それは××回目の。
「困ったわ、ロイ。どうやら私は処刑されてしまうみたいなの」
「全然困っているようには見えないんだが、俺の気のせいか?」
「気のせいよ。私は今、明日の処刑のことを思うと眠ることも出来ないでい、……」
「寝てるじゃないか」
「………………」
「五秒とかからず熟睡を始めてやがるじゃないか、おい。こら。我が主、起きろ」
月明かりの差す寂れた牢獄にて。
使い魔のロイは、主人であるレティシアが冷えた土の床に寝そべって優雅な寝息を立て始めたのを見ると、真っ直ぐな呆れをもってその肩を揺さぶった。
しかして起きる気配が微塵もなかったので、今度は結構強めに揺さぶった。
が、全然起きない。
びっくりするほど起きない。
引くほど起きなかった。
明日、斬首刑を受けると言うのに引いてしまうほどの熟睡だった。
どうしたものか。このままでは使い魔であるロイも連帯で責任を問われ、ハンバス家まで処罰を受けることとなるだろう。
ハンバス家はとっくのとうにロイとの縁を切っているだろうが、追求を逃れられるとも思えなかった。
ロイは頭を抱えたまましばらく唸り、やがて大きな溜息を吐き出すと、とりあえず一息置いてから、一旦家族については全てを諦めることにした。
まあいいか、と思った。
自分がこれまで受けてきた仕打ちを考えれば、別に無理して助けることもないだろう、と。
ハンバス家はロイが使い魔となったおかげで得た金で随分と贅沢をしたようだし、ストレス発散には好き放題ロイを使えた訳だし、貧乏性悪貴族にしては良い人生だったと言えるだろう。
ロイ・ハンバスは定義上は使い魔だが、れっきとした人間である。
学園に通う大抵の魔法使いは基本的には低級の魔獣を使い魔とするが、レティシア・レールレイシアは『大抵』の枠を大きくはみ出していたし、基本の基の字は指先で捻って燃やして屑籠に捨てるような女であったので、中級の人間であるロイを使い魔とした。今から三年も前の話である。
学園の教師は揃って頭を抱え、学園長は椅子ごとひっくり返ったが、十秒後にはひっくり返ったまま「良かろう。契約とは相互の同意がなければ結ばれぬ。これもまた新たな絆の形と言えよう」と極めて荘厳な声音で告げた。
王立魔法学園の掲げる校訓は『清く美しい絆』である。
ロイとレティシアの絆は経緯を考えるとあまり清くも美しくもなかったが、それを認めると人身売買の一歩手前を主席代表がやらかしたことになるため、ロイは同意の元にレティシアの使い魔となった、ということになった。
つまりは、簡単に言うと変態のレッテルを貼られることになった。が、まあ、それは全く構わなかった。
困窮するハンバス家の財政が、ロイがレティシアの使い魔となることで救われたのは確かだし、亡き前妻の息子であるロイを奴隷のように扱っていた両親姉妹兄妹計七名の家族は『レールレイシア公爵令嬢の使い魔』に傷をつけることを恐れてロイを素直に手放したし、何より『使い魔』というのは貧乏伯爵家長男をやっているよりもよっぽど快適だったのだ。
使い魔の扱いは魔法使いによって様々だが、レティシアは自身の使い魔にはそれなりの贅沢をさせるべきだと考えているようだった。
三食昼寝付きでおやつまでついてくる素晴らしい生活だ。毎夜授業を終えてから学園生特典で報酬が割増された外部依頼をこなし、週末には特待生としての課題もこなしつつ遠征に出るなどという、冒険者と学生を両立させる無茶な生活とおさらばできるのならば、ロイには三つ年下の女の子だろうと主と敬う覚悟があった。我が主様最高!万歳!である。
レティシアは多分、間違っても最高!と敬ってはいけない類の人間だったが、それでも尻尾を振ってついていきたいくらいにはロイは生活に参っていた。
何せ、当時十七歳だったというのに同級生から馬鹿にされるほど抜け毛がとにかく酷かったくらいだから。三食昼寝つきで過ごしたら無事に生えてきたので、ロイは使い魔契約の半年後には、一生をレティシアに捧げる誓いを立てた。付き合いが三年経った頃には無事ふさふさになった。一生どころか来世も捧げる誓いを立てた。
しかして、全てを捧げるつもりではあれど、今回の件だけはいただけなかった。
なんたって、処刑である。一生を捧げるつもりの主人が先に死んでしまっては意味がない。
家族はまあどうなってもいいとして、レティシアだけはどうにかなってしまっては駄目だった。最悪、ロイが死んだとしても、レティシアだけは生き延びさせなければならない。それが恩義ある人間への真摯な対応というものだ。
だというのに、恩人は呑気に眠っている。レティシア・レールレイシアは常日頃から何を考えているのか分からない女だが、今夜ばかりは本当に何もかもが理解できなかった。
せめて何か分かるように説明してくれ。そんな思いを込めて、ロイは再度レティシアの肩を揺さぶった。が、やはり全く起きなかった。ので、渋々、規則正しい寝息を立てる唇にそっと口づけを落とした。
『私を起こしたいときには目覚めのキスを頂戴。そしたら起きてあげるわ』、と言われていたので。
正直に言えばあまりやりたくない方法である。
女性経験に乏しいロイにとっては、気恥ずかしさで走って逃げ出したくなるからだ。しかし今は止むを得まい。
事態は急を要するし、かつてないほどに深刻なのである。キスひとつで起きてくれるのならば安い対価だった。
「んん……もう、何よロイ、あとにしてちょうだい……」
「いったい何をどう『あと』に回すつもりなんだよ。お前明日処刑されるんだぞ」
「ええ、そうね。きっと、とても面白いことになるわ」
寝ぼけ眼でロイを見上げるレティシアは、その美しい顔に何とも楽しげな笑みを浮かべた。
半月後に有名なサーカス団がこの国を訪れますよ、といつぞや侍女から教えられた時と同じ笑みだった。要するに、とてもとても楽しみにしていると言うことだ。
一切困っていないじゃないか。ロイは呆れを隠すこともなく大きな溜息を落とし、レティシアの頭を軽く叩いた。
これは彼女自身が明言している事実だが、この世でロイだけはレティシアに無礼を働いても許されている。ロイ以外が無礼を働いた場合、大抵は何かとんでもない不幸に見舞われる羽目になる。誰の仕業とは言わないが、そういうことになっている。誰の仕業とは言わないが。
「お前だけで納得してないで、俺にも分かるように話してくれ」
レティシアはロイが好きだ。親愛ではなく恋愛の意味で好きだ。そのくらいのことは、使い魔になった経緯を思えば容易に予測がつくし、半年も経つ頃には嫌と言うほど実感していた。
だから、レティシアはロイが真剣に頼み込めば、大体のことは叶えてくれる。
今にも再び寝入りそうなレティシアは、覗き込むロイがただじっと、主人の帰りを待つ忠犬のような顔で自身を見つめていることに気づくと、閉じかけていた瞼をゆったりと持ち上げてみせた。
「ロイ、貴方は今回の処刑がどんな罪状を元に行われるか知っている?」
「王太子の婚約者候補であるプリエラ・ピューイット殺害未遂の容疑だな」
「ええ。ついでに言えば呪いをかけて左半身に虹色の毛を生やしたことも含まれているわね」
「改めて聞くと本当に碌でもないな」
「そうね。でもその程度のことが本当に斬首刑に至るほどの罪だと思う? 私が害したのは王太子ではなく、いくらでも代わりの利く、ただの婚約者候補よ」
「プリエラは聖なる乙女として噂されていたからだろう? 未来の聖女を殺しかけたなら、相応の罰と言ってもいいんじゃないか」
プリエラ・ピューイットは、レティシアと同い年の編入生だ。今から一年前に、王太子ロランの婚約者候補に加わった。
候補は現在10名ほどおり、誰が『正妃』となるのか、学園内では度々注目され話題に上っていた。ちなみに、レティシアも一時期候補に入っていたことがあるが、使い魔契約の噂が広まった途端、瞬く間に候補から外された。
「プリエラ・ピューイットが聖女であるはずがないわ。彼女、魔族の血を引いているもの。聖属性魔法なんて使おうとしたら全身の皮膚が爛れて溶けてしまうわ」
「何だって?」
「全身の皮膚がどろどろのぐずぐずになって内臓を剥き出しにした、二本足で動く肉塊になってしまうわ」
「聖非耐性生物の症例について説明して欲しくて聞き返した訳じゃない。分かってるくせにわざわざ付け足さないでくれ」
あまり愉快とは言えない話に顔を顰めたロイを見上げて、レティシアはちょっと困ったように笑みを浮かべた。
本当に気づいていなかったのかしら?という意味合いを含んだそれに、今度はロイがバツが悪そうに表情を歪める。
「俺はお前と違って魔力探知には鈍いんだ。そもそも、お前以外の誰も気づいていなかったんじゃないか?」
「そんなことはないわ、学園長はご存知よ。招き入れた陛下の思惑に表立っては反対できなかったから、呆けた振りをして誤魔化していらっしゃったけれど」
「…………頭の痛い話題が増えた気がする」
「そう。それは気のせいではないわね」
「……そうか」
何度目になるかも分からない深い溜息を落としたロイの頭を、レティシアの白く細い手が優しく撫でた。
「聞くのをやめておくのはどうかしら? 知らなくても知っていてもロイには関係ないし、結果は転んだ方にしか決まらないもの」
「いや、聞かせてくれ。何も知らんままお前と死ぬのは嫌だ」
「私のために命をかけるのは御免ということ? 寂しいわね」
「お前のためなら命の一つや二ついくらでも賭けてみせるが、何も分からないまま死ぬのは癪だから教えてくれってことだよ」
分かっているくせに聞くんじゃない、と再度呆れたように呟いたロイに、レティシアが愛おしげな手つきで手のひらをその頬へと滑らせる。
二年前までは疲弊と心労で酷い状態だった彼の肌は、レティシアが注いだ愛情とたっぷりの睡眠、そして質の良い食事によって、女性から見ても羨ましくなるほどに健康的に整っていた。
自身の行いの結果に満足そうに目を細めたレティシアは、そこでようやく、横たえていた身体をゆっくりと起こした。
くあ、と欠伸をひとつ手で押さえて、特に何を言うでもなくロイへと背を預ける。ロイもまた、何を言うでもなく彼女の身体を受け止め、ごく自然に一番くつろぎやすい体勢を取った。
「此処だけの話だけれど、国王陛下は同盟国である魔族の指示に従って身寄りのない子供を魔族国に流していたの。同盟とは名ばかりで、実際は魔族の支配下にある状態が続いているのよね。
魔族国は他種族が結託して自国を攻める理由を与えないために、人類に対する表向きの友好的な態度は崩さないようにしているわ。催眠と脳の処理能力に問題がない程度の洗脳魔法まで使って世論も操作しているくらいにね。
他種族国も、気づいている存在は幾つかいるようだけれど、犠牲になるのが下位種族の人類であるのなら構わない、という姿勢でいるというのが実態ね」
「…………仮にそれが真実だとして、誰にも怪しまれずにそんなことが続けられるのか? いくら王族絡みの犯罪とはいえ、警隊は独立機関だろう。何より魔法誓約が…………」
指摘しているうちに、自分でも嫌な予測が経ってしまったのだろう。ロイは言い切ることなく、ただ言葉を濁らせた。なんとも言えない沈黙に溶け消えた言葉の続きを、レティシアが迷いなく拾い上げる。
「もちろん、警隊も神殿も黙認しているのよ。大きな犠牲の前には、小さな犠牲は見過ごすべきだと考えたのね。そんな中で、学園だけは現状を打破しようと計画を立て始めた。学園長と王太子ロランは契約を結び、次代ではこのような残虐な行いがなされないよう、魔族国と戦う意思を固めたのね」
「だから王太子が学園に通うことになったのか」
「ええ、そうね。魔力の保護で守られた学園に通うことで身を守ろうとした訳だけれど、プリエラは学園にまで侵入してきてしまった。
学園長も阻止しようとはしていたようだけれど、敵の持つ力は桁違いだものね。国同士の争いに発展させない為には受け入れるしかなかったと言うわけ。あと、魔族の目をあくまでも学園へ引き付けておく、と言う面もあったわね。
ロイ、貴方は学園長に孫娘がいたことは知っている?」
「学園長に孫が? いや、それは聞いたことがなかったな……息子がいるのは知っていたが」
学園長の息子は基礎魔導論の教師でもあるが、最愛の妻に先立たれてからずっと独り身で子供もおらず、後妻を取るつもりもないという話だった。
「直接顔を合わせたことはないけれど、全盛期の学園長を凌ぐほどに優秀な魔法使いだそうよ。
学園長は学内の守りとして私を機能させ、魔族国へは信頼のおける孫娘を送り込んだの。逆の方が良いのではなくて?と進言したのだけれど、学園長と来たら、『御主に任せればいつ寝返るかも分からぬ』なんて言うのよ。
失礼しちゃうわ、私が魔族と結託して人類を滅ぼすような女に見える?」
「人類どころか世界を滅ぼしそうな女に見える」
「あら、素直な感想をありがとう。今日のおやつは抜きよ」
レティシアは背を預けたまま、ロイの上着のポケットへと手を伸ばすと、中に入ったままのキャンディを全て抜き取った。包み紙を剥がしたレティシアが、その小さな口に飴玉を放り込む。
「現在計画は最終段階に移行しているわ。
国王陛下は五体満足で人生を終えられるように必死になって魔族に媚を売って全てを取り繕おうとしているし、未来ある若者を守ろうと決意した学園長は命に代えてでも生徒たちだけは助けるつもりでいるし、王太子はより良い国を作るために絶対に死ぬ訳にはいかないと命をかけた綱渡りをしているし、孫娘の魔法使いは魔族国に秘密裏に風穴を開ける手筈を整えた。
それが成功するか否かは、私の知るとこではないわ。
そして、素晴らしく健気で可憐な特級魔法使いの私は可愛い使い魔の健やかな生活を守るために日々尽力し、今はこうして万が一の場合の最終手段として、最も安全で手出しのしづらい極秘牢に閉じ込められている、という訳ね」
包み紙で形作られた蝶が、魔力を通されたことで宙を舞い始める。
華やかな羽をはためかせて不規則に飛び回る蝶をしばらく眺めてから、ロイはとても一息には飲み込みきれない事実にゆっくりと天井を見上げていた。
鉄格子の嵌った小さな窓から、月明かりが差し込んでいる。あれが地へと沈み、日が登り始めるまでにあと数時間もないだろう。
「……つまり、お前が今此処にいるのは作戦の内の一つで、確実に釈放されるんだな?」
「処刑がなかったことになれば私たちの勝利、刑が執行されれば全面敗北、というところかしら」
「お前………………、…………やっぱり寝てる場合じゃないじゃないか」
言いたいことはざっと数えて十ほど思い浮かんだが、ロイはその全てを唸り声に変え、ただ疲労の滲む声を溢すに留めた。
残念ながらロイの素敵な我が主様は、一度決めて実行したことを使い魔の進言でやめたりはしないのだ。
正確に言えば、心の底から真剣に進言すれば聞き入れてしまうので、ロイに話さなかった時点でレティシアの覚悟は決まりきっているし、話した時点でもはやロイにはどうにも出来ない事態にまで進んでしまっている。
「……本当にもう、寝ているくらいしかやれることはないのか?」
分かってはいるものの、やはり問わずにはいられなかった。
「無いわね。貴方もよく知っている通り、私は最悪に最強で最高に可憐な魔法使いだけれど、万能ではないのよ。この状況はなるべくしてなったもので、此処から先、私に取れる行動は二つだけ。
処刑を受けて死ぬか、幸運にも生き延びて貴方と素敵な新婚生活を送るか。それだけね」
「………………………そうか」
「新婚旅行にマハカナ国を訪れて、二人きりの海岸で私の白く艶やかな肌に専用の日焼け止めを塗ってもらう予定よ」
「……………………………」
「あら、もしかして私が塗る側の方がいいかしら?」
「………………もう良いから、ちょっと黙っててくれ。もしくはもう寝てくれ」
揶揄うように頬をくすぐってくる指先を軽く押さえるようにして、ロイはやんわりとレティシアの手を握って腹部の辺りへと下ろした。
ついでに、空いている方の手でレティシアの瞼を伏せるように優しく撫でる。慣れた手つきだった。
「起きろと言ったり寝ろと言ったり、我儘ね。私のかわいい使い魔は」
レティシアは時折、こうしてロイに寝かしつけてもらいたがった。眠れないの、と囁くそれが甘い我儘のように聞こえるように努めていた辺り、やはり彼女の精神力は並大抵のものではないようだ。
そして、その並大抵ではない精神でも受け止めきれないほどに、『学園の守り』という役目は重かったのだろう。
使い魔であるロイにさえ真実を告げないことで、彼女は仮初の『平穏』を維持した。それはきっと、そうしなければ彼女自身の心が壊れてしまうからだ。
主人の真意が分からないほど、ロイは愚かな使い魔ではない。あるいは、使い魔となったからこそレティシアの真意を見抜くことができるようになったのかもしれないが。
「……今更ながら、どうしてお前が俺を使い魔にしたのかが分かったよ」
「寝物語には微妙なチョイスね。でもいいわ、聞かせてちょうだい」
「使い魔契約は魔法使いと魂を紐づける魔法誓約だ。魔法使いが死亡した際、使い魔は誓約に従い主人と運命を共にする。覚悟があろうとなかろうと、俺はレティと共に死ぬことになる訳だが、重要なのは此処から先だ」
さんじゅってん、と寝ぼけた声が囁きかけるのに合わせて、ロイは更に言葉を重ねた。回答の採点にはまだ早い。
「高次の魔法使いは、使い魔と転生後の魂でも契約を結ぶ。お前ほどの技術があれば、転生後の魂を結びつけることなんて造作もないだろう。つまりお前は、…………はあ」
溜息を落としたロイの声音には、怒りと疲弊、それと幾許かの悲しみが同量で含まれていた。
怒ればいいのか、呆れればいいのか、泣けばいいのかも分からない。
「お前、どうせ死んでも来世で一緒になれるから良いと思ってるからこんな作戦に乗っただろう」
レティシア・レールレイシアは自己犠牲など微塵も考えない女である。それはロイもよく知っている。だからきっと、彼女にとっては『死んだところで問題はない』から実行しただけの案に過ぎないのだろう。それが最善だと、稀代の魔法使いであるレティシアが判断したのだから、使い魔であるロイに意見する隙間などなかった。
何より彼女は、ロイが『そうなっても構わない』と思うことすら織り込み済みで実行している。厄介極まりなかった。
レティシアからの返事はない。
だがその小さな唇から溢れ出る楽しげな笑みこそが何よりの答えだった。
何が面白いのか、目を閉じたまま小さく笑っている彼女の頬を軽く摘む。本当なら引っ叩いてやりたいところだったが、学園生活を送る者たちが彼女の守りによって健やかに過ごせたことを思うと、ロイの手は自然とレティシアの頭を撫でてしまっていた。
「…………レティ、ずっと聞きたかったんだが、お前は俺のどこをそんなに好いているんだ?」
レティシアは三年前、一年の授業で行われる使い魔の契約にて、真っ先に三つ年上のロイを指定した。それまで一切の面識がなかったのにも関わらず、である。
授業中、空腹を紛らわせながら週末の出稼ぎについて考えていたロイは、板書を書き留めている最中に喚び出された。
眩い光がロイを包み込み、瞬く間に景色が変わったかと思うと、次の瞬間には中空から降り立った──否、無様に落下したロイを見下ろしたレティシアが、ご満悦を隠しもしない微笑みで「初めまして、私の可愛い使い魔さん。これからよろしくね」と囁いてきたのだ。その時のロイの混乱っぷりときたら、錯乱魔法をかけられたゴブリンでもあそこまで狼狽えはしないだろう、という有様だった。
本来、使い魔の条件付けは『魔法適性』と『魔力量』を元に設定する。本人と同属性で、尚且つ魔力枯渇で倒れてしまわないような相手を指定し、召喚するのだ。
だが、レティシアは違った。彼女は類まれな才能を惜しみなく発揮し、最古の魔法陣に干渉して以下のように条件を追加した。
『私がこの世で最も愛しいと思える相手をここへ連れてきなさい』と。
ロイはそれを聞いた時、丸々五分は絶句した。
伝統ある使い魔契約を婚活に使うんじゃない、と指摘してやりたかったが、あまりのことに何も言えないまま固まっていた。固まっている内に契約は正式なものとなり、ロイはレティシアの使い魔となった。
そうして三年の付き合いを重ねてきたわけだが、ロイには未だにレティシアがどうして自分を好きになったのか、分からなかった。魔法陣が条件に合うとロイを選んだから、というには、レティシアはあまりにも規格外だった。
レティシア・レールレイシアは、ただ用意されただけの最善を選び取るような女ではないのだ。だから、きっと何処かにロイでも良い、と思うような理由があるのだと考えているのだが。
「そうね、一番簡単に言うのなら、私は貴方の前だととても自由に振る舞えるの」
「…………お前はいつでも自由極まりないと思うんだが」
「ええ、私はいつでも自由奔放よ。いつだって自分の好きなようにするし、嫌だと思ったことは一度だってしたくはないわ。
だから、絶対に貴方と運命を共にできる道を選んだのよ」
囁くように呟いたレティシアは、それ以上は答えを避けるように、安らかな寝息を立て始めてしまった。今度こそ、何をしても起きてはくれないに違いない。
ロイは寝息を立てるレティシアをしばらく見下ろしたのち、そっと細い溜息を落としてから、諦めたように自身もゆっくりと目を閉じた。
翌日。
レティシアの処刑執行が決まった。
「…………おかしいな。こういう場合、見事に人類側が勝利を掴んでお前は無罪放免、釈放されるのが筋ってもんじゃないか?」
「誰にでも失敗はあるものよ、特に許しはしないけれど、受け入れてはあげましょう」
「受け入れたら死ぬんだが?」
軽口を叩く口こそ止まらなかったが、実際のところロイの背は冷や汗で濡れていた。
動悸は激しいし、視界は嫌な色に明滅しているし、さっきから吐き気が凄まじい。執行を前にした緊張と絶望から生じた心的負荷は、一瞬で体調不良を引き起こすほどに酷かった。
死んでも大丈夫だと知っていたとして、肉体の死を目の前にして冷静でいられる人間などほとんどいない。それが敬愛する主人に降りかかる死ならば、動揺は相応のものになって当然だった。
正直に言えば、ロイは昨晩の時点でもまだレティシアが本当に処刑されるなどとは思っていなかったのである。この厄介で優秀な主人ならば、必ず何処かに抜け道を用意しているだろう、と考えていた。
だが、どうやらそれはロイの思い違いだったらしい。手錠のかかったレティシアを連れていく看守は、薄ら笑いを浮かべながら粗雑な扱いで鎖を引いた。
日差しがやけに麗らかで穏やかなのが極めて腹立たしい。
ついでにいえば、処刑場に向かう中で隣を歩く主人はやはり涼しい顔をしているところにさえ腹が立っていた。
立てるところではないが、あまりにも平然としているので、混乱し切ったロイの心中には焦燥がそのまま苛立ちとして現れてしまっていた。
「レティ、逃げよう」
「何処へ? 恐らく学園長は殺されてしまっているし、処刑を避けたとして魔族の追求から逃れながら楽しく暮らすのはちょっと難しいわ」
「俺の命を対価に最上位魔法を発動すればお前だけなら逃げられるはずだ」
「ロイ、成績優秀な貴方なら知っているでしょうけれど、使い魔の契約は、使い魔側の死によって破棄されるのよ。主人が使い魔の死に付き合う訳にはいかないものね」
「ああ、知ってる。だから何だっていうんだ」
潜めつつも低く唸るような声で問いかけたロイの手を、レティシアの白い指先が撫でる。
握り締められた拳から伝い落ちる血を綺麗に拭った彼女は、宥めるようにその拳を解すと、いつになく優しい仕草でそっと手を繋いだ。
「大丈夫よ、ロイ。また一緒にはいられるもの。それに、使い魔の死には苦しみを伴わないわ。存在の定義が精霊の領域にいるもの、精霊は痛みを感じないのよ。だから安心して頂戴」
「それも知ってる。俺が言っているのは、お前が、…………」
ロイはそれ以上、言葉の先を紡げなかった。口に出すことすら恐ろしかったからだ。
だが、隣を歩くレティシアにはその先が正しく伝わったらしい。黙り込んだロイを愛おしげに見つめた彼女は、ゆったりと笑みを深めると握った手に軽く力を込めた。
「私のことを心配しているのなら、それこそ気にすることはないわ。計画を聞いた時から、ずっとこの時を楽しみにしていたのよ」
「………………どこに楽しみにする要素があるんだ」
「だって、大半の人間が『私を殺す』と言うことの本当の意味を理解していないのだもの。分かっていたのは学園長くらいのものね」
軽やかな声音で告げるレティシアの横顔には、心の底からの喜色が浮かんでいた。
「知っての通り、私は最高峰の魔力を持つ特級魔法使いよ。第六位相当の魔力量を持つ存在が寿命を待たずに死を迎えた場合に何が起こるのかは、深淵魔法を少しでも齧ったことのあるものなら十分に分かる筈なのだけれど、どうやらこの国にはその『少し』すら理解できる者はいなかったようね」
「……深淵魔法を少しでも齧れるような人間は揃いも揃って正気を失うんだよ、普通はな」
ロイが深淵魔法に触れても正気を保っているのは、レティシアと契約を結んでいるからに過ぎない。加えて言えば、正気を保っていることと理解が及ぶことは全く別の問題だ。つまり、ロイにもレティシアの言葉の意味はほとんど分からなかった。
「とても簡単に言うのなら、特級魔法使いは、自身の死を糧に一個の呪いとして顕現することが出来るわ。人の世の理全てを無視して、ありとあらゆるものを蹂躙する災厄となる。
要するに、私が今のこの場にいるのは、聡明な学園長が最後に残したとっておきの手段ということよ」
言葉の通り、とても簡単な説明だったので、ロイにも理解はできた。したかったか、と言われると全くもって別の話だったが。
「……………………まともな人間の考えることじゃないだろ」
「ええ、そうね。この国はあまりにも碌でもないわ。それこそ、貴方と私が平和に暮らすには正攻法では何十年もの時をかけて作り変えなければならないほどにね」
「……………………」
「その間に、私の可愛い使い魔はどれほどの苦しみを抱いてしまうのかしら? 美味しいものを沢山食べて、楽しいことをできるのはどれくらい先のことになってしまうのかしら? すっかり私に懐き切って、気の抜けた顔でお昼寝をしてくれるのは、一体いつになってしまうのかしら? ロイ、貴方ならよく分かっているでしょうけれど、私はそこまで気が長くないのよ」
だから此処は素直に受け入れて、来世で私と楽しく過ごしましょう?
柔らかく、それでいて何処か願うように口にするレティシアに無理に異を唱えるほど、ロイは愚かな使い魔ではなかった。いや、ある意味ではとても愚かだと言えたかもしれないが、そんな言葉はロイにとってはもはやどうでも良かった。
唾を飲むことすら苦痛に感じる恐慌の中で、ロイはそっと、自身を落ち着かせるためだけに息を吐く。言葉の形にもならない同意を返したロイに、レティシアは満足そうに微笑んだ。
断頭台が近づいている。美しい少女が惨たらしく殺されるのを見物するためだけに来た、下卑た性根の人間たちが、大きな群れのように蠢いている。反吐が出そうだった。
「私をこんな状況に陥れた存在が揃いも揃って溶けて居なくなるのね、楽しみだわ。魔族って何処から溶かすのが一番苦しむのかしら? 足?」
吐かずに済んだのは、下手すれば優雅に見えるほどの仕草でうつ伏せた愛しの主人が本当に、……本当の本当に楽しそうにしていたからである。ろくでもない主人だな、とロイは心の底から思った。ギロチンは滑らかに、聞くに耐えない鋭利な音を立てて落下した。
────さて。そういう訳でレティシアは滞りなく処刑されたし、断頭台から落ちた彼女の首は噴き出る血を胴とした蛇のように長く伸び、高笑いを上げながら溶解液を吐き出し周囲を丁寧に溶かして回ったし、見物人は一個の巨大な肉団子のようになったし、その頃にはすっかりどす黒い大蛇へと変貌していたレティシアは迷うことなく破壊のかぎりをし尽くした。
魔族に媚びへつらうことしかできなかった王族と、それに踊らされ少女の処刑を見物に来た下卑た性根の観客達と、自己保身だけに走って傍観し続けた重鎮達を綺麗に溶かして回った。腐敗した国を徹底的に溶かして回ったあとは、迷うことなく魔族国まで足、あるいは首を伸ばした。
全部が全部どろどろになり、魔族国はつつがなく終わりを迎え、そしてまた、新たな歴史が始まった。
◇ ◆ ◇
「────困ったわ、ロイ。この絵本ときたら、美しく可憐で素敵な魔法使いの私ことレティシア・レールレイシアが、まるで災厄の魔神であるかの様に描かれているの。出版社に言ってどうにか直してもらえないかしら?」
「そんなことでかつてないほどに困った顔をするんじゃない。自業自得だろうに」
四十一年後。とある大陸の平和な一国にて。
やや癖の強い金髪を腰まで伸ばした愛らしい面持ちの少女は、広げた絵本を前に『幼馴染』の少年に問いかけた。
同い年の彼は、買ってもらったばかりの絵本を覗き込むと、まさしく『黒い大蛇』としか言えない有様で描かれたレティシア・レールレイシアを見下ろし、小さく呆れたように呟いた。
「よく似てるじゃないか」
「似ていないわ。レティシア・レールレイシアはもっと可憐で美しくて、夜空に煌めく星のような卓越した美少女なのよ」
「お前、よくもまあ自分の容姿をそんなに褒められるな……」
「事実だもの」
「…………まあ、そうだが」
語弊はなくもなかったが、まあ、実際そうだった。事実だというところが更に困ったところだったのだが、四十年も前の記憶は今やロイの胸に懐かしさしか抱かせない。
すっかり風化した苦しみと切なさを何処か他人事のように捉えながら、ロイは広げられた絵本を傍からゆっくりと閉じた。
「気に入らないならわざわざ読まなければいい。それに、今のお前だって、充分可愛いじゃないか」
「あら、ロイはこっちの私の方が好き?」
「…………まあな」
目を瞬かせた少女は、くるくると跳ねる柔らかな金髪に指を通すと、蜂蜜色の瞳を楽しそうに笑みの形に細めた。
揶揄うような声音で投げられた問いに、ロイは苦笑混じりに同意の声を返す。前世のレティシアも美しい少女だったが、ロイは今の彼女の方が好きだった。
四十年前の『災厄』を経て、幾年もかけて復興したこの国では、人間は種族にも階級にも縛られることなくとても自由に生きられる。重い柵から解き放たれた彼女の笑みは以前よりもずっと素直で可愛らしく、ロイにとってどこまでも好ましいものだった。
出来ることなら、この先もずっとそうして笑っていてほしい。もう二度と、あんな方法を取らずに済む人生を送ってほしい。
そのためにロイにできることがあるのなら、何だってする覚悟はあった。だからこそ、ロイは穏やかな昼下がりに、ひとつ大事な問いを投げることに決めた。
「なあ、レティ。一つ聞いてもいいか?」
「なあに? 今日のおやつはシナモンパイよ。お母様が焼いてくれたの」
「お前はいま何回目を生きてるんだ?」
レティシア・レールレイシアは、自身の死を持って歴史を作り変えた。彼女ほどの人間ならば、己の命を賭けた作戦を立てることも、あるいはそれに乗ることも容易かっただろう。
だが、いくら彼女が才能に満ち溢れていたからといって、あそこまで簡単に自身の死を利用することが出来るだろうか?
どう考えても、幾度か使ったことがあるとしか思えない周到さだった。自らの死を幾度か試すだなんて、そんな芸当が出来る魔法使いなどこの世には存在する筈がない。彼女以外には。
だから、ロイは当然のように結論づけた。
レティシア・レールレイシアは、少なくとも数回以上の死を経験したことがある、と。
そして恐らく、自分はもっと『前』にも彼女の隣にいたことがある、とも。
確信を持って尋ねたロイに、振り返ったレティシアはほんの少しだけ虚をつかれたように目を瞬かせた。
一瞬、何事か呟こうとして固まったらしい唇が、すぐに笑みの形を取る。数秒も経たない内に、幼い相貌には見慣れた大人びた微笑みが浮かんでいた。
「困ったわ、ロイが少し賢くなってしまったようね」
「そんなことで困らないでくれ。何なら祝うとかしてくれ」
「ロイは何も知らないままでいいのよ。何も知らないでいてくれることが救いになること、あるでしょう?」
「ああ、そうだな。でも俺は知りたい。駄目か?」
レティシアはロイが好きなので、大抵のことは真剣に願えば叶えてくれる。
そして、ロイはレティシアが好きなので、これだけは知っておかなければならなかった。
愛する主人兼恋人兼妻の、胸に秘めた想いを知らずにのほほんと生きられるほど、ロイは呑気な人間ではない。
いつになく真剣な眼差しを向けるロイに、レティシアはほんの少しだけ困ったように眉を下げた。
「駄目ではないけれど、でも……そうね」
口元に人差し指を当てたレティシアは、あくまでも芝居がかった様子で小首を傾げ、微笑んだ。
「ロイが八十歳のお爺さまになってもそばに居てくれたら、その時には教えてあげる」
だから、今度は死んじゃダメよ。
四十年前に自らの脚で断頭台に上がった主人は、あくまでも軽く聞こえる声音で、そんなことを宣った。
悪戯めいた微笑みの奥にどれほどの情が込められているのか。分からないほど鈍い男ではない。
数十年ぶりに与えられた答えを手にしながら、ロイはいつか、もっと賢くなった自分が『前の自分』の記憶を取り戻す方法を見つけてくれやしないだろうか、とぼんやり思った。




