30話 崩れる側
唇を重ねながら、
私はようやく理解していた。
逃れられないのではない。
違う。
逃れたくないのだ。
絡め取られる熱。
奪われる呼吸。
覆い尽くされる体温。
そのすべてが、拒絶ではなく
甘美な眩暈へと変わっていく。
「……ビアンカ……」
名を呼ぶ声が、震える。
自分の声とは思えなかった。
こんな響きを含んだ呼び方など、
かつて一度も。
「お姉様……」
熱を帯びた瞳が間近にある。
理性を溶かす距離。
逃げ場のない甘さ。
再び唇が重なる。
今度は深く。
ゆっくりと。
味わうように。
鼓動が、激しく打ち鳴らされる。
胸の奥が焼ける。
呼吸が乱れる。
違う。
これは違う。
今までのキスとは、
決定的に何かが異なっていた。
支配でもない。
駆け引きでもない。
慰めでもない。
ただ。
どうしようもなく。
「……好き、なのね……」
零れ落ちた言葉は、
自分でも信じ難いほど静かだった。
ビアンカの動きが止まる。
瞳が見開かれる。
時間が凍る。
「お姉……様……?」
掠れた声。
だが私は目を逸らさない。
ようやく、自覚したのだ。
ずっと否定してきた感情。
見ないふりを続けた衝動。
この熱の正体を。
「私……あなたを……」
言葉が続かない。
だが意味は明白だった。
ビアンカの呼吸が大きく揺れる。
理性が砕け散る気配。
歓喜と絶望が入り混じる瞳。
次の瞬間。
扉の向こうから、声が落ちた。
すべてが断ち切られる。
空気が裂ける。
時間が現実へ引き戻される。
「当主様がお呼びです」
淡々とした使用人の声音。
だがその一言が、残酷なほど重い。
沈黙。
ビアンカの指が、わずかに震える。
抱き留めていた腕の力が緩む。
「……今、ですか」
低い声。
抑えきれぬ熱を押し殺した響き。
「至急とのことにございます」
拒めない。
それは理解している。
私はゆっくりと身を起こす。
乱れた呼吸のまま。
まだ消えぬ熱を抱えたまま。
ビアンカの視線が、縋るように絡む。
だが言葉はない。
先ほどまでの甘さが、
嘘のように断絶されていた。
扉の外。
当主。
王城。
王家。
均衡。
そして。
「王家より使者が」
使用人の続けた言葉に、
空気が完全に凍りついた。
「ヴァルディエリ家のご令嬢を所望とのこと」
心臓が、強く跳ねる。
ビアンカの瞳から熱が消える。
代わりに浮かぶのは、
明確な警戒と怒り。
甘い時間は終わった。
王家が、再び動き始める。




