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第四話(β版)

    × × × ×


 それは若葉生い茂る初夏の風景。穏やかに茂った新緑の色合いは見る者に命の暖かさと、木陰の内側にある涼しさを同時に退官させ、知らず知らずのうちにその心を穏やかにしてくれる。それは距離に関わらず起こる現象で、だからこそ新緑の青葉を覗くことのできる居室にいながらでも、関係はない。

 ちょうど、この和室のように。

 和式の障子窓の向こう側に姿を見せる、新緑の若葉。

 その下でゆったりと時を過ごす小さな二人の少女を眺めながら、二人の少女は茶を楽しむ。

 時は穏やかな幸いの内においてはゆっくり流れるもの、のんびりとした時間を楽しませるものである。故にこそこの和室においてのんびりと茶を楽しむ二人の表情は、忙しさのない穏やかそのものの表情で、また二人の眺める二人の少女も非常に穏やかな顔をしていた。

 深蒼長髪の少女と、薄紅肩口の少女。

 向かい合って茶と団子の並べられた上品な机につき、首を傾けて障子窓の向こう側を見る。

「…………ちょぉっと心配だったけど、案外うまく言ってくれたねぇ」

 間延びした口調で、薄紅の少女が言った。

「ふふ、確かにね。一時はどうなる事かと思ったけど、やってみたら案外大したこと無かったわね。なんだかスクナまでどうにかなっちゃったし………こうしたの、たぶん正解ね」

「うん、私もそぅ思う。それに――――あの二人もあんなに幸せそうだから、別にいっかなぁとも思うよ」

 あの二人、庭にて木陰と戯れる小さな二人の少女を、満足げな表情で薄紅の少女は眺める。

「心配してたことも起こらなかったし、今のところは何の問題もないんじゃなぁい?」

「この先も何も起こらないわよ、牡丹。たぶんね。ふふ、一番難しいところが構築の段階だったのよ? そこを超えて何も起こらなかったんだから何もないって言えるし、それにこの先何かあったとしても対応できるわよ。私たち二人に操れない夢幻は、ないんだから」

 微笑みながら、深蒼の少女は言う。その目線は薄紅の少女、牡丹と同様に庭で木陰と戯れる少女たちに向けられ、その表情も何処か満足げなものだった。

「そこまで大層なものでもなぃと思うけどね、私は」

 薄紅の少女は何処か謙遜した風に言い、

「ふふ牡丹、そんなに謙遜しなくてもいいのに。実際、この夢幻界は貴方の力なしには構築できなかった世界なんだから。もともと歌香多町自体が泡沫――夢幻に近しい存在だからといって、その存在を夢幻の境に落とし込むのに幻想をかなりの練度で操れる必要があるの。その点で言ったら、貴方のやったことは決して小さくはないわ」

「そうなんだろうけどねぇ……姉様から褒められるって、どうにも変な感じで……」

 ははは、と小さく笑みを浮かべる薄紅の少女。

「でもま、とにかく今は二人とも元気で幸いなのが一番、かな」

「ふふふ、確かにそのとおりね。ところで………牡丹、ちょっと面白いもの、見せましょうか?」

「面白ぃもの……?」

 ええ、そうよ。深蒼の少女は含みのある微笑みを浮かべる。そのまま上品な仕草で団子を一つ。

「最近、ようやく様になってくるようになったの。この先も――たぶん度々見ることになるから、今見ておいた方がいいと思うの」

「ふ~ん、どんなものなぁの?」

 薄紅の少女もまねをするかのごとく団子を一つ。

「……そうね、面白いものでもあるし、きれいなものでもあるし、かわいいものでもある、とだけ言っておくわ。ちょうどお茶も切れたことだし、見てみる?」

「………じゃあ、見てみようかなぁ」

「ふふふふ、驚かないでね。早苗、きいての通りよ。お茶のお代わりをお願い」

「………承知いたしました」

「あれ?」

 障子一枚隔てた廊下、そこから帰って来た声に、牡丹は怪訝な声を上げる。そして障子の向こうで人の動く気配。

「ふふふふふ、どうかしたの? 牡丹」

「うぅん、でも………芍夜姉様、今の、彼此寺だよね?」

「ええ、早苗よ」

「だけど今の声ってどう聞いても………」

「女の人の声、だったわよね?」

 そう、薄紅の少女の知る従者、彼此寺早苗はあんな口調では話さない。口調は常にぶっきらぼうかつ無礼なもので、態度の中には丁寧さが微塵もない、そんな従者としては失格としか言いようがないような行動しかとらないのだ。

 しかし、その本来の性別。

 それを考えると声が女性であったこともうなずけないことはないが……まずあり得ない。

 あの、彼此寺早苗なのだ。

 いくら自らが絶対の尊敬を置く深蒼の少女の言葉であろうとも、そう簡単にあんなふうになったりするはずがない。

 内心でそう思いなおし、牡丹は深蒼の少女に向き直る。

「……じゃあ、さっきの、誰?」

「ふふ、種明かしをしましょうか?」

「……ぉ願します」

「ふふふ、素直なのね。いいわ、早苗、入って来てくれる」

 障子の向こうに、深蒼の少女が声を掛け、

「………はい」

 恭しい、しかしどこか照れの入ったような女性の声が帰って来て、ゆっくりと障子が開き……

「……失礼します」

 そこにいたのは、見るも美しい女性だった。

 新緑の布地に、色とりどりの花が描かれた美しい着物に、金のかんざしでまとめられた茶色の髪。仕草や居住まいは丁寧そのもので、雰囲気の中にも何処か達観したような落ち着きが見える、そんな女性。

「……………」

 言葉を失う薄紅の少女。そのまましばらく、その女性の顔を見つめ………

「……どうかなさいましたか? 牡丹お嬢様」

「へ? いぇ、別になんでもありません……」

 向こうから声を掛けられ、思わず敬語が混じる牡丹。その様子を見て、深蒼の少女は笑みを濃くする。

「芍夜お嬢様、お茶のお代わりをお持ちいたしました。水灯が相当手を入れておりました、自家製の茶葉を用いた煎茶でございます」

「ええ、ありがとう早苗」

「いえいえ、お褒めに与るほどでは………」

 謙遜しながらも廊下に正座したまま、非常に丁寧な仕草で持参した急須を机の上に置き、空になった急須と入れ替える。

「………………」

 その様子をまじまじと眺める牡丹。と、その視線に気づいたのか、その女性がくるりと牡丹の方を向き、

「………あの、何か…?」

「え、いいえ、何も………」

 緊張の面持ちで目線をそらす牡丹。と、その瞬間、今までこらえていたのだろうか、深蒼の少女はうつむき、

「うっふふふふふふふふふ――――」

 思い切り、忍び笑いを漏らした。

「へ? 何? 何なの姉様?」

 きょろきょろと、深蒼の少女と女性の顔の間を往復する牡丹の目線に、とうとう女性の表情までもが破顔し、

「おいどうかしたのか嬢。狐に化かされたみてぇな顔になってるぜ?」

 突如として、完全な男の声を発した。

「え? ちょ、ちょっとまって、つまりこの人って……」

「ええ、そうよ牡丹。紹介するわね」

 笑いを懸命にこらえながら、しかし表情は完全に笑みのままで、芍夜は口元を隠しながらも女性の方を指示し、

「こちら、今日から旅館全体の接客管理と、私の身の回りの世話、それと私の護衛役を担当する従者、彼此寺早苗さんよ」

「えぇぇ!」

 驚愕の声を漏らした薄紅の少女に、その女性、早苗は恭しく頭を下げ、

「お初お目にかかります、牡丹お嬢様」

 先ほどと同様、流麗な女声でそう言った。

「え~と、姉様」

「なに?」

「つまりは――――そういうこと?」

「ええ、そういうことよ。苦労したわ。お風呂の後に毎日毎日礼儀作法と言葉遣い教えて、着物の着付けとか仕草とかまで完璧になるまで頑張ったんだから」

「声は?」

「もともと音域広かったし、今まで無理して男声出してた分いい声になってたわ。そのあたりは、問題なしね」

「………でも嬢、いきなりこれっていうのは勘弁してくれ。今までずっとあれだった分俺も慣れてねぇんだ」

 困ったような表情を形作り、女声で早苗が言う。見た目は完璧、声も日の打ちようがないほど見事なものであるにも関わらず、その口調と容姿は、これ以上ないほどあっていない。

「………早苗、一人称、変えてくれる?」

 深蒼の少女も同じことを思ったのか、早苗に向かって微妙な笑みを浮かべながら言い、

「………どういうのに?」

「そぅね、『あたし』でいぃんじゃない?」

 早苗の問いに、薄紅の少女が笑みを交えて言った。

「あたし……か。まいい機会だ、使わせてもらう」

「そうそう、そんな感じよ、早苗」

 満足げに、深蒼の少女は頷いた。


    × × × ×


「………うっ」

 暗澹たる気分、混濁した認識、不確かな体の感覚の中へ、夢の中から文一の意識は帰還する。

 覚醒とも呼べぬような混濁、目覚めとも呼べぬ感覚。身を起こすことさえも労苦と認識させるような倦怠感の中、反射的な感覚として暗澹たる視界がピントを合わせ始め………

 そして視界に収まったのは木目も鮮やかな和風建築特有の天井だった。

 左側から差し込む柔らかな朝の日差し、鼻孔をくすぐる何かの香を思わせる、ゆったりとした印象の香り。身をくるむ柔らかな暖かさは布団だろうか。

 ………ここは……

 どこだ、と文一は思考――――


「主ぃ!」


 する前に、何かに抱きつかれた。

 正面から完全に視界をふさがれるように抱きついてきた何かによって文一の顔面は完全に封じられ、思考が完全に停止、結果として自らの顔面に感じるほのかな柔らかさと人肌程度の温かみ、そして自らの顔面を猛烈な力で締め上げられる感覚などに集中することになる。

「ちょ……待……」

「よかったぁ……よかったんだよぉ…無事で……」

 うっすらと涙の滲んだ声。

 その声に反応し、文一の内側からうっすらと記憶が浮上する。闇の中の戦闘、とてつもない疲労感、勝利の感触と、それを裏切る絶望感、肋骨に走った激痛、人殺しに対する罪悪感、そして、正面に迫った大鉈と左腕に走った激痛。

 となると、今自分に抱きついているこのぬくもりは、

「………茜、心配してるのか絞め殺そうとしてるのかはっきりしてくれ」

「やだ……」

「………なら、せめてしがみつく場所を考えろ。顔面じゃなくて」

「………うん」

 涙の滲んだ声音とともに文一の顔面を締め付ける力が緩み、茜の体が下方へとスライド、今度は腹部を締め付ける力へと変わる。

「………いよっ……と」

 倦怠感の伴う体を無理やりに起こし、腹に涙の滲む顔を埋める茜色の髪を撫でつける。よほど心配だったのだろうか、その体は小刻みに震え、腹に押しつけられた顔からはうっすらと嗚咽のようなものが伝わってくる。

「ホントに怖かったんだよ……? 主の肩から血がどばって出て…べちゃって倒れて……私も真っ赤になって……」

 ぎゅっ、と文一の体を抱きしめる力が増す。昨日と変わらず身に纏っている浴衣の帯が解け掛けているが、そんなことにすら気が回らないらしい。

「………」

 なんとなしに、文一は自らの腹に押しつけられているその頭を抱きしめる。

「……悪かったな、茜。心配掛けた………」

「うぅ――――」

 腹に顔を押し付けたまま、茜が呻くように言う。

「確かに、ちょっと僕も無茶しすぎた。大量装填に…実力差考えない動き……素直に逃げときゃ、こんなことにはならなかったのにな」

「………うん」

 腹へと抱きつく力が幾分か緩む。文一もそれを認識して頭部を抱きしめる力を緩め、

「とにかく、今は現状把握だな。茜、どうなってるか分かるか?」

 言葉とともに緩みきっている茜の帯を治そうと左手を伸ばし、

 伸ばしている最中に、そんなものが自分にはもうついていないことを認識した。

「―――――――――」

 茫然、という表現が最も近いだろうか。かつては自分の利き腕、生活の大部分を任せていた、自らにとって最も重要ともいえる部分の喪失の事実を、文一は緩慢に受け止め………

「…そう、か――」

 自分の左腕は、もはや存在しないのか。

 内心でそう呟き、右手を『かつて左腕のついていた箇所』に触れさせる。

「主………」

 身を起して、心配そうに文一を見つめる茜。それに対し、文一は曖昧な笑みを浮かべる。

「……腕のいい義肢職人でも、捜さないとな」

 どこか暗い感情の滲んだ声音で、文一は言った。

 利き腕がない。その事実。現状がどう進展するのかもわからない状況で、武器を使用する際に基本となる腕がない。普段の自分の実力でさえも敵わぬ実力をもった敵ばかりの中にその事実を抱えたまま存在するのは、非常に無防備にも思える事実だ。

 それに加えて、

 ………帰っても、お嬢様の隣に居続ける理由がない。

 文一は、執事である。執事であるからには当然こなせてしかるべき仕事はこなす必要がある。

 故にこそ、自らの仕える主が文一を隣に置いておきたい特別な理由でもない限り、もはや文一には小鳥遊灯夜の隣に居続けることはできないだろう。

 ………せっかく見つけた、居場所なのに………

 内心で呟くが、今ではもうどうにもならない。切断面がきれいであった場合、腕のいい医療機関にかかれば元通りとは言わずとも、ある程度動くまでに回復は可能だろうが、その程度でこなせるほど執事という仕事は甘くはない。

「――――とにかく、今は現状把握が先だ。茜、ここがどこか、分からないか?」

 無理矢理に思考を現実へと戻し、再び茜に尋ねる。

「ううん……わかんない。私も主が気絶した後辺りから意識飛んでたから……」

「でも、僕より先に起きてたなら人呼んだりとかできたんじゃ…」

「やったよ? でも誰も来ないし、呼びに行ったら迷いそうだったから……」

 迷いそう、ということは、この建物はかなりの面積を、少なくとも逢瀬際牡丹のいた旅館程度の面積は有している、ということか。

「なるほど………」

 呟き、文一は己の体に目をやる。

 身に纏う衣装はいつもの燕尾服ではない、牡丹の旅館でとりあえず纏っていた浴衣でもない、純白の肌襦袢一枚。

 それに加えて、切断された左腕の断面と、全身にある細かな傷に巻かれた包帯の感触。

「何とも言えない……けど、敵意はないってことか」

 少なくともあの状況。本気で文一を殺すつもりだったのだとすると、このように文一を生かしておくのは不自然にも程がある。人質としての利用価値も存在しない以上、捕虜として生かしておく理由も謎だが――――少なくとも殺すつもりはないことが分かる。

「みたいだよ……私のこれも、作ったんじゃないし…」

 これ、と示すのは茜の小さな体系にぴったりあった浴衣である。

「ご丁寧に、お布団まであったから」

 茜の視線の先、そこには確かに文一のものより一回り小さな、すこし乱れた布団がある。

「……至れり尽くせり、だな」

 ポツリ、と文一が呟きを漏らし、

「ま、殺されないで済むならそれに越したことはない、か」

 楽観論とも思える一言を言い放った。


「ふん、賢明な思考だな。現状が理解できないうちに大きな行動を取ろうとしたところで、失敗は目に見えている。おとなしくしているのは利口な判断だ」


 文一の右、そこに位置する障子戸が滑らかに開いた。

「……目覚めたようだな、師走。傷は大丈夫か?」

「…っ、お前……!」

 障子が開いた先の廊下、そこにいたのは文一の記憶にある昨夜、障子窓を撃砕して侵入してきた、槍使いたる長髪の男。今でこそ槍は持っていないが、全身からみなぎる異様なまでの威圧感、獣じみた雰囲気などが、昨夜の出来事が冗談ではなかったこと、その気になれば徒手空拳であろうとも文一程度の命を狩ることなどは容易であることなどを物語る。

 文一の右手がたどたどしく茜の方へと延び、茜もそれに答えいつでも武器の形状と成れるよう身構える。

 その様子を、見、

「……警戒する必要はない。お前の推測通り、我々にはもはや敵意はない。元々が早苗の筋違いの殺意だ。まあ、俺も四道も師走には何の恨みもないと言えば嘘になるが……現状において、お前をどうこうするつもりはない」

「…………」

 落ち着いた男の物言いを聞きながらも、警戒は緩めない。

「……信用できない、という目をしているな、師走。だが現状において、お前の腕や傷の治療などを行っているのは事実だ。信頼せよ、とまでは言わないが……信用ぐらいはしてもいいだろう」

「…………」

 言われて文一は、

「………物分かりがいいな、師走」

 茜から手を引き、男への警戒を若干緩めた。そしてそのまま視線を男から外し、

「………天詩、文一」

「ん?」

 何やら急須のようなものが乗った盆を部屋に運び込み、障子戸を閉める男が、怪訝な声をあげた。

「僕の名前だ。師走……じゃない」

「ふ……そうか」

 口の端を緩める男。そのまま盆を文一の右脇に置き、自らもその隣に正座する。茜が文一の左側へと身を引いた。

「身に帯びる気配は師走のものであるにもかかわらず、その名は師走ではなし………か。俺と同様、訳ありということか」

 呟くように男は言い、盆の上にのっただるま湯呑に急須の中身を注いでいく。薬湯の一種、だろうか。香りはヨモギのものに近く、微妙に硫黄のような香りも混じっている。

「………訳あり……?」

「ああ、俺の血脈も、冠位十二カ月に多少の因縁がある、ということだ。もっとも今では没落しているが故に、ほとんどのかかわりがないのだがな」

「没落……ってことは、あんた、長月の……?」

 男の前髪から覗く目に、少しの驚愕が混じる。が、すぐさま視線をそらし、

「………さすがに冠位十二カ月なだけはある。知っていたか。知っているなら、隠し立てする必要もあるまい………」

 呟くように言い、今度は薬湯の中に和紙に包まれた白色の粉末を加える。

「そのとおりだ、天詩。俺はもともと《長月》の人間、望月が天に満る降魔の月の家系だ。もっとも、今ではお前同様訳合って、お嬢様に拾われているがな」

「…………ということは、名前も?」

「察しがいいな、天詩。そのとおり。今ではこの身に刻まれた《長月(ながつき) 銀二(ぎんじ)》の名前は消え失せ、一介の従者、(みな)(かり) (うしお)の名があるばかりだ」

 言って男、水灯 汐は文一に湯呑をスライドさせ、

「……信用できるなら、飲むといい。夢幻から拾い上げた、妖魔の血の溶け込んだ薬湯に、お嬢自ら調合した秘薬を混ぜた薬茶だ。衰弱した肉体を一気に回復させる程度の効果はある」

「……………」

 差し出された湯呑を、無言で拾い上げる。

 わずかな硫黄と、ヨモギの香り。色は新緑で、少しばかり濁っている。こうしてみれば少し変わった茶葉で淹れた緑茶のようにも見えるが………

「………信用して、いいんだな?」

「殺すつもりがあるのなら昨夜のうちにやっている。全てはお嬢様の意思だ。恩義あるお嬢に、手向かうつもりはない」

 忠実な従者としての答えを言い放つ水灯から視線を切り、再び液面へ目線を戻す。と、唐突に思い出したのは昨日に入浴した薬湯の香り。

 ………ん?

 似ている、と思った。

 いや、似ているどころの話しではない。少し薄まっていて分かりにくいが、この香りは間違いなく昨日入浴した、四道との戦闘で負った傷をものの数秒で完治させたあの薬湯と同じ香りである。

 ………それに、水灯も。

 同じ従者だから分かる。水灯の態度は本当に献身的な、主に仕える従者の見本のようなもので、その従者が主を裏切ることなど考えにくい、と。

「………わかった」

 一言言い置き、文一は己の右手の中にある薬茶を一気に飲み干した。

「……げほっ! …ぐふっ! ぐあぁ………マズうぅ……」

「希釈されているとはいえ、妖魔の血からなった薬湯を使っているのだ。うまいわけがないだろう」

「でも、これ………っ、不味いにもほどっ…がっ……」

「味は悪いが、効果は折り紙つきだ。最もたる効果を発揮した際には、出血多量で死亡する寸前であった白猫をわずかに一日で健康体まで復活させたことがある」

「ぐぅぅぅぅ………」

 舌に残ったもはや凶器とも呼べるような味を振り切るように、文一はうめき声を上げる。心配そうに茜が覗きこんでくるが、平気だと目線で合図するのがやっとだ。

「お前の左腕の治癒も進めている。早苗の持つ大鉈は鋭利だ。切断面にも無駄な破壊がない。薬湯に沈めて治癒を行っている最中だが、早ければ夕刻、遅くとも翌朝までに、左腕の方からお前の体へと戻ってくるだろう。いささか以上に君の悪い風景だが……………こらえてくれ」

「………向こうから戻ってくるって、どういうことだ?」

「…………………………言葉通りの意味だ」

 長い沈黙ののちに、苦々しい表情となって水灯が言う。文一はその言葉に、一瞬『左腕が向こうから戻ってくる』風景を想像しそうになったが、精神衛生上非常によろしくない予感がしたので断念した。

 一瞬苦々しい表情になったのを見逃さなかったのか、水灯がわずかに頬を緩める。が、一刹那ののちにまた元通りの無表情と成り、

「……お前の処遇に関してだが、お前も認知している通り、我々はもはやお前に危害を加えるつもりはない。芍夜お嬢様も、誰かが死亡する状況を好ましく思ってはおられないのだ、もう一人の来客や、牡丹お嬢様とその使用人に関しても殺害の意思はない。

また、逃亡を考えぬ限り、この旅館の内部での行動も制限するつもりはない。が、この旅館から出ることだけは制限させてもらう。ことが終わるまで、この旅館において時を待て。

 今の俺に言えるのは………それだけだ」

 それだけ言うと、盆を取り上げ、立ち上がる。そして背を向けて障子戸を開け放ち、

「………待ってくれ」

 その瞬間、文一の声によって立ち止った。

「なんだ?」

「聞きたいことがある」

「…………後にしろ。お前がどんな夢を見たにせよ、お前がどんな認識を抱いているにせよ、それは俺にとっては関係のない、終わったこと。今では取り返せない、『過去』の話だ。

 だから天詩、冠位十二カ月のはぐれ者として言っておく。

 それを知って尚、どうするかはお前が決めろ。

 ……………それだけだ」

 端的に言葉を言い残し、水灯は廊下へと立ち去る。そして片手で盆を持ったまま器用に障子戸を閉め、

「……退屈なら、庭を見て歩け。時間つぶし程度にはなる」

 言い置いて、その足音は廊下の遠くへと消えた。

「…………」

「………主」

「……きいての通り、だな」

 今では取り返せない過去の話、終わったこと。

 どんな夢を見ているにせよ。

「…………予感は大当たり、か……」

 うすうすと感じていた予感。あの白昼夢の存在は過去ではないか。

 どうもその予感は、的中していたらしい。


    × × × ×


『…………お~い、宿主さんよぉ。ぼ~っとしてっと、風引くぜ?』

「……あ」

 つぶやきと共に、湖織は飛びかけていた意識を現実へと回帰させる。

「…………体調不良、気をつけて……」

 横からかかったアリスの呟くような叱責に、決まり悪く湖織は視線をそむけた。

 あの襲撃から一夜明けて、朝。

 まだあれから、数時間なのだ。

 結局、両面スクナと逢瀬際芍夜は撃退するに留まった。

 牡丹の発揮した幻想の魔術と魔道書を用いた全力戦闘、それを全力で支えた湖織とアリスの援護も、両面スクナを転倒させるだけに終わり――そのまま戦闘の負傷や疲労などに追い立てられるように眠ったのだ。

 目が覚めたのはいつもよりかなり後。午前の、十時ぐらいだっただろうか。

 そして気付いたのが、文一の失踪。

 同じ部屋で戦闘行動を行っていた四道の話によると、襲撃者二人も夜明けと同時に引き上げ………その際にどういう意図があってのことか、文一を拉致していったらしい。

 詳しい事はわからない。が、少なくとも状況が逼迫してきたことは事実のようだ。

 が、しかし当の湖織はというと、

「………こんなことしてて、いんでしょうかー」

 呟きながら襦袢を身にまとい、小袖を上から着用する。

『ヒヒ、いいんじゃねぇか? どーせ昼間は動けねぇって話なんだからよ、怪我の処置ぐらいしとかねぇと、もたねぇぜ』

「……同感」

『それに文一のことにしたってすぐにどうこうされるわけじゃねぇだろ? 昼間に動けねぇってのは向こうも同じなんだし、のんびり待とうや』

 軽薄に誘宵は笑い、湖織の表情には更なる険が満ちる。が、それでも何も出来ないという状況を理解したのか、ゆっくりと腹のそこから吐き出すようなため息をつき、

「…………ですねー」

 諦めるように、籠の中の緋袴に手をかけた。

 湖織の所在する場所、それは牡丹の旅館の薬湯、《蓬莱》の脱衣所である。脱衣所というからには入浴の前後であるわけで、つまり湖織は薬湯に入浴した直後であるのだ。

 昨夜の負傷の治療。それがわかっていても、逼迫している状況と言う現状があせりをかけてなかなか納得できるものではない。湖織としては早急に手を打って文一の救出と芍夜の打倒を行いたかったのだが、ここは温泉街。昼間には少ないとは言え観光客が複数人訪れる場所だ。

 故にこそ、湖織たちは動けないでいる。《夢幻境》から進攻することも出来るには出来るらしいが、それでは敵の手中に自ら落ちるようなもの。行うことは出来ても、実際に行うわけには行かないらしい。

 だからこそ湖織も納得は出来ないまでも理解はし、その結果として昨夜の負傷の治療の一環として薬湯へ入浴していたのだ。

「わかってはいても、まどろっこしいものですねー。いっそのこと私たちだけで動いて、文一奪還しましょうかー」

『ヒヒヒ、やめときなって。今のオメェなら完全憑依したって勝てねぇよ』

「………ですよねー」

 諦めるように呟き、緋袴に足を通して帯を締める。そして脱衣籠に立てかけておいた誘宵を帯に帯刀し、

「アリスが強いのはよくわかりますー、私が全力でやっても、手加減されてるのが丸わかりの加減で手こずるぐらいですしー。でも、あっちの人はもっと強いんですよねー………」

 例えば、あの大鉈の男。

 あのときのアリスは確実に全力を出していたはずなのに、そのアリスを完全に仔猫扱いしていた。

 例えば、あの槍の男。

 四道の実力がどれほどのものかは知らない。が、牡丹にもっとも近い従者なのだ、その実力がアリス以下と言う事はありえないし、むしろ立場を考えれば上であってしかるべきだ。

 その四道と、互角。

 それだけで、あの槍の男の実力は証明されたも同然だ。

 それらと、

 それらと比較して、自分は、

「…………弱い、ですよねー、私……」

 はずしていた眼帯を拾い上げ、右目へと当てる。

 頭の後ろへと手を伸ばし、強く結ぶ。

「誘宵は強いのに、能力は確かなのに、使えてませんよね、私」

 妖をもって妖を滅する退魔刀、誘宵。その使い手は自らの身を狗狐風神の依り代とすることで獣の如き身体能力と、風をすべる力を得る。

 風とはすなわち、大気の流れ。

 そして大気の流れとはすなわち、世界を統べるにも似た存在だ。

 それらを支配すると言うことは、実質的に空間全てを掌握することと等しい。真空を作り出すことも、極限まで圧力を高めることも、爆風によって衝撃を作り上げることも、自由自在。上手く使えば相手の存在する空間もろとも大気を圧縮し、一歩も動かずして滅することも可能なはずなのだ。

 なのに………

「出来ることなんて、ただ風を叩きつけるだけで……応用させても狙いを変えたり加速路作ったり圧縮したりする程度で……全然、使いこなせてませんよね――――」

『おいおい宿主さまよぉ……確かに先代にゃ劣るが、オメェも大したもんだぜ?』

「それじゃ足りないんですよ、誘宵。いつだったか、覚えてます? 完全憑依したとき………」

 自らの身を完全に人型の狐と化する、依り代としての完成形たる姿。

「ああなってなお、あの程度なんですよ? ああなったら風なんて私の体そのものみたいなもので、自由自在どころか使えて当たり前なのに………」

 針を、袖口に仕込む。

「……化け物のはずなのに、駄目ですよね、こんなんじゃ……」

 言って、湖織はため息をつく。

「誘宵、少し休みましょう……夜までは、まだ時間が有り余ってます……」

『……ああ』

 いつもの耳障りな笑いを漏らすことなく、誘宵はただ肯定しただけだった。そのまま脱衣所を横切り、暖簾を潜


「……化け物、じゃない………」


 ろうとした瞬間で、湖織の体が停止する。

「四道も、水灯も、彼此寺も、牡丹も、私も、陽向も、彼方も、みんな。化け物じゃ……ない」

「………そうでしょうね」

 ポツリ呟くように言って、湖織は振り返る。

 ここへ来て目にすること三度目となる、純白の和洋折衷服を見に纏う白色の少女の姿。その目は猫の如き黄金で、雰囲気は猫の如くつかみどころがない。

「でも、私から見れば実力は化け物ですよ……?」

「違う………」

 否定の言葉と同時、アリスが湖織のほうへと歩を進める。

「………みんな、違う………ただ、譲れないものがあるだけ……」

 呟くような言葉、しかしその言葉は掴みどころがないばかりではない。その内側には薄っすらとにじみ出る、意思がある。

「………譲れないから、強くなった。なくしたくないから、強くなった。だから、みんな強い………それだけ」

「…………それだけじゃ、無理ですよー……」

「なぜ? 昔を見たのなら……分かるはず………みんな、普通だったって」

「………昔?」

 こころあたりは、一つしかない。

 そして思い返される事柄も、一つしかない。

 あの白昼夢の中に存在する、人々。暖かな日々の中に暮らし、暖かなものの中に包まれて生き、そしてその日々が続くことを望んでいた、あの人たち。

 あの人たちはあまりにも普通だった。

 あの人たちはあまりにも無邪気だった。

 あの人たちはあまりにも一生懸命だった。

 そして、また。

 あの人たちはあまりにも、大切なものを持っていた。

「……それに、勝利する必要はない…………」

「え………?」

 勝利する必要が、ない。

 その言葉に、湖織は一瞬硬直する。

「…………あなたのやりたいことは、なに……」

 それだけ言い置くと、アリスは意識が白紙状態になった湖織の脇をすり抜け、脱衣所を出、

 ―――― とすん

 軽い木と木がぶつかり合う音とともに、その姿を廊下へと移動させた。

「あ………」

 その音で湖織は正気に戻る。

 正気に戻って、アリスの後を追う為に身を翻し、


    × × × ×


 それは全てが思い出の色に染まったセピア色の風景。全てが色あせるほどの時を経た、はるか昔の光景。風景の中によぎる景色は瞬きの間に姿を変え、その姿を見る者に内包する景色を固定させることをしない。

 とらえようとすれば形を失い、全景をとらえようとすれば輪郭を得る。それはまさにとらえどころのない夢幻そのものの風景と呼べる景色の流れ。

 ――――広々とした廊下のような場所。

『ほら、此方。あまり急ぎすぎないの』

『そぅそぅ。お母様もびっくりするでしょぅ?』

『あ、ごめんなさいお姉さま』


 ――――黒衣に身を包んだ多数の人が存在する部屋の中。

『……お母様がっ…お母様がっ………っ』

『此方……落ち着きなさいっ……』

『芍夜姉様…………っ』


 ――――大広間のような、荘厳な部屋の中央。

『此度、先代逢瀬際家当主の訃報により、当主着任は私たち姉妹のどちらかになるわ。血と力をわけた姉妹なのだから、当然と言えば当然かしらね』

『でも……此方はどぅするの?』

『………別れたく、ありません……』

『ええ、分かってるわ此方。私も、そうはさせるつもりはないもの』


 ――――三人で囲む、食卓。

『ふふ、水灯も腕をあげたわね』

『……あ…本当です』

『確かに、おいしぃね』


 ――――広々とした夜空を見上げての、露天風呂。

『ほら牡丹、いらっしゃい。髪、洗ったげるわ』

『え? 姉様に?』

『もちろんよ、此方もいらっしゃい。牡丹、任せたわね』

『は~い。おいで、此方』

『うん、牡丹姉さん』


 ――――三つの布団を並べての、和室。

『……なんだか、安心します…こうしてると』

『ふふふふ、そうね此方。みんな一緒の布団だと、もっと安心できたかもしれないけど』

『じゃあ、こうしたら?』

『わわわわわっ』

『うん………?』

『ほら、こうしたら…おんなじ布団で寝るのに似てるでしょ?』

『なるほど、間に……ね。ふふ、牡丹らしいわ』

『でも……前より近い』

『あ、こら此方。抱きつぃちゃだめ。くすぐったぃ』

『いいじゃないの、牡丹。じゃあ私も………ぽふっ』

『わわっ! 姉様まで!』

『ふふふ、たまにはいいと思わない? 二人とも』

『……うん』

『……………まあ、たまになら』


 ――――緊迫した雰囲気の満ちる、大広間。

『嬢……町にまた死者が………冠位十二カ月、それも屍の様子から察するに……』

『師走……それも相当質悪く狂った奴……ね。どう思う? 姉様』

『私も同感よ、牡丹。ご苦労だったわね、水灯』

『はっ。して、処遇は如何様に? 四道、早苗、我ともども、いつでも打って出る準備はできております。一声いただければ、早急な対応を――――』

『……まだ早いわ、水灯。でも、警戒は怠らないように。此方の存在を知られるとまずいことになるわ』

『四道に任せますか、姉様』

『………いえ、早苗と、四道を。師走が相手となると、あの二人でも怪しいわ』

『では町の方はどのように?』

『………私がでるわ』

『! 芍夜お嬢様、それはなりません。貴方様はこの町を支える逢瀬際の御当主。もしものことがあっては………』

『そぅよ、姉様。姉様が行く必要はなぃ』

『………牡丹…』

『私が行くわ。だから、姉様は待ってて。水灯も、これなら文句はないでしょ?』

『大有りです! 牡丹お嬢様! 貴方様も芍夜お嬢様より下位とはいえ、逢瀬際を支える御柱。もしものことがあったら……』

『もしももしも、と言ってる間に町の住人たちにはどんどんその「もしも」が起こり続けているのよ? 水灯。余裕はないわ。それこそ、私たち姉妹が出なければならないほどに……』

『ですが………』

『なら、貴方も来なさい。これなら、貴方も下手に口は出せないでしょう? 牡丹、貴方も』

『うん、わかった……』

『……………はい、お嬢様』


 ――――冷徹なる雨降り注ぐ、裏町。

『此方……っ! 此方……っ!』

『は、ははは、は――――何の、悪夢だよこりゃぁ……』

『笑ってる、場合かよ……彼此寺』

『…………うぅっく……水灯! 水灯!』

『お嬢、ここに』

『師走は………! あの狂人は殺したの?』

『間違いなく。四道とともに』

『………っ………っ、四道! どうして守り切れなかったの!』

『早苗………あなたもよ。なぜ…………あなたもいたのに――』

『嬢………返す言葉も、ございません……』

『へ、へへへ………また、やっちまったか……俺も……』

『っ、早苗! 貴様何をやっていた! 四道は戦った………っ。嬢を守るために奮戦し、その末に敗れて倒れた! だが、貴様はどうだ! 守ったのか? 守るための努力をしたのか!』

『へっ………そいつは、てめぇが一番よく知ってるだろ……』

『っ!』

『やめなさい、水灯。今は………そんなときじゃないわ』


    × × × ×


 それは小鳥の声だった。

「………あれ?」

 突然響いた軽やかな小鳥の声に、文一は困惑とともに意識を現実へと回帰させる。白昼夢に導かれるように歩き続けた先、そこは旅館の廊下のど真ん中。

 文一にあてがわれた部屋は、旅館の中でも中庭によって囲われた離れの内部、旅館でもかなり中心に近い位置に存在するその建造物の、さらに中央近くである。薬湯の効果なのか、あるいは単なる疲労なのか、あの直後に猛烈な眠気に襲われて気絶するように眠り……目が覚めてみれば部屋に茜はおらず、なんとなく捜しに出てみて白昼夢の中に落ち込み………今に至る。

 きょろきょろと、文一は辺りを見回した。

 ここは旅館のど真ん中、ポツンと中庭でも広がっていない限り外の見える場所は存在しないはずで、そうであるからには鳥かごでもない限り小鳥の鳴き声とは無縁のはずなのである。

 もし鳥かごがあるのだとすれば、誰の部屋なのだろうか。

 そんなどうでもいい疑問に誘われるように、文一はさらに廊下を歩き、正面にある木製の戸を左手で――――開けようとしてその腕がないことに気付き、右手をのばして戸を開く。

 と、

「………あったよ」

 眼前にあったのはこぢんまりとした面積の中に季節の風情を漂わせる、手入れの行き届いた庭園だった、くつろぎのためなのかあるいは単なる飾りなのか、ご丁寧なことに縁側まで用意され、そこだけ部分的に切り抜けば古式ゆかしい田舎の家の縁側だと言われても信じてしまうだろう。

 もっとも、この風景の中にはそんな理屈は通用しない。

「………ふふっ、いい子たちだ」

 縁側に腰掛け、米粒を戯れるように枯れ草色の小鳥たちに与える、新緑の女性。

 この女性の存在が現実を夢幻にし、伝記を御伽草子にする。

 おしとやかな雰囲気、水引で軽く結われた髪、整えられた上品な新緑の着物、白木の下駄、純白の足袋。その手中から優しげに放たれる白米は昼前の穏やかな日に輝いて白色の柔らかな光を放ち、それをつつく枯れ草色の小鳥たちの羽の濡れ羽に反射してさらなる輝きを生む。

生命の躍動感と絵画のような造形美。

それら二つを融和させたその風景は、まさに御伽草子から抜け出て来た風景のそのものだった。

 御伽草子からそのまま抜け出してきたような幻想に、しばしの間文一はとらわれ……

「ん………?」

 気配に気づいたのか、新緑の女性が振り返ったことでその硬直は解かれる。

 そのまま女性と文一の、双方の目線がしばしの間かみ合い、

「………ああ、師走か」

 呟きとともに女性が再び庭へと目線を戻したことで、その視線の交錯も終わりを告げた。

「腕は大丈夫か?」

 ぶっきらぼうに、女性が言う。文一は縁側を歩いてその女性に接近し、

「自分で斬っといてよく言うよ……彼此寺、早苗さん」

 ぴくり、と女性の肩がふるえ、

「………ああ、過去夢みてればそりゃ気づくか」

 納得したように言い、再び新緑の女性、彼此寺 早苗が小鳥に米を投げ与える。少し表情の中に驚きが混じっているのは気のせいだろうか。

「隣、座ってもいい? 彼此寺――――」

「早苗」

 断言するように、早苗の言葉。

「この格好の時は、そう呼ばせるようにしてる」

「――わかったよ。隣、いい? 早苗さん」

 へっ、と早苗は鼻で笑うように言い、

「別にここはあたし専用ってわけじゃないんだ。座りたきゃ座れよ」

「恐縮」

 言われて文一は早苗の左側、入って来た入口からみて奥側へ回り込んで右手をついて腰を下ろす。

「………ずいぶん無防備なんだな、師走の」

「天詩」

「へ?」

 素っ頓狂な声をあげた早苗に、文一はちらりと目線をやり、

「天詩、文一。師走じゃない」

「天詩文一……ね」

 感慨深げにつぶやく早苗。庭に目線をやったまま、

「……汐の奴と同じ、ってことか………」

「そっちの方にどんな訳があるかは知らないけど、そんな感じで間違いはないと思う」

 そう言えば、と文一は言い、

「……あんたと水灯って、ずいぶん仲良さそうだよな」

「そうか?」

「少なくとも、過去でみたかぎりじゃそうだった。親しげ、というか、楽しげ、というか………もしかしてそういう関係なのか?」

「どういう関係だよ?」

「恋人、とか」

「ぶはっ!」

 今まさに投げ与えようとしていた米が勢い余って散弾のごとき勢いでばらまかれる。小鳥驚き、天へと逃げる。

「馬っ……馬鹿! 何言いだす!」

「でも、親しげなのは確かだろ?」

 ああ――、と憎々しげな表情で早苗は言った。

「あたしと銀二……汐はまだあいつが長月だったころからの友人ってだけ。いわゆる幼馴染、腐れ縁だ。特に色めかしい話題はねぇよ」

「ホントに?」

「嘘ついてるとでも言いたいのか?」

「いや、だったらどうして仕事まで一緒なんだ?」

 ぴたり。早苗の動きが停止する。

「それに、何か師走に因縁あるみたいだけど、それってただ逢瀬際のお嬢様方の妹さんを殺された、ってだけじゃないよな?」

「………鋭いじゃねぇか」

 柔らかな羽音と、その音源たる小鳥が数匹舞い降りる。それに反応し、新たな米を蒔き始め、

「確かに、師走との因縁はそれだけじゃねぇ。天詩、お前、何で長月が分家まで含めて完全に没落したか知ってるか?」

「………いや」

 文一の持つ知識の中、長月に関するものと言えば『ただ没落している』と知っている、その程度のものしかない。言いかえれば、没落しているという事実以外、何も知らないも同然ということだ。

「なら教えといてやる。

 ありゃあ、あたしも銀二もまだ十にもなってない時だったよ。あんときはまだ長月も没落といっても分家筋はおおむね残ってて、銀二はその家の跡取り、あたしはその補佐の家系の長女だったから、毎日自然と会って、仲良くやってた。

 本流じゃないから、知らなくても当然だな。亜流の長月と彼此寺の仕事っていえば、そっちで言うとこの黒椿峰、『退魔と妖魔』を担当してて――――あたしも銀二も小さいころから鍛錬に鍛錬に鍛錬を重ねて……お互いの家に伝わる武器を継承したのは、たしか八歳のころだったな」

 懐かしそうに、早苗は語る。表情の中にはわずかな笑みが混じり、心なしか小鳥を眺めるその表情も軽やかだった。

「だけど………そん時だった。気のふれた師走の野郎がやって来たのは、な………」

 表情が、一気に暗がりへと落ちる。中天の草原から暗転の洞窟へ、柔らかなぬくもりから冬の極寒へ。

「なんでそうなっちまったのかはわからねぇ。だけど、あの日に確かに気の触れた師走が長月分家と、彼此寺宗家を襲撃してきた。そんとき九歳だったあたしにもわかったよ。『やらなきゃやられる』って状況がな。幸いにしてそんときにはあたしも銀二も武器持って家から離れてたし………師走の方も、特に目的なく暴れてる感じだった。

 で、あたしと銀二は異変に気づいて家に戻るわけだが………」

 そこで、早苗は言葉を切った。視線をはるか上空へと飛ばし、天を仰ぐ。

 張るよりも強く、夏よりも弱い、初夏の色。

 天は深き蒼よりも少し霞を掛けた水色をその懐へと湛え、見る者に穏やかさと、同時に壮大さを抱かせる。

「……あたしの武器、由来、知ってるか?」

「あの鉈か? ……いや、知らない」

 だろうな、と早苗は笑う。

「あの鉈の名は《鬼骨》。はるか昔に彼此寺の始祖が鬼退治して、その骨から作り上げたっていう《両断するためだけの鉈》だ。

 んで………その鉈はぶった切るもんを選らばねぇ。

 あたしがそん時切ったのは、師走だけじゃなかった」

「………え?」

「初の実戦、混乱と混沌、血と断末魔、狂気と凶器。そんなもんの中にたかだか九歳のガキ放り込んで、まともに動けると思うか?」

「…………」

 言われて文一は沈黙する。

 自分の魔術師を相手にした初の実戦、その時は自分の隣にちょっとした経験を持つ魔道書である茜がいた上に、相手の攻撃に詠唱という縛りがあり、なおかつ敵は一人で混乱もなかった。

 だが――――

 もしあの時茜が無言だったら。

 もしあの時相手に詠唱という縛りがなかったら。

 もしあの時立ちふさがった敵が一人でなかったら。

 もしあの時場がどうしようもないほど混乱していたら。

 状況は、劇的に変わる。

「………そういうことだよ。

 そん時にあたしが斬ったのは、やって来た師走と、それを止めようとしてた長月と彼此寺の従者全員とお家の関係者全員、たまたまその場にいた無関係な人間含めて五十七人ってとこだな」

「………」

「ま、没落もするわな。一族郎党皆殺し、それも内側からじゃ、つぶれて当然だ。原因作ったのは師走で、実行したのはあたし。だから師走が憎くなった――――ってわけだ。単に、認めたくねぇだけの癖によ」

 ははは、と。自嘲するように早苗は笑った。

「お嬢と会ったのは、そのあとだな。銀二もろともお家がつぶれて行き先なくして、あっちこっちさまよい歩いた末にこの町に着いた。あんときゃお嬢もまだ十四で、従者というよりかは年の離れた遊び相手、って感じだったな。本格的に従者ンなったのは……十六からだ」

 ………つまり、今の僕と同い年ってわけか……

 内心で呟くも、表には出さない。

「あたしも銀二も、一遍居場所をなくしてる。

 お嬢は、それを与えなおしてくれた人だ。

 だからあたしも銀二もお嬢の望みなら何でもやるし、なんでもかなえてやりたいと思う。それが、あたしと銀二の選んだ道だ」

 強く断言するように、早苗は手の中に残った米粒全てをばらまく。

「………だから、夢幻の拡張にも手を貸すのか?」

「あたしが手を貸すのは全部に、だ。夢幻の拡張みてぇなしょうもないことだろうが此方の復活の手伝いみてぇな七面倒くさいことだろうと、何でも手伝ってやる」

「……………」

 その言葉、その裏にある決意に、文一は沈黙を余儀なくされた。

 返す言葉がなかったのではない。

 その姿勢は、文一にもいえることだから。

 自分の居場所を与えてくれた存在、小鳥遊灯夜。居場所を与えてくれた存在であるがゆえにそこに感じる恩義は並大抵のものではなく、だからこそ献身的に仕えその願望をかなえようと欲する。

 早苗のその姿勢と、文一の持つ姿勢。

 程度は違えど、そこの根底にある感情と信念は同一で、だからこそ文一には早苗の言葉を否定することなどできるはずがない。

「…………あれ?」

 と、そこで引っかかりを感じた。

 早苗の信念に、姿勢に、ではない。

 先程聞いた言葉の中、その内側に、聞き流してはならない何かが混ざっていたような気がする。その感覚の是非を問うため、文一は一瞬前に耳にした言葉の中身を参照し………

 そして、見つけた。

「………なあ、早苗さん」

「なんだ? 昔話ならもうねぇぞ?」

「いや……そうじゃない……」

 浮かび上がってくるのはどことなく感じる予感のようなもの。昨夜牡丹の説明を聞いているときにもうすうすと感じていた、奇妙な違和感のようなもの。

「……さっき、『夢幻の拡張みたいなしょうもないこと』って言ってたよな……?」

「ああ。それがどうがしたか?」

「夢幻の拡張って、そんなに簡単なのか?」

 ああ? と呻くように早苗。怪訝な表情で文一のほうへ目をやり、

「簡単も簡単……とは聞いてる。何しろ《夢幻》ってもの自体が形なきもので、嬢はその片割れをもってるのが現状だ。だから夢幻の夢の方、嬢の担当する方だけを拡張すれば………幻も勝手についてくるらしい」

「……………」

「それが、どうかしたのか?」

 問いに答えを返さず、文一は考える。確かに、夢幻はそもそもガ形のないもの、四道との戦闘を行ったあの夢幻境にしたところで世界自体は幽鬼の如く形を成さず、つまりは自由自在にその形を変えることが出来るという状況だった。

 それに加え、《夢幻》という存在は概念なのだ。

 つまり《水》や《空気》のように物理的な量に縛られない。1が1でしかない物理とは違い、概念は量というものが存在しないが故に1が2にも3にもなり、大きさや規模にも縛られることがない。

 そして、《夢幻》という存在が《夢》と《幻》の折衷であるのなら、どちらか片方だけを拡張すれば一対一で存在する《概念》である以上、もう片方も自然と着いてくるということになる。

 次々と浮かんでくる論理(ロジック)、それを肯定する言語(リリック)、そして認識できるは偽証に隠れた矛盾(パラドックス)。それら全てが示す事実、それは――


    × × × ×


「………逢瀬際芍夜の目的は、夢幻の拡張なんかじゃありませんね?」

 廊下を歩む湖織の隣、白銀の少女はわずかな動作で頷きを返す。

 白昼夢から回帰してアリスを追っての一声。アリスの向かう先はどこかは知らないが、成り行き上同行することになっているらしい。

「………どこで……気付いたの?」

「さっき無力感に沈んでたときです。その時にちょっと今までの夢を思い返して見ましてー、牡丹さんの説明と食い違いが多かったのに気付いたんです」

『ま、今までは前提条件が不確かだったからなぁ。さすがに勘のいー宿主様でも気付くにゃ無理あんだろ。ヒッヒヒヒヒ』

 耳障りに笑う誘宵を無視し、アリスは言う。

「………そう…………詳しくは知らないけど、芍夜の目的は違うらしい………それに…牡丹も……何かほかの事を望んでる……」

「ほかの事?」

 こくり、と小さな頷き。

「………なんとなく……だけど………夢幻の出入り口が、狭くなってる気がするから………」

「出入り口?」

『ああ、あの駅のことだろ?』

 誘宵の一言に、ただ頷くアリス。ちらりと正面の障子窓、その桟に置かれている花に目をやり、

「そう………一ヶ月前は一日に五回、外とつながってたのに………今じゃ一日に三回まで落ちてる………観光地としては機能してるけど……一時に比べれば激減してる…」

「つまり……夢幻を閉じようとしてるともいえるわけですねー」

『だな』

「………でも、閉じるんだとしたら不自然………牡丹の性格から考えると……今このタイミングじゃやらないはず……」

「どういうことですか?」

 T字路を左へと折れる。

「……牡丹、結構やさしいから………わざわざ町の外から人呼んで巻き込まれる人増やしたりしないはず………」

『確かにそいつは不自然だな……どう思う、宿主さまよぉ』

「そうですね………私たちを守る必要性を考えていないということがまず一つ。それ以外に何か企みがあると言うことが一つですねー」

『俺もどーかんだな』

「でも、その企みがあるとしたらなんなんでしょう?」


    × × × ×


「お前はどう見るよ? 天詩」

「僕?」

 庭を早苗とぼんやり眺めながら、先程の話を反芻して思考する。遮断されかけている現状が物語る閉鎖の前兆、夢幻を統べる片割れである芍夜の性格、そんな中に呼ばれた文一と、やけに待遇のいい捕虜としての行動。それらから導かれる答えは………

「……外からやってきた奴じゃないと出来ない、何かをやらせようとしてる?」

「そう、それで正解だ。だけど、それが一体何なのかまではわからなかったみてぇだな」

 嘲笑とも取れる笑みを浮かべる早苗。

「まあ、現状じゃそれが限界点だろうからヒントくれてやる。お嬢二人が持つ役割の特性上、お嬢は二人ともがこの町から出て行くことが出来ない。もし出て行こうものなら夢幻の進行が劇的なまでに進んで、目も当てられねぇ結果になるからな。だから大抵の場合外へ出る用事はあたしたちに任されるんだが…………そうもいかねぇ事情もあるっちゃある」

「そうも行かない事情?」

 文一の鸚鵡返しな問いかけに、早苗は、ああ、と一言呟き、

「そう。例えば………あたしたちもここから出て行けねぇような状況になる、とか」

「………………」

「あるいは――――」


    × × × ×


「――――何かを………外に持ち出して欲しいとき………」

 ポツリ呟くように、アリスは言う。

「……でもそれだと、わざわざ私たちを呼ぶ理由にはなりませんよねー?」

『………だな。持ち出してぇってもんがあったとしても、わざわざ今にするこたぁねぇだろ。ってーことは、』

「少なくとも緊急性が存在するもので、なおかつ今は従者の方々も外に出ることは出来ない、ってことですねー」

「………そうなる」

 言いながらアリスは中庭へ目を遣りながら角を曲がる。湖織もその後に続きながら、

「……でも、それだと不可解じゃありませんかー?」

「…………なにが?」

 ちらり、と目線だけでこちらを見るアリス。

「そうなりながらも外へ持ち出す必要性のあるものなら、皆さんが出て行かれなくなるほどの危険な状況の中を運ぶ必要性はありませんよねー?」

『もしその必要性があるってんなら、そりゃ持ち出してどうこうするのが目的じゃなくて、そもそも持ち出すこと自体が目的ってことになるな。譲ちゃん、そこんとこどうなんでぇ?』

 湖織の問いかけに、アリスは、


    × × × ×


「正解だ、天詩」

 言って再び早苗は庭のほうへと目線を移す。

「確かにお嬢のやろうとしてることは『お前らに何かをもっちだしてもらうこと』、それ自体だ。持ってってもらって、その先どうするかはあたしもわからねぇが……とにかく」

「……僕たちに何かを持ち出してもらうガの目的、ってことか…」

「ああ、そういうことになるな」

「……でも、なにを?」

 呟くように文一はいい、再び庭に舞い降り、こちらの顔を見上げてくる枯葉色の小鳥を見つめる。

「……なんだと思う? 天詩」

 言われて文一は思考する。町の外へ何かを持ち出そうとしているという事実、呼ばれた人間の数、その技能、それらから導き出される予測は、


    × × × ×


「………小型のものが、複数。もしくは……人の手を離れることの出来ないものが、二つ」

『ま、打倒なとこだな。でっけぇモン運ばせようとしてるって線もねぇこたねぇが、あまりにもリスクがでかすぎる。そーゆーことだろ? 譲ちゃん』

「……ん」

 挑発とも取れる誘宵の問いかけに、アリスは少し頷いただけで返した。

「でも、運ばせようとするようなものって一体なんなんでしょう? 金銭的価値のあるものじゃないでしょうし、町に関わるものの場合はわざわざ外に運ぶ必要があるとは思えませんし――書物、でしょうか?」

「………見る人がいなくなることが必要なら……町と一緒に消したほうがいい……」

「あ、そうですねー。でも、それだとどうなるんでしょう?」

 外部へ運ぶ必要性が存在し、少なくともこの機会を逃してはならないもの。従者の手によって運ぶ事はできず、ましてや当主二人組が運び出すことも出来ない。今の今までなにをさせたいのかを包み隠さず話していないことから、少なくとも秘匿性が存在する事は間違いない。

 ………過去夢での、二人の望みは……

「!」

 そこで、ようやく。

 湖織は、あの二人の姉妹がなにをさせたいのかを合点した。

 恐らく、これで間違いはない。外部へ運ぶ必要性はあの二人の願望から考えて存在する事は間違いなく、この町の現状を考えると従者にも当人にも運び出す事はできず、そしてその寸前まで隠し通しておかねば運び出すと言う目的は果たせない。

「……誘宵…」

『ああ、俺もどーかんだ』

「と、言う事は………」

『……たぶんそーなるだろ。まったくもって楽しみなこときわまりねぇな、宿主様よぉ』

「……………」

 湖織は予想する。自分たち二人のたどり着いた結論が真実だとすれば、全てが決するのは今夜になる。文一の拉致、昨夜の急襲、その二つがもたらす結論はこちらから向こうへ攻め入るという予測、そして、そうなった場合。

 ………向こうにとって、必要な状況がすべてそろう…

 決起の結果、その先に待っているのは向こうにとって、あるいはこちらにとって都合のいい状況だ。湖織たちにとって利益はないが、状況は、少なくとも決する。

 自分たちが運ばされる結果になるものも、恐らくは二分して輸送することになるはずだ。

 何しろ、

 何しろこの予想が正しいとすれば、

 彼女たちが外部への持ち出しを望んでいるのは――――


    × × × ×


「魔道書、《彼方》と《陽向》。その素材となった……逢瀬際家の、末女……」

 にやりと、早苗の表情の中に笑みが広がった。

「逢瀬際、此方」

 笑みのまま、早苗は満足げに空を見上げる。

「逢瀬際芍夜の、持ち出してほしいものって言うのは、それか」

 二つに分かたれた魂を、器となっている魔道書から取り出し、その間に二冊の魔道書を一つに戻す。そうすれば二つに分かたれた魂を再び内側に戻したとしても、その体は一つ。結果二つの魂は一つの器に戻ることとなり――二つに分かたれた魂は一つに戻る。

 あの二冊の、二人の魔道書の場合、それは。

「………」

 逢瀬際芍夜、逢瀬際牡丹の妹、逢瀬際此方。

 その、復活を意味する。

「………正解だ、天詩」

 空を見上げたまま、早苗は満足げに笑みを交えた口調で言う。

「お嬢は言ってたよ。牡丹お嬢様も抱いてる望みはちょっと違うだけでほとんど同じ、だから自分が動き出せば必ず牡丹お嬢様は外部から協力者を呼んで自分の望みを優先する、ってな。あたしたちの頼まれた事はその協力者の片方の拉致と、夢幻閉鎖のときの実力行使………。それで全部、終わるんだよ」

 楽しそうに、しかしどこか寂しそうに、早苗は立ち上がる。しなやかな動作の中に、どこか未練のようなものを漂わせ、

「………天詩」

 その未練に引かれたように、背を向けたまま文一に言葉をかけた。

「今夜、あたしたちはやってくる牡丹の一群を迎え撃つ。そん時にお嬢は自分の計画通りに魔道書を一冊にまとめて、お前に託す。だから………頼まれてくれねぇか……?」

「………なにを」

 声音に、今まで見せることのなかった感情を交えて。

 早苗は、言った。

「……一冊に……此方お嬢様に戻った時に、記憶は全部すっ飛ぶ。この町にいたことも、お嬢と一緒にいたことも、楽しかったことも、辛かったことも、全部……な。だから、天詩。お前の手に渡ったとき、契約者はお嬢のままだが………幸いは、お前んとこで与えてやってくれ」

 ぽつり、呟くような声音で。

 それこそが、本心であるかのように。

「……お前も見たろうけど、此方お嬢様は師走に殺されたんだ。あたしのせいで。あたしのせいで、師走のせいで全部なくしたんだ。だから、せめてあたしみたいにならねぇ用にしてくれ」

 言って、早苗は歩き出し、

「……頼んだぞ」

 中庭から出る扉の寸前で、言い残し、

 廊下へ、消えた。

「……………」

 一人残された文一は、のんびりと、しかし慣れぬ右手で膝の上に頬杖をつき、

「……お嬢様次第だよ、そのあたりは……」

 呟くように、ため息をつくように。

 ………けど、

 思う。

 ………お嬢様なら、案外喜びそう。

 自らの主、あの性格ならば嫌な顔程度はするかもしれないが、案外するりと受け入れてしまうかもしれない。茜のときもそうだったのだ、もう一人魔道書が増えたとしても、さしたる問題にはならないだろう。

 だけど、と思う。

「………その仕事は、お嬢様方の仕事だろ……早苗」

 ぼそり、呟く。

 誰かの手に預けられること。それはすなわち、その人の中において居場所を失ってしまうことに等しい。

 居場所を失ってしまったものは、その先にどれほどの幸いを見ようとも虚無を抱える。

 虚無はやがて今ある幸いを食い破り、

 そして到達するのは、ただの残酷な――――

「……………はっ」

 そこまで考えて、文一は考えるのをやめた。

 自分がお嬢様から頼まれているのは、『逢瀬際牡丹の仕事を手伝うこと』だ。

 その仕事の中に、『逢瀬際此方』は存在していない。

 どうするかは、そうなってから自分の良識に従えばよし。従えないようなら合理で選べばよし。

「ま、どうにかなるだろ」

 あと自分がやるべきことといえば、腕の完治を待って牡丹の手伝いに向かうためにここから脱出すること。

 夜になれば、その機会もあるだろう。

 ………茜にも、言っとくか。

 あれほど心配していたのだ、また戦闘に出るとなれば何を言われるかわかったものではないが――――言っておかねばなるまい。

 それが終われば、帰るだけだ。

 小鳥遊町へ。

 お嬢様の元へ。

「…主~!」

「わわ、茜ちゃん、ちょっと………」

 文一の右、旅館のより奥のほうから聞き慣れた声と、聞きなれないおとなしそうな声。反応してくるりと振り向けば、文一の入ってきたほうとは反対側の扉から駆け込んでくる二人分の小さな影。

 前を走るのは茜。服装が文一が眠りに落ちる前とは変わっており、牡丹の旅館で着ていた青い浴衣ではなく、髪の色によく映える桜色の一重の着物だった。

 そして、その背後。

 茜に無理やり手を引かれて今にも転びそうな様子になっているのは、おとなしげな幼女だった。身の丈は茜とさほど変わらないものの、全体的に落ち着きはあるものの、その容姿は茜よりも少し年下に見えてしまうほど、幼い。こちらが身に纏うのはやはりその闇色の長い髪によく映える深い群青色だった。

 夢で見た、小さな少女。

 名前は――――

「茜と……陽向、か」

 呟くように言った瞬間、文一の寸前で急停止する茜とその背後の幼女。つんのめって倒れそうになるが、危ういところでバランスを取り戻したらしい。茜の手を握ったまま(もしくは握られたまま)息を整えるように荒い呼吸を繰り返す。

「主! もう大丈夫なの?」

「ああ。薬湯だろうな、めっちゃよく効いて、今じゃこの通りだ」

 言いながらも視線は茜の背後、夜色の幼女のほうへと移ろう。

「そっちのは?」

「うん、ちょっとうろうろしてる時にあったんだよ。わたしと同じ魔道書だし、いろいろ話せそうだったから」

 なるほど。つまりは退屈でうろついている時に出くわして暇つぶしの道具にしていた、と。

 迷惑な話だろう、と人事のように思った。

「この人、逢瀬際陽向ちゃん。芍夜の魔道書らしいけど………」

「はい………逢瀬の、際……陽向、です……」

 寸足らずな舌、途切れ途切れな口調。恥ずかしがり屋なのだろうか、茜の背後に隠れたままこちらには寄ってこない。

「陽向、か」

 逢瀬際芍夜の契約する魔道書、逢瀬際此方の片割れ、逢瀬際彼方の双子の姉妹。武器携帯は長刀で、《夢》の力を持つ。

 この、小さな少女が。

 恥ずかしがり屋で、おとなしく、甘えん坊なこの少女が。

「………主? どうかしたの?」

「……いや」

 なぜだろうか。

 文一は、なんとなく。本当になんとなくだが、この小さな少女、逢瀬際陽向のことを、

 打算抜きで、珍しいことに、そしてありえないことに、

 本当に、お嬢様のところへ連れ帰ってみたく、なっていた。


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