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作者: 酒樽
掲載日:2025/12/16

大学のキャンパスは、昼になると少しだけ騒がしくなる。

 食堂に向かう人の流れと、ベンチに座ってスマートフォンを覗き込む人たちが、ゆるやかに交差していた。


 俺はいつも通り、少し人通りから外れた木陰のベンチに座っていた。向かいに座るのは、同じ学部の友人――佐久間だ。彼は紙パックのコーヒーを片手に、何でもない顔で講義の愚痴をこぼしている。


「今日のレポート、量おかしくない? 三千字ってさ」


「まあ、あの先生なら普通だろ」


 そう返すと、佐久間は笑った。

 俺がこうして相槌を打つとき、だいたい場は丸く収まる。人の話を否定しない。感情を荒立てない。それが、いつの間にか俺の役割になっていた。


 昼休みの終わりが近づくころ、スマートフォンが震えた。

 サークルのグループLINEだ。


 通知は、ひとつやふたつじゃなかった。


〈A:ごめん、今日も無理かも〉

〈A:なんか息ができない〉

〈B:大丈夫?〉

〈C:誰か一緒にいれる人いる?〉


 画面を流れる文字は、どれも似た温度をしている。心配、善意、焦り。それらが絡まり合って、行き場を失っていた。


 佐久間も気づいたらしく、ちらりと俺の画面を覗いた。


「またA?」


「……たぶん」


 Aは、ここ最近ずっとこんな調子だった。

 授業に来ない。来ても途中で帰る。SNSには深夜の投稿が増えた。しんどい、つらい、消えたい。直接的な言葉は避けているのに、意味だけがはっきり伝わってくる。


 誰かが必ず反応する。

 大丈夫だよ。無理しないで。そばにいるよ。


 俺も、最初は同じことを書いていた。


 けれど、今日は違った。


 通知が増えるたび、胸の奥が少しずつ重くなっていく。これは心配じゃない。焦りでもない。もっと別の、名前のつかない感覚だった。


 やがて、誰かが書いた。


〈C:今日のミーティングどうする?〉


 その瞬間、俺はスマートフォンを握りしめた。

 指が止まる。送信欄が、白く開いたまま俺を待っている。


 佐久間が言った。


「……何か書く?」


 俺は一度、深く息を吸った。

 このまま何も言わなければ、また同じ流れになる。誰かが無理をして、誰かが支えて、誰も責任を持たないまま時間だけが過ぎていく。


 だから、俺は書いた。


〈俺:それ以上、みんなに支えてもらう前提でいるなら〉

〈俺:一度、ここから離れた方がいいと思う〉


 送信音は、驚くほど軽かった。


 すぐに、画面が静まり返る。

 次のメッセージが来るまでの数秒が、やけに長く感じられた。


 佐久間は、何も言わなかった。

 ただ、コーヒーのストローを噛みながら、少し困ったような顔をしている。


 やがて、通知が鳴った。


〈B:え、それはさすがに言い方……〉


 俺はスマートフォンを伏せた。

 胸の奥にあった重さは、消えていなかった。でも、それ以上膨らむこともなかった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

 人の流れが、また動き出す。


 この言葉が、どう受け取られるか。

 それを考えないほど、俺は鈍感じゃない。


 ただ、それでも。

 言わずにいられなかった。



 次の日のキャンパスは、昨日と何も変わらないように見えた。

 同じように人が歩き、同じように講義が始まる。違うのは、視線だけだった。


 廊下ですれ違うとき、ほんの一瞬だけ目が合って、すぐに逸らされる。

 声をかけられそうになって、やめた、という間。そんな場面が何度もあった。


 噂は、音もなく広がる。


 誰かが直接何かを言ってくることはない。

 代わりに、会話が止まる。笑い声が一拍遅れる。俺が近づくと、話題が変わる。


 講義室の後ろの席に座ると、前の方でひそひそと声がした。


「……あの人でしょ」

「うん、LINEの」


 聞こえたのは、それだけだ。

 それで十分だった。


 俺はノートを開いた。ペンを走らせながら、昨日のメッセージを何度も思い返す。

 言い方がきつかったのは、わかっている。場も、最悪だった。


 それでも、後悔はなかった。


 昼休み、佐久間と並んで食堂に向かう。

 昨日までと同じ道、同じ時間。なのに、間に薄い膜が一枚挟まったような距離があった。


「なあ」


 佐久間が言いかけて、やめる。


「……何?」


「いや、別に」


 それ以上、続かなかった。


 食堂で席を探していると、別のサークルの知り合いと目が合った。

 手を振られそうになって、相手はそのまま視線を落とす。俺は気づかないふりをして、空いている席に座った。


 スマートフォンを開く。

 サークルのグループLINEには、新しい通知が溜まっていた。


〈C:Aは今日は休むって〉

〈B:しばらくミーティングも参加しないらしい〉

〈D:みんなで支えるって言ってたのに〉


 俺の名前は、出てこない。

 けれど、俺の言葉は、そこに残っている。


 佐久間が、ぽつりと言った。


「……正直さ」


 俺は顔を上げた。


「あの言い方は、きつかったと思う」


「うん」


 それだけ答えた。否定もしなかった。


 佐久間は少し困ったように眉を寄せる。


「お前が冷たい人だとは思わない。でも……」


 でも、の先は言わなかった。

 言わなくても、意味は伝わってくる。


 わかってほしかったわけじゃない。

 許してほしかったわけでもない。


 ただ、これでいいと思っていた。


 午後の講義が終わる頃、俺は学生相談室の前に立っていた。

 ドアの前で、一度立ち止まる。中に入る勇気が出なかったわけじゃない。


 名前を出さずに相談する方法を、昨夜調べた。

 支援窓口の一覧も、ブックマークした。


 それを、誰かに見せるつもりはなかった。


 誰かを突き放す言葉は、簡単だ。

 距離を取るのは、もっと簡単だ。


 それでも、完全に手放すことだけは、できなかった。


 相談室のドアノブに手をかけ、軽く息を吐く。


 俺のことを、冷酷だと思う人は、これからもいるだろう。

 たぶん、それは変わらない。


 それでもいい。


 全部を見せるつもりはない。

 けれど、一面だけで決められるほど、単純でもなかった。



Aが来ないことは、特別なことじゃなくなった。


 最初のうちは、誰かが気にしていた。

 講義が終わるたびに名前が出て、連絡が行き交い、心配の言葉が並んだ。


 けれど、一週間。

 二週間。


 空席は、ただの空席になった。


 サークルのミーティングでは、議題が先に進むようになった。

 「今日はAいないけど、どうする?」という確認もなく、話は自然に流れていく。


 人は、慣れる。


 俺はその様子を、少し離れた位置から見ていた。

 中心には入らない。けれど、完全に外れてもいない。曖昧な場所だ。


 昼休み、佐久間と並んで歩くことは減った。

 時間が合わなくなった、という理由にしては、減り方が急だった。


 学内の掲示板に、相談窓口のポスターが新しく貼られている。

 色の褪せた紙に、明るい言葉が並んでいた。


「一人で抱え込まないで」


 その前を通るたび、俺は足を止めかけて、やめる。


 グループLINEは静かになった。

 代わりに、別の話題が増えた。課題、飲み会、就活。日常だ。


 Aの名前は、ほとんど出ない。


 それが正しいのかどうか、俺にはわからなかった。

 ただ、予想していた通りでもあった。


 人は、ずっと誰かを支え続けられない。


 ある日の午後、講義棟の階段で、後輩に声をかけられた。


「あの……先輩」


「何?」


「ちょっと聞いていいですか」


 後輩は、少し言いづらそうに視線を泳がせる。


「Aさんの件で……先輩が、きついこと言ったって」


 噂は、形を変えて残っている。

 俺は一度、息を整えた。


「そうだね。言ったよ」


「……やっぱり」


 それ以上、何も聞かれなかった。

 後輩は曖昧に頭を下げて、その場を離れていく。


 俺は、追いかけなかった。


 夕方、学生相談室から出てくると、空が少し赤くなっていた。

 名前は出していない。誰の話かも、はっきり言っていない。


 それでも、言葉にすると、少しだけ軽くなった。


 キャンパスを歩きながら、スマートフォンを開く。

 個人宛の通知が、一件だけ来ていた。


 〈佐久間:今、少し話せる?〉


 俺は立ち止まった。

 既読をつけるまで、少し時間がかかった。


 Aがいなくなった日常は、もう動き出している。

 元には戻らない。


 それでも、何かが終わったわけじゃない。

 むしろ、これから何かが始まる気がしていた。


 俺は、短く返した。


 〈今なら〉


正直に言えば、俺はあいつのことがわからなくなっていた。


 前から、少し変わったところはあった。

 優しいけど、踏み込みすぎない。笑うけど、寄りかかってこない。

 それを「大人っぽい」と思っていたし、居心地もよかった。


 あの日までは。


 グループLINEに流れたメッセージを、俺は何度も読み返した。

 言葉だけ見れば、間違ったことは言っていない。

 でも、あの場で、あのタイミングで言う必要があったのか。


 Aは弱っていた。

 みんな、わかっていた。

 だからこそ、あの言葉は鋭く見えた。


 キャンパスで、あいつを見るたびに、周りの空気が少しだけ変わる。

 それに気づいていないはずがないのに、あいつは何も言わない。


 弁明もしない。

 冗談にもしない。


 それが、余計に怖かった。


 俺は、誰かが責められる空気が苦手だ。

 だから、できるだけ無難な側に立ってきた。

 優しそうな言葉を選んで、波風を立てないようにしてきた。


 でも、無難な言葉は、何かを守っているようで、何も守っていない。


 Aが来なくなってから、サークルは回っている。

 問題なく。驚くほど、普通に。


 それが、俺は少し、怖かった。


 昼休み、相談窓口のポスターの前で、あいつを見かけたことがある。

 立ち止まりかけて、通り過ぎる。その背中を、俺は見ていた。


 声はかけなかった。

 理由は簡単だ。確信がなかった。


 あいつは、本当に冷たい人間なのか。

 それとも、俺たちが見ているのは、ほんの一面なのか。


 考えているうちに、答えは出なかった。

 でも、一つだけ、はっきりしたことがある。


 わからないからといって、切り捨てるのは違う。


 それは、あの日あいつが言った言葉と、どこかで重なっていた。


 夕方、スマートフォンを握りしめる。

 連絡する理由を、頭の中で何度も並べては消す。


 最後に残ったのは、ただ一つだった。


 ——ちゃんと、話さないといけない。


 俺は、短いメッセージを送った。


 〈今、少し話せる?〉


 送信してから、画面を伏せる。

 返事が来るまで、思ったより時間がかかった。


 その間、俺はずっと考えていた。


 理解できなくてもいい。

 でも、一面だけで決めたくはなかった。



人と距離を取るようになったのは、大学に入ってからじゃない。


 高校二年の冬、同じクラスの友人が、突然学校に来なくなった。

 理由は、誰もはっきり知らなかった。


 最初は、みんな心配していた。

 グループチャットは毎日動き、誰かが必ず声をかけた。


「大丈夫?」

「無理しなくていいよ」

「いつでも待ってるから」


 俺も、その中の一人だった。


 放課後、友人の家まで行ったこともある。

 インターホンを押して、返事がなくて、帰った。


 それでも、できることはしたつもりだった。


 春が近づく頃、連絡は少しずつ減った。

 テスト、進路、部活。話題は変わっていく。


 誰かが言った。


「ずっと構ってるわけにもいかないし」


 その言葉に、反論できなかった自分を、今でも覚えている。


 卒業式の日、友人は来なかった。

 空いた席に置かれた花だけが、やけに目立っていた。


 数年後、風の噂で聞いた。

 あいつは、高校を辞めていたらしい。


 そのとき、胸に浮かんだのは、安堵だった。

 生きている。

 それだけで、十分だと思った。


 でも、同時に、強烈な無力感が残った。


 あれだけ「そばにいる」と言って、

 結局、誰も最後まで責任を取らなかった。


 それ以来、俺は考えるようになった。


 優しい言葉は、簡単だ。

 寄り添うふりは、もっと簡単だ。


 でも、それは本当に、相手のためなのか。


 誰かを支えるなら、限界を認める必要がある。

 自分が背負えないものまで、背負うふりをしてはいけない。


 それを、俺は学んだ。


 だから、線を引く。

 近づきすぎない。

 突き放す言葉も、必要なら使う。


 それが、冷酷に見えるなら、それでもいい。


 大学のキャンパスで、夕焼けを見上げながら、俺は思う。


 あのとき、もし誰かが、

 ただ優しいだけじゃない言葉をかけていたら。

 結果は、変わっていたのだろうか。


 答えは、出ない。


 それでも、同じことを繰り返すつもりはなかった。



佐久間と会ったのは、キャンパスの外れにある小さな喫煙所の前だった。

 俺は吸わないし、佐久間も吸わない。人が少なくて、話しやすい場所というだけだ。


 夕方の風は冷たく、コンクリートの匂いがした。


「急に呼んで悪い」


 佐久間が言う。


「いいよ」


 それ以上、言葉が続かなかった。

 沈黙が長引く前に、佐久間が口を開く。


「……正直さ」


 その言い出し方は、二度目だった。


「あのLINE、見たとき、怖かった」


「うん」


 否定しなかった。


「間違ってるとは思わない。でも、あの言い方は……」


「きつい」


「そう」


 佐久間は少し息を吐いた。


「俺たち、ああいうとき、優しい言葉を選ぶだろ。少なくとも、選んでるつもりでいた」


「うん」


「でもさ、あれを見て思ったんだ。

 もしかして俺たち、優しさを使って、何もしない言い訳してただけじゃないかって」


 俺は、少しだけ驚いた。

 佐久間の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかった。


「……それでも」


 佐久間は続ける。


「それを、あの場で言うのは、違うとも思う」


 風が吹き抜ける。

 遠くで誰かが笑っていた。


「たぶんさ」


 佐久間が、俺を見た。


「お前は、正しい。でも、正しさって、いつも人を救うわけじゃない」


「知ってる」


 即答だった。


「じゃあ、なんで」


「やめなかった?」


 佐久間の言葉に、少しだけ間が空いた。


「……自分が、同じことを繰り返したくなかった」


 それ以上は、言わなかった。

 高校の話をするつもりはなかった。


 佐久間は、俺の沈黙を責めなかった。


「全部、話さなくていい」


 その一言に、胸の奥が少しだけ緩む。


「でもさ」


 佐久間は続ける。


「お前が、全部わかってやってる人間だとも思えない」


「当たり前だろ」


「だよな」


 小さく、笑った。


 また、沈黙。


 完全にわかり合えたわけじゃない。

 誤解が全部解けたわけでもない。


 それでも。


「一面だけで、お前を切る気はない」


 佐久間が言った。


 その言葉は、慰めでも、許しでもなかった。

 ただの宣言だった。


「ありがとう」


 それだけ答えた。


 帰り道、並んで歩くことはなかった。

 でも、背を向けることもなかった。


 関係は、元に戻らない。

 けれど、壊れてもいない。


 それで、十分だった。



事件は、思ったより静かに起きた。


 就活が本格化し始めた頃、佐久間が代表を務めていたゼミのプロジェクトで問題が表面化した。

 メンバーの一人――仮にEとする――が、締切を何度も守れなくなった。


 理由は、曖昧だった。

 体調が悪い。気力が出ない。家の事情。


 誰も強くは言わなかった。

 言えなかった、の方が近い。


 最初は、フォローが入った。

 資料を肩代わりする人がいて、発表順を調整する人がいて、佐久間自身も深夜まで作業していた。


 それでも、限界は来る。


 会議室でのミーティング。

 空気は重く、誰もEの方を見ていなかった。


「このままじゃ、全員落ちる」


 佐久間が言った。

 声は低く、感情は抑えられていた。


「Eを外すのは、どうだろう」


 一瞬、時間が止まったように感じた。


「ちょっと待ってよ」


 誰かが言う。


「今、しんどいんでしょ」

「追い込むのは違う」


 佐久間は、すぐには答えなかった。

 資料に目を落とし、一度、深く息を吸う。


「支えることと、全部引き受けることは違う」


 その言葉は、よく整っていて、冷たかった。


「このプロジェクトは、個人の救済じゃない」

「全員の責任で、全員の評価に関わる」


 正論だった。

 逃げ場のない、正論。


 Eは、何も言わなかった。

 ただ、俯いたままだった。


 最終的に、Eはプロジェクトから外れた。

 決定は多数決だった。

 でも、引き金を引いたのは、間違いなく佐久間だった。


 その日の夕方、学内のカフェで噂が広がった。


「佐久間、冷たくない?」

「正論振りかざして切ったらしいよ」

「前にあった、あの件と似てるよね」


 ――あの件。


 俺のことだ。


 俺は、遠くの席でその会話を聞いていた。

 胸の奥が、ゆっくりと締めつけられる。


 その夜、佐久間からメッセージが来た。


〈今日の件、どう思う〉


 しばらく、画面を見つめていた。

 すぐに返事はできなかった。


 正直に言えば、俺も戸惑っていた。

 Eの顔が、Aと重なる。


 でも同時に、会議室での佐久間の声が、はっきりと思い出された。


 逃げずに、責任を引き受ける声だった。


 俺は、短く打った。


〈それだけで、お前の全部だとは思わない〉


 送信して、スマートフォンを伏せる。


 今度は、立場が逆だった。


 誰かが冷酷に見える選択をしたとき、

 それを一面で切るか、切らないか。


 その答えを、俺はもう知っていた。



学期の終わりが近づくと、キャンパスは少しだけ静かになる。

 履修の話題は減り、代わりに次の予定が増えていく。


 誰がどこを受けるか。

 誰が何を目指すか。


 人は、前を向いているふりをするのが上手だ。


 佐久間と話す頻度は、以前より少なくなった。

 でも、それは避けているからじゃない。

 必要以上に、近づかなくなっただけだ。


 あの事件以降、俺たちはお互いに、

 相手を「説明しよう」としなくなった。


 それが、かえって楽だった。


 Aのことを思い出すことは、まだある。

 Eの名前も、時々頭をよぎる。


 誰かを救えた、という実感はない。

 誰かを傷つけたかもしれない、という感覚だけが残っている。


 それでも。


 昼下がり、キャンパスの出口で佐久間と並んで歩いた。

 会話は、特別なものじゃない。


「このあと、どうする?」


「帰る」


「俺も」


 それだけだ。


 沈黙が続く。

 気まずさはない。


「なあ」


 佐久間が言った。


「前にさ……お前が言った言葉」


 俺は歩いたまま、続きを待つ。


「正直、まだ全部はわからない」


 少し間を置いて、佐久間は続けた。


「でも、一面だけで切る気はない」


 それは、宣言というより、確認だった。


 俺は頷いた。


「俺もだ」


 それ以上、言うことはなかった。


 評価は、これからも変わる。

 噂も、切り取りも、なくならない。


 それでも、全部を見せる必要はない。

 全部をわかってもらう必要もない。


 一面で決めない人間が、一人いればいい。


 それだけで、人は立っていられる。


 夕方の風が、少しだけ冷たい。

 俺たちは同じ方向に歩きながら、

 それぞれの距離を、ちゃんと保っていた。

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