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大革命  作者: ふぁる
9/14

尾上若菜の不幸①

「わざわざお見舞いなんて、良かったのに。仕事、頑張っていて忙しいんでしょう?」


 病院のベッドの上でパッと花が咲いた様な笑みを浮かべて、若菜は申し訳なさそうにそう言った。

 ほとんどが白くなった髪を無造作に一本に束ね、パジャマの上には着古したカーディガンを羽織っている。

 自宅にいる時も、彼女はいつもそのカーディガンを着ていた。袖はよれよれで、若草色の糸で編まれたものであるが、元の色は恐らくもっと深い色であったに違いない。


 幸太朗が十七歳の時、児童養護施設から出て数カ月間だけ里親の元で生活していた期間がある。

 その時世話になった里親こそが若菜なのだ。

 彼女は児童養護施設の学習支援ボランティアとしても活動しており、里親歴も二十年近くとベテランだった。


「お見舞いくらい、どうって事無いです。僕が来たくて来ているんですから」


 幸太朗が見舞いに来る少し前にも、若菜の元から巣立って行った里子が見舞いに来ていた。身なりもしっかりとしていて、幸太朗に対しても愛想が良く、笑顔で会釈をして帰って行った。


——若菜さんに恥をかかせるわけにはいかない。僕もしっかりしないと……。


 幸太朗は若菜が座るベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰かけて、ぎゅっと拳を握り締めた。


 若菜には、会社をクビになった事など絶対に言えない。あの職場は、彼女からの口利きがあって入社する事が出来たのだから。

 だからこそ頑張りたかったし、少しでも役に立ちたかった。あの会社で頑張る事に意味があったのに、結果的には若菜の顔に泥を塗る事になってしまった。


 それも、濡れ衣を着せられたとはいえ、汚職による懲戒解雇という不名誉極まりない理由なのだから。


 情けない思いが募り、彼女が病に倒れて入院したという知らせを受けても、幸太朗は暫く見舞いに来る事が出来なかった。


「外は暑いでしょう? 病院の冷房の調子が……」


 救急車のサイレンの音が外で鳴り響き、若菜は言葉を止めた。心配そうに眉を寄せ、窓の外へと視線を向けた。


「多いわね。今日は暑いからかしら。幸太朗君も気を付けるのよ?」

「はい、心配してくれて有難うございます」


素直にそう言った言葉を聞いて、若菜は優しく微笑んだ。


「……高校卒業まで一緒にいられなくて、ごめんなさいね」


寂しげに言った言葉に、幸太朗は首を左右に振った。


 幸太朗が里子として若菜の家で生活をしていた時、彼女とその夫の二人が交通事故に遭ったという知らせを受けた。二人が青信号を横断中、信号無視した車が突っ込んだという状況の様だった。

 里親として身体が資本だと考え、健康の為二人で散歩に出かける事を日課としていたのだ。


 若菜の夫は口数こそあまり多くは無かったものの、いつもニコニコとしてどっしりと構えており、優しい男だった。そんな彼はほぼ即死状態だったのだという。

 若菜は身体の至る所に骨折を負ったものの、一命は取り留めた。しかし、里親としての活動を続けることは困難となり、幸太朗は施設へと戻る事を余儀なくされたのだ。


「若菜さんには感謝しています。僕は何も知らないまま社会に出るところでしたから。数カ月間だけとはいえ、お世話になった事で考え方を多少なりとも改めるきっかけになりましたから」


 幸太朗が生活していた児童養護施設の職員は、『親』ではない。そして、学校の『先生』でも無い。規則正しい生活を送っているかを見る、『看視者』だった。彼等から与えられるのは愛情でも教えでもなく、規則を守らなかった事への罰でしかないのだ。


 『学校で教えられない事』というものは数多くあり、寧ろその内容の方が社会に出た後に必要となる情報であることが大半だろう。幸太朗は運良く里親である若菜の元で多少なりとも学ぶ事が出来たが、何も知らないまま世間に放り出される者も多く存在する。


 その中で最も知らずにいる事は『甘える』という行為だろう。


 施設で生活を送る子供達は、非行に走る事などない。

 そもそも非行に走る理由は、悪い意味でも親に注目して欲しいという『甘え』からきている行為だ。しかし、彼等には『甘える』相手がいないのだ。悪い事をすれば『罰』だけが課せられる。


 それは刑務所の囚人と刑務官といった関係性と変わらない様なものだった。勿論、全ての施設がそうであるとは言えないが、幸太朗の施設は少なくとも『そう』だったのだ。


「僕の記憶にある『大人』は、罰を与える恐ろしい存在でしかありませんでした」


 俯いたまま、幸太朗が言った。首筋に幼少期に負った火傷の痕が見える。


「だから僕も、そうならなきゃいけないのかと思っていたくらいです」


愛想笑いを浮かべながらそう言った幸太朗に、若菜もふふっと小さく笑った。


「『愛情』を学ぶ機会が無かったのだから、仕方の無い事よ。自分を責めては駄目。貴方は何も悪く無いのだから」


コホコホと咳き込む若菜に、幸太朗は慌てて水を手渡した。パイプ椅子から立ち上がり、彼女の背を優しくさすってやる。


「手術は何時(いつ)ですか? 僕、立ち合いたいんです」


——恩返しがしたい。『革命の指輪』があれば、僕の幸福を若菜さんに分けて、手術が成功するはずだ。若菜さんが元気なら、僕だって幸福なはずなんだから。


 若菜は困った様に力無く微笑んだ。


「難しい手術なのよ。貴方は来ない方がいいわ。きっとがっかりさせてしまうから」

「そんな事言わないでください。若菜さんは今まで僕の様な人を沢山救ってきたんですから。絶対に、手術は成功しますよ」


 幸太朗は若菜の手術日程が三日後の朝九時からである事を聞き出すと、決心した様に頷いて病院を後にした。


 外は相変わらずうだるような暑さだ。忙しなく鳴く蝉の声が、一層暑苦しい。


 出来るだけ日陰を選んで歩いていると、遠目にも見目麗しいと分かる青年が、幸太朗の姿を認めてニッと笑みを向けた。


「崇己さん。僕の後をつけてたんですか? 今日は指輪の力を使っていないのに」


幸太朗の言葉に崇己はあからさまに気分を害したといった風に顔を顰めた。


「人聞きの悪い事を言わないで欲しいものだね。私はこのエリア担当の審判員(ジャッジメント)だよ。キミだけに構っていられるほど暇じゃない」

「でも、偶々にしては随分タイミングが良すぎませんか?」


崇己は肩を竦めると、「少しキミに用事があったからね」と言ってため息をついた。


「ひょっとして、福二朗の事で分かった事でもあったんですか?」

「いいや、そうじゃないよ。ただちょっと……」


 蝉が木から飛び立ち、幸太朗におしっこをかけて行った。崇己は顔を顰め、歩み寄る歩をピタリと止めた。


「汚くは無いのかもしれないけれど、でもなんだか汚いね」

「……いつもの事ですけど、僕もそう思います」


 苦笑いを浮かべた幸太朗に、崇己はくるりと踵を返しながら、「暑くて堪らないね。喫茶店にでも行こうか」と言ってついてくる様にと促したが、ふと立ち止まって手の平を幸太朗へと向けた。


「離れて歩いてよね? キミの不幸の巻き添えを食うのは真っ平だから」


崇己の様な容姿端麗の男性に蝉のおしっこや鳥の糞は似合わないと思い、幸太朗は苦笑いを浮かべながら申し訳なさそうに距離を置いた。


 カンカン照りの日差しは皮膚に当たるだけで焼け焦げそうな程に熱い。出来る限り日陰を選んで歩いていくと、崇己は一瞬だけ振り返ってここへ入るぞと視線を向けた後、カフェの中へと入って行った。

 幸太朗も続いて入っていくと、店内は混雑しており、学生やサラリーマン風の男など、比較的若い年齢層の客でごった返していた。

 人混みを嫌いそうな印象の強い崇己が、混みあった店を選んだことを意外に思いながら、促されるまま席に着くと、「私は飲み物を買って来るよ。キミはコーヒーでいいかい?」と言って、颯爽とカウンターへと向かって行った。


 ふと、カウンターの横に陳列されているデザート類の中に、キャラメルナッツタルトを見つけ、幸太朗は——美味しそうだな——と、ごくりと唾を飲み込んだ。


 だが、今はそんな贅沢をしている余裕はない、と考え直し、崇己が戻って来るのを黙って待つ事にした。


「お待たせ。レジが混んでて参ったよ。わけのわからないドリンクらしき何かを注文する客が多くてね」

「崇己さんがこんな混雑している場所を選ぶだなんて意外です」


幸太朗の言葉に、彼は灰色の瞳を細めて僅かに得意気な顔つきをしながら席へと着いた。


「こういうところの方が話すには最適なのさ。どうせ周りは自分の事でいっぱいで、他人の事になんか興味を持っていないだろうからね。静かな喫茶店だと、暇人が多いからそうはいかないだろう?」


 アイスコーヒーを手渡しながら崇己はさらりとそう言うと、お金を払おうとする幸太朗を断って、自分のホットコーヒーのカップを手に持ち、一口飲んだ。

 真夏だというのに、よくそんな熱いものを飲むなと思いながら、幸太朗は「いただきます」と言ってアイスコーヒーを一口飲んだ。


「相沢拓斗から連絡があってね。私のアシスタントとして雇用することにしたよ」


 崇己の言葉に、幸太朗はアイスコーヒーのストローを口に咥えたまま、視線を上げた。


——拓斗さん、大丈夫かな。崇己さんは優しいけれど、優しくない時があるから……。


「何? その複雑そうな顔は」

「いえ! あ、良かったです。拓斗さんが無事就職先が決まって!」

「……キミ、他人の事言ってる場合じゃないんじゃないの?」


 痛いところを突かれ、幸太朗は「うっ」と顔を顰めた。

 崇己はスマートフォンを操作しながら鼻を鳴らし、チラリと幸太朗を灰色の瞳で見た。


「相変わらずキミは不幸な様だね。安藤小春の子供を助けたってのに、幸福がちっとも減っちゃいない」


崇己はホットコーヒーを一口飲むと、「そうそう……」と思い出した様に言った。


「相沢拓斗が、キミと話したがっていたよ。連絡先を教えて良いか聞こうと思って電話したんだけれど、キミ、電源切っていないかい?」

「あ、実は僕、スマホを落としちゃって……」

「は!?」


崇己は呆れた様に片眉を下げると、深いため息を吐いた。


「買いなおそうにも、先日お財布も落としちゃったから身分証の発行に手間取ってて……」


恥ずかしそうに言った幸太朗に、崇己はジャケットの内ポケットから真新しいスマートフォンを取り出し、幸太朗へと差し出した。


「キミと連絡がつかないんじゃ困るからね。暫くの間これを使っていてもいいよ」

「いいんですか!?」

「私が困るからだよ!!」


 幸太朗は嬉しそうにスマートフォンを受け取ると、「僕、必ず崇己さんを幸せにしますから!」と言ったので、崇己は「その言い方止めてくれって言ってるだろう!!」と、悲鳴の様に叫んで、鳥肌が立った両肩をガシガシと撫でた。


「それで、キミにひとつ伝えておかなきゃならない事があってね」


崇己はホットコーヒーを一口飲んで小さくため息をつくと、灰色の瞳を幸太朗へと向けた。


「尾上若菜。彼女の病を治すことは止めておいた方が良い」


 その言葉に、幸太朗は唖然として崇己を見つめた。


 手に持ったアイスコーヒーのプラスチックのカップから、水滴が零れ落ちてテーブルへとポタリと落ちた。

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