空乃崇己の不幸
身体のどこも痛くない日など無かった。
児童養護施設への入所が決定するまでの間、親からの虐待を日常的に受けていた幸太朗は、毎日が恐怖に包まれていた。言葉はどもり、四歳になってもおねしょ癖が治らなかった。母親に見つかると折檻を受ける為、何でもないふりをして過ごしているうちに、寝具はカビだらけになっていた。
それでも、機嫌が良い時の母親は「幸ちゃん」と、愛しげに呼んでくれる事もあり、まだ小さい幸太朗はそれに縋らざるをえなかったのだ。
平手打ちで鼓膜が飛び、右耳の聞こえも悪いというのに……。
『ごめんなさい。悪かったわ。どうか赦して頂戴』
父を殺した殺人者である母親から届いた手紙に書かれていた文章だ。数回届いた手紙は、長ったらしく言い訳が書かれていたが、決まって最後にその文章が書かれていた。
幸太朗は母親だけではなく、父親からも虐待を受けていた。手紙の言葉の意図をどう読み取れば良いのか分からず、一度も返信していない。
——『赦して』って、一体何を? 僕を愛せなかった事? それとも、産んだ事?
年を負う毎に疑念が膨らんでいく様だった。幸せそうな家族連れを見る度に、どうして自分は愛されなかったのだろうかと考えて、答えなど出るはずもなく、自分に価値が無いからなのだと思う事で無理矢理に納得させようとした。
——僕なんか、生まれて来なければ良かったのに。
その考えは、常に幸太朗の中に居座り続けている。人に褒められても、そのまま受け入れる事が難しい程に強固な劣等感を植え付けてしまったのだ。
◇◇◇◇
「嘘だろう!? 電線も無ければ木も無いってのに、どうしてこんな状態になるのさ!?」
ファミリーレストランの駐車場へと向かった崇己は、駐車していた自分の車を見て悲鳴を上げた。白い高級スポーツカーが鳥の糞まみれになっていたのである。勿論、周囲の車は綺麗なままで、崇己の車だけがピンポイントで爆撃を受けているのだ。
ペチャリ。
幸太朗は「……あ。油断した」と言って、たった今爆撃を食らった肩を白く染めながら、ため息を洩らした。それを見て崇己は憤然として人差し指を突きつけ、端麗な顔を歪めた。
「ちょっと! その状態で車に乗せないからね!?」
「はい。公園の水道で洗い流してきます……」
と、近くの公園に向かおうとして、落ちていたバナナの皮に滑り幸太朗は派手に転び、ベチャリと犬の糞の上に座ってしまった。
「……絶対に乗せないよ?」
崇己に冷たい目を向けられながら、幸太朗は「……はい」と項垂れた。
「キミって、不幸過ぎてどんどん幸福が溜まっているんだね。それにしたって異常な位に幸福が減らな過ぎだけれど」
「あ、あの車。危ないな……」
「……は? なにがさ?」
幸太朗が向ける視線の方向へと崇己が振り返ると、危なっかしい動きの車の様子を認めた。
「放っておきなよ」
「でも、他の車にぶつけそうだし……」
「キミには関係ないことだろう? それより、その恰好はどうする気なのさ? 他人の事よりもまずは自分の不幸をどうにかしたらどうなのさ」
崇己の言葉を他所に、幸太朗は颯爽と立ち上がり、駐車場に入って来た車の誘導をしはじめた。そしてそのまま足が悪いお年寄りの手伝いをしたり、炎天下の車中に置き去りにされているペットを見つけ、店内に声を掛けに行ったりと、忙しなく動き出した。
お礼だと言って車に積んだまま忘れ去られていた古びたジャージを貰い、無事崇己の車に乗せて貰える状態になると、幸せそうに微笑んで「これも指輪の力ですか?」と言うものだから、崇己は呆れ果てながらも「どうぞ」と乗車を促した。
「……成程ね。馬鹿がつく位の『お人好し』だから、幸福が更に溜まっていくって訳か。その上他人の為に自分の幸福を使うという行為では、溜めた幸福の減りが些少ときた。キミの幸福が減らない訳が分かったよ」
ふくれっ面をしながら崇己は車に乗り込んでそう言うと、「帰ったら洗車手伝ってよね!?」と言って発進させた。
「僕は、『お人好し』なんかじゃありません」
幸太朗は何かに耐えるかのように俯きながらそう言って、ぎゅっと拳を握り締めた。崇己はあれこれ聞くのも面倒だと思って、聞こえないふりをした。
暫く無言のまま車を走らせていると、幸太朗が口を開いた。
「この指輪、やっぱり本物だったんですね」
ポツリとそう言って、幸太朗が手の中の指輪を見つめた。カタカタと小刻みに身体が震え出し、押さえつける様にぎゅっと指輪を握り締める。
「今更怖くなってきました。もし本物じゃなかったら、拓斗さんと一緒に僕は死んでいたかもしれないのに」
「今更かい!? ……まあ、キミの無鉄砲さには正直驚かされたよ。他人の為に、一瞬の躊躇無く命を投げ出すヤツなんて初めて見たからね」
幸太朗は乾いた笑いを発すると、「僕の命に大した価値なんか無いですから」と言った。
「キミは、物心ついた頃には親から虐待を受け、施設で育っているからね。自分の命の価値観を、誰からも教えられる機会が無かった。それでも、他人の命は自分と同等に価値のないものだとは思っていないようだね」
「どうでしょうか。自分ではよく分かりません」
指輪を握り締めながら、ふぅっと息を吐き、幸太朗は自分を落ち着かせようと努めていた。
——あの時、拓斗さんが死んじゃうって思った瞬間。痛いくらいに心臓が強く鼓動した。あれは一体どうしてだったんだろう? まるで自分の心臓に急き立てられたかのように、僕は拓斗さんに向かって駆け出したんだ……。
恐る恐る胸の辺りに触れてみた。緊張の為かドキドキとした鼓動が手に伝わる。
「キミさ、咄嗟に相沢拓斗を助けたはいいけれど、その先の事を考えたかい?」
崇己に言葉にハッとして、幸太朗はそろりと視線を向けた。
「あの……崇己さんは、拓斗さんから連絡が来たら、どうするつもりなんですか?」
「雇い入れようかなと思っているけれど?」
「え!? 審判員にですか!?」
素っ頓狂な声を上げた幸太朗に、崇己は鼻を鳴らして眉を寄せた。
「まさか。誰にでも出来る事じゃないからね。彼には私のサポート役にでもなってもらおうかと思っているよ。試したい事もあるし」
「……試したい事ですか?」
「まあね」
下り坂に差し掛かり、崇己は車のレバーを左に倒し、マニュアルモードへと切り替えてパドルシフトでシフトダウンをさせながらうまくエンジンブレーキを使い、急カーブを難なく曲がっていく。手慣れた運転は安定感があり、乱暴さは全く感じられず、丁寧に思えた。
「崇己さん、運転上手ですね」
「そう? 出来るだけ低燃費な運転を心がけているだけさ。限りある資源は有効に使わなくちゃね」
「それで、ええと。以前探したい人が何人か居ると話したと思うんですけど……」
「話の流れが唐突過ぎやしないかい?」
運転をしながら突っ込みを入れた崇己に、幸太朗は構わず言葉を続けた。
「あの、『福二朗』って、僕の双子の弟を探して欲しいんです。僕が児童養護施設に移るもっと前に養子に出されていたみたいで、全然記憶には無いんですけど。今どうしているのか気になっていて……」
幸太朗の話を聞き、崇己は口を噤んだ。何やら熟考している様子に、幸太朗も押し黙って崇己が話し出すのを待った。
「……心当たりがなくも無いけれど」
「本当ですか!!」
間髪入れずに言った幸太朗に、崇己はさらに「ああ。でも少々厄介だね」と続け、溜息を吐いた。
「あのさぁ、私はキミと出来る限り関わり合いにならない方がいいって、今回の事でよく分かったつもりだよ。これ以上面倒事に巻き込まれるのは真っ平ご免なんだけれど?」
「大丈夫です。僕が崇己さんを幸せにします!」
突然の幸太朗の告白に青ざめて、崇己は心なしか身体を幸太朗から離した。
「突然何を言いだすつもりなんだか全く以て意味が分からないんだけれど、気味が悪い事だけは確かだね」
幸太朗はハッとすると、慌てて首を左右に振った。
「いえ! その、『革命の指輪』の力を使えば、福二朗を探して貰う報酬として、崇己さんに僕の幸福のおすそ分けができるかと思って。崇己さんが幸福だと、僕もきっと幸福だろうし」
苦笑いを浮かべながら赤信号で車を停めると、崇己はチラリと幸太朗に視線を向けた。
「……あのねぇ、私は別に不幸じゃないし、寧ろキミと関わる事自体が不幸なんだけれど?」
「あ……。そうですよね。僕と一緒に居ると、不幸に巻き込まれる可能性もありますし」
幸太朗はしょんぼりとして項垂れた。
福二朗の事は、全く記憶に残っていない。だが、もし生き別れた双子の弟も、自分の様に不幸を引き寄せる体質だったならと、考えただけでも不安が押し寄せるのだ。一目だけでも、幸せに暮らしている姿でも見れたなら、安心できるだろう。
信号が青に変わり、ゆっくりと車を発進させながら、崇己はポツリと呟いた。
「キミの弟の福二朗は、養子に出されて『小野瀬福二朗』という名だよ」
その言葉に、幸太朗は嫌な予感がしながら崇己へと視線を向けた。
「崇己さんが知ってるってことは、福二朗もひょっとして僕みたいに不幸なんですか?」
「そうじゃないさ」
夕日がフロントガラスから直に射し込み、幸太朗は瞳を細めた。だが、崇己は全く眩しい素振りを見せずに車を走らせている。
「さっきも言ったけれど、『少々厄介』なんだ。つまりは面倒過ぎて関わり合いになりたくないというわけなんだけれど」
「ひょっとして、福二朗は崇己さんの担当エリア外という事なんですか?」
「それもあるんだけれど……」
幸太朗は崇己の言葉を聞こうと真剣な顔を向けており、眩い夕日の光にも負けじとじっと見つめた。
「キミさ、暑苦しいんだけど。運転の邪魔だからあまりこっちを見ないでくれるかな?」
「すみません……」
幸太朗が視線を外した事に安堵して、崇己はふんと鼻を鳴らした。
「それで、キミの弟のことだけれど。まあいいさ、私の出来る範囲で調べておいてやろうじゃないか」
「本当ですか!?」
瞳を輝かせて熱い眼差しを向け始めた幸太朗に、崇己は思いきり顔を顰めた。
「だから、こっちを見るなったら暑苦しい」
「崇己さんって優しい方ですね! 僕、必ず崇己さんを幸せにしますから!」
「その言い方止めてくれったら!」
崇己は悲鳴の様に言った後、小さく舌打ちをした。
「全く、キミは根っからの不幸体質だよ。他人を幸せにする為に、キミは自分の幸せを諦めるしかないんだからね」
折角溜め込んだ幸福を全て他人の為に使ってしまおうというのだから、幸太朗は一生幸福になれないということだ。
「そんなこと無いですよ」
幸太朗は満面の笑みを向けると、崇己に言った。
「だって、崇己さんが幸せなら、僕も幸せじゃないですか」
「……だから気味の悪い事を言わないでくれったら!」
夕日が射し込む車内で、二人はそんな会話を繰り広げながら帰路へと着いた。