孤児
白いスポーツカーの助手席に、緊張してガチガチに固まりながら幸太朗は腰を下ろしていた。都内を走る風景を横目に、チラリと運転する崇己の様子を見つめる。
色白の肌に灰色の瞳。サラリとした茶色がかった髪に、すっと通った鼻筋。芸能人だと言われても納得する程に崇己の容姿は優れている。
「何? じろじろ見ないでくれるかな。まさかキミ、LGBTだって言わないよね?」
崇己の指摘に、幸太朗は——LBGTってなんだっけ?——と考えて、性的少数者の総称である事を思い出し、慌てて首を左右に振った。
「ち、違いますよ! 多分……」
「多分?」
「恋愛とか、僕には経験が無くてまだ分からないので。でも、そういうんじゃなくて……」
300km/hまで刻まれているスピードメーターに視線を向け、幸太朗は溜息を吐いた。皮張りで統一された車内は高級感を存分に醸し出し、シートからは涼しい風が吹いて汗ばむ腿や背を快適に乾かしてくれている。飲み物を零そうものなら一大事だ。
後部にある水平対向エンジンが聞きなれない音を発しているものの、思ったよりも静かで、スピーカーから流れる音楽の邪魔をしていない。
「崇己さんの様な人の知り合いなんていませんでしたし、こんな高級車に乗ったのは初めてなので、緊張してるだけです」
「私の様なって、どういう意味さ?」
困った様に片眉を下げた崇己に、気を悪くしただろうかと思い、慌てて「お金持ちな人って事です!」と言うと、崇己は悪びれた様子もなくサラリと答えた。
「別にお金持ちなんかじゃないさ。この車にしたのは、キミと居ると私まで不幸に巻き込まれかねないからね、万全を期していざという時も死なずに済む様な安全性の高い車を選んだだけだよ」
「神様も死ぬんですか!?」
幸太朗の言葉に、崇己が「は!?」と、素っ頓狂な声を上げた。
「あれ? 違うんですか? 不思議な力を持った指輪を持っていたり、拓斗さんの居場所を把握していたりするからてっきり……」
顔を真っ赤にしながら言った幸太朗に、崇己は苦笑いを浮かべた。
「……いや、『神様』は私よりもどちらかというとキミの方じゃないかな?」
「僕がですか? どういう意味ですか?」
「私には『革命の指輪』を使う事なんかできないからね」
ウィンカーを出し、ゆっくりと左折した。大通りから一本脇道へと入っただけで、立ち並んでいた飲食店の姿が消え、古めかしい戸建てが並ぶ住宅街へと入って行く。
犬の散歩をしていた男性が、二人の乗るスポーツカーを羨望の眼差しで見つめていた。幸太朗はたまたま乗せて貰っている立場なのにと恥ずかしくなり、思わず俯いて手の中の指輪へと視線を落とした。
「……でも、この指輪は不幸だから使えるんですよね? 崇己さんは不幸じゃないから、使う必要が無いって事なんでしょう?」
「うーん……。まあ、私には幸福も不幸も無いからね」
「どういう意味ですか?」
「あまり気にしないでよ。そのうち、気が向いたら説明するから。勿論、その時キミの興味がまだ残っていればの話だけれどね」
はぐらかされてしまい、幸太朗の疑問は更に膨れ上がった。少なくとも崇己が普通の人間であるとは思えない。カラーコンタクトかと思った灰色の瞳もどうやら自前の様だし、彼の住処の奇妙さといい、指輪といい不可思議な点が多すぎるからだ。
——やっぱり、詐欺師なのかな? だからお金持ちなのかもしれない。僕が使ったことになってる指輪の力にも、巧妙な仕掛けがあるとか……? けど、そんな大がかりな事をしてまで僕なんかを騙して、得な事なんて無いはずだけれど。
「また私を疑ってないかい?」
崇己がクスリと小さく笑いながら問いかけて、幸太朗は気まずくなって目を逸らした。
「キミの様な施設出身者は騙されやすいからね。詐欺の手口や警戒方法を、親から学ぶ機会が無いわけだし」
「……はい。既に何度か騙されました」
「やっぱりね。そうだろうと思ったよ。とはいえ、よくある幸福の壺だとか、還付金がという話には騙されなそうだけれどね。キミは自分の利益の為に行動するタイプじゃなさそうだから」
幸太朗は詐欺に遭ったせいで、高校時代にアルバイトをして必死に貯めた貯金を殆ど無くしてしまった。それというのも、同じ施設出身者の名を語った者が、『大学の入学金』という名目で幸太朗に借用したいと求めたのだ。ところが蓋を開けてみれば大学に入学するどころか、本人とは全くの無関係であり、全く面識のない者の犯行であった事が明らかとなった。
しかし、そんな被害に遭っていながらも、幸太朗はただ『困っている誰かの為にならなかった』という事にだけ悔しさを感じていたのだから、とんでもないお人好しである。
「大方誰かを助けるつもりで出したお金を騙し取られたといった具合だろう?」
「どうして解るんですか!?」
「……なんとなくね」
そんな会話をしているうちに、車は住宅街を抜けて坂を上り始めた。右へ左へと連続する急カーブも難なく曲がる様子は、流石高級スポーツカーの性能と言えるだろう。周囲は木が生い茂り、日が暮れかけているとはいえ突然暗くなった様に思え、幸太朗はチラリと崇己へと視線を向けた。
「あの、崇己さん。拓斗さんは一体どこに居るんですか?」
不安になって問いかけた幸太朗に、崇己は渋い顔をした。
「この先の湖面橋だよ」
「え?」
「ちょっと急がないと拙いかな。彼、自殺しようとしているからね」
「ええっ!?」
崇己がアクセルを踏み込み、エンジンが唸りを上げて速度が上がった。その速度のまま急カーブを難なく曲がり終え、視界が開けてきたと同時に古びた橋が見えた。
特に観光地でも何でもないダムの上に掛けられた橋は、風景を楽しむ要素の欠片もなく、利便性だけを求めて建設された殺風景なものだった。
車道の左右には歩道が並行していたが、暑さのせいもあってか人影一つ見当たらなかった。が、崇己が「あれだ」と言った目線の先に、今まさにダムに飛び込もうとしている男性の姿を認め、幸太朗は我が目を疑った。
車を停めると同時に駆け出した幸太朗に男性が振り向いた。ゆるやかな癖毛の髪や髭は伸び放題であるものの、間違いなく拓斗であると幸太朗は認識した。虚ろな瞳を向けた後、彼はそのままふらりと倒れる様にダムへと身体が傾いた。
「拓斗さん!!」
——大丈夫、この『革命の指輪』が本物なら、僕は不幸知らずだ!
幸太朗は叫び、彼もまた拓斗を追ってダムへと飛び込んだ。橋を蹴った勢いがあったせいか、幸太朗の手が拓斗の腕を掴み、二人はそのまま落下していった。
左手の親指に嵌めた指輪が、一瞬だけ眩い光を発した。
◇◇
——十五年前——
幸太朗は病院のベッドの上で、感情が消えた虚ろな瞳で天井を眺めていた。
時折大人達が入れ替わりたちかわり様子を見に来たが、ぎこちない作り物の笑顔を貼り付けた顔で火傷の様子を聞いては、決まって何か欲しいものはないかという質問を投げかけて去って行く。
「……お父さんは?」
この質問をしたのは何人目だろうか。だが、誰一人としてその答えを言ってはくれなかった。作り物の笑みが剥がれ、戸惑う表情を覗かせる。いつも大人の顔色ばかりを伺いながら生きて来た幸太朗には、四歳児とはいえ敏感過ぎる程に不安を読み取っていた。
——やっぱり、夢じゃないんだ……。
幸太朗の脳裏には、母が父を包丁で何度も刺す光景が鮮明に焼き付けられていた。
音、匂い、振動。そして背や首筋、頭部に広がる激しい火傷の痛み……。
毎晩悪夢を見ては、汗だくのままたった一人で目を覚まし、絶望的な孤独に苛まれて悲鳴の様に泣き叫ぶ。
なんらかの理由で家族による養育が困難であると判断された場合、通常は一時保護所を経て児童養護施設へと入所となるが、幸太朗の場合は退院と同時に『光善学園』という名の児童養護施設へとそのまま入所が決まった。
夜泣きは治まらず、大人数が生活する大舎制の施設であった為、同様に入所している子供達からも随分と厄介者扱いされた。
虐めは日常茶飯事であったし、周囲の顔色ばかり伺う幸太朗はどんどん孤立していった。
家族からも社会からも孤児となってしまったのだ。
施設での自由時間にも、幸太朗は居場所が無く、いつも廊下の隅に蹲る様に座って居た。自宅では殆どを押し入れの中で過ごしていた為、明るい場所に居る事は落ち着かないのだ。居室から漏れ聞こえてくるテレビの音が廊下に響いている。
たった一人、只管時間が過ぎる事だけを待つ。特に苦痛とも思わなかったし、その時間だけは体罰を与えられたり、怒鳴られたりしない分、家に居るよりもずっとマシだった。
ふと気づくと、直ぐ隣に緩やかな癖毛の少年が立っていた。彼は何も言わずに幸太朗の隣に腰を下ろすと、そのまま暫くの間黙り込んでいた。
それが、相沢拓斗との出会いだった。
「生きるって、辛いね」
突然掛けられた言葉に反応もせずに居ると、拓斗は言葉を続けた。
「その火傷の痕、親のせい?」
幸太朗は首を左右に振ると、か細い声で言った。
「僕が、悪い子だから……」
「親、どこに居るの?」
首を左右に振った幸太朗に、拓斗は「ふーん」と、つまらなそうに言った。
「いいなぁ。俺の親も、居なくなればいいのに」
「……どうして?」
拓斗は幸太朗の質問には答えずに、悲しみに耐える様に唇を噛みしめた。幸太朗よりも年上の自分が泣くところを見せるのは恥ずかしいと思ったのだろう。
「家に、帰りたくないから」
やっとの事で絞り出す様に言った彼の言葉に、幸太朗はハッとした。
——そうか。僕はもう、あの家に帰らなくてもいいんだ。
お母さんの居る、あの家に……。
数週間後、怯え切って真っ青な顔をした拓斗を、彼の父親が迎えに来た。光を失い、絶望の色をした瞳のまま、拓斗は家に帰って行った。