相沢拓斗の不幸
跨線橋の上で、こちらに視線を向けたまま身体をダム側へと傾けた拓斗を見て、崇己は『彼の死を止めるには間に合わなかったか』と考えた。
審判員として何人もの不幸な人間に革命の指輪を届けていた崇己にとっては、人の死に直面することがさほど珍しい事では無い。
相沢拓斗にこれ以上関わるのは得策ではないと、冷酷にも思える程にあっさりと判断した。
車からは降りたものの、もう一度乗ろうかと考えた矢先、幸太朗が叫んで駆けて行った。
そして、彼は一瞬の躊躇もなく拓斗を追って飛んだのだ。
崇己はその様子をスローモーションでも見ているかのような時間の流れを感じ、その差が他人に対する思いの差なのだと教えられた気分だった。
「幸太朗!」
ハッとした様にそう叫び、橋の下を覗き込んだが、二人の姿を捉える事は出来なかった。
ダムの水面までは六十メートル以上はありそうだ。この高さからすると、およそ時速120km/hの速度で水面に叩きつけられることになる。無事であるはずがない。
しかし、落水音も聞こえなかった。
二人の姿が忽然と消えてしまった様に思え、崇己が視線を上げた時、幸太朗が笑顔でこちらに向かって手を振る姿が見え、心臓が止まるかと思う程に驚いた。
丁度幸太朗が飛んだ先に、メンテナンス用にアームが伸ばされた橋梁点検車のバスケットがあり、二人はその中に落ちていたのだ。試運転だった様で、バスケットの中には作業員の姿は無く、呆然としている拓斗と満面の笑みを浮かべている幸太朗の姿だけがある。
「ありえない偶然が過ぎるけれど、これも指輪の力だって事か……」
——それにしたって、幸太朗は指輪の力をまだ信じていなかったはずなのに、無鉄砲にも程がある。
崇己はため息を吐くと、二人が乗っているバスケットの前まで赴き、覗き込んだ。
「幸太朗、作業整備員に叱られる前にさっさと退散した方がいいと思うけれど」
「そうですね。拓斗さん、立てますか?」
崇己は二人に手を貸そうとはせずに車へと戻り、幸太朗は拓斗を連れて慌てて駆けてきた。2ドアのスポーツカーである為、狭い後部座席に幸太朗が座り、助手席に拓斗が座ったと同時に、崇己は素早く車を出してその場から退散した。
◇◇
「あんたたち、誰?」
近場にあったファミリーレストランの席に着いた途端、拓斗が放った第一声がそれだった。幸太朗は十五年前の事だから無理もないと困った様に笑い、崇己は不機嫌そうに顔を背けた。
「覚えていないのは無理もないですよね。僕、須藤幸太朗です。拓斗さんとは、児童養護施設で数週間だけ一緒だったんですけど、そんなに接点があったわけではありませんし」
「はぁ!? 『そんなに接点があったわけじゃない』だって!?」
素っ頓狂な声を上げたのは崇己だった。彼は片眉を下げ、呆れた様に更に言葉を続けた。
「よっぽど恩でもあるのかと思ったら、そうじゃないのかい!?」
「いえ。そういうわけじゃ……。恩人といえば恩人なんですけど、どうしてるか気になっていただけです」
『どうしてるか気になっていただけの相手』に、自らの命を擲つ様な行動をとっておきながら、幸太朗はケロリとした様子で答えた。
「……キミって。ああ、もう。なんだか馬鹿らしくなってきたよ」
期待を裏切られたかの様に冷めた目をして、崇己はオーダー用のタブレットを手に取った。幸太朗は状況をつかめず困惑している拓斗へと向き直ると、すまなそうに頭を下げた。
「突然会いに来てしまってすみません」
「ひょっとしてあんた、『光善学園』出身?」
拓斗が無精髭を生やした顎を動かしながらボソリと言葉を発した。頷いた幸太朗に、拓斗は俯いて「ふーん」と小さく言った。
「拓斗さんが家に帰るのを嫌がっていた記憶があって。どうしてるか気になっていたんです」
「職員でもないのになんで? 俺、あの施設から親元に帰ったけど、結局数か月でまた別の施設に行く事になったんだぜ」
そう言って、拓斗はチラリと崇己へと視線を向けた。崇己は何かをオーダーした様で、満足気な顔をしてオーダー用タブレットを元の位置に戻そうとし、拓斗の視線に気づいて「キミも何かオーダーするかい?」と聞いた。
拓斗は慌てて首を左右に振り、「お金、無いんで」と気まずそうに言った。
「あ、それじゃあ僕が……」と言いかけて、幸太朗はハッとした様にポケットをまさぐり、そういえばサイフを落としてそのままだったことを思い出した。
「あはは。僕もお金ないや」
幸太朗が困った様に笑い、シンとした。そんな中、ぐぅ~と、拓斗と幸太朗の腹の音が響き渡る。崇己は気まずくなってタブレットを幸太朗に突きつけた。
「私がまるで悪者みたいじゃないか。分かったよ、いいよ好きなものを頼んでも」
「いや、それは悪いですから……」
幸太朗が断ろうとした時、拓斗が奪い取る様にタブレットを手に取った。
「お言葉に甘えさせて貰うぜ、金持ちの坊ちゃん! とんかつも美味そうだし、ステーキも美味そうだ!」
「……別に私はお金持ちじゃないけれど。それよりもキミ、さっきまで死のうとしていたくせに食欲はあるんだね」
「あんな高級車乗り回してて良く言うぜ。俺は別に死のうとしてたんじゃなく、景色を眺めてたら、腹が減り過ぎてふらついただけだ」
崇己は唖然として拓斗を見つめた。拓斗はそんな様子にお構いなしに、楽しそうにオーダーをしまくっている。
「なんてことだ。相沢拓斗は自殺じゃなく事故死だったのか。身寄りがない単身者だから、細かく調べる必要が無かったということか。施設出身者は困窮の末に自殺する者だって少なくは無いからね」
ブツブツと崇己が呟いていると、店員が巨大なパフェを持ってきたので、拓斗が頼んだのだろうと思い、幸太朗は申し訳なくなった。
「あ、それは私のオーダーだよ」
崇己は颯爽とパフェを受け取ると、パクパクと食べ進め、「甘い物でも食べないとやってられないね」と言った。
「あんた、何の仕事してるんだ?」
拓斗の質問に、崇己は「キミに答えなきゃならない義理はないね」と冷たくあしらった。
「どうせキミは無職なんだろう? 施設出身者の大学進学率は15%にも満たない。なんだかんだ言って、この国は学歴社会だからね。そう言った意味で社会は施設出身者に冷たいよ。男性ならヤクザかホームレス、女性なら風俗業に就く割合が高い様だしね」
パフェを口に運びながら悪びれる様子もなく言い放った崇己の言葉に、幸太朗は俯いた。
自分も先日会社を解雇されたばかりだ。崇己が言う通り、ヤクザとはいかなくても、ホームレスになる可能性が高い。寧ろカウントダウンといった方がいいくらいの位置に居る自覚がある。
「仕方ないじゃないですか。僕達は、大学に行く必要性を教えられて来なかったんですから」
反論というわけでもないが、崇己に言い訳をしたくなって幸太朗は口を開いた。崇己はパフェの底にあるフレークをサクサクと音を立てて食べた後、ニッと少年の様な笑みを浮かべた。
「進学に限った話だけじゃないさ。『生きる為に努力する必要性』を、誰からも教えて貰えなかっただろう? 別にキミ達を責めている訳じゃない。私が認識しているのは、平等から外れた不幸な人間かどうかという物差しでしかないからね」
二人の会話を興味無さげに聞き流しながら、拓斗は伸びきった前髪を掻き上げて、気だるそうにため息を吐いた。恐らくオーダーした料理が早く来ないかと待ちわびているのだろう。
「拓斗さん、勘違いしてしまってすみませんでした。僕、てっきり自殺しようとしたんだと思っちゃって。強く掴んでしまったので、怪我とかしませんでしたか?」
「ん? いや、別に……」
拓斗はしどろもどろに口をもごつかせた後、ふと幸太朗の首筋に見える火傷の痕に目を留めた。
「……その火傷の痕。そうか、思い出した。いつも施設の廊下で蹲ってたやつか。でかくなったなぁ。いや、俺もか?」
「思いだしてくれたんですね。僕、ずっと拓斗さんがあの後どうしてるか気になっていたんです」
『俺の親も、居無くなればいいのに』
十五年前、拓斗の言ったその言葉が幸太朗の脳裏から離れなかった。少しでも力になれたらと思ってこうして会いに来てみたものの、まさか彼の死を未然に防ぐ事になるとは思ってもみなかった。
「思いだしたが、別にそれ以上の接点なんか無いよな? それなのに、なんでわざわざ探してたんだ?」
「拓斗さんのご両親は今どうしてるんですか?」
直球過ぎる幸太朗の質問に、拓斗は少し言いづらそうに視線を逸らすと、ため息交じりに「あの後直ぐ死んじまったんで、だから俺はすぐに別の施設に入れられたんだ」と、早口で答えた。あまりその話題には触れて欲しくない様な素振りではあったが、幸太朗は構わず会話を続けた。
「それじゃあ、拓斗さんも今は僕と同じなんですね。ずっと気になっていた事があったんです。拓斗さんは、『俺の親も居無くなればいいのに』と言っていたから」
「ああ……言ったっけな。まあ、言っただろうな」
つまらなそうに顔を背ける拓斗に、幸太朗は僅かに瞳を伏せた。
「僕は、酷い虐待に遭っていたのに、親が居無くなればいいだなんて思った事なんか無かったんです。それなのに今、居ないんです。僕には誰もいない。死んでも悲しんでくれる人だっていない。お金もなくて、無職で、税金だって多く払う事もできないし、社会にとっても僕なんか不要な存在でしかない」
「俺の知った事か……」
拓斗がつまらなそうに言った時、オーダーした料理が運ばれてきた。会話などどうでもいいといった調子で打ち切り、大喜びで口にかきこみ、咽て水を飲んでは再びかきこんだ。
あまりに美味そうに食べるので、ごくりと唾液を飲み込み、自分も何かオーダーすれば良かったかなと幸太朗が後悔していると、崇己がスマートフォンを取り出し、ボソリと呟いた。
「……相沢拓斗の幸福から今日の食事代を引こう」
——え!? そんな事ができるの!? あ、危なかった! 好き放題頼みまくっていたら、幸福が底をついちゃってたかも!?
ドキドキしながら崇己へと視線を向けると、満面の笑みを返してきたので、余計恐ろしく感じた。
拓斗は食べ終えると満足気にため息を吐き、「もう食えねぇ」と、お腹を擦った。
「腹も膨れたし、俺、帰ってもいいか?」
あっけらかんと言い放った拓斗に、幸太朗は特に引き留める理由も無いかと考えて頷いた。その様子に、拓斗は初めてすまなそうに笑みを浮かべた。
「礼をいうべきか迷ってたんだが、やっぱり言うことにするぜ。ありがとう、幸太朗」
拓斗は少し間を開けると、観念した様に言葉を吐いた。
「腹が減ってふらついたなんてのは嘘だ。本当は、あのまま死ぬ気でいたんだ」
突然の告白に呆然としていると、拓斗は席を立った。
「生きるって、辛ぇよ。俺なんか生きてたって仕方ねぇ。この世界に不要な存在さ。だから死ぬ邪魔しやがってって、思ってたんだけどよ」
幸太朗の脳裏に、十五年前に『生きるって、辛いね』と言った拓斗の様子が浮かび上がった。寂しげに、六歳程の少年が口にするには余りにも悲しい言葉だった。
拓斗は小刻みに震える身体を押さえつけようとぎゅっと拳を握り締めたが、震えが止まらず、ふぅっと大きくため息を吐いた。
「でも、今すっげぇ怖くなってる。だって、飯が美味かったから。幸太朗、お前が俺に死ぬことへの『恐怖』を教えたんだ」
再びすまなそうに笑うと、「またな。少し気持ちが落ち着いたらゆっくり話そうぜ」と言い残して拓斗は去って行った。
——本当は、自殺する気だった……?
「幸太朗」
崇己はニッと少年の様な笑みを向け、幸太朗の肩をポンと叩いた。
「良かったじゃないか。キミの幸福を使って彼を死から救う事が出来た。目的達成だね」
——目的達成、だって……?
幸太朗はすぅっと青ざめた。
「違う。そうじゃない。僕達の様な親無しは、生き抜く為の強さや、努力する術を教えられないまま社会にほっぽり出されてるんです。それなのに、死の恐怖だけを嫌という程に味わってしまったら、一体どうしたらいいんです? そんなの、逃げ場を失っただけじゃないですか」
崇己は「私はそうは思わないよ」と言うと、ふんと鼻を鳴らした。
「死は最悪の選択さ。誰もが平等に訪れる事だというのに、それを自ら早めてしまうという行為は、罪なんだ」
「けれど、僕達は『生きる為の努力の仕方』を、誰からも教えて貰えていないんです」
「だから、私が居るんじゃないか」
崇己の言葉にハッとして幸太朗は彼を見つめた。
不幸な自分が使いきれなかった幸福を、平等に変換する『革命の指輪』の力は本物だった。それを渡しに来た崇己は、幸太朗の様な者にとっては救世主と言えるのかもしれない。
「……でも、拓斗さんには『革命の指輪』を渡してませんよね?」
崇己は肩を竦めると、つまらなそうにため息を吐いた。
「まぁね。相沢拓斗は指輪を持つ程不幸じゃなかった。でも、代わりに彼の服のポケットに、私の名刺を入れておいたのさ」
「え……?」
驚いて声をあげたものの、崇己は腑に落ちないといった具合で唇を尖らせていた。
「崇己さんって、面倒見が良いんですね。僕を拓斗さんのところにこうして連れてきてくれたし」
「まさか! 私は面倒事なんか大嫌いさ!」
苛立った様に眉を寄せる崇己を、幸太朗は不思議そうに見つめた。
「何がそうさせたんだと思う? キミの『不幸』は、思ったより強力だったって事! つまり、キミが使った『革命の指輪』の力が私まで巻き込んで、渡したくもない名刺を無理やり渡させたのさ。腹立たしいったらない!」
崇己は悲鳴の様にそう言うと、頬をヒクつかせながらスマートフォンを取り出した。
「けれどね、キミだって人の命を救う程の幸福をさっき使ったところだから、これ以上私を振り回す事なんてできないはずさ。きっと溜め込んだ幸福は底をついて……」
そう言いながらスマートフォンを見つめて絶句した崇己に、幸太朗は不思議に思って小首を傾げた。
「どうしたんです……」
「は!? 一体どうしてキミの幸福は減らないのさ!?」
素っ頓狂な声を上げ、崇己はスマートフォンをパキッと音が鳴る程に握りしめた。