底なしのお人好し
「折角タオルを渡してやったんだから、拭いたらどうなのさ?」
崇己はそう言って、パチリと音を立ててシガーの吸い口をカットした。
ここは都内にある雑居ビルの一室だ。外観は朽ち果てそうなおんぼろで、エレベーターすらない。
錆びついた階段を八階まで上り、暗く狭い廊下の突き当りにあるドアを開けると、それまでの経路とは全く以て異なる部屋が広がっていた。
品の良いベージュのカーペットは踏み心地が良く、白い麻布のソファは清潔感が溢れ、大理石の天板のテーブルは高級感が漂う。白い木目調で統一された棚や机が置かれており、シンプルながらもセンスのいい銀縁の照明が、ダウンライトと共に設置されている。
こんな洒落た空間に初めて足を踏み入れた幸太朗は、ソファに腰かけながらキョロキョロと室内を見回していた。
「ねえ、キミさ。私の話を聞いているかい?」
崇己があきれ顔を向けて言い、幸太朗は崇己から渡されたタオルを握り締めたままハッとして視線を向けた。
茶色がかったさらさらの髪に、灰色の瞳。色白の肌に、シガーを持つ長い指。端整な顔立ちをした崇己に、この部屋は良く似合っているなと思い、幸太朗はついぼうっと見惚れた。
「……まさか暑さで頭がやられちゃったんじゃないのかい?」
「あ、いや! すみません。僕はその……こういう所には初めて来たから、つい色々見ちゃって」
崇己はライターでじっくりとシガーに火を灯すと、形の良い唇で咥えてフワリと煙を吐いた。
ここへたどり着くまでの道中は散々だった。わき見運転の自転車は突っ込んでくるわ、鳥がバカにした様に糞を浴びせてくるわ、通りを走っている車からポイ捨てされた火のついたタバコが、幸太朗のシャツの襟にホールインワンし、項を火傷するわ……。
一緒に歩いていた崇己には被害が及ばなかったものの、見ていて気分のいいものではないに違いない。そのくせ幸太朗ときたら、重そうな荷物を持っているご老人を助けようとしてひったくりと間違われたり、迷子になって泣いている子供の話を聞こうとして誘拐犯と間違われたりと、不幸なくせに人助けばかりしようとするのだ。
見かねた崇己が「キミは他人の心配をしている余裕なんか無いんじゃないのかい?」と突っ込みを入れるも、ケロリとした様子で「どうしてですか?」と聞き返すものだから、酷い目に遭っている自覚が無い、恐ろしい程に底なしのお人好しなのだという幸太朗の性格が、ほんの一時間程で十分過ぎる程に崇己を納得させた。
「どうでもいいけれど、私も暇じゃないんだ。キミにだけ時間を割くわけにはいかない。私について来た要件をさっさと言ってくれないかな。大方『革命の指輪』の事を聞きたいんだろうけれど」
幸太朗は頷くと、ズボンのポケットをまさぐり、コトリと音を立ててテーブルの上に銀色の指輪を置いた。
「本当に、空乃さんの言うような力がこの指輪にあるのか信じられなくて」
「『崇己』でいいよ。審判員は皆同じ姓を名乗っているからね」
崇己は立ち上がると、ゆっくりと歩を進めて幸太朗の前に置いてあるソファへと腰かけた。シガーを吸い、煙をくゆらせながらテーブルの上に置いた銀色の指輪へと視線を落とす。
「私の言った事が信じられないのなら、自分で使って試してみたらいいだけじゃないか。どうしてそうしないのさ?」
幸太朗も指輪へと視線を向けながら、恥ずかしそうに言った。
「どう試したらいいのかよく分からなくて……」
「……は? 使い方は教えたよね? そして、キミは二度使ったじゃないか。雨を降らせたり、少年を無傷のままにしたりさ」
「でも、ここに来る途中でも何度か使おうとしましたけれど、全然使えなくて」
困った様に項を掻きながら言う幸太朗に、崇己は冷たい視線を向けた。
「どんな風に使おうとしたのさ?」
「ええと、お年寄りの荷物が軽くなるようにとか、迷子になった子のご両親が早く見つかるようにとか」
幸太朗の回答を聞き、崇己はうんざりした様に眉を寄せた。
「あのねぇ、さっき説明したよね? その指輪は『キミが』幸福になる為のものなんだから、赤の他人が幸福になってもキミが幸福にならないなら力が発動したりなんかしないんだよ。事故に遭うはずだった少年の場合は、キミと面識がある相手だったからで、少年が無傷だった事でキミが幸福になる要素が何かしらあったからなんだ」
ぽかんとしたまま顔を上げて幸太朗は崇己を見つめ、崇己は面倒そうに肩を竦めながらため息を吐いた。
「自分が溜め込んだ幸福は、自分の為にしか使えないルールだってこと。そうじゃないと平等にならないじゃないか」
「……平等ですか」
幸太朗は少し考えて、恐る恐る口を開いた。
「えっと、空……崇己さんは、不幸な人がどこに居るのか分かるんですか?」
幸太朗の質問に、崇己は訝し気に眉を寄せた。幸太朗は両手を膝の上に乗せ、僅かに身を乗り出して崇己を見つめた。
「そりゃあ、私は人を平等にする為の審判員だからね。不平等な立場に置かれている人物なら分かるさ。だからキミを見つける事が出来たわけだし」
不愉快そうに言った崇己に、幸太朗が更に身を乗り出したので、崇己は思わず身を退いた。
「……キミさ、気持ち悪いんだけれど?」
「あの! 探して欲しい人が居るんです!」
「あのねぇ、私はキミの小間使いじゃないんだけれど!?」
咄嗟に返した崇己の言葉も聞かず、幸太朗は興奮気味に話し出した。
「何人か居るんですけど、えーと……。そう! まずは『相沢拓斗』を探して貰えませんか? 僕と同じ児童養護施設の出身者で、僕よりも確か二つ年上の人なんです。連絡を取ろうにも連絡先が分からなくて!」
「相沢拓斗……?」
崇己は呟く様にそう言った後、一瞬だけ瞳を伏せ、直ぐに灰色の瞳で幸太朗を見つめた。全てを見透かす様な彼の視線に、幸太朗は怯んだものの、それ以上に拓斗の行方を知りたいという想いが強く、じっと見つめ返した。
「……彼の居場所なら分かるよ。『革命の指輪』所有権候補者だったからね。つまりはなかなかに不幸だということさ。けれど、キミはそれを知ってどうする気なのさ? 復讐でもしたいとか?」
拓斗の居場所を知る事が幸太朗の幸福に繋がるというなら、その理由は『復讐』だろうと崇己は考えたのだ。つまりは自然とそう考える程に、『革命の指輪』の所有権を持つ者は不幸であり、その不幸さが心を卑屈に捻じ曲げてしまっている者ばかりだったということだ。
人は誰もが他と自分を比較する。自分よりも幸福か不幸かを判断し、優越感に浸ったり、或いは劣等感を抱いたりするのだ。そして劣等感ばかりを抱き続けているうちにどんどん心は卑屈となり、他の幸福を羨み、妬み、嫉み、荒んでいく。
————だが……。
「復讐だなんて、とんでもない! 会いたいだけですよ。もし困ってるなら、この指輪を使って助けられたらいいなと思って……」
とんでもない誤解だと、顔を真っ赤にして必死になって言った幸太朗を、崇己は唖然として見つめた。
「……は?」
「あ……あれ? 僕、おかしなこと言いました?」
きょとんとした崇己の様子に、恥ずかしくなって幸太朗は俯くと、膝の上でぎゅっと両手を握り締めた。
「だって、この指輪が本当にすごい力があるなら、普段の僕にはできないことの為に使いたいなって思って」
「それが、『相沢拓斗』を助ける事だって言いたいのかい?」
「はい。僕と面識がある相手なら、その人が幸せになることで僕だって幸福になる訳でしょう?」
自信なさげに言って、幸太朗は口を噤んだ。
——僕、やっぱりおかしなこと言ってるのかな? いつもそうなんだ。周りの人とズレてる認識が僕には無いから、変な目で見られてしまう。どうやって直したらいいかもわからないし、そもそもどうズレてるのか自分では分からないから、直し様がないし……。
すっかりと落ち込んでしまった幸太朗の前で、崇己はシガーを灰皿の上に置いた。シガーは吸わずにいると勝手に火が消えてしまうわけだが、既に消えており、煙が上がっていない。
「キミさ、会社を解雇されて困ってるんじゃないの? 自分の生活すらままならないのに、他人を助けたいって言うのかい?」
崇己の指摘に幸太朗は顔を真っ赤にして泣きそうな表情を浮かべた。
「そ、そうですよね。僕なんかが誰かを助けようだなんて、烏滸がましいですよね」
「いや、そうじゃなくて」
「拓斗さんは、僕の恩人なんです。けれど、突然連絡が取れなくなってしまって。探し様も無くて……」
崇己は困った様に片眉を下げて、幸太朗から視線を外した。
「すまないね、キミの様な人物とは初めて出くわしたものだから、私も少々動揺しているんだ。私が今まで『革命の指輪』を渡した人物は、皆自分の為だけに力を使ったし、自分が今まで貯めた幸福なんだからそれが当然だと思っていた」
崇己は暫し口を閉ざし、吟味するように幸太朗を見つめた。神秘的な灰色の瞳で見つめられると、全てを見透かされている様な気分になる。
そうして暫く幸太朗を観察した後、崇己はニッと少年の様な笑みを浮かべた。
「……なるほど。面白いね、キミに付き合ってやってもいいよ。案内してやろうじゃないか、『相沢拓斗』の居場所までね」
崇己の言葉に、幸太朗はパッと顔を明るくすると、「お願いします!」と嬉しそうに満面の笑みを浮かべて見せた。