第6話「名前」
「スローライフという言葉、こちらの世界にも広めていきたいです」
平和な世界で夢を描けることが、こんなにも幸せなことだと初めて知った。
「承知いたしました」
入り込んでくる風の音が、アトリーヌとして生き直す瞬間を祝福してくれているような気がした。
「その願いを叶えるためにも……」
手を伸ばす。
魔法使いヴァレミのときには、決して掴むことのできなかった勇者様の手。
その手に、魔法使いアトリーヌとしてなら触れることができる。
だから、手を伸ばしてみた。
「まずは、お金を貸してください」
勇者様に教えてもらったスローライフという言葉は、これからを生き直す私に相応しい言葉だと思った。
まるでスローライフという言葉を知るために勇者様と再会したのかなって、運命のような物語を思い描く。
でも、まだまだ私には人々の憧れには程遠い物語を歩むことしかできないらしい。
「金は有り余ってるから、欲しいものは遠慮すんなよ」
「ありがたきお言葉……」
魔法使いアトリーヌの手に馴染み始めている杖を一振りし、ところどころに張られた蜘蛛の巣を風精霊に払ってもらう。
「っていうか、勇者様。お水しか飲んでないのに、大丈夫ですか」
「アトリこそ、いつまで勇者呼びなんだよ」
「え?」
戦場では剣と魔法の力を駆使しながら、あんなにも華麗に敵を退けてきたはずなのに。
勇者様が長けていた才能は、あくまで戦うためのものだということを思い知らされる。
「……カイル様と呼んでほしいということですよね?」
「いや、その様付けもいらないって……」
勇者様は、魔法使いがいなければ雑巾一枚すら濡らすことができない。
ようやく発生した水を染み込ませた雑巾で、張り替えなければいけないような荒れ果てた窓硝子を拭いていく。
「無理です」
頬が赤く染まるような予感がして、自分の顔を隠すように両手で覆った。
「無理でも、呼んでみれば慣れるって」
「勇者様を呼び捨てにする人が、この世界にいるとでも……?」
「アトリが初めての人になればいいだろ」
とんでもない言葉を投げ込んでくる勇者様は、鋼の心臓をしているらしい。
勇者様は、私の名前を躊躇いもなく愛称で呼んでくる。
まだアトリーヌという名前に馴染んでいない私に対して、勇者様はさらりと滑らかにアトリという愛称を口にしてくるのだから驚かされる。
「っ、あ……」
「あじゃなくて、カだって。カ・イ・ル」
お客様をもてなすどころではないソファの布地をそっとなぞり、埃の積もり具合を確認していく勇者様。
物凄く大切な話をしているような気がするのに、私とは目線も合わせずに掃除を進めていく彼は何者か。
(さすがは世界を救った勇者様……)
彼の名前を紡ぎ出そうとするだけで、声が震えそうになる私の気持ちなんて知ったこっちゃないらしい。
それはそれで寂しいような気もするけど、単に私が勇者様という存在を意識しすぎなのだと勇者様に叱咤させられたような気になってくる。
「カイル」
「おっ、やっと呼んでくれた……」
勇者様が、振り向く。
優しさが含まれた表情を見て、心の中に小さな波が訪れたような気がした。
「カイル、まずは腹ごしらえをしましょう」
心の中に生じた波を鎮めようと努めていると、カイルの表情には優しさ以外の感情が含まれていることに気づく。
なぜなら、彼が振り向いたと同時に彼の言葉が止まってしまったから。
「カイル? どうかしましたか?」
「あ……いや……その……」
鼓動が速くなっていくのを抑えながら、勇者様を名前で呼ぶという新鮮さに心地よさを感じていく私。
一方の勇者様は、ふと目を逸らした。
「やっぱり不快だったんじゃないですか……国民から呼び捨てされて、嫌じゃない勇者様がどこに……」
「照れくさい……」
割れた鏡で、自分の顔を確認することすらしたくなかった。
きっと私は目を丸くさせて、口をぽかんと開けて、人に見せられないような驚いた表情をしながら顔を上げたに違いない。
「照れくさい……? 勇者様が、ですか?」
「いや、よくよく考えてみると……転生前、名前を呼んでくれたのなんて家族だけだなーと……」
また、心の奥で波のようなものが揺れた気がした。
心の中に波なんてものがあるはずないのに、さっきから私の心は勇者様に掌握されているかのように動きを見せる。
「私は正真正銘の、初めての人ってことですか」
今度は照れくさそうに、目を逸らす勇者様。
私を遠ざけたあとに、彼はしっかりと首を縦に振ってくれた。
「ふふっ」
「あー、名前呼ばれんの、こんなに恥ずかしいと思わなかった……」
また、心の中の波が揺れ動く。
「一緒ですね」
力の入っていなかった手に、ぎゅっと力を込める。
そして、小さく笑ってみる。
笑うってことと縁遠い毎日を送ってきたからこそ、笑顔が不気味なことになっていないか不安になる。
でも、笑顔を見せたいって思うからこそ、口角を上げられるように努めてみる。
「私も、勇者様とお話しするの……すっごく緊張していますから」
やっと、彼の照れた顔を拝めるようになった。
私たちの視線は交わって、どちらからともなく清掃作業を開始する。
「今日は、何を奢ってくださるんですか」
「っていうか、買い出しに行くのも一苦労な土地だよなー……」
「私は魔法使いなので、箒で空を飛べますよ」
「え、現実にそんなの可能……」
ご飯を食べるにしても、勇者様からお金を借りなければ腹を満たすことができない残念さに思わず口籠ってしまいそうになる。
「カイルの顔ばれを防ぐために、自給自足もいいですね」
「それ、スローライフらしい」
今日の天気が雨でないことが、せめてもの救いかもしれない。
日が沈むまでに、雨風を凌ぐだけの環境を整えるだけでも精いっぱい。
寝床を確保することすら大変なはずの私たちなのに、このあとも会話が弾みすぎて止まらなかった。
思わず寝るのも忘れてしまいそうになるほど笑った私たちは、宿屋に宿泊するお客様と勘違いしてしまうほど深い眠りに落ちた。




