第5話「新しい夢」
「どうした……えっと、あの……」
「失礼いたしました。私は、アトリーヌと申します」
ゆっくりと息を吐き出して、新しく始まる人生に希望を見つける覚悟と準備を整える。
「魔王討伐にもお呼びがかからなかった、しがない魔法使いでございます」
魔法使いヴァレミとして生きながらえたところで、勇者様に認知されるのは難しい。
魔法使いアトレーヌだからこそ、勇者様と巡り合えた。
そんな奇跡に対して、否定的な顔は見せたくないと思った。
「しがなくなんてないさ」
どこか遠くを見ていたような勇者様の瞳が、しっかりと現実を向き始めたのが分かった。
真正面で向き合うことで、勇者様の気持ちが伝わってくるような不思議な感覚に陥る。
「飲み水を確保できる。薬草を見つけ出すことができる。生きていくための才だ」
理想とはかけ離れた現実を生きているはずなのに、勇者様は柔らかな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
あまりにも真っすぐな言葉を向けられて、思わず視線を逸らしてしまいそうになった。
でも、逸らしてはいけないとも思った。
「さて、俺は安住の地でも探しに……」
「お待ちください」
宿屋は始まってもいないけれど、なるべくなら宿屋の経営者らしく優しい笑顔と声を自分の中から引き出せるよう努める。
「これから宿を始めようと思っているんです」
その昔は石造りの暖炉では小さな炎が揺れ、訪れる旅人たちを暖めるために宿屋全体を優しく照らしていたはず。
炎の明かりが灯る気配もない暖炉に向けていた視線を、勇者様に戻す。
「傷ついた冒険者を癒す宿ではなく、訪れた人の心を癒すための宿屋を目指しています」
村人の笑い声も、子どもたちの明るい声が聞こえてくることもないけれど、世界を照らす太陽の存在があるだけで世界が幸せに包まれて喜んでいるようにも思えてくる。
「今は、こんなお宿ですけど……勇者様が世界を二周……いえ、三周するくらいには立派な宿屋になってみせます」
魔法使いヴァレミとして生きてきた頃は、魔王と戦うために魔法を使ってきた。
でも、アトリーヌとして新しい命を授かった今なら、この平穏の中で自分が描いた未来のために日々を生きることができる。
「また、お越しください」
きっと平和に慣れていない私は、迷うこともあると思う。
自分の人生に対して迷子になることもあるだろうけど、そんな未来への不安にすら輝かしい笑みを浮かべれる気がする。
「そのときは、紅茶を一杯ご用意できるように……」
「温泉……」
「オン、セン?」
勇者様の口から、何やら聞き慣れぬ単語が飛び出してくる。
「転生前の世界にあった、特別な癒しの場のこと」
「特別な癒しの場……それです、私が目指しているものは!」
勇者様の目を見つめると、彼は柔らかく微笑んで、手を伸ばした。
「金なら、いくらでも払う。その宿屋に、俺を宿泊させてくれ」
勇者様の優しい声色が、頼もしい声色へと変わっていく。
「……って、まだ準備できてません! 宿屋は、この有様で……」
両手を大きく広げ、自分が寝る場所を確保することすらできていない惨状を理解してもらう。
でも、勇者様が私に差し伸べた手を下げることはない。
「宿を整えるには、金が必要だろ?」
魔王討伐軍の後方にいた私は、こんなにも企みある顔をした勇者様の顔を拝見したことがない。
でも、その企みある表情に感じるのは不信さではなく、未来への希望のような煌く頼もしさ。
「何部屋かある部屋のうちの一室を、永久に借りたい」
「それって、勇者様の安全が保障されることが前提ですよね」
「客一人の利益を保証してほしかったら、俺の安全を保障してくれ。魔法使いさん」
差し出された手を、いつまで経っても取らないのは無礼に当たるのか。
でも、あまりにも勇者様の負担が大きい提案を飲み込むことができない。
「うー……スードの村でのお客様は貴重……」
「ほらほら、部屋の修繕費に食費に生活費。必要だろ?」
「お金は欲しいです。でも、そうがつがつお金を稼ぎたいという意欲はなくて……」
「スローライフって言葉、こっちの世界にもあるか?」
またしても自分の聴覚に飛び込んできた言葉は聞き慣れないもので、勇者様が生きてきた世界を知るために異世界転生をしてみたいって気持ちが生まれてくる。
「時を操る魔法か何かですか?」
「違う。スローライフっていうのは、時間に囚われない丁寧な暮らしをすることを指す」
早く、勇者様の手を取りたい。
でも、その手を取ってもいいのかと躊躇ってしまうのは、元勇者様の配下だからなのか。
それとも、勇者様をおもてなしする自信が自分に欠如しているからなのか。
「魔王が討伐された世界で、スローライフ生活を送りたい」
宿屋に入り込んでくる隙間風が、平和な世界には穏やかさを感じさせる風があることを教えてくれる。
遠慮することなく入り込んできた隙間風が勇者様の黒髪を揺らし、風が勇者様の味方になったかのような感覚に惚れこんでしまいそうになる。
「客一号として、もてなしてくれないか」
きっと勇者様は、私が営む宿屋に宿泊しなくても数えきれない婚約者候補からの鬼ごっこを勝ち抜くことができる。
それだけの力も財力もあるはずなのに、わざわざ私が営む宿屋を選んでくれたことに運命を感じた。
「異世界には、とても……とても素敵な言葉があるんですね」
馴染みのない言葉を耳にしたときの、くすぐったさが自然と表情に表れている気がする。
「こっちの世界は、魔王との戦争が続いてたからな」
女神様が言った通り。
勇者様がおっしゃった通り。
この世界が、平和という言葉に満たされていることを実感し始める。
「丁寧な暮らし……そんな生活、ずっとずっと夢見てきました」
「いいよな、時間に囚われない丁寧な暮らしって」
勇者様と、私の夢が重なる。
魔王討伐という夢を抱えてきた二人が、新しい夢を描けたこと嬉しく思う。




