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大革命  作者: ふぁる
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安藤小春の不幸①

 幸太朗の住まいは、父親が生前購入した古いマンションだ。児童養護施設で育った幸太朗には後継人が無く、賃貸住宅を借りる事もできない。父親が殺されたその住居で生活することを余儀なくされている訳だが、当然ながら過去の記憶がフラッシュバックし、居心地が良いとは決して言えない。


 高校時代に必死にバイトをして貯めた貯金で家具類は必要最低限買い替えたが、エアコンはそのままであった為、うだるような暑さの中だというのに生ぬるい風しか送ってくれなくなってしまった。


 涼を取りつつハローワークで仕事を探す為に出かけた訳だが、高卒で何のスキルや資格を持っていない立場は思いのほか厳しい。その上前職では上司の汚職に巻き込まれ、懲戒解雇処分を受けているものだから尚更だ。

 馬鹿正直にも退職理由を『懲戒解雇された為』などと書くものだから、普通の企業であれば書類の段階で落とされてしまう。その上左頬や首には酷い火傷の痕があるものだから、面接までこぎつけても不利であることこの上ない。


 渋い顔をするハローワークの担当職員の前ですまなそうに座る幸太朗は、エアコンが効いていて涼しいはずだというのに暑くて堪らず、背を伝う汗の不快さに耐えていた。


「数社に書類を送ってはみたんですけれどね、中途採用はどうしても有資格者やスキルが無いとなかなか……」


 職員の言葉を聞きながら、幸太朗は溜息を洩らした。


——この人、僕なんかの担当になってなんだか申し訳無いな。


「職業訓練を受けてみてはどうですか?」


職員の提案に、幸太朗は俯いた。住まいがあるとはいえ、すぐにでも仕事に就かなければ貯金が底をついてしまう。措置入院として精神病院に居る母親の医療費の負担もある為、社会人となった今、アルバイトをしつつ職業訓練を受けている余裕は無い。


「……検討します」


 ため息交じりにそう言ってハローワークを後にし、うだるような暑さの中へと身を投じた。一分も経たないうちからじっとりと汗がにじみ出し、ポケットからハンドタオルを取り出す頃には背中を汗の雫がダラダラと伝った。

 額や首筋の汗を拭きながら街道を歩いていくと、颯爽と早歩きする女性の姿が目に留まった。


「安藤さん!」


 幸太朗が手を振って女性に声を掛けた。彼女はピタリと脚を止めると、まるでお化けでも見る様な視線を幸太朗へと向け、唇が僅かに開いたが、言葉を発する事もできずに呆然としていた。

 安藤小春(あんどうこはる)。都内に住むシングルマザーだ。残業対策の為に保育時間の長い私立保育園に子供を預けながら、幸太朗が解雇された会社に勤務している事務員だった。


「こんな時間にどうしたんですか?」


 幸太朗は安藤の様子を気にせずに話しかけた。今日は平日で、時刻は14時を過ぎた所だ。いつもならばまだ安藤は勤務時間中であるはずだった。


「あ……須藤君、よね? ごめんなさい、私、今急いでいて。子供が熱を出したって、園から連絡があったの」


 気まずさと慌てた様子とが入り混じった声色で安藤はそう言うと、チラリと視線を幸太朗の後方へと向けた。ハローワークから幸太朗が出て来たということを認識したのだ。

 幸太朗が会社から懲戒解雇されたのは周知の事実だ。だが、幸太朗が上司の汚職に巻き込まれただけであるという事実を、安藤が知っているかはわからない。少なくとも面倒ごとには極力関わり合いになりたくないと考えるのは当然だろう。

 だが、幸太朗はそういった部分をいまいち意識できない性分だ。久々に安藤の顔を見れたという喜びから、半ば衝動的に声を掛けたのだ。


「呼び止めてしまってすみませんでした。お子さん、心配ですね。急いで迎えに行ってあげてください」


 幸太朗はそう言いながらも、安藤の子供が少し羨ましく思った。自分には熱を出しても迎えに来てくれるような親が居なかった。


 安藤はうんざりした様にため息を洩らした。その様子がどこか疲れた様に見えた。


 手のかかる小さい子供を、女手一つで育てるのは本当に大変な事だ。熱を出す度に呼び出されては、仕事に支障を来す為、職場からは厄介がられる。ただでさえ少ない就職先から解雇されない様にと、必死になって仕事を熟したところで評価などされない。


「熱なんて、しょっちゅうなのよ」


 僅かに苛立ちを見せてそう言い残し、立ち去ろうとした安藤の背に、幸太朗が再び呼びかけた。


「安藤さん、あの……。僕に何か手伝えますか?」

「え?」


幸太朗の意外な言葉に、安藤は眉を寄せた。


「どういう意味?」


不審そうに言った安藤に、幸太朗は困った様に頭を掻いた。


「ええと、僕、暇なんです。だから……」


――しまった。不審に思われちゃったかな。


幸太朗はお節介と親切の境界が上手く図れない。根っからのお人好しで、『顔見知りである』というだけで他人との距離感がやたらと近いのだ。

 安藤とは同じ会社であるとはいえ、普段から会話を交わす仲ではなかった。


「……分かったわ。じゃあ、一緒に来て」


少し怒った様な、泣きそうな顔をして安藤はそう言うと、再び早歩きを始め、幸太朗は慌ててついて行った。


◇◇


 半べそをかいている子供を抱いた安藤を助ける様に、幸太朗は古びたアパートのドアを開けた。途中で買った、スポーツドリンクや冷却シートが入った袋を腕にぶら下げた幸太朗の横を素通りし、安藤は颯爽と子供を抱いたまま室内へと入って行った。

 どうしたものかと玄関先で佇んでいる幸太朗に、「須藤君も入って」と声を掛けたので、幸太朗は遠慮がちに「お邪魔します」と言って部屋へと上がった。


 室内はお世辞にも片付いているとは言えない状態だった。子供が遊んでいた玩具が散乱したままとなっており、テーブルの上は広告やらダイレクトメールが乱雑に置かれている。

 キッチンには洗っていない食器が水に浸かった状態で放置されていて、捨て忘れたゴミ袋が一つ、隅に置かれていた。


「適当に座っててくれる?」

 

安藤が寝室から子供を寝かしつけながら声を放ち、幸太朗は「はい」と答えたものの、ソファの上もカーペットの上も、雑誌類が散乱しており、座る場所が無かった。仕方なく窓の外の風景を見るふりをしながら立っていると、安藤がリビングへと戻って来た。


「散らかっていてごめんなさいね」


 疲れた様子でそう言うと、テーブルの上の紙類を端に寄せ、冷蔵庫から麦茶を出して幸太朗へと促した。


「頂きます」


 そう言った幸太朗の前で、安藤は気だるそうに前髪を掻き上げて、椅子へと腰かけた。深いため息を吐き、テーブルの上に置かれていた煙草を手に取り、火を灯す。フゥーっと吐いた煙が広がり、幸太朗は——崇己さんの吸うシガーの匂いとは全然違うな——と密かに思った。


「ダメな母親だなって思っているでしょう?」


 安藤が自嘲気味に笑いながら言った。


「仕事と子育て、家事を全部やるなんて、私には無理なのよ。皆は偉いわ。ネットで愚痴を言おうものなら『私は完璧に出来てる』なんてご丁寧に綺麗な部屋の写真まで見せ付けてくるんだから。『もっとしっかりしないと』だの、『責任感が足りない』だの、『欲しくて産んだ子供だろう』だの、うんざりだわ。そんなの解ってるのよ」


 心が病み、たった一人で疲れ果て、縋る様に投稿した内容を嘲笑う。相手を思いやる心を欠いた、現代社会特有の虐めである。無論、虐めている側というものは自覚が無い。ただ自分の承認欲求を満たしたいだけなのだろう。


 幸太朗は麦茶を一口飲むと、「すごく美味しいですね!」と言って微笑んだ。


「ただの麦茶じゃない。特別なものでもなんでもないわ」


 バカにしているのかといった様子で安藤が煙草を吸い、煙を吐いた。


「特別なものである必要なんかありますか?」


 幸太朗はそう言うと、もう一口麦茶を飲んだ。


「暑い夏に、家に帰ると冷蔵庫に麦茶があるだなんて、安藤さんのお子さんは幸せです」


 安藤が否定的な言葉を言おうとした時、俯いた幸太朗の首筋や左頬の火傷の痕が目に入った。幸太朗が何故火傷を負ったのか、その理由を安藤は知らなかったが、反論する気を失って口を噤むと、幸太朗が言葉を続けた。


「安藤さんが、お子さんの発熱を聞いて迎えに来てくれる。それだって、とても幸せなことじゃないですか」

「母親だもの、当然だわ! でも、仕事の邪魔だし、正直煩わしいのよ!」


ヒステリックに声を荒げた安藤に、幸太朗は静かに言葉を続けた。


「それでも、迎えに行ったじゃないですか。煩わしいと思っていても、暑い中抱いて家まで連れ帰ったでしょう」


本当は、幸太朗に預けたかった。それを期待して手伝いを申し出た幸太朗を断らなかったのだが、いざ発熱に苦しんでいる我が子を見た時、そんな気持ちは吹き飛んでしまっていた。


「……僕の母は、迎えに行くどころか保育園や幼稚園に入れず、僕を暗い押し入れの中に閉じ込めました」

「え……?」


唖然とした安藤の前で、幸太朗は困った様に微笑んだ。


「この火傷も、母の仕業なんです。安藤さん、特別な事なんて要らない。子供にとって必要なのは、普通の事なんです」

「でも、私。普通の事だってできていないわ。部屋だって散らかっているし……」

「部屋が少し位散らかっていたって、危険な物や不衛生な物が散らかっているわけじゃないでしょう。置かれている雑誌も、全部お子さんに関係があるものばかりです」


 数冊ある旅行雑誌は、子供の遊び場がある特集の物。散乱していたチラシ類は、子供服の特売や、スーパーの物だ。


「僕、子育てをしたことないので、偉そうなことなんて何も言えないんですけど」


急に申し訳なくなって幸太朗はそう前置きをすると、照れた様に頭を掻いた。


「お子さんは、いつまでも小さいままじゃないですし、手がかからなくなるにつれて少しずつ家事なんかも整えていけばいいんじゃないですか? ええと、子供の成長と一緒に、親へと成長していくみたいな……」


幸太朗はそう言ったあと、「う、やっぱり偉そうですよね、すみません」と、小さく頭を下げた。

 安藤はぽかんとしながら幸太朗の様子を見つめており、火が灯って短くなった煙草に「熱っ!」と言って、慌てて灰皿に捨てた。


「須藤君、有難う。私……」


 安藤の言葉を遮って、寝室から子供の泣き叫ぶ声が轟いた。


 尋常ではない泣き方に安藤は飛んでいき、幸太朗も迷いつつ寝室のドアの側まで向かった。


「痙攣してるわ! 須藤君、救急車を呼んで!!」

「は、はい!!」


 幸太朗は慌ててスマートフォンを取り出すと、テーブルの上に置かれていた郵便物の住所を頼りに電話をかけた。

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