、そして、ゆっくりと、安定した。


 王妃様が、ジークフリート王子の方を、見られた。


「ジークフリート」


 王妃様の声は、小さかった。


「——お前が、あの子を、殺そうとしたのね」


 ジークフリート王子は、膝をついた。


 剣が、床に、落ちた。


「母上——違います。違う。私はただ——」


 王妃様は、答えなかった。


 ただ、目を、閉じられた。




 議場を出る時、老議員が、わたくしの袖を、そっと引いた。


「どうか、王宮にお戻りを。殿下の養育を、今度こそ、正式に——位階を、伯爵位を、いくらでも」


 わたくしは、振り返らなかった。


「お断り、申し上げます」


「なぜ——」


「この合言葉は」


 わたくしは、一息、置いた。


「——売り物ではございませんの」


 老議員は、言葉を失った。


 わたくしは、エーリッヒ殿下の小さな手を、握った。


 八歳の殿下は、はじめて、人前で、声を立てて、泣かれた。


 わたくしは、膝を落とし、殿下の肩を、三回、叩いた。


 トン、トン、トン。


「——肩を三回、覚えていますわ」


 そう言って、殿下を抱き上げた。


 王妃様が、深く、頭を下げられた。


「……どうか、あの子を、お願いします」


 わたくしは、頷いた。


 議場の扉を、くぐった。


 馬車の外では、夜が、明けかけていた。




 一年後の、春の夕暮れ。


 聖ルカ孤児院の、縁側。


 九歳になられたエーリッヒ殿下が、膝に四歳のルネを寝かせて、座っている。


「ルネ、おやすみの時は、くすりゆびを、三度曲げるんだよ」


「……うん」


 ルネが、くすりゆびを曲げた。


 エーリッヒ殿下も、一緒に、曲げられた。


 二人のあいだに、新しい合言葉が、ひとつ、増えた。


 縁側の奥、わたくしは、ダニエルの隣に座っていた。


 夕陽が、木立の向こうに、沈もうとしていた。


 ダニエルが、わたくしの手を、そっと、握った。


「——あんたの指先は、ひとの、熱を、覚えている」


 わたくしの目に、涙が、浮かんだ。


 八年間、殿下の熱を、測り続けてきた指が。


 ようやく、別の人間の、別の温度を、知り始めていた。


 安堵の、涙だった。


 エーリッヒ殿下が、縁側から、こちらを振り返られた。


「イヴ」


 母でも、お姉様でも、先生でもない、二人だけの呼び名。


「今夜の、雲の話、またする?」


「——ええ」


 わたくしは、微笑んで、頷いた。


「殿下——いえ」


 ひと呼吸。


「エーリッヒ」


 八歳の——もう九歳の王子が、歯を見せて、笑われた。


 遠くの空に、白い、小さな雲が、三つ、浮かんでいた。


 子羊の、雲だった。


 ルネ、ミア、エーリッヒの——三匹。


 全員、安らかな夢の、かたちだった。




 後に聞いた話。


 北の要塞グリムに、ジークフリート前王太子は、幽閉されたという。


 彼は独房の石壁に向かって、毎朝、「たかが乳母」の五文字を、繰り返し呟くのだそうだ。


 ——誰も聞いていない。


 王妃様は、一度だけ、お手紙をお書きになった。


 返事は、来なかったそうだ。


 わたくしは、夢日記の、九年目の、一ページ目に、こう書いた。


『白い子羊の雲、三匹。

 ルネ、ミア、エーリッヒ。

 ——全員、安らかな夢』


 そして、その日付の下に、もうひとつ、書き添えた。


『イヴリンも——安らかな夢』


 辺境の、春の風が、縁側を、吹き抜けた。


 わたくしの指先は、もう、震えていなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「殿下の夢を聞いた者は、替えがきかないのですわ」——この一文を書きたくて、この物語を書きました。


 乳母の労働は、歴史書には一行も残りません。何百夜の夜泣き、指先で測った熱、絵本の特定のページで口ずさんだ鼻歌——それらは記録されず、名指されず、制度にも位階にもなりません。けれど、肩を三回叩く音を覚えているだけで、国がひっくり返る瞬間が、確かにあります。書類は偽造できるけれど、八年分の夜は、偽造できない。政変と子育ては、本当は、地続きだったのだと思うのです。


 イヴリンが「誰にも教えなかった」のは、意地悪でも秘密主義でもありません。『名指さないものだけが、壊れない』という、子育ての逆説を彼女は知っていました。教えた瞬間、その合言葉はもう『秘密』ではなくなる。だから、二人だけの場所に、そっと置いておいた。その小さな場所が、最後の切り札になるところに、この物語のすべてを込めました。


 殿下が人前で、一人で、肩を三回叩いた場面。八歳の勇気を想像すると、書きながらわたし自身が泣きそうになりました。世界のどこかで、誰にも気づかれずに誰かの熱を測り続けている全ての指先に、この物語が届きますように。




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お久し振りです。すごいペースで作品を生み出してあいた時間でチェックするとびっくりします。 ジークフリートは正当な王妃の弟が怖かったんでしょうね。陰謀が成功して王に即位してたら常に身内や家臣を疑って猜…
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